【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―
第65話 エドリック・アルテノットの前夜
――カチリ。
小さな魔石が、床に埋め込まれた金具へ収まる音。
硬質な響きが、誰もいない、夜の静寂に包まれた大広間へと広がった。
照明の落とされた魔石シャンデリア。
大窓から差し込む月光が、吹き抜けの一階の床と二階回廊を淡く照らしている。
真新しい赤い絨毯に、端に置かれたテーブルと椅子。
舞踏会の準備は大方整い、大広間はただ明日の夜を待つばかり。
だが、淡い光が照らす中、絨毯をめくり、床へ膝をつく男が一人。
ふくよかな体躯に、くすんだ栗色のクセ髪。
この館の主――エドリック・アルテノット男爵。
作業の手を止めた彼は、懐から一つの小瓶を取り出す。
小瓶を見つめるその瞳は、決意とも諦めともつかない色を宿していた。
―――――――
「ステキなお顔よ」
僕は何度、そのセリフを聞いただろうか。
似合うと思ったルビーの指輪を、目の前で捨てられた時。
来客の訪問時間を、わざと違えて伝えられた時。
趣味の骨董品を、勝手に処分された時。
彼女がその言葉を口にするのは、決まって僕が焦り、困っている時だ。
彼女に直接聞いてみた事がある。
どうしてそんな事ばかりするのかと。
自分が嫌いならそう言って欲しい、と。
彼女の答えは……
「わたくし、アナタの困った顔が、愛しいの」
全く理解が出来なかった。
……………
きっかけは、リセリーナからの熱烈なアプローチだった。
公爵令嬢だった彼女が、男爵家へ嫁ぐのは、事実上の降爵となる。
にも関わらず、彼女の強い要望で婚姻に至った。
不摂生しがちで、太っている自分は、女性から選ばれる事はないと思っていた。
しかし、聖女のような清廉さと、魔性の女王のような妖艶さを併せ持つ、美しいリセリーナ。
そんな彼女が、社交力も無く、冴えない自分を慕ってくれる。
格も、美しさも、何もかもが自分とは異なる彼女。
目が合うたびに、鼓動が早くなった。
僕は、彼女に夢中になった。
けれど、共に暮らし始めてすぐに気が付いた。
彼女は、事あるごとに、僕を傷つけるような言動を取ってくる。
明らかに、意図的に……
僕は混乱した。
彼女は僕を愛してくれているのではないか?
僕の愛情が足りないのか?
何度理由を問い、自分のふるまいを改めてみても……
彼女の言動は何一つ変わることなく、僕を傷つけ続けた。
リセリーナの、とても楽しそうな表情が、僕には全く理解できなくて……苦しかった。
――カツン。
工具が床に触れる硬い音が、大広間によく響いた。
……明日、この床の上で、たくさんの人々が踊るのか。
……その先を想像しかけて、すぐに止めた。
……他人を巻き込む事だと分かりつつ、僕は黙って手を動かす。
理解できないリセリーナの愛情から逃れようと、彼女を嫌う努力をしようとした事もあった。
しかし、彼女は僕を知り尽くしているのか、その言動の匙加減は……絶妙だった。
来客を違う時間で知らされた時。
焦って部屋に飛び込む僕に対し、リセリーナは何食わぬ顔で客をとりなし、場を納めていた。
趣味の骨董品を勝手に処分された時。
それは、僕がちょうど人に売ろうかと考えていた品だった。
何より……
リセリーナは僕の身体に触れることを躊躇わない。
時に気安く、時にじれったく、頬に、胸に、腹部に、熱っぽく触れてくる。
そして、毎晩のように触れ合いを求めてくる彼女……
これは、愛情なのか?
……分からない。
愛しているのなら、どうして僕が傷つく事を望むんだ?
だって、そんなはずが無い。 でも……
彼女の苛烈な性質を知りながら……結局、離れる事は出来なかった。
ある時、退役軍人の遺品として仕入れた古い収納箱から、一束の書類が出てきた。
そこには、軍の機密開発物である「ノクセリウム」の製造法と効能が書かれていた。
どうやら、戦意を高揚するという目的で作られた――失敗作のようだった。
『感情を増幅し、露わにする』と書かれた文言に、強い興味を持った。
社交は苦手でも、錬金術の研究だけは昔から得意だった。
僕はこの薬の製造と改良に夢中になった。
「これで……リセリーナの本心が分かる」
毒性を薄め、効果を高め、ついには増幅した感情を肉体にまで反映させる薬も作った。
僕は、出来上がった一連の薬に「ノクスミア」と名付けた。
だが、改造にのめり込んでいるウチに、当の本人――リセリーナに見つかった。
彼女はあろうことか、出来上がったノクスミアを、何の関係もない市井の商人に売りつけた。
意味が分からず、聞いてみるとやはり……
「その方がアナタが困ると思って」
僕をじっと見ているようで見ていないような……
いつもと変わらない美しい表情で……
ステキな顔ね、とリセリーナは言った。
僕は結局、通報もせず、薬も資料も処分しなかった。
――床への作業が終わり、仕掛けの位置を確認しながら、次は柱へと近づく。
そして、結局こうやって、彼女の望む仕掛けを、言われるがまま作り続けている。
多くの人を巻き込むこれが、一体何を生むのか。
彼女の思惑は相変わらずワケが分からない。
暗い大広間に、たった一人。
孤独な作業に没頭している自分は、一体何をしているのだろうか?
僕はただ……確信が欲しかった。
僕が望むような愛情を、彼女が持ってくれているのかを。
疲れのせいか、溜息が漏れた。
柱に背を預け、寄りかかる。
大窓から降り注ぐ月光が、なんだかとても儚いものに見えた。
「愛とは、相手が望む事を、叶えるものではなかったのか?」
……僕が今、しているように。
再び、懐から小瓶を取り出す。
淡い月光を反射した。
……彼女の目を盗み、さらなる改良を加えた、このノクスミア”γ”。
こいつで感情を引きずり出し、リセリーナの本心を、彼女の愛を……知りたかった。
……だけど、もしも、
増幅された彼女の愛が、何一つとして変わらなかったら、どうなるのだろう。
自分は絶望に陥るのだろうか?
それとも……安心してしまうのだろうか?
「……僕は彼女を愛している。 彼女は僕を愛している」
言い聞かせるように、漏れ出た独り言を噛み締める。
「……ならば、なぜ、こんなにも満たされないのだろうか?」
無意識に、胸元の服をきつく握りしめた。
……………
誰もが明日を止めようとしていた夜に、明日を待ち望む男がただ一人。
あらゆる思惑の色で彩られ始めた、アルテノット男爵邸舞踏会。
止まる事の無い奔流の支流は、ここにもあった。