目覚めたら、最推しの腕の中でした~1度終わった私の人生、もう一度恋をしました。~
第10話 お前、誰?
陽向の様子が少し変わった。
そう感じたのは、その翌日だった。
いつもなら。
家に来ればすぐに、
「腹減った」
とか。
「美月、これ見て」
とか。
何かしら話しかけてくるのに。
その日は違った。
「……お邪魔します」
「どうぞ」
陽向は静かに部屋へ入ってきた。
帽子を脱いで。
いつものようにソファに座る。
でも。
なんとなく。
空気が重い。
「……陽向?」
「ん?」
「何かあった?」
「いや」
短い。
いつもなら。
「何その顔、俺のこと心配してんの?」
くらい言いそうなのに。
今日は言わない。
「仕事で疲れた?」
「まあ、それもある」
それも。
ということは。
別に何かある?
私は冷蔵庫を開ける。
「コーヒー飲む?」
「うん」
「ブラック?」
「お願い」
二人分のコーヒーを淹れる。
この前、一緒に買ったばかりの新しいマグカップ。
陽向のものは。
結局、薄いピンク色になった。
『俺、やっぱピンクじゃん!』
と言いながら。
本人も気に入っていた。
私のカップは白。
並べると。
なんとなくペアみたいで。
少し恥ずかしかった。
「はい」
「ありがと」
マグカップを陽向の前へ置く。
いつもなら。
「やっぱこれいいな」
とか。
何か言うのに。
今日は。
黙ってコーヒーを飲んでいる。
「……本当にどうしたの?」
耐えられなくなって聞いた。
陽向がカップを置く。
「美月」
「何?」
「ちょっと聞いていい?」
嫌な予感がした。
「……うん」
陽向は。
私の顔を見たまま。
しばらく何も言わなかった。
そして。
「俺と紗良が、高校卒業した日に何したか覚えてる?」
「……え?」
突然の質問。
「卒業した日?」
「うん」
「分からない」
正直に答える。
「記憶、出てこない?」
「今は……何も」
「そっか」
陽向の目が。
少しだけ細くなる。
「じゃあ」
また聞かれる。
「紗良が初めて女優のオーディション受けた日」
「……分からない」
「俺が初めて紗良ん家泊まった日」
「知らない」
「紗良の親父さんに俺がめちゃくちゃ怒られた理由」
「……知らないよ」
だんだん。
怖くなる。
「陽向」
「もう一個」
私の言葉を遮る。
「俺と紗良しか知らない話」
「……」
陽向の声が。
いつもより低い。
「聞いてもいい?」
「……うん」
陽向が。
ほんの少しだけ俯いた。
「俺がデビュー決まった日の夜」
胸の奥がざわつく。
「紗良に何言ったか覚えてる?」
分からない。
でも。
何か。
頭の奥に引っかかる。
「……待って」
目を閉じる。
思い出そうとする。
でも。
何も出てこない。
「分からない」
そう答えた瞬間。
陽向の表情が変わった。
悲しそうな。
それでいて。
どこか納得したような顔。
「……そっか」
「ごめん」
「謝らなくていい」
陽向はそう言った。
でも。
声が冷たい。
「陽向?」
何?
怖い。
何を確かめてるの?
