目覚めたら、最推しの腕の中でした~1度終わった私の人生、もう一度恋をしました。~
第17話 推しと二人でカラオケなんて聞いてません
「……本当に行くの?」
「ここまで来て何言ってんの?」
陽向が呆れたように笑う。
目の前には。
都内の会員制カラオケ店。
芸能人もよく利用するらしく。
普通のカラオケ店とは違って。
入口からして。
妙に高級感がある。
そして。
私は。
その入口の前で。
完全に足が止まっていた。
「だって……」
「何?」
「陽向とカラオケだよ?」
「うん」
「天城陽向と!」
「俺だけど」
「トップアイドルと!」
「それも俺」
「プロの歌手の前で歌えって!」
「昨日からそれしか言ってないじゃん」
「普通無理でしょ!」
陽向が。
声を上げて笑う。
「あははっ! 美月、顔めっちゃ必死!」
「笑い事じゃない!」
「俺、美月が歌うの楽しみにしてたんだけど」
「余計プレッシャー!」
逃げようか。
本気で考える。
だって。
私は昔から歌うことが好きだった。
家でも。
車でも。
カラオケでも。
よく歌った。
でも。
それと。
プロのアイドル。
しかも。
十年以上推してきた本人の前で歌うのは。
まったく別の話だ。
「帰る?」
陽向が聞く。
「……」
少し迷う。
でも。
歌いたい。
陽向が。
『美月の好きなこと、もう一回探せばいい』
と言ってくれた。
そして。
最初に思い浮かんだものが。
歌だった。
「……行く」
私は。
小さく答えた。
「よし」
陽向が笑う。
「じゃ、行こうぜ」
「でも笑ったら帰るからね」
「笑わないって」
「下手とか言わない?」
「言わない」
「点数低くても?」
「採点やる気満々じゃん」
「……あ」
陽向がまた笑う。
「ほら、行きたいんじゃん」
「もう!」
◇◇◇
部屋に入って。
私は。
もう一度固まった。
広い。
ソファも大きい。
巨大なモニター。
そして。
ちゃんとしたマイク。
「すご……」
「ここ結構来るよ」
「ASTERで?」
「メンバーとも来るし、一人でも」
「一人カラオケするの?」
「するよ」
意外。
「何歌うの?」
「アニソン」
即答。
「ASTERじゃないんだ」
「自分の曲一人で歌ってどうすんの」
「確かに」
陽向が。
リモコンを私に渡す。
「はい」
「え?」
「一曲目」
「私から!?」
「当然」
「陽向から歌ってよ!」
「今日は美月が歌いたいって言ったから来たんでしょ」
「でも!」
また。
この言葉。
陽向がニヤッとする。
「禁止」
「……」
ずるい。
私は。
リモコンを見る。
何を歌おう。
いつもなら。
迷わないのに。
今日だけは。
何を選んでも。
陽向が隣にいる。
手が震える。
「美月」
「何?」
「別にオーディションじゃないよ」
「分かってる」
「俺に上手いって思われなきゃいけないわけでもない」
「……」
「美月が歌いたいやつ入れれば?」
その言葉で。
少しだけ。
肩の力が抜けた。
「……じゃあ」
私は。
昔から好きだった曲を入れる。
イントロが流れる。
「お」
陽向が反応する。
「これ好きなんだ?」
「うん」
「俺も知ってる」
「絶対歌わないでね」
「え!?」
「緊張するから!」
「じゃあ黙って聴きます」
陽向が。
妙に姿勢を正す。
「それも緊張する!」
「どうしろっていうんだよ!」
笑ってしまった。
その笑いで。
少しだけ。
緊張が解けた。
そして。
前奏が終わる。
私は。
息を吸った。
◇◇◇
歌い始めた瞬間。
不思議だった。
あれだけ。
陽向のことを意識していたのに。
曲の中に入ると。
だんだん。
周りが気にならなくなっていった。
歌う。
ただ。
