【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―
第48話 ご令嬢方からの洗礼と、同情
舞踏の輪から一歩外れた会場の端。
手つかずのままの銀皿に乗せられた軽食が、長いビュッフェテーブルに整然と並ぶ。
先ほどまで賑わっていた一角。
しかし、あれよあれよと人は減り、いつの間にか、三人の令嬢とハルネだけが残されていた。
静まり返った長卓の周りには、遠くで奏でられる楽団の旋律が、奇妙な緊張感を漂わせていた。
―――――――
「見かけぬ顔だ。 どちらの家の令嬢だ?」
一目で格上だと分かる黒髪ロング令嬢が、手に持った扇子で口元を隠しながら、問いかける。
可憐な見た目とは裏腹な、妙に男勝りな口調。
ハルネは、面食らいながらも毅然と挨拶を返す。
「……申し遅れました。 ゼオファルド騎士爵の妻、ハルネと申します」
ハルネが「妻」と名乗るのは三回目。
さすがに慣れたのか、噛むこと無く、落ち着いた口調を見せていた。
ドレスの裾を片手で摘まみ、優雅に頭を下げる。
耳元の琥珀が、リィンと揺れた。
「ゼオファルド卿……わたくし、お父様から聞いたことがありますわ! 軍にも並ぶ者のいない強さを持つ”鬼”がいると!」
栗色髪の縦ロール令嬢が、声高に、ますわますわと姦しく囀る。
「……たしかその方は、女性が大の苦手ではなかったですコト?」
氷色髪のボブ令嬢が、落ち着いたトーンでさらに言葉を重ねる。
ハルネは、いつものように令嬢たちの感情色を探った。
――3人とも、蔑みのダークトープ……さらに好奇の黄色と悪意の黒灰がチラチラと混じっていた。
悪意の色の出方がいくらか気になった。
しかし、予想通りの感情色に、ハルネはエモパレの警戒感度を一段上げた。
「騎士爵の妻……なるほど。 市井の者か。 最近では貴族と”平民”で縁を結ぶ例も珍しくはない」
黒髪令嬢が、ハルネに対し、冷ややかな目線を向ける。
ハルネは「平民」という単語が強調されたのを聞き逃さなかった。
しかし、持ち前の営業スマイルでその反応を表に出すことは無かった。
「末端貴族の妻とはいえ、平民風情が高貴な社交の場に出てくるなんて……侯爵様の格も落ちたものですわ!」
「平民との婚姻……随分とお優しい殿方がおりますコト」
ナチュラルにこちらを見下してくる姿勢。
(このくらいの嫌味なんか、香房のクレーマーで日常茶飯事よ)
内心、思う所はあったものの、ハルネの表情が崩れることは無かった。
ふと、黒髪令嬢の視線が下がる。
「ところで、キミは、何を持っている?」
「あっ……(やばっ)」
ハルネの右手にはミニパイの皿が持たれたままだった。
先ほどのカーテシーも、皿を持ったまま披露してしまったようだった。
「お、おほほほほ。 は、はしたない所をお見せしてしまいまして……」
そそくさと令嬢たちの隣にあるテーブルの方へと、持ったお皿を置こうとするハルネ。
――そこで事が起こった。
テーブルに置いてある、誰かの飲みさしの、ほんの少し水が残ったグラス。
縦ロール令嬢が、そのグラスを手に取り……
ハルネに向かって中身を掛けた。
だが、ハルネは悪意の膨らみを事前に感知していた。
いともたやすくヒョイと避ける。
「なっ……!」
縦ロール令嬢は、あまりあっさりと水を避けられた事に、呆気にとられた。
ハルネは、その隙にサッと皿を置いて距離を取る。
その行動に、縦ロール令嬢は不機嫌を露わにした。
「なっ、何よアナタ! 何で避けるのよ! 平民風情が生意気ですわ!!」
「はぁ、申し訳ございません」
トラブルはごめんだと、低姿勢で平謝るハルネ。
「……なるほど。 豊かな体型に見合わず勘の良いご令嬢のようだ」
「ルフナ様っ! この女、調子に乗っていますわ!」
縦ロール令嬢が、喚きたてる。
一方、ルフナと呼ばれた黒髪令嬢は、落ち着いた口調と表情。
このまま引き下がるかと思いきや、とんでもないことを口にした。
「ただ、ここでのキミの正解は、黙って水を被ることだった」
目を細め、理不尽な理屈を言い渡す黒髪令嬢。
その真意は口元を扇子で覆っているためハッキリしない。
(なんでよ!? 水被った方がいい? 意味わかんないよ!?)
