目覚めたら、最推しの腕の中でした~1度終わった私の人生、もう一度恋をしました。~

第2話 私は、一ノ瀬紗良じゃない

「……誰?」

陽向のその一言が、胸の奥に小さく刺さった。

分かっている。

当然だ。

天城陽向にとって、高瀬美月なんて名前は知らない人間の名前だ。

それなのに。

私はこの人を十年以上知っている。

笑い方も。

好きなものも。

テレビで話してきたことも。

たくさん知っているのに。

向こうは私を知らない。

その当たり前の事実が、なぜか少し寂しかった。

「高瀬、美月……」

もう一度、自分の名前を口にする。

陽向は困惑したまま私を見つめていた。

「それ……誰の名前?」

「私です」

「でも、お前は――」

陽向が何か言いかけた、そのとき。

病室のドアが開いた。

「一ノ瀬さん、意識戻られたんですね」

白衣を着た医師と看護師が入ってくる。

陽向がすぐに立ち上がった。

「先生、なんか……おかしいんです」

「おかしい?」

「俺のことは分かってるみたいなんですけど、自分のことを別の名前で呼んでて」

医師の視線が私に向く。

「一ノ瀬さん。私の声、聞こえますか?」

「はい」

「お名前を言えますか?」

私は一瞬迷った。

でも。

「高瀬美月です」

そう答えた。

医師と看護師が顔を見合わせる。

「……一ノ瀬紗良さん、ではなく?」

「違います」

迷わず言った。

「私は一ノ瀬紗良さんじゃありません」

陽向の顔が強張る。

だけど、これだけは譲れなかった。

鏡に映っている顔が誰であろうと。

知らない記憶が頭の中にあろうと。

私は私だ。

「年齢は?」

「三十四歳です」

「生年月日は?」

それも答える。

住んでいた場所。

家族構成。

自分が覚えている限りのことを、ひとつずつ話していく。

夫がいる。

子どもがいる。

今日――いや、事故に遭う前までは普通に家で生活していた。

「事故に遭ったことは覚えていますか?」

「……はい」

雨の中。

道路を渡っていた。

車のライト。

衝撃。

そこから先はない。

医師が静かに頷いた。

「一ノ瀬さんも、数日前に交通事故に遭われています」

「……数日前?」

思わず聞き返す。

「はい。搬送された際、一時は非常に危険な状態でした」

一ノ瀬さんも?

私と同じ事故?

いや。

同じ場所なの?

「事故の日って……いつですか?」

医師が日付を告げる。

私は息を呑んだ。

同じ日だった。

私が事故に遭った日。

しかも、時間までほとんど同じ。

「……嘘」

身体の奥が冷たくなる。

どういうこと?

私が事故に遭ったのと同じ時間に、この人も事故に遭って。

私は今、その人の身体の中にいる?

そんなこと。

あり得るの?