歌う。
久しぶりだった。
子どもたちが生まれてから。
一人で思い切り歌える時間なんて。
ほとんどなかった。
家では。
誰かがいる。
カラオケに行っても。
子どもの曲を入れたり。
子どもが歌うのを聞いたり。
もちろん。
それも楽しかった。
でも。
自分が。
自分のためだけに。
一曲を歌う。
そんな時間。
いつ以来だろう。
声を出すたび。
胸の中に溜まっていたものまで。
少しずつ。
外へ出ていく気がした。
そして。
最後の一音。
曲が終わった。
「……」
静か。
私は。
恐る恐る。
陽向を見る。
「……何?」
陽向が。
じっとこちらを見ていた。
「陽向?」
「……え」
「何その顔!」
「いや」
陽向が。
ようやく瞬きをする。
「美月」
「何?」
「歌うまくない?」
「……え?」
想像していなかった。
「本当に?」
「いや、普通に」
陽向が身体を起こす。
「上手いよ」
「……」
「声いいし」
「……」
「音程も安定してるし」
「……」
「あと」
少し考える。
「歌い方にちゃんと感情ある」
プロに。
褒められている。
天城陽向に。
歌を。
褒められている。
「……無理」
私は。
両手で顔を覆った。
「何が!?」
「嬉しすぎる」
「そんなに?」
「だって!」
顔を上げる。
「私、十年以上陽向の歌聴いてきたんだよ!?」
「うん」
「その陽向に歌褒められてる!」
「……ああ」
陽向が。
納得したように笑う。
「またファンになった」
「今日は許して!」
「いいけど」
「本当に上手かった?」
「だから上手いって」
「お世辞じゃない?」
「俺、歌で適当なこと言わないよ」
その一言で。
また。
胸がいっぱいになる。
「……そっか」
「うん」
「嬉しい」
今度は。
ちゃんと言えた。
嬉しい。
陽向が。
少し笑った。
「その顔」
「何?」
「いいね」
「え?」
「なんか」
陽向が。
私を見る。
「美月が本当に好きなことやってる顔」
胸が。
少しだけ鳴った。
◇◇◇
「次、陽向!」
「はいはい」
マイクを渡す。
陽向が曲を入れる。
イントロが流れた瞬間。
私は。
目を見開いた。
「これ!」
「知ってる?」
「知ってるどころじゃない!」
ASTERの曲。
しかも。
私が好きな。
少し前のアルバム曲。
「これ選ぶの!?」
「美月好きって言ってたじゃん」
「覚えてたの?」
「俺、美月メモあるから」
「まだ使ってるの!?」
「もちろん」
そして。
陽向が。
歌い始めた。
「……」
無理。
これは。
無理。
さっきまで。
家で。
普通に朝ご飯を作ったり。
玉ねぎを大きく切ったり。
ソファで寝たりする人だと思っていたのに。
マイクを持った瞬間。
全部。
変わる。
歌声。
表情。
リズムの取り方。
ステージではない。
観客も。
私一人。
なのに。
完全に。
天城陽向だった。
「……かっこいい」
小さく。
呟く。
こんなの。
好きにならないほうが。
無理じゃない?
ファンだった頃から。
ずっと好きだった。
でも。
今は。
それとは違う。
画面の中の陽向ではない。
すぐ隣で。
私のために。
私の好きな曲を歌っている。
その事実が。
心臓に悪すぎる。
曲が終わる。
「どう?」
陽向が笑う。
「……無理」
「また!?」
「かっこよすぎる」
口から。
そのまま出た。
陽向が。
一瞬。
固まった。
「……」
私も。
数秒遅れて気づく。
「……あ」
「美月」
「ファンとして!」
また。
いつもの言い訳。
陽向が。
少しだけ笑う。
「毎回それ言うよな」
「本当だから!」
「はいはい」
「信じてない!」
でも。
陽向の耳が。
少しだけ赤い。
気のせい?
