この恋は、業務提携外につき。 ―最悪の相手と、最高の商品を。―

プロローグ 御曹司と社長令嬢

――韓国・ソウル。



朝七時四十分。


ハンウ食品本社の最上階に近いフロアには、すでに何人もの社員が出社していた。


その中でも、事業本部だけは空気が違う。

誰かが大声を出しているわけではない。

慌ただしく走り回っているわけでもない。

それでも。

フロア全体に、ぴんと糸を張ったような緊張感が漂っていた。

原因は、分かりきっている。

「おい、ハン本部長が来たぞ。」

小さな声が飛ぶ。

その瞬間。

コピー機の前で世間話していた社員が姿勢を正し、パソコンへ視線を戻した。

エレベーターの扉が開く。

最初に出てきたのは、濃いグレーのスーツに身を包んだ男だった。

ハン・スヒョン。

三十一歳。

韓国でも有数の食品メーカー、ハンウ食品の事業本部長。

そして。

ハンウ食品会長、ハン・ヨンチョルの息子。

百八十センチを優に超える長身。

無駄のない細身の身体に、仕立ての良いスーツがよく似合っている。

黒い髪は綺麗に整えられ、すっと通った鼻筋に、切れ長の目。

輪郭まで整ったその顔立ちは、会社員というより、どこかの芸能事務所に所属していても不思議ではないほどだった。

けれど。

彼の前で、その容姿について口にする社員はいない。

顔を見れば、そんな話をする空気ではないことくらい、誰にでも分かるからだ。

「おはようございます」

社員たちが一斉に頭を下げる。

「おはようございます」

スヒョンも返す。

決して無視はしないし、横柄でもない。

だが、それだけだった。

必要以上に笑わず、立ち止まって世間話をすることもない。

そのまま一定の速度でフロアを進みながら、隣を歩く女性へ視線を向ける。

「昨日の販売実績は」

「午前六時の時点で更新済みです。国内は前週比百三・八パーセント。オンライン販売が伸びています」

「原因は」

「週末に配信された動画広告の影響が大きいかと」

「その原因は確定情報ですか?」

「いえ、現在広報チームと販売戦略部が調査中で…」

「では確定してから改めて報告してください」

「承知しました」

返事をした女性――イ・セヨンは、すぐにタブレットへ何かを書き込んだ。

二十代後半。

艶のある黒髪を後ろで一つにまとめ、無駄のないメイクとシンプルなスーツに身を包んでいる。

スヒョンの補佐を任されているだけあって、彼女自身も社内では相当優秀な人材だった。

そのセヨンですら、スヒョンの前では一つの曖昧な言葉も許されない。

「午後の新規事業会議ですが、営業側から資料の差し替え依頼が」

「理由は」

「市場予測の数値に修正が」

「却下してください」

セヨンが歩きながら顔を上げる。

「確認されなくてよろしいですか?」

「必要ありません」

「ですが――」

「会議当日に変わる市場予測を根拠に、新規事業を決めるつもりですか?」

「……いえ」

「昨日までに確定させるよう伝えたはずです。昨日目を通した時点で修正があることは把握していました。会議の場で修正数値を含めて改めて責任者にこちらから追及します。」

「…承知しました」

迷いがなく、失敗が許されない。

判断するまでが、異様に速い。

けれど。

決して思いつきで答えているわけではない。

スヒョンは昨日の資料を覚えている。

数字も、想定されるリスクも。

会議に参加する人間が前回どんな意見を出したかさえ。

一度頭に入れた情報を、必要な時に瞬時に引き出す。

それが、ハン・スヒョンという男だった。

「本部長」

執務室へ入る直前。

若い男性社員が声を掛けた。

表情が、硬い。

手には一枚の資料。

「どうしました」

「申し訳ありません。昨日提出した原価試算なんですが……私の計算に、一部間違いがありまして」

周囲の空気が、わずかに止まる。

社員は明らかに緊張していた。

スヒョンは資料を受け取る。

数秒。

視線を走らせる。

「三ページ目ですね」

「……はい」

「包装資材の単価が旧年度のままになっている」

「はい。…本当に申し訳ありません」

「修正したものは」

「こちらです」

もう一冊の資料が差し出される。

スヒョンはそれにも目を通した。

「影響額は」

「年間で約二千八百万ウォンです」

「利益率は」

「〇・四ポイント下がります」

「販売価格を変更する必要は」

「ありません。資材の発注量を見直せば吸収できます」

「誰と確認しました」

「購買部のチェ代理と、財務のパク課長です」

「そうですか」

スヒョンは資料を閉じた。

「なら、このまま進めてください」

男性社員が、少し驚いたように顔を上げる。

「……よろしいんですか?」

「何がですか」

「その……」

「間違えたことですか?」