ハルネは、反発心から無意識に掌を握る力が強くなった。
「う~ん、そうなんですか? ですが、私の為に手間を惜しまずドレスを用意してくださった方の為にも、衣装を汚されるワケには参りません」
ハルネの脳裏に、調査局の面々の顔が浮かぶ。
自分のために骨を折ってくれた人たちに対する矜持から出た言葉だった。
しかし、ここで、露呈してしまった。
それは、絶対的な経験不足だった。
ハルネは、貴族を相手にするという意味を履き違えていた。
矜持は、胸の奥に秘めなければならなかった。
つまり、口答えをしてはいけなかった。
悪手だった。
「な、生意気ですわ!」
「…………」
いきり立つ縦ロール令嬢とは裏腹に、ジト目の氷色ボブ令嬢は黙して何も語らない。
「……なるほど。 キミにはやはり、必要なのかもしれないな――洗礼が」
黒髪令嬢は、氷色ボブ令嬢へ何かの目配せをした。
その意味を考える間もなく、黒髪令嬢はスっとビュッフェテーブルへと手を伸ばす。
そして、銀皿に乗ったサンドイッチの皿を手に取った。
「……??」
まるでその意図が分からないハルネ。
黒髪令嬢は、手に持った皿を高くゆっくりと上げる。
釣られてハルネの目も当然、美味しそうなサンドイッチに釘付けとなった。
何をするつもりなのか、さっぱり窺い知ることは出来ない。
サンドイッチに目が釣られ……
――悪意の色が膨らんだのを、ハルネは見落とした。
ハルネの視線が、皿を追ったのを確認した黒髪令嬢は、ゆっくりとサンドイッチの皿を傾ける。
当然の如く、サンドイッチは皿から滑り落ちる。
「あっ……!」
ハルネは思わず、零れゆくサンドイッチに向かって手を伸ばす。
皿を傾ける動作がゆっくりだったため、バランスを崩しながらもサンドイッチをギリギリで救うことが出来た。
その瞬間……
――ビチャっ
氷色ボブ令嬢が、赤ワインの入ったグラスを、ハルネに向かって掛けていた。
「だから言ったのだ。 最初に水を被るのが正解だ、と」
ドレープのひだからジワジワと、赤の染みが広がっていく。
「おほほほほ! ざまぁですわ! わたくしのグラスを避けるからそういうことになるんですのよ!」
「……言葉遣いがお下品ですコトよ。 ……ですが、今のハルネ様のお姿も、ずいぶんと見るに堪えませんわね」
純粋な悪意そのものの行動。
そのあまりに露骨な悪意と、ワインを掛けられたショックで動けないハルネ。
その固まった表情の胸中にあるのは……
(汚しちゃった……せっかく用意してくれたドレスを……)
ハルネの背中に、じわりと冷たい汗が流れる。
「平民にしては悪くないドレスだが…………衣装に見合う体型すら、整える事も出来ないのか?」
「食べ物に執着するなんて! 卑しいですわ!」
「……だから、そのようなお身体になるのですコト」
普段であれば聞き流せた悪口。
しかしハルネは今、染みの広がっていくドレスに、心を蝕まれていた。
(せっかく……せっかくあたしでも似合うドレス、作ってもらったのに……)
「ゼオファルド卿も、よくぞこのような、ふくよかな女性を妻へと迎え入れたものだ」
「おそらく義理ですわ! 信仰に篤い方とも聞いたことがありますもの! だから……」
「……施し、というのは実に尊い行いですコト」
施し……
その言葉もハルネに突き刺さった。
悪意に蝕まれた心が、ネガティブな妄想を引き寄せる。
(もしかして、オジさまは、平民のあたしに、夢を見させようと施しを……? ううん! そんなワケない!)