◇◇◇
そこからは。
最初の緊張が嘘みたいだった。
歌う。
陽向が盛り上げる。
陽向が歌う。
私が盛り上がる。
アニソン。
昔のJ-POP。
ASTER。
デュエット曲まで。
「ちょっと待って!」
私は笑う。
「陽向、ハモリ勝手に入れないで!」
「いいじゃん!」
「私、つられる!」
「つられんな!」
「プロと一緒にしないで!」
「あはははっ!」
歌って。
笑って。
また歌う。
気づけば。
三時間以上経っていた。
「……楽しい」
ソファに身体を預けて。
自然と。
言葉が出た。
陽向が。
隣を見る。
「楽しかった?」
「うん」
私は。
笑った。
「すごく」
「そっか」
陽向も。
嬉しそうに笑う。
「よかった」
「……ありがとう」
「何が?」
「連れてきてくれて」
「美月が来たいって言ったじゃん」
「でも」
「今日はその『でも』いいや」
「何それ」
二人で笑う。
私は。
マイクを見た。
「歌うの」
「うん」
「やっぱり好きだった」
「……うん」
「忘れてた」
声が。
少しだけ。
小さくなる。
「自分がこんなに好きだったこと」
陽向は。
何も言わない。
「子どもたちがいたから嫌だったとかじゃないよ」
「分かってる」
すぐに言われる。
「子どもといる時間も」
「幸せだった」
「うん」
「でも」
私は。
自分の手を見る。
「私」
「母親になる前に」
「ちゃんと美月だったんだなって」
陽向の表情が。
柔らかくなる。
「当たり前じゃん」
「……」
「母親でも」
「妻でも」
「誰かの嫁でも」
陽向が言う。
「その前に美月でしょ」
胸の奥が。
熱くなる。
「それ」
「?」
「昔の私に聞かせたかった」
「じゃあ今聞いとけばいいじゃん」
「今?」
「うん」
陽向が。
私の胸のあたりを指差す。
「昔の美月も中にいるんでしょ?」
「……」
思わず。
笑ってしまった。
「何、その言い方」
「伝わっただろ?」
「うん」
私は。
目を閉じる。
昔の私。
毎日。
誰かのために動いて。
子どものことを考えて。
家族のことを考えて。
自分の好きなものを。
少しずつ。
忘れていった私。
あの頃の私に。
言いたい。
歌いたいなら。
歌っていい。
楽しいなら。
笑っていい。
自分のための時間を持ったって。
母親失格にはならない。
「……うん」
小さく。
頷いた。
「今度から」
「?」
「もっと歌う」
「いいじゃん」
「いろんなことする」
「うん」
「私が好きだったこと」
「探したい」
陽向が。
嬉しそうに笑った。
「一緒に探そうぜ」
その言葉に。
私は。
顔を上げた。
「……一緒に?」
「うん」
「なんで陽向が?」
また。
聞いてしまった。
陽向が。
一瞬だけ。
答えに詰まる。
「……俺も」
「?」
「美月が何好きなのか」
少し視線を逸らす。
「知りたいから」
まただ。
胸が。
大きく鳴る。
「……そっか」
それ以上。
何も言えなかった。
◇◇◇
帰りの車。
私は。
助手席で。
カラオケで録った採点画面の写真を見ていた。
「九十五点」
「高いじゃん」
「陽向九十八点だった」
「プロだから」
「ずるい」
「何がずるいんだよ」
「私も九十八欲しい」
「じゃあ練習する?」
「教えてくれるの?」
「いいよ」
「本当に!?」
思わず。
身体ごと陽向へ向く。
「危ない危ない、運転中!」
「あ、ごめん」
でも。
嬉しい。
「歌、教えてくれる?」
「俺でよければ」
「やった!」
両手を握る。
陽向が。
横目で私を見る。
そして。
少しだけ。
笑った。
「……美月」
「何?」
「今日」
「?」
「一番楽しそうだった」
「……そう?」
「うん」
「ずっと笑ってた」
自分では。
気づかなかった。
「そっか」
「うん」
「じゃあ」
私は。
窓の外を見る。
流れていく街の明かり。
「今日の私」
「好きかも」
陽向の手が。
ハンドルの上で。
ほんの少し。
止まった。
「……え?」
「自分のこと」
私は笑う。
