【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―
第49話 これがあたしにはお似合い
誰もいない侯爵邸の廊下は、冷えた静けさを漂わせていた。
磨き上げられた石床の上には、豪奢で赤い絨毯が廊下の端まで伸びている。
天井近くに連なる細長い窓からは、夜の闇が薄く滲んでいた。
遠くで鳴り続ける弦楽の旋律も、ここではすっかりと音を失い、微かに空気を震わせるだけ。
ひと気の無い回廊には、いくつかの化粧直しのための小部屋と、賓客のための休憩室が並んでいる。
その小部屋と小部屋の間の廊下の隅――
ベージュのドレスに身を包んだハルネは、一人、壁に背を預け、床に沈み込んでいた。
天井に並ぶ無数の魔石ランプが、誰もいない廊下すらも煌々と照らしているが、落ち込んだハルネの心までは照らしてくれなかった。
―――――――
「ふふふ……やっぱりそうだったんだ」
思わず漏らした独り言が、静かな廊下に反響した。
なんでかな? 冷たい石床がどこか心地良い。
濡れたドレスに、なぜかほっとする。
ああ、これでいい。
あたしには、これが、似合ってる。
綺麗なドレスなんて、着ちゃいけなかった。
「同情」――それは、とても甘美な言葉だった。
令嬢たちに「憐れだ」って言われて、息が出来なくなるくらい苦しくなって。
でも、どうしてかは分からないけれど…………安心した。
憐れって言葉に、どういうワケか、すがりついてしまった。
だって、納得できるもの。
すごく、理解できるもの。
自分が、一番分かってるもの。
太ってる。 醜い。
自分のそこだけには自信があった。
だから冷たい石床も、濡れて不快なドレスも、全部あたしに相応しいもの。
まるで、世界が予定通りに戻ったように安堵した。
「ああ……これでいいんだ」
これがあたしなんだ。
普段抑え込んでいる劣等感。
今は我慢しなくていいんだよ。
そうそう、アナタは太ってるものね。
ワインの染みた汚いドレスも、よく似合うね。
可哀想なあたし。
よしよし、つらかったね。
今は頑張らなくていいんだよ。
頑張り屋さんなサフラン香房の店主でなくて、いいんだよ。
健気に任務をこなそうとするあたしでなくて、いいんだよ。
選ばれる期待なんて……しなくていいんだよ。
「……違う!! 何浸ってんのよ!」
沈み込んだ思考を、自分の叫びで取り戻す。
だけど、「ダメなモード」のあたしは、そう簡単には引っ込みやしない。
なんでこんなに「同情」にしがみついてしまうんだろう?
普通に考えて、すがりつくならオジさまへの信頼の方だ。
でも、どうしてもそちらに向かう事が、できない。
愛されたい。 選ばれたい。 甘やかされたい。
もっと欲しい……ハッキリ欲しい。
大好きなオジさまに、愛されたい。
……でも、本当にあたしを選んでくれるかは、わかんない。
自信が持てない。
それに、愛されたいと願ってしまう自分が恥ずかしくて情けない。
あの夜、乗り越えたと思ったのに。
あたし自身も上手く行きそうって思ったのに。
あの時からずっと、オジさまと何かが繋がった感覚がしてる。
「大好きな、あたしの、運命の人……」
声が出て、ほんの少し胸に温かさが戻る。
でも、すぐに不安に塗り潰された。
不安は、どうしようもなく我慢できないもので。
だから、あたしの心は、選ばれない未来へと逃げ込んでしまう。
だって、ダメな未来は簡単に想像が付くから。
来るかもしれない幸せは想像が付かないから。
健全じゃない。 きっと間違ってる。
理屈では分かる。 全部間違ってる。
……でも、今までそうだったんだもん。
前世での寂しさがあたしを捕らえる。
殆ど覚えてなくても、誰にも興味を持たれなかった事だけは覚えてる。
最初から諦める未来は、すごくイヤ。
でも、諦めた時の痛みは想像できるの。
「やっぱり」って、言えるから。
期待して、ウキウキして、盛り上がって。
そのうえで、もし選ばれなかったら?
それが……怖い。
想像のできない痛みと絶望。
それがどれほど大きなモノになるか、まるで思い浮かべる事が出来ない。
息が出来なくなるほどの、恐怖に縛られる。
だから、最初から選ばれないって決めておく方が、痛くない。
オジさま、これがあたしよ……?
あたしが嫌いな、臆病な自分。
選ばれないから初めから期待しないなんて、ウソ。
愛されたいって願う、あたし自身が恥ずかしい。
そして、期待した結果、選ばれないのが怖いから、期待しないだけ。
オジさまは、こんな臆病で自己嫌悪だらけのあたしを知らない。
こんなあたしを見せたら、絶対絶対嫌われる……
だって……
あたし自身が大嫌いなんだから。
「嫌い。 わがままで卑怯なあたしなんて、大嫌い……」
自分を傷つける言葉は、やっぱり自分を傷つけて、寂しさと涙が零れ出た。
「……うぅっ…………」
オジさまと出会ってから泣いてばかり。
こんな自分もイヤだった。
ワインの染みが、冷たさを主張してくる。
せっかく……せっかく綺麗につくってくれたのに。
ごめん、ごめんねトリサちゃん……
涙でアイメイクが滲んでくる。
せっかく綺麗にメイクしてくれたのに。
ごめんなさい、リオーネさん……
せっかく楽しんでって言われたのに、ご飯も投げ出して……
一人で泣いて……ごめんなさい…………ヴァルさま……!