「はい」

「もう修正されているのでしょう」

「……はい」

「なら問題ありません」

淡々とした声。

「次から同じ間違いをしなければ」

「はい!」

「報告が遅れる方が問題です。分かった時点で持ってきてください」

「はい。ありがとうございます」

社員は深々と頭を下げた。

スヒョンはそれ以上何も言わず、執務室へ入っていった。

扉が閉まる。

その直後。

男性社員が、小さく息を吐いた。

「……死ぬかと思った」

近くにいた社員が苦笑する。

「怒鳴らないから余計怖いんだよな。」

「でも、ちゃんと直して対策してあれば必要以上に責めない」

「まぁ、めちゃくちゃ厳しいけどな」

「死ぬほどな」

そんな声が、控えめに交わされる。

怖い。冷たい。近寄りがたい。

社内でスヒョンを評する言葉は、決して柔らかいものばかりではない。

しかし。

ー会長の息子だから今の地位にいるー

そう囁く人間は、もうほとんどいなかった。

それは、スヒョンが結果を出しすぎたからだ。

赤字だった海外事業を立て直し。

採算の取れない商品群を整理し、新たな流通網を開拓して、売上を伸ばした。

三十一歳という若さで事業本部長を任されている〝社長の息子〟という理由を、スヒョン自身が、数字で黙らせてきた。

執務室。

デスクへ着いたスヒョンは、ジャケットのボタンを外した。

セヨンが今日のスケジュールを確認していく。

「十時から経営戦略会議。十三時から新規事業会議。十五時半から白樹食品との提携プロジェクトについて社内で事前確認があります」

スヒョンの手が、そこで止まった。

「白樹食品」

「はい」

セヨンが資料を開く。

「日本の老舗食品メーカーです。乾麺、即席麺の国内シェアが高く、特に中高年層からのブランド信頼度が強い企業です」

「こちらでも確認済みです。先方の担当は」

「白樹食品側の責任者は、商品開発部長の白樹アカリです」

「…社長の娘ですね」

「はい」

スヒョンの視線が、資料へ落ちる。

白樹アカリ。

二十八歳。

商品開発部長。

次期社長候補。

そして。

現社長、白樹隆一郎の一人娘。

「若くして日本における新商品開発と若年層へのマーケティングに成功し、現在では20代向けの人気商品を生み出しています。」

「……。」

黙ってアカリの資料を見つめるスヒョン。

写真からでもわかる華奢な身体、人形のような顔立ち。批判や汚れを知らないような、まっすぐな瞳。

そして。

自分と同じ、『社長の子供』という境遇。

その肩書きに、自然とスヒョンのアカリを見る目が厳しくなる。

自分自身が、「親の七光り」「社長の子供だから」そんな言葉を浴びてきた。

スヒョンはそんな声を実力でねじ伏せてきた。

…白樹アカリ。彼女も同じような評価をされることがあったのだろうか。

それとも。親の名声の上に胡座を描いているお嬢様なのか。

再度写真に目を落とす。


「白樹アカリ…か。」












――日本・東京。


同じ頃。

品川にある白樹食品本社では。

「待って待って待って! これ昨日と数字違わない?」

朝から。

商品開発部の一角に、よく通る女性の声が響いていた。

「え?」

パソコンを囲んでいた社員たちが、一斉に振り返る。

その中心にいたのが。白樹アカリだった。

白いブラウスに、淡いベージュのタイトスカート。

胸下まで伸びた柔らかな茶色の髪。

透けるように白い肌に、大きな瞳。

鼻も唇も小さく、線の細い身体つきも相まって、一見すれば人形のように可憐な印象を与える。

背も決して高くない。

華奢で、少し強く腕を引けば、そのまま倒れてしまいそうなくらい細い。

――見た目だけなら。

「昨日の試作、塩分量今日のと違ったよね?」

「はい。でも官能評価ではこっちの方が高かったので……」

「うん。それは見た」

「なので、この配合で進めようかと」

「でも高齢層のリピート率予測落ちてる」

社員が画面を見る。

「あ……」

「ここ」

アカリはモニターへ身を乗り出した。

「一回食べて美味しい、ならこっち。でも週に何回か食べる商品にしたいなら、私は昨日の方がいいと思う」

「なるほど……」

「もう一回試食しよう」

「今日ですか?」

「今日」

「工場に連絡します?」

「私がするよ!」

「部長が?」

「その方が早いでしょ」

そう言って。

アカリは机の上のスマートフォンを掴んだ。

「おはようございます! 商品開発部の白樹です。すみません、昨日お願いした試作品なんですけど――」

電話をしながら。

別の手では資料をめくる。

さらに途中で、通りかかった社員へ声を掛けた。

「あ、佐伯さん!」

「はい?」

「先週のアンケート、二十代女性だけ抜き出したデータもらえる?」

「いつまでですか?」