「今日の自分」
「なんか好き」
歌って。
笑って。
好きなことをして。
誰かのためじゃなく。
自分のために楽しんだ。
そんな自分を。
初めて。
好きだと思えた。
「……そっか」
陽向が。
前を見ながら。
小さく笑う。
「いいじゃん」
「うん」
そして。
しばらくして。
陽向が。
本当に小さな声で。
呟いた。
「俺も」
「え?」
聞こえた気がして。
振り返る。
「何?」
陽向は。
前を向いたまま。
「何でもない」
「またそれ!」
「いいの!」
「ずるい!」
陽向が笑う。
私も笑った。
そのときの私は。
『俺も』
の続きが。
何だったのか。
知らなかった。
陽向自身も。
まだ。
はっきりとは。
分かっていなかったのかもしれない。
ただ。
今日一日。
歌って。
笑って。
目を輝かせていた美月を見ながら。
何度も。
思ってしまった。
――可愛い。
紗良に対して。
そんなふうに思ったことは。
ほとんどなかった。
大切だった。
失いたくなかった。
家族みたいな存在だった。
でも。
美月が。
楽しそうに笑うと。
もっと笑わせたくなる。
美月が。
嬉しそうにすると。
自分まで嬉しくなる。
そして。
美月が言った。
『今日の自分、好きかも』
その瞬間。
陽向の胸に浮かんだ言葉は。
確かに。
これだった。
――俺も。
今日の美月。
すげえ好き。
でも。
まだ。
その『好き』が。
何を意味するのか。
陽向は。
知らないふりをしていた。
「ここまで来て何言ってんの?」
陽向が呆れたように笑う。
目の前には。
都内の会員制カラオケ店。
芸能人もよく利用するらしく。
普通のカラオケ店とは違って。
入口からして。
妙に高級感がある。
そして。
私は。
その入口の前で。
完全に足が止まっていた。
「だって……」
「何?」
「陽向とカラオケだよ?」
「うん」
「天城陽向と!」
「俺だけど」
「トップアイドルと!」
「それも俺」
「プロの歌手の前で歌えって!」
「昨日からそれしか言ってないじゃん」
「普通無理でしょ!」
陽向が。
声を上げて笑う。
「あははっ! 美月、顔めっちゃ必死!」
「笑い事じゃない!」
「俺、美月が歌うの楽しみにしてたんだけど」
「余計プレッシャー!」
逃げようか。
本気で考える。
だって。
私は昔から歌うことが好きだった。
家でも。
車でも。
カラオケでも。
よく歌った。
でも。
それと。
プロのアイドル。
しかも。
十年以上推してきた本人の前で歌うのは。
まったく別の話だ。
「帰る?」
陽向が聞く。
「……」
少し迷う。
でも。
歌いたい。
陽向が。
『美月の好きなこと、もう一回探せばいい』
と言ってくれた。
そして。
最初に思い浮かんだものが。
歌だった。
「……行く」
私は。
小さく答えた。
「よし」
陽向が笑う。
「じゃ、行こうぜ」
「でも笑ったら帰るからね」
「笑わないって」
「下手とか言わない?」
「言わない」
「点数低くても?」
「採点やる気満々じゃん」
「……あ」
陽向がまた笑う。
「ほら、行きたいんじゃん」
「もう!」
◇◇◇
部屋に入って。
私は。
もう一度固まった。
広い。
ソファも大きい。
巨大なモニター。
そして。
ちゃんとしたマイク。
「すご……」
「ここ結構来るよ」
「ASTERで?」
「メンバーとも来るし、一人でも」
「一人カラオケするの?」
「するよ」
意外。
「何歌うの?」
「アニソン」
即答。
「ASTERじゃないんだ」
「自分の曲一人で歌ってどうすんの」
「確かに」
陽向が。
リモコンを私に渡す。
「はい」
「え?」
「一曲目」
「私から!?」
「当然」
「陽向から歌ってよ!」
「今日は美月が歌いたいって言ったから来たんでしょ」
「でも!」
また。
この言葉。
陽向がニヤッとする。
「禁止」
「……」
ずるい。
私は。
リモコンを見る。
何を歌おう。
いつもなら。
迷わないのに。
今日だけは。
何を選んでも。