「なんで急にそんなこと聞くの?」
陽向は。
しばらく黙っていた。
そして。
「昨日から考えてた」
「何を?」
「お前のこと」
お前。
いつもなら。
美月って呼ぶのに。
その呼び方だけで。
胸が苦しくなった。
「……私?」
「うん」
陽向が。
真っ直ぐ私を見る。
「最初は事故のせいだと思ってた」
「……」
「記憶なくして」
「性格も変わって」
「だから、紗良じゃないって言い張ってるだけなんだって」
言葉が。
喉に詰まる。
「でも」
陽向は続けた。
「違うんだよ」
「……何が?」
「何もかも」
心臓が。
強く鳴る。
「紗良はブラックコーヒー飲まない」
「……うん」
「ラーメンであんなテンション上がらない」
「……」
「俺のテレビ見て爆笑もしない」
「……」
「物壊したくらいで、あんな怯え方もしない」
私は。
何も言えなかった。
「紗良はさ」
陽向が少し笑う。
でも。
全然楽しそうじゃない。
「俺に遠慮なんかしなかった」
「……」
「勝手に冷蔵庫開けるし」
「俺が寝てたら普通に起こすし」
「言いたいことあったら、ちゃんと言うし」
陽向の声が。
少し震える。
「俺のことを」
一度。
息を吸う。
「こんな目で見たりもしなかった」
「……こんな目?」
聞き返す。
陽向の視線が揺れた。
「推しを見るみたいな目」
「……」
「俺が何かするたびに、いちいち嬉しそうにして」
「褒めたら驚いて」
「名前呼んだだけで」
一瞬。
陽向の言葉が止まる。
「……あんな顔する」
顔が熱くなった。
でも。
今は恥ずかしがっている場合じゃない。
「陽向……」
「なのに」
陽向の声が。
さらに低くなる。
「紗良しか知らない記憶も持ってる」
「……」
「教室のこと」
「駅で話したこと」
「俺が知らなかった紗良の気持ちまで」
陽向が頭を抱える。
「意味分かんねぇんだよ」
苦しそうだった。
「俺だって」
「……」
「何が本当なのか、分かんねぇ」
胸が痛い。
私だって。
分からない。
どうして。
私がここにいるのか。
どうして紗良の記憶が残っているのか。
何ひとつ。
「ごめん……」
また。
謝ってしまった。
陽向が顔を上げる。
「だから」
声が強くなる。
「謝んなって言ってんだろ」
「……っ」
身体がびくっとする。
陽向が。
すぐに気づいた。
「……ごめん」
今度は陽向が謝った。
でも。
もう。
さっきまでの空気には戻れない。
「美月」
私の名前。
呼ばれた。
少しだけ安心した。
「本当のこと言って」
「……言ってるよ」
「全部?」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
私は。
陽向の目を見た。
「私は高瀬美月」
「……」
「三十四歳で」
「夫がいて」
「子どもがいる」
言葉にするだけで。
胸が痛む。
「事故に遭って」
「気づいたら」
自分の身体を見る。
「この身体にいた」
「……」
「それ以上のことは」
首を振る。
「私にも分からない」
陽向は。
何も言わなかった。
「紗良さんの記憶が出てくる理由も」
「紗良さんが今どこにいるのかも」
「私がどうしてここにいるのかも」
「……」
「本当に分からない」
涙が。
少しだけ溢れた。
「私だって知りたいよ」
声が震える。
「どうしてこんなことになったのか」
「私が死んで」
「子どもたちのところに帰れなくなって」
「紗良さんの身体にいて」
「陽向に……」
そこで。
言葉を飲み込む。
陽向に。
こんな顔をさせている。
「私がここにいるせいで」
「またそれ?」
陽向が顔を歪める。
「でも」
「違う」
「……」
「今はそれじゃない」
陽向が。
立ち上がった。
私の前まで来る。
そして。
「もう一回だけ聞く」
低い声。
私を見下ろしている。
「……何?」
陽向が。
私の手首を掴んだ。
強くはない。
でも。
逃がさないような掴み方。
心臓が鳴る。
「お前」
陽向の目から。
笑顔が完全に消えた。
「……誰?」
息が止まった。
「……」
「美月っていう人が本当にいるのは分かった」
「……」
「死んだことも」
「家族がいたことも」
「全部調べれば出てくる」
「……うん」
「でも」
陽向の指に。
少しだけ力が入る。
「じゃあ」
声が震えた。
「紗良はどこにいる?」
その言葉に。
胸をえぐられた。
分からない。
答えられない。
「……分からない」
「美月の記憶があるなら」
「……」
「紗良の記憶もあるなら」
「紗良は中にいんの?」
「分からない!」
思わず声を上げた。
陽向が止まる。
「私だって分からないよ!」
涙が溢れる。
「私が知りたい!」
「……」
「私だって」
