【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―
第69話 始まってしまった阿鼻叫喚
正直に言うと、賭けだったのさ。
ノクセラ草の苦みを一番中和出来たのは、カモミールだった。
美味しい配合比率を見つけて、名前も大げさにしちゃえってことで出来たのが……
「トロールもすやすや眠る黄金ティー」――通称、トロ眠ティー。
特殊な調合で出来るとはいえ、ノクスミアだって主原料はノクセラ草に違いない。
だったらカモミールで中和出来るんじゃ?
そう考えて昨晩、シャリエナとありったけの材料を使って作り上げたのが、この……
新香房武器――カモミールカーム。
薄紫色の霧に包まれて、不安と恐怖が膨れ上がった瞬間、あたしは自分へ小瓶を振りかけた。
濃厚なカモミールの香りとともに、不自然な感情の波が弱まっていくのを感じた。
やっぱり効いた!
完全じゃないけど、十分に効果がある。
あたしはすぐに、近くにいるはずのヴァルさまを探した。
正直あたしにはこの状況、どうしたらいいのかまるで分からない。
でも、ヴァルさまならなんとかしてくれる!
案の定、胸を掻き毟り、耐えるように背中を丸めているヴァルさまに、カモミールカームを振りかける。
効いて! お願い!
「……ハルネ」
「良かった! ヴァルさま動ける!?」
ヴァルさまを背に、守るように警戒していたあたしのすぐ後ろ。
立ち上がってくれたのが背中越しに分かった。
「……すまない。 本当に助かった」
「うん、良かった!」
「……これは、カモミールか? ノクスミアを中和出来るのか!?」
「みたいだね! ノクセラ草を研究してたかいがあったよ!」
「……キミという人は本当に……」
「そういうのは後! で、どうするのさ!? って……わっ!」
「ハルネさぁぁんっ!!」
薄紫色の霧から飛び出してきたのは、ルシアンさまだった。
エモパレで感情色の輪郭は見えていたから、なんとか躱す事が出来た。
そして、すれ違いざまにカモミールカームをぶつける。
「えいっ!」
「くっ、うわ! なんだこれは!」
薬液はちょうど顔に掛かった。
ルシアンさまは顔を伏せ、その場にうずくまった。
「落ち着いてルシアンさま!」
「……ハルネっ! カモミールはまだあるか!?」
「うん! 十分じゃないけどまだあるよ!」
「ギルトハルトだっ! 近くにいるはずだ! ヤツを抑えねばマズイ!」
「そこにいたかゼオファルドォォッ!!」
「くっ……!!」
薄紫色の霧から飛び出してきたギルトハルトさんの拳を、ヴァルさまが両腕で受け止める。
鈍い音が響き渡り、受け止めたヴァルさまの足元で、ミシリと床が鳴った。
な、なんて力なのさ……! でもその隙に……えいやっ!
――バシャっ!
「ぬわっ! なにがっ……!」
横からだったせいか、半分ほどしか掛からなかった。
でも、カームを浴びたギルトハルトさんの勢いは止まった。
「……ぬぅ……我は……」
「良かった、効いた!」
「下がれハルネ!」
「えっ?」
「ゼオ……ファルドォッ!!」
一瞬だけ正気に戻ったかと思った次の瞬間、再び巨大な拳が唸りを上げる。
ヴァルさまはそれを紙一重で躱し、ギルトハルトさんの腕を絡め取る。
「まだだ! ハルネ! 追撃をっ!」
「あいさっ!」
二本目のカモミールカーム。
拘束されたギルトハルトさんの顔へ、しっかりと浴びせた。
「ぐっ……ぬぅ……」
「……目が覚めたか。 ギルトハルト」
「うぅ……?」
今度こそ、その巨体から力が抜けた。
ギルトハルトさんも、ルシアンさまも、なんとか正気を取り戻せたみたいだ。
やっぱりカモミールカームはノクスミアに有効だ。 でも……
いつの間にか演奏が止まっていた。
薄紫色の霧の向こうでは、悲鳴と怒号が飛び交っている。
誰かが誰かを突き飛ばす音。
食器が割れる音。
会場は、確実に感情の濁流に飲まれ始めていた。
「ハルネさん! ゼオファルド卿! これは一体、何が起こっているんですか!?」
「……リセリーナだ。 全てヤツの仕組んだ事だ」
「ぬぅ、アルテノット夫人が……?」
「そう! 簡単に言うよ! これは感情を増幅させるノクスミア! リセリーナさんの目的は分からないけど、会場の大混乱を狙ってるのは確かだよ!」
そう。
こんなに派手にやらかして。
何がしたいのか、全然まったく分からない。
「……私とハルネはリセリーナを止めに行く! ルシアン殿とギルトハルトは招待客の避難と誘導を頼む!」
「ああ、了解したよ!」
「…………」
「……どうしたギルトハルト?」
快諾したルシアンさまと対照的に、何かを考えこむギルトハルトさん。
「ゼオファルド。 アルテノット夫人の方は、我に任せよ」
「……何を言い出す?」
「お前はこの事態に備えていたのだろう? 調査局との連携や部下の采配もあるはずだ。 ここは我に任せて事態の収束を図れ」
「……何? 貴様、どういうつもりだ。 ……合理的ではある。 だが、信用できん」
ヴァルさまの声には疑いが残っていた。
でも、今は問い詰めてる時間がもったいない。
「ヴァルさま! 迷ってる時間ないよ! もうギルトハルトさんに任せちゃおう!」
今は一刻を争う事態だ。
行動だ! 一秒でも早く……とにかく動かなくちゃ!