陽向が隣にいる。
手が震える。
「美月」
「何?」
「別にオーディションじゃないよ」
「分かってる」
「俺に上手いって思われなきゃいけないわけでもない」
「……」
「美月が歌いたいやつ入れれば?」
その言葉で。
少しだけ。
肩の力が抜けた。
「……じゃあ」
私は。
昔から好きだった曲を入れる。
イントロが流れる。
「お」
陽向が反応する。
「これ好きなんだ?」
「うん」
「俺も知ってる」
「絶対歌わないでね」
「え!?」
「緊張するから!」
「じゃあ黙って聴きます」
陽向が。
妙に姿勢を正す。
「それも緊張する!」
「どうしろっていうんだよ!」
笑ってしまった。
その笑いで。
少しだけ。
緊張が解けた。
そして。
前奏が終わる。
私は。
息を吸った。
◇◇◇
歌い始めた瞬間。
不思議だった。
あれだけ。
陽向のことを意識していたのに。
曲の中に入ると。
だんだん。
周りが気にならなくなっていった。
歌う。
ただ。
歌う。
久しぶりだった。
子どもたちが生まれてから。
一人で思い切り歌える時間なんて。
ほとんどなかった。
家では。
誰かがいる。
カラオケに行っても。
子どもの曲を入れたり。
子どもが歌うのを聞いたり。
もちろん。
それも楽しかった。
でも。
自分が。
自分のためだけに。
一曲を歌う。
そんな時間。
いつ以来だろう。
声を出すたび。
胸の中に溜まっていたものまで。
少しずつ。
外へ出ていく気がした。
そして。
最後の一音。
曲が終わった。
「……」
静か。
私は。
恐る恐る。
陽向を見る。
「……何?」
陽向が。
じっとこちらを見ていた。
「陽向?」
「……え」
「何その顔!」
「いや」
陽向が。
ようやく瞬きをする。
「美月」
「何?」
「歌うまくない?」
「……え?」
想像していなかった。
「本当に?」
「いや、普通に」
陽向が身体を起こす。
「上手いよ」
「……」
「声いいし」
「……」
「音程も安定してるし」
「……」
「あと」
少し考える。
「歌い方にちゃんと感情ある」
プロに。
褒められている。
天城陽向に。
歌を。
褒められている。
「……無理」
私は。
両手で顔を覆った。
「何が!?」
「嬉しすぎる」
「そんなに?」
「だって!」
顔を上げる。
「私、十年以上陽向の歌聴いてきたんだよ!?」
「うん」
「その陽向に歌褒められてる!」
「……ああ」
陽向が。
納得したように笑う。
「またファンになった」
「今日は許して!」
「いいけど」
「本当に上手かった?」
「だから上手いって」
「お世辞じゃない?」
「俺、歌で適当なこと言わないよ」
その一言で。
また。
胸がいっぱいになる。
「……そっか」
「うん」
「嬉しい」
今度は。
ちゃんと言えた。
嬉しい。
陽向が。
少し笑った。
「その顔」
「何?」
「いいね」
「え?」
「なんか」
陽向が。
私を見る。
「美月が本当に好きなことやってる顔」
胸が。
少しだけ鳴った。
◇◇◇
「次、陽向!」
「はいはい」
マイクを渡す。
陽向が曲を入れる。
イントロが流れた瞬間。
私は。
目を見開いた。
「これ!」
「知ってる?」
「知ってるどころじゃない!」
ASTERの曲。
しかも。
私が好きな。
少し前のアルバム曲。
「これ選ぶの!?」
「美月好きって言ってたじゃん」
「覚えてたの?」
「俺、美月メモあるから」
「まだ使ってるの!?」
「もちろん」
そして。
陽向が。
歌い始めた。
「……」
無理。
これは。
無理。
さっきまで。
家で。
普通に朝ご飯を作ったり。
玉ねぎを大きく切ったり。
ソファで寝たりする人だと思っていたのに。
マイクを持った瞬間。
全部。
変わる。
歌声。
表情。
リズムの取り方。
ステージではない。
観客も。
私一人。
なのに。
完全に。
天城陽向だった。
「……かっこいい」
小さく。
呟く。
こんなの。
好きにならないほうが。
無理じゃない?