胸を押さえる。
「紗良さんがどこにいるのか知りたいよ!」
「もし中にいるなら」
「戻れるなら」
「私は……」
言葉が詰まる。
でも。
続けた。
「私は」
涙が落ちる。
「この身体、返したいよ」
陽向の目が揺れた。
「だってこれは」
自分の頬に触れる。
「私の身体じゃない」
「……」
「紗良さんの人生なの」
「家も」
「仕事も」
「陽向との思い出も」
「全部」
「私のものじゃない」
苦しい。
ずっと。
思っていた。
私は。
ここにいていいのか。
「私には」
「ここにいる資格なんて」
「……」
「ないのかもしれない」
その瞬間。
陽向の顔が。
歪んだ。
「それ」
「……?」
「それ以上言うな」
「でも」
「言うな!」
今度は。
はっきりと。
強い声だった。
私は黙る。
陽向は。
手首を掴んでいた手を離した。
「……ごめん」
そして。
顔を覆う。
「俺」
「……」
「どうしたらいいか分かんねぇ」
初めてだった。
こんな陽向を見るのは。
テレビでも。
ここで会ってからも。
いつも明るくて。
私が泣けば。
何か言ってくれて。
笑わせてくれて。
そんな陽向が。
今は。
子どもみたいに困っていた。
「紗良は」
小さく呟く。
「俺にとって」
「……」
「ずっといるのが当たり前だった」
胸が。
苦しくなる。
「家族みたいなもんで」
「……うん」
「事故ったって聞いたとき」
陽向の声が震えた。
「間に合わないかもしれないって」
「……」
「本気で怖かった」
「うん」
「だから」
陽向が顔を上げる。
赤くなった目。
「目ぇ開けたとき」
「戻ってきたって思ったんだよ」
あの日。
最初に目を覚ましたとき。
私を抱きしめて。
泣いていた陽向。
「……ごめん」
また。
言ってしまった。
でも。
今度は。
陽向は何も言わなかった。
「なのに」
陽向が続ける。
「紗良じゃないって言われて」
「……」
「でも顔は紗良で」
「声も紗良で」
「たまに紗良の記憶も出てきて」
「……」
「なのに」
陽向が私を見る。
「話してると」
少し間を置く。
「どう考えても、美月なんだよ」
その一言に。
心臓が強く鳴った。
「紗良じゃない」
「……」
「少なくとも」
陽向が眉を寄せる。
「俺が知ってる紗良じゃない」
やっと。
信じてもらえた。
そう思った。
なのに。
嬉しくなかった。
陽向にとってそれは。
大切な人を失ったと認めることだから。
「……うん」
私は。
それしか言えなかった。
しばらく。
二人とも何も話さなかった。
そして。
陽向が。
ぽつりと聞いた。
「……美月」
「何?」
「子ども」
その言葉に。
胸が跳ねる。
「何人いる?」
少し迷った。
でも。
答えた。
「……五人」
陽向の目が大きくなる。
「五人!?」
さっきまでの重い空気の中。
思わぬ大声。
私は涙を拭きながら。
少しだけ笑ってしまった。
「そんな驚く?」
「いや、驚くだろ!」
「三十四で五人って」
「……いるよ」
「マジか……」
陽向が。
本気で驚いている。
少しだけ。
いつもの陽向に戻った。
「一番上が?」
「星」
「ひかりちゃん」
「うん」
「……」
陽向は。
少し考えてから言った。
「美月って」
「?」
「ちゃんと」
私を見る。
「誰かの人生、生きてたんだな」
胸が詰まった。
当たり前。
当たり前なのに。
その言葉が。
嬉しかった。
私には。
人生があった。
妻で。
母親で。
泣いたり。
笑ったり。
いろんなことがあった。
高瀬美月は。
確かに生きていた。
「……うん」
私は頷いた。
「生きてたよ」
陽向も。
小さく頷いた。
でも。
その日の帰り。
玄関で。
陽向は。
いつものように笑わなかった。
「……また来る」
「うん」
「少し」
言葉を探す。
「考えさせて」
胸が痛む。
でも。
当然だと思った。
「分かった」
陽向が。
ドアを開ける。
「陽向」
呼び止めた。
振り返る。
「……何?」
私は。
言うか迷った。
でも。
伝えたかった。
「紗良さんを」
「……」
「取り戻す方法があるなら」
陽向の目を見る。
「私も探すから」
陽向は。
何も言わなかった。
ただ。
少しだけ。
悲しそうに笑った。
そして。
ドアが閉まった。
一人になった部屋。
静か。
私は。
新しいマグカップを見る。
陽向と。
一緒に選んだもの。
紗良との思い出ではない。
私との。
初めての思い出。
それを見た瞬間。
胸が。
どうしようもなく苦しくなった。
もし。
紗良が戻ってきたら。
私は。
どうなるんだろう。
消える?
死ぬ?
それとも。
元の身体に戻れる?
でも。
私の身体は。
もうない。
じゃあ。
私は。
どこへ行けばいい?