でも。

鏡に映る顔は、どう見ても私じゃない。

医師は、事故による記憶障害や混乱の可能性がある、と説明した。

頭部への衝撃や強いストレスで、自分自身についての記憶が混乱することもあるらしい。

「しばらく様子を見ましょう」

優しい声で言われても。

私は納得できなかった。

記憶障害なんかじゃない。

私は一ノ瀬紗良の人生を忘れているんじゃない。

そもそも知らないのだ。

ただ。

さっき見えた、陽向との記憶。

あれだけは説明がつかない。

「今日はなるべく安静にしてください。また後ほど診察します」

医師たちが出ていく。

病室に、私と陽向だけが残された。

気まずい。

ものすごく気まずい。

陽向は少し離れた椅子に座った。

そしてしばらく黙ってから、口を開いた。

「……俺のことは?」

「え?」

「俺のことは分かるんだよね?」

「はい」

「どうして?」

どうして。

そう聞かれても。

私は困る。

「だって……」

「だって?」

「有名だから……」

陽向が固まった。

「…………は?」

「テレビで見てました」

「テレビ?」

「はい」

「俺を?」

「はい」

陽向の眉間に皺が寄る。

「……紗良が?」

「だから私は紗良さんじゃなくて――」

「分かってる。いや、分かってないけど」

陽向が頭を掻く。

「ちょっと待って。つまり?」

私は少し迷った。

でも、隠しても仕方がない。

「私は、天城さんのファンでした」

沈黙。

「……ファン?」

「はい」

「俺の?」

「はい」

「いつから?」

「十年以上前から」

陽向がますます混乱した顔になる。

「いやいやいやいや」

急にいつもの調子が少し戻った。

「待って待って。紗良は俺がデビューする前から知ってるんだけど?」

「私は知りません」

「でも俺のファン?」

「そうです」

「なのに身体は紗良?」

「そうみたいです」

「意味分かんねぇ……」

「私もです!」

思わず声が大きくなった。

陽向がこちらを見る。

「私だって何が起きてるか分かりません!」

怖かった。

突然知らない身体になって。

推しが目の前にいて。

知らない女性の記憶まで入ってきて。

それなのにみんな私を一ノ瀬紗良として扱う。

「私、ちゃんと家に帰らないと……」

言葉が口からこぼれた。

陽向の表情が変わる。

「家?」

「子どもたちがいるんです」

「……子ども?」

「はい」

そうだ。

こんなところにいる場合じゃない。

事故に遭ったなら。

入院しているなら。

きっと家族は心配している。

子どもたちだって。

「電話……」

ベッド脇を見る。

自分のスマートフォンはない。

代わりに、見覚えのないスマートフォンが置いてある。

手に取る。

顔認証が反応した。

当たり前のようにロックが解除される。

そこに表示された名前。

一ノ瀬紗良。

SNSの通知。

芸能関係者らしい連絡。

知らない名前ばかり。

「これ……私のじゃない」

「紗良のだよ」

陽向が答える。

「私のスマホは?」

「知らない」

「バッグは?」

「事故の荷物なら、たぶん事務所が預かってると思うけど」

違う。

そうじゃない。

私の。

高瀬美月の荷物。

「電話したいんです」

「誰に?」

「夫に」

陽向がまた固まる。

「……夫?」

「はい」

「結婚してるの?」

「してます」

「紗良が?」

「だから違います!」

思わず強く言ってしまう。

でも今は、それどころじゃなかった。

「子どももいるんです」

「……何人?」

質問されて、胸が締めつけられる。

頭の中に子どもたちの顔が浮かぶ。

今頃どうしてる?

事故のこと、聞いている?

泣いてない?

「帰らなきゃ」

布団を退ける。

「ちょ、待って」

陽向が立ち上がった。

「今起きたばっかだろ」

「でも」

ベッドから降りようとした瞬間、足に力が入らなかった。

身体が大きく傾く。

「危ない!」

陽向の腕が伸びる。

倒れる前に受け止められた。

「……っ」

また近い。

でも。

今度はドキドキする余裕なんてなかった。

「離して……」

「無理」

「帰らないと」

「今歩けないじゃん」

「でも子どもが」

「分かったから!」

陽向の声が少し強くなる。

私はびくっとした。

それに気づいたのか、陽向の表情が変わった。

すぐに声を落とす。

「……ごめん」

怒鳴られると思った。

でも違った。

「怒ってない」

まるで私の顔を見ただけで、何を考えたのか分かったみたいだった。

「ただ、危ないから」

陽向はゆっくり私をベッドに戻した。

「調べるから」

「え?」

「高瀬美月って人」

心臓が跳ねる。

「本当にいるなら、何か出てくるだろ」

「……お願いします」

陽向はスマートフォンを取り出した。

でも。

私は急に怖くなった。

もし。

もしも。

私がここにいるのなら。

元の私は、どうなったの?

意識不明?

病院?

それとも――。

嫌な考えを振り払う。

大丈夫。

助かってる。

きっと別の病院にいるだけ。

そう思おうとした。

陽向が検索画面を開く。

「漢字は?」

「高い低いの高に……瀬戸内海の瀬。美しい月で美月です」

陽向が入力する。

検索。

ほんの数秒。

その間が、異様に長く感じた。

「……」

陽向の指が止まった。

「何か出ました?」

答えない。

「天城さん?」

「……これ」

陽向の顔から、さっきまでの戸惑いが消えていた。

代わりに浮かんでいるのは。

何と表現したらいいのか分からない顔。

私は手を伸ばす。

「見せてください」

「いや……」

「お願いします」

陽向が迷う。

その反応だけで、胸の奥がざわついた。

「見せて」

もう一度言う。

やがて。

陽向はゆっくりスマートフォンを私に渡した。

画面に表示されていたのは。

事故の記事だった。

雨の日。

交差点。

乗用車と歩行者。

そして。

そこに書かれている名前。

――高瀬美月さん、三十四歳。

私の名前。

指先が震える。

その下の文章を読み進める。

病院に搬送。

そして。

「……死亡?」

声にならなかった。

もう一度読む。

何度読んでも。

文字は変わらない。

高瀬美月さんの死亡が確認された。

「……嘘」

スマートフォンが手から滑り落ちそうになる。

「嘘……」

私、ここにいる。

ちゃんと考えられる。

話せる。

息だってしてる。

なのに。

高瀬美月は。

死んだ?

「これ……違う人……」

自分でも無理があると分かっていた。

年齢も。

場所も。

事故の日も。

全部同じ。

「同姓同名……」

声が震える。

「きっと……」

でも。

記事の中に書かれていた住所。

間違いない。

私の住んでいた場所だった。

視界が歪む。

「じゃあ……」

子どもたちは?

私の事故を知っている?

私が死んだって。

ママが死んだって。

そう聞かされたの?

「……やだ」

涙が落ちた。

「やだ……」

今までとは違う。

怖い。

会えない。

もう。

私は高瀬美月として。

あの子たちのところへ帰れない。

「子ども……」

唇が震える。

「私の子どもたち……」

ぎゅっと胸を押さえる。

苦しい。

息ができない。

「会いたい……」

今すぐ会いたい。

抱きしめたい。

大丈夫だよって言いたい。

ママここにいるよって。

なのに。

鏡に映るのは知らない女性。

私がどれだけ「ママだよ」と叫んだって。

誰も信じてくれない。

陽向が何も言わず、私のそばにいた。

さっきまでなら。

最推しがこんな距離にいるだけで、大騒ぎしていたはずなのに。

今はもう。

それどころじゃなかった。

「私……」

涙で視界がぼやける。

「本当に……死んだの……?」

誰に聞いたわけでもない。

答えなんて分かっている。

それでも。

信じたくなかった。

そして。

このとき初めて。

私は理解した。

私は助かったんじゃない。

高瀬美月としての人生は――。

あの日。

あの雨の中で。

本当に、終わってしまったのだ。
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