ファンだった頃から。
ずっと好きだった。
でも。
今は。
それとは違う。
画面の中の陽向ではない。
すぐ隣で。
私のために。
私の好きな曲を歌っている。
その事実が。
心臓に悪すぎる。
曲が終わる。
「どう?」
陽向が笑う。
「……無理」
「また!?」
「かっこよすぎる」
口から。
そのまま出た。
陽向が。
一瞬。
固まった。
「……」
私も。
数秒遅れて気づく。
「……あ」
「美月」
「ファンとして!」
また。
いつもの言い訳。
陽向が。
少しだけ笑う。
「毎回それ言うよな」
「本当だから!」
「はいはい」
「信じてない!」
でも。
陽向の耳が。
少しだけ赤い。
気のせい?
◇◇◇
そこからは。
最初の緊張が嘘みたいだった。
歌う。
陽向が盛り上げる。
陽向が歌う。
私が盛り上がる。
アニソン。
昔のJ-POP。
ASTER。
デュエット曲まで。
「ちょっと待って!」
私は笑う。
「陽向、ハモリ勝手に入れないで!」
「いいじゃん!」
「私、つられる!」
「つられんな!」
「プロと一緒にしないで!」
「あはははっ!」
歌って。
笑って。
また歌う。
気づけば。
三時間以上経っていた。
「……楽しい」
ソファに身体を預けて。
自然と。
言葉が出た。
陽向が。
隣を見る。
「楽しかった?」
「うん」
私は。
笑った。
「すごく」
「そっか」
陽向も。
嬉しそうに笑う。
「よかった」
「……ありがとう」
「何が?」
「連れてきてくれて」
「美月が来たいって言ったじゃん」
「でも」
「今日はその『でも』いいや」
「何それ」
二人で笑う。
私は。
マイクを見た。
「歌うの」
「うん」
「やっぱり好きだった」
「……うん」
「忘れてた」
声が。
少しだけ。
小さくなる。
「自分がこんなに好きだったこと」
陽向は。
何も言わない。
「子どもたちがいたから嫌だったとかじゃないよ」
「分かってる」
すぐに言われる。
「子どもといる時間も」
「幸せだった」
「うん」
「でも」
私は。
自分の手を見る。
「私」
「母親になる前に」
「ちゃんと美月だったんだなって」
陽向の表情が。
柔らかくなる。
「当たり前じゃん」
「……」
「母親でも」
「妻でも」
「誰かの嫁でも」
陽向が言う。
「その前に美月でしょ」
胸の奥が。
熱くなる。
「それ」
「?」
「昔の私に聞かせたかった」
「じゃあ今聞いとけばいいじゃん」
「今?」
「うん」
陽向が。
私の胸のあたりを指差す。
「昔の美月も中にいるんでしょ?」
「……」
思わず。
笑ってしまった。
「何、その言い方」
「伝わっただろ?」
「うん」
私は。
目を閉じる。
昔の私。
毎日。
誰かのために動いて。
子どものことを考えて。
家族のことを考えて。
自分の好きなものを。
少しずつ。
忘れていった私。
あの頃の私に。
言いたい。
歌いたいなら。
歌っていい。
楽しいなら。
笑っていい。
自分のための時間を持ったって。
母親失格にはならない。
「……うん」
小さく。
頷いた。
「今度から」
「?」