初めて。
そのことを。
はっきりと考えてしまった。
紗良が戻ってくることを願っている。
その気持ちは。
嘘じゃない。
なのに。
胸の奥で。
小さな声がした。
――消えたくない。
その気持ちに気づいた瞬間。
私は。
自分がひどい人間になったような気がして。
しばらく。
動けなかった。
そう感じたのは、その翌日だった。
いつもなら。
家に来ればすぐに、
「腹減った」
とか。
「美月、これ見て」
とか。
何かしら話しかけてくるのに。
その日は違った。
「……お邪魔します」
「どうぞ」
陽向は静かに部屋へ入ってきた。
帽子を脱いで。
いつものようにソファに座る。
でも。
なんとなく。
空気が重い。
「……陽向?」
「ん?」
「何かあった?」
「いや」
短い。
いつもなら。
「何その顔、俺のこと心配してんの?」
くらい言いそうなのに。
今日は言わない。
「仕事で疲れた?」
「まあ、それもある」
それも。
ということは。
別に何かある?
私は冷蔵庫を開ける。
「コーヒー飲む?」
「うん」
「ブラック?」
「お願い」
二人分のコーヒーを淹れる。
この前、一緒に買ったばかりの新しいマグカップ。
陽向のものは。
結局、薄いピンク色になった。
『俺、やっぱピンクじゃん!』
と言いながら。
本人も気に入っていた。
私のカップは白。
並べると。
なんとなくペアみたいで。
少し恥ずかしかった。
「はい」
「ありがと」
マグカップを陽向の前へ置く。
いつもなら。
「やっぱこれいいな」
とか。
何か言うのに。
今日は。
黙ってコーヒーを飲んでいる。
「……本当にどうしたの?」
耐えられなくなって聞いた。
陽向がカップを置く。
「美月」
「何?」
「ちょっと聞いていい?」
嫌な予感がした。
「……うん」
陽向は。
私の顔を見たまま。
しばらく何も言わなかった。
そして。
「俺と紗良が、高校卒業した日に何したか覚えてる?」
「……え?」
突然の質問。
「卒業した日?」
「うん」
「分からない」
正直に答える。
「記憶、出てこない?」
「今は……何も」
「そっか」
陽向の目が。
少しだけ細くなる。
「じゃあ」
また聞かれる。
「紗良が初めて女優のオーディション受けた日」
「……分からない」
「俺が初めて紗良ん家泊まった日」
「知らない」
「紗良の親父さんに俺がめちゃくちゃ怒られた理由」
「……知らないよ」
だんだん。
怖くなる。
「陽向」
「もう一個」
私の言葉を遮る。
「俺と紗良しか知らない話」
「……」
陽向の声が。
いつもより低い。
「聞いてもいい?」
「……うん」
陽向が。
ほんの少しだけ俯いた。
「俺がデビュー決まった日の夜」
胸の奥がざわつく。
「紗良に何言ったか覚えてる?」
分からない。
でも。
何か。
頭の奥に引っかかる。
「……待って」
目を閉じる。
思い出そうとする。
でも。
何も出てこない。
「分からない」
そう答えた瞬間。
陽向の表情が変わった。
悲しそうな。
それでいて。
どこか納得したような顔。
「……そっか」
「ごめん」
「謝らなくていい」
陽向はそう言った。
でも。
声が冷たい。
「陽向?」
何?
怖い。
何を確かめてるの?