「”救済”であるならば、やはり愛ではなく、慈悲なのだろう」
「ざーんねんですわ! 平民は嫌いですけど、愛あるロマンスはわたくしも好みでしたのに」
「……殿方に、選ばれたのではなく、憐れまれていただけ。 ああ、お可哀想ですコト」
三人の、とくに最後の氷色ボブ令嬢の言葉が、心臓に刺さった。
選ばれて……ない。
あたしはやっぱり、選ばれ、ない?
その言葉が頭の中をぐるぐる回り、ゆっくりと幾度も溶けていく。
周りの時間が、深い水底に沈んだかのように重くなった。
お腹の中が冷たくなり、無意識に握りこんだ手が赤くなった。
震える身体が、耳元の琥珀を、リィンと揺らした。
――その感触が、反発の心を生んだ。
ううん!
だってオジさまは任務とはいえ、あたしを選んでココに連れてきてくれて!
似合ってるって言ってくれて! キレイだって言ってくれて!
あたしに似合うドレスだって、作ってくれたのはトリサちゃんだけど、オジさまが手配をしてくれて!
――ふと感じたワインの冷たい感触が、抵抗する心を刈り取った。
……ああ、でも、汚れちゃった。
あたしの、ぽっちゃりな体型を綺麗に包んでくれた、ステキなドレス…………もう、守ってくれない……
「せいぜい、殿方の慈悲に縋るがいい。 ああ、本当に……哀れな女性だ」
「生意気ですけれど、そこは同情いたしますわ」
「……殿方の心は移ろいやすいですコトよ。 どうか、お可哀想な未来にならぬよう」
「あ、あうぅ…………」
令嬢たちが、再び悪意をぶつけてきたら、反発できたかもしれない。
しかし、令嬢たちは本気で自分を憐れんでいる。
――感情色でも本気の憐れみを感じてしまった。
視てしまった感情色に、気持ちが引っ張られる。
剥がされた鎧(ドレス)と、弱気な心が、どんどんと対抗する心を削いでいく。
ああ、自分は同情される存在なんだ……
その言葉を認めた途端、”可哀想なあたし”が、手を引っ張った。
あたしは、選ばれたんじゃない。
可哀想だから、手を伸ばしてもらえただけなんだ。
あたしが愛されないのは、太っていて醜いから。
オジさまの優しさは、単なる同情。
ほら、やっぱりそうだった。
「ふ、ぐっ……!!」
心の重圧に耐えきれず、足が勝手に駆け出した。
目尻から涙が零れているのに、なぜか口角は上がっていた。
「あはは、全部分かっちゃった」――まるで、そう語るように。
どこへ通じるともしれない侯爵邸の外に繋がる廊下へ。
ハルネは振り返ることもせずに、逃げ出した。
……………
残された令嬢たちは、逃げ出したハルネを、なぜか訝しんだ瞳で見つめていた。
珍しい平民上がりの令嬢だ、ちょっとからかってやれ。
最初はそんな気だったのに。
なぜだか今は、胸の奥に冷たいものが落ちていた。
「……や、やりすぎたか? な、なぜだか気持ちが抑えられなくて……」
「わ、わたくしも……いきなり水などかけるつもりは無かったのですけれど……」
「ル、ルフナ様は、例の婚約破棄のコトで心を痛めておいででしたから!」
まるで憑き物が落ちたかのように、我に返り出す令嬢たち。
何かに飲まれるかのようにハルネを責めてしまった事実に、今更ながら罪悪感が圧し掛かる。
「そ、そうかもしれんな。 婚約破棄……あの子爵令息には未だ腹が立つ気持ちは消えぬ」
「き、きっと、そうですわ! ルフナ様のご心痛お察しいたしますわ!」
「あまりお気になさらぬコトを……」
姦しく言い訳を重ねる令嬢たちを、少し離れた柱の陰から眺めている者がいた。
その視線が、ゆっくりと廊下の奥へと向いた。
今しがた、ハルネが逃げるように消えていった暗がりへ。
――遠くで奏でられる楽団の旋律が、低く重い曲へと転調した。
その音はまるで、この場の空気に呼応するかのように、廊下の奥の影へと吸い込まれていった。