「もっと歌う」
「いいじゃん」
「いろんなことする」
「うん」
「私が好きだったこと」
「探したい」
陽向が。
嬉しそうに笑った。
「一緒に探そうぜ」
その言葉に。
私は。
顔を上げた。
「……一緒に?」
「うん」
「なんで陽向が?」
また。
聞いてしまった。
陽向が。
一瞬だけ。
答えに詰まる。
「……俺も」
「?」
「美月が何好きなのか」
少し視線を逸らす。
「知りたいから」
まただ。
胸が。
大きく鳴る。
「……そっか」
それ以上。
何も言えなかった。
◇◇◇
帰りの車。
私は。
助手席で。
カラオケで録った採点画面の写真を見ていた。
「九十五点」
「高いじゃん」
「陽向九十八点だった」
「プロだから」
「ずるい」
「何がずるいんだよ」
「私も九十八欲しい」
「じゃあ練習する?」
「教えてくれるの?」
「いいよ」
「本当に!?」
思わず。
身体ごと陽向へ向く。
「危ない危ない、運転中!」
「あ、ごめん」
でも。
嬉しい。
「歌、教えてくれる?」
「俺でよければ」
「やった!」
両手を握る。
陽向が。
横目で私を見る。
そして。
少しだけ。
笑った。
「……美月」
「何?」
「今日」
「?」
「一番楽しそうだった」
「……そう?」
「うん」
「ずっと笑ってた」
自分では。
気づかなかった。
「そっか」
「うん」
「じゃあ」
私は。
窓の外を見る。
流れていく街の明かり。
「今日の私」
「好きかも」
陽向の手が。
ハンドルの上で。
ほんの少し。
止まった。
「……え?」
「自分のこと」
私は笑う。
「今日の自分」
「なんか好き」
歌って。
笑って。
好きなことをして。
誰かのためじゃなく。
自分のために楽しんだ。
そんな自分を。
初めて。
好きだと思えた。
「……そっか」
陽向が。
前を見ながら。
小さく笑う。
「いいじゃん」
「うん」
そして。
しばらくして。
陽向が。
本当に小さな声で。
呟いた。
「俺も」
「え?」
聞こえた気がして。
振り返る。
「何?」
陽向は。
前を向いたまま。
「何でもない」
「またそれ!」
「いいの!」
「ずるい!」
陽向が笑う。
私も笑った。
そのときの私は。
『俺も』
の続きが。
何だったのか。
知らなかった。
陽向自身も。
まだ。
はっきりとは。
分かっていなかったのかもしれない。
ただ。
今日一日。
歌って。
笑って。
目を輝かせていた美月を見ながら。
何度も。
思ってしまった。
――可愛い。
紗良に対して。
そんなふうに思ったことは。
ほとんどなかった。
大切だった。
失いたくなかった。
家族みたいな存在だった。
でも。
美月が。
楽しそうに笑うと。
もっと笑わせたくなる。
美月が。
嬉しそうにすると。
自分まで嬉しくなる。
そして。
美月が言った。
『今日の自分、好きかも』
その瞬間。
陽向の胸に浮かんだ言葉は。
確かに。
これだった。
――俺も。
今日の美月。
すげえ好き。
でも。
まだ。
その『好き』が。
何を意味するのか。
陽向は。
知らないふりをしていた。