「なんで急にそんなこと聞くの?」
陽向は。
しばらく黙っていた。
そして。
「昨日から考えてた」
「何を?」
「お前のこと」
お前。
いつもなら。
美月って呼ぶのに。
その呼び方だけで。
胸が苦しくなった。
「……私?」
「うん」
陽向が。
真っ直ぐ私を見る。
「最初は事故のせいだと思ってた」
「……」
「記憶なくして」
「性格も変わって」
「だから、紗良じゃないって言い張ってるだけなんだって」
言葉が。
喉に詰まる。
「でも」
陽向は続けた。
「違うんだよ」
「……何が?」
「何もかも」
心臓が。
強く鳴る。
「紗良はブラックコーヒー飲まない」
「……うん」
「ラーメンであんなテンション上がらない」
「……」
「俺のテレビ見て爆笑もしない」
「……」
「物壊したくらいで、あんな怯え方もしない」
私は。
何も言えなかった。
「紗良はさ」
陽向が少し笑う。
でも。
全然楽しそうじゃない。
「俺に遠慮なんかしなかった」
「……」
「勝手に冷蔵庫開けるし」
「俺が寝てたら普通に起こすし」
「言いたいことあったら、ちゃんと言うし」
陽向の声が。
少し震える。
「俺のことを」
一度。
息を吸う。
「こんな目で見たりもしなかった」
「……こんな目?」
聞き返す。
陽向の視線が揺れた。
「推しを見るみたいな目」
「……」
「俺が何かするたびに、いちいち嬉しそうにして」
「褒めたら驚いて」
「名前呼んだだけで」
一瞬。
陽向の言葉が止まる。
「……あんな顔する」
顔が熱くなった。
でも。
今は恥ずかしがっている場合じゃない。
「陽向……」
「なのに」
陽向の声が。
さらに低くなる。
「紗良しか知らない記憶も持ってる」
「……」
「教室のこと」
「駅で話したこと」
「俺が知らなかった紗良の気持ちまで」
陽向が頭を抱える。
「意味分かんねぇんだよ」
苦しそうだった。
「俺だって」
「……」
「何が本当なのか、分かんねぇ」
胸が痛い。
私だって。
分からない。
どうして。
私がここにいるのか。
どうして紗良の記憶が残っているのか。
何ひとつ。
「ごめん……」
また。
謝ってしまった。
陽向が顔を上げる。
「だから」
声が強くなる。
「謝んなって言ってんだろ」
「……っ」
身体がびくっとする。
陽向が。
すぐに気づいた。
「……ごめん」
今度は陽向が謝った。
でも。
もう。
さっきまでの空気には戻れない。
「美月」
私の名前。
呼ばれた。
少しだけ安心した。
「本当のこと言って」
「……言ってるよ」
「全部?」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
私は。
陽向の目を見た。
「私は高瀬美月」
「……」
「三十四歳で」
「夫がいて」
「子どもがいる」
言葉にするだけで。
胸が痛む。
「事故に遭って」
「気づいたら」
自分の身体を見る。
「この身体にいた」
「……」
「それ以上のことは」
首を振る。
「私にも分からない」
陽向は。
何も言わなかった。
「紗良さんの記憶が出てくる理由も」
「紗良さんが今どこにいるのかも」
「私がどうしてここにいるのかも」
「……」
「本当に分からない」
涙が。
少しだけ溢れた。
「私だって知りたいよ」
声が震える。
「どうしてこんなことになったのか」
「私が死んで」
「子どもたちのところに帰れなくなって」
「紗良さんの身体にいて」
「陽向に……」
そこで。
言葉を飲み込む。
陽向に。
こんな顔をさせている。
「私がここにいるせいで」
「またそれ?」
陽向が顔を歪める。
「でも」
「違う」
「……」
「今はそれじゃない」
陽向が。
立ち上がった。
私の前まで来る。
そして。
「もう一回だけ聞く」
低い声。
私を見下ろしている。
「……何?」
陽向が。
私の手首を掴んだ。
強くはない。
でも。
逃がさないような掴み方。
心臓が鳴る。
「お前」
陽向の目から。
笑顔が完全に消えた。
「……誰?」
息が止まった。
「……」
「美月っていう人が本当にいるのは分かった」
「……」
「死んだことも」
「家族がいたことも」
「全部調べれば出てくる」
「……うん」
「でも」
陽向の指に。
少しだけ力が入る。
「じゃあ」
声が震えた。
「紗良はどこにいる?」
その言葉に。
胸をえぐられた。
分からない。
答えられない。
「……分からない」
「美月の記憶があるなら」
「……」
「紗良の記憶もあるなら」
「紗良は中にいんの?」
「分からない!」
思わず声を上げた。
陽向が止まる。
「私だって分からないよ!」
涙が溢れる。
「私が知りたい!」
「……」
「私だって」
胸を押さえる。
「紗良さんがどこにいるのか知りたいよ!」
「もし中にいるなら」
「戻れるなら」
「私は……」
言葉が詰まる。
でも。
続けた。