「……ハルネ…………っ分かった。 貴様に任せるぞギルトハルト」
「ああ、大船に乗ったつもりで我に任せるがよい」
「……予定変更だ。 私とハルネは応援の要請のため出口へ向かう。 ルシアン殿は客の誘導を頼む!」
「ああ、わかった!」
「ルシアンさま! これを!」
あたしは数本の小瓶をルシアンさまに投げ渡す。
「おっと……! これは?」
「ノクスミアを中和する薬です! 持っていって!」
「こんなもの、どこから取り出したんだい?」
「それは……乙女の秘密ですよ!」
このふわふわドレスのポケットから、なんてのは言えない。
「いくぞハルネ!」
「うん! ヴァルさま!」
―――――――
階下に広がる阿鼻叫喚。
時折、紫がかった霧の中から、悲鳴や怒号、争う音が聞こえてくる。
……大変な事をしてしまった。
ノクスミアを散布する魔導方陣を起動したのは、間違いなく僕自身だ。
こうなると分かっていて、リセリーナに逆らえず、言われるがままに罠を仕込み、起動した。
一体どうするつもりなんだ、リセリーナは。
起動の魔石を持つ手が震え、取り落とした魔石が床でカツンと音を鳴らした。
慌てて拾い上げ、そのまま妻を……リセリーナを見上げる。
先ほどまで階下の混乱を楽しそうに眺めていた彼女が、今度は僕を見ていた。
頬を紅潮させた、満面の笑み。
リセリーナは何も言わない。
でも、「お楽しみはまだまだこれからですわ」と言っているような気がした。
その笑みは、初めて彼女と出会った日のものと、何一つ変わっていなかった。
―――――――
「キャアアァァ~~っ!!」
「イヤァァア~~っ!」
恐怖と不安が増幅され、完全に恐慌状態になっている令嬢たちに、カモミールカームを振りかける。
「えいっ!」
「つめたっ!」
「うっ……なんですの!?」
これで一旦は安心のはずだ。
パニックで動き回っちゃうと危ない。
「出口はあっちだね!」
「ハルネ、なぜ方向が分かる!? この、まるで視界の利かない霧の中で……」
「感情色なら人の輪郭は見えるの! ヴァルさまだって出来るハズ!」
「……そうかっ! 盲点だった……!」
いつぞやのマチョキモ相手にもフォーメーションDで有効だった。
エモパレは無視界でも感情の居場所だけは分かる。
裏技的な使い方……いわばエモパレハックってヤツだ。
あたしの言葉を受けたヴァルさまは、即座に左眼の眼帯を投げ捨てた。
――視界の端で、何かの色が滲んだ気がした。
でも、あたしの目はそこを素通りして、霧の先の出口を探していた。
今はとにかく……動くんだ!
「うぐぁっ! 何をする!」
「うるさい! 前からお前が気に食わなかったんだよ!」
今度は殴り合いのケンカをしている二人の男性。
軍服を着ているから、軍の人達だ。
「……ふっ!」
ヴァルさまが二人のお腹に肘を入れて即座に制圧する。
「ぐぅ!」
「……がっ……!」
さすがヴァルさま! 手際が良い!
二人の男性には気の毒だけど……
「こんな、ケンカなんかしている場合じゃないのに……」
「……ノクスミアに感情を飲まれかけた時、加害の感情も高まった。 アルテノット男爵は、元来の研究内容も完成させたのやもしれん」
そうか、以前ヴァルさまから聞いた。
ノクセリウムっていうのは元々、兵士の戦意高揚のための薬として研究されたものだって。
「……軍関係者を多く呼んだのはこのためか。 だが、今は構う事は無い。 急ぐぞ!」
「うん!」
感情色の人波から出口の方向を割り出し、ヴァルさまと共に駆け抜ける。
なんだか肌がチクチクする。
会場中の感情温度が、歪な冷たさで肌に突き刺さるようだった。
道中、泣き叫ぶ令嬢へ、母親らしき女性が怒鳴りつけているのが見えた。
「あなたのせいよ! いつも私に恥をかかせて!」
「お母さま、どうして……!」
怯え、怒り、妬み、悲しみ。
普段なら胸の奥に隠しているはずの感情が、全部剥き出しになっていた。
う~~、嫌だ……すごく、嫌だ!
手持ちの薬は限られている。
あたしは、彼女たちを無視して出口へと急ぐ。
少しの間、耳を塞いだ。
「……そこだ! あそこが出口だ!」
「あっ! あれって……っ!」
閉ざされた出口の大扉の前。
恐慌状態に陥った人々が押し合い、怒鳴り合い、悲鳴が薄紫色の霧へと溶けていく。
その混乱の中心で……
「離しなさいレル坊っ!! 二人の安否が先だって言ってるでしょっ!」
「うるせぇっ!! 命令されてるのは出口の確保だろうが!」
リオーネさんとレルガさんは――
まるで敵同士みたいに、お互いの胸ぐらを掴み合っていた。