遠くから聞こえる演奏が、楽しげな曲に切り替わった。
その陽気な曲がかえって、今の惨めなあたしを、より一層寂しい感情で塗りつぶす。
…………一人
ワッと沸いた歓声が聞こえた。
麗しの王族の美男美女でも踊っているのだろうか?
対してあたしは、冷たい廊下に沈み込んでいる。
………………一人
……あたしは、ダンスなんて知らないし、踊れないけれど……
もしも、オジさまと踊れたらそれは……
楽しいのかな?
幸せなのかな?
「…………うぅ……」
幸せなソレを妄想して、惨めな気持ちでさらに沈みこむ。
「……つらい、よぅ」
ボリュームのあるドレスは、膝を抱える事も許さない。
あたしは、手で顔を覆い、掌で必死に溢れてくる涙を押さえる。
嗚咽でしゃくり上げていると、耳元で揺れる何かを感じた。
それは…………琥珀のピアス。
オジさまの……色……
「……あたしに似合うかもって、選んでくれた、ピアス」
震える手つきで、ピアスを外す。
外したそれを見て、もっと切なくなった。
当たり前だけど、オジさまの瞳と同じ色だったから……
両手で、祈るようにしてそれを握りしめる。
彼との絆を確かめるように……
あの夜の気持ちを確かめるように……
ヴァルさまの温もりを思い出すように……
そこへ再び、あたしの劣等感が忍び込んだ。
――「選ばれたのではなく、憐れまれていただけ」
氷色ボブ令嬢の言葉を思い出す。
ウソだ! オジさまは、あたしを気に入ってくれて……
――じゃあ、ナンデ、オジサマは今ココにイナイの?
ぎゅっと心臓が掴まれたような苦しくなった。
心の綻びに、悪魔が割り込む。
それは今、絶対に考えちゃいけない方向だった。
……オジさま。
……なんでいまココにいないの?
そんなこと、オジさまが知るはずもないのに。
……あたし、こんなに傷ついてるのに。
……ねえ、慰めてよ!
……いつもみたいに、ハンカチで優しく……あたしを包み込んでよ!
……なんでいないのさ! ねぇ! オジさま!
掌の中のピアス。
オジさまだと思って縋ったソレに、怒りが向いた。
(ああ、やっちゃダメだよハルネ。 絶対に、それは……)
分離した冷静な自分が、心のどこかで声を上げた。
こんなに自分が嫌いなあたしでも……
オジさまが選んでくれたハズじゃなかったの?
ピアスを見れば見るほどに。
ここにいないオジさまがムカツいた。
なにがパートナーだ!
なにが妻、よ!
いい気になるな! ハルネっ!
「何さ! こんなものっ!!」
ピアスを、勢いよく、投げ捨てた。
キィンという甲高い音が、静かな廊下に鳴り響いた。
(ああ……)
石床に落ちたピアスの音を聞いて、
もう一人の自分が、落胆の声を上げた。
そして、今、自分がした行動。
オジさまが選んでくれた大切なピアス。
傷つけた。 怒りのままに……
「ぅ、うわああぁぁぁぁ~~~んっ!!」
自分で投げて、自分で傷つけた。
すごくすごく、大切なピアス。
オジさまの気持ちと、あたしの気持ち。
それを、怒りのままに踏みにじった自分。
その事実に耐えきれなくて。
あたしは子供のように、泣き続けた。
……………
誰も来ない廊下で、ひとしきり泣き喚いた後、あたしは壁にもたれて放心していた。
あの時と同じだ。
調査局の廊下で、勝手に嫉妬して、勝手に傷ついて、勝手に逃げ出した時と。
泣いて、ほんの少しだけ取り戻せた自分を奮い立たせる。
のそのそと、投げ捨ててしまったピアスを拾いに行く。
「……諦めてたまるもんか。 だって、好きなんだもん……」
ほんのちょっとでも頑張ろうと、前向きな心がくすぶり始める。
しかし、あたしよりも先に、それを拾い上げる人がいた。
「琥珀の……雫型のピアス。 ステキね。 アナタの物ですか?」
放心していて、まったく気が付かなかった。
暗い廊下に煌々と輝く、淡い金髪。
流れるようなシルクの輝きを放つ、真っ白いドレス。
そして、意志の強さを宿したような、鮮やかなルビー色の瞳。
四つん這いのあたしに視線を合わせるように、わざわざしゃがみ込んで尋ねてくれた。
その聖女のような女性の表情は……
穏やかで、柔らかで……
――感情色も、心配と慈しみの翠色に輝いていた。