「私は」
涙が落ちる。
「この身体、返したいよ」
陽向の目が揺れた。
「だってこれは」
自分の頬に触れる。
「私の身体じゃない」
「……」
「紗良さんの人生なの」
「家も」
「仕事も」
「陽向との思い出も」
「全部」
「私のものじゃない」
苦しい。
ずっと。
思っていた。
私は。
ここにいていいのか。
「私には」
「ここにいる資格なんて」
「……」
「ないのかもしれない」
その瞬間。
陽向の顔が。
歪んだ。
「それ」
「……?」
「それ以上言うな」
「でも」
「言うな!」
今度は。
はっきりと。
強い声だった。
私は黙る。
陽向は。
手首を掴んでいた手を離した。
「……ごめん」
そして。
顔を覆う。
「俺」
「……」
「どうしたらいいか分かんねぇ」
初めてだった。
こんな陽向を見るのは。
テレビでも。
ここで会ってからも。
いつも明るくて。
私が泣けば。
何か言ってくれて。
笑わせてくれて。
そんな陽向が。
今は。
子どもみたいに困っていた。
「紗良は」
小さく呟く。
「俺にとって」
「……」
「ずっといるのが当たり前だった」
胸が。
苦しくなる。
「家族みたいなもんで」
「……うん」
「事故ったって聞いたとき」
陽向の声が震えた。
「間に合わないかもしれないって」
「……」
「本気で怖かった」
「うん」
「だから」
陽向が顔を上げる。
赤くなった目。
「目ぇ開けたとき」
「戻ってきたって思ったんだよ」
あの日。
最初に目を覚ましたとき。
私を抱きしめて。
泣いていた陽向。
「……ごめん」
また。
言ってしまった。
でも。
今度は。
陽向は何も言わなかった。
「なのに」
陽向が続ける。
「紗良じゃないって言われて」
「……」
「でも顔は紗良で」
「声も紗良で」
「たまに紗良の記憶も出てきて」
「……」
「なのに」
陽向が私を見る。
「話してると」
少し間を置く。
「どう考えても、美月なんだよ」
その一言に。
心臓が強く鳴った。
「紗良じゃない」
「……」
「少なくとも」
陽向が眉を寄せる。
「俺が知ってる紗良じゃない」
やっと。
信じてもらえた。
そう思った。
なのに。
嬉しくなかった。
陽向にとってそれは。
大切な人を失ったと認めることだから。
「……うん」
私は。
それしか言えなかった。
しばらく。
二人とも何も話さなかった。
そして。
陽向が。
ぽつりと聞いた。
「……美月」
「何?」
「子ども」
その言葉に。
胸が跳ねる。
「何人いる?」
少し迷った。
でも。
答えた。
「……五人」
陽向の目が大きくなる。
「五人!?」
さっきまでの重い空気の中。
思わぬ大声。
私は涙を拭きながら。
少しだけ笑ってしまった。
「そんな驚く?」
「いや、驚くだろ!」
「三十四で五人って」
「……いるよ」
「マジか……」
陽向が。
本気で驚いている。
少しだけ。
いつもの陽向に戻った。
「一番上が?」
「星」
「ひかりちゃん」
「うん」
「……」
陽向は。
少し考えてから言った。
「美月って」
「?」
「ちゃんと」
私を見る。
「誰かの人生、生きてたんだな」
胸が詰まった。
当たり前。
当たり前なのに。
その言葉が。
嬉しかった。
私には。
人生があった。
妻で。
母親で。
泣いたり。
笑ったり。
いろんなことがあった。
高瀬美月は。
確かに生きていた。
「……うん」
私は頷いた。
「生きてたよ」
陽向も。
小さく頷いた。
でも。
その日の帰り。
玄関で。
陽向は。
いつものように笑わなかった。
「……また来る」
「うん」
「少し」
言葉を探す。
「考えさせて」
胸が痛む。
でも。
当然だと思った。
「分かった」
陽向が。
ドアを開ける。
「陽向」
呼び止めた。
振り返る。
「……何?」
私は。
言うか迷った。
でも。
伝えたかった。
「紗良さんを」
「……」
「取り戻す方法があるなら」
陽向の目を見る。
「私も探すから」
陽向は。
何も言わなかった。
ただ。
少しだけ。
悲しそうに笑った。
そして。
ドアが閉まった。
一人になった部屋。
静か。
私は。
新しいマグカップを見る。
陽向と。
一緒に選んだもの。
紗良との思い出ではない。
私との。
初めての思い出。
それを見た瞬間。
胸が。
どうしようもなく苦しくなった。
もし。
紗良が戻ってきたら。
私は。
どうなるんだろう。
消える?
死ぬ?
それとも。
元の身体に戻れる?
でも。
私の身体は。
もうない。
じゃあ。
私は。
どこへ行けばいい?
初めて。
そのことを。
はっきりと考えてしまった。
紗良が戻ってくることを願っている。
その気持ちは。
嘘じゃない。
なのに。
胸の奥で。
小さな声がした。
――消えたくない。
その気持ちに気づいた瞬間。
私は。
自分がひどい人間になったような気がして。
しばらく。
動けなかった。