「できればお昼まで…だめ?」

アカリが小首を傾げる。

「……急ですね」

「ごめん!お昼ご飯奢る!」

「それならやります」

「やった、ありがとう!」

にこっと笑う。

「結果わかったら、チャットで一旦おしえて!」

「チャットでいいんですか?」

「私がお願いしてるんだから。報告書にまとめるのは後追いでいいよ。
報告書まとめたら、またその時ランチいこ!」

アカリが笑う。

すると、相手もつられて笑った。

「部長、また食べ物で釣ってる〜」

「俺にも奢ってくださいよ〜」

周囲から笑いが起こる。

アカリも笑った。

商品開発部長。

その肩書きに似合わず、彼女の周囲には、いつも人がいた。

相談に来る社員。

試食を持ってくる社員。

ちょっとした雑談を振る社員。

壁がない。でも、馴れ合っているわけでもない。

「白樹部長」

「ん?」

「昨日の企画書、確認お願いします」

「見たよ」

「えっ」

「三ページ目、ターゲット広すぎ。二十代から五十代までって、それもうターゲットじゃないから」

「……すみません」

「でも五ページ目のデータは良かった」

社員が顔を上げる。

「本当ですか?」

「うん。あれを軸に絞り直したら、たぶん企画として一気に強くなるよ」

「分かりました!」

「今日中じゃなくていいから。ちゃんと考えて持ってきて」

「はい!」

アカリは笑って資料を返した。

優しく、話しやすく、愛嬌がある。

それが、社員たちから見た白樹アカリだった。

けれど。

仕事に関してだけは、妥協しない。

味、価格、原価、ターゲット。

そして、製造工程、流通、パッケージ。

一つの商品が店頭へ並ぶまでに必要なものを、すべて見る。

試作品を食べて、

「美味しい」

だけでは終わらせない。

なぜ美味しいのか。

誰にとって美味しいのか。

その人が、もう一度お金を払って買うのか。

そこまで考える。

そして、気になれば、自分で動く。

工場にも行くし、売り場にも行く。

スーパーで客の動きを何時間も見ることだってある。

社長令嬢という言葉から想像される姿とは、おそらくずいぶん違う。



「アカリ」

後ろから声がした。

振り返る。

「蓮」

「朝から元気だな」

神崎蓮が、呆れたように笑う。

手にはコーヒーが二つ。

そのうち一つを、当然のようにアカリへ差し出した。

「はい」

「ありがとう」

「また朝飯食べてないだろ」

「食べたよ」

「何」

「ヨーグルト」

「それは朝飯じゃない」

「朝に食べたんだから朝ご飯でしょ」

「そういう問題じゃない」

高校時代から変わらないやり取り。

アカリはコーヒーを受け取りながら、蓮の手元にある資料を見る。

「それ、ハンウ?」

「そう」

蓮が資料を軽く持ち上げた。

「先方の参加メンバー、正式に来た」

「見せて」

すぐに手を伸ばす。

「人の話を最後まで聞け」

「あとで聞く」

「そういうとこ、本当に社長に似てきたな」

「それ褒めてる?」

「半分」

「失礼な」

言いながら。

アカリは資料を開く。

今回、白樹食品が社運をかけて進める、大型業務提携。

相手は、韓国の大手食品メーカー、ハンウ食品。

両社ともに強みとしているのは、乾麺やインスタント麺。

けれど、日本と韓国。

市場も、味覚も、売り方も、消費者が商品に求めるものも違う。

だからこそ、面白い商品が作れる。

アカリは、そう思っていた。

「責任者は……」

資料をめくる。

そして。

一人の名前で指が止まる。

ハン・スヒョン。

三十一歳。

事業本部長。

ハンウ食品会長の息子。

「……会長の息子なんだ」

「らしいな」

「へぇ」

「反応薄」

「だって私も社長の娘だし」

「確かに」

「それより経歴すごいね、この人」

「そこ見る?」

「そこ見るでしょ」

アカリはさらに資料へ目を通した。

海外事業再編。

不採算部門の整理。

新規流通チャネルの開拓。

…どれも簡単に出せる実績ではない。

「なんかグイグイだね。仕事できそう」

「めちゃくちゃできるらしいよ」

「へぇ。」

そう言って、アカリは笑った。

「どんな人なんだろ…。」





――この時。

白樹アカリは、まだ知らない。

自分がこれから出会う男が。

想像していたより遥かに面倒で。

腹が立って。

いちいち癇に障って。

この先。

何度も何度も。

自分の感情を掻き乱す存在になることを。

そして。

韓国にいるハン・スヒョンも、まだ知らない。

資料の上に並ぶ、

〝白樹食品社長令嬢〟

という文字だけで判断した女が。

決して。

自分が想像したような人間ではないことを。

日本と韓国。

それぞれ違う国で。

違うやり方で。

違う会社を背負って生きてきた二人。

そんな二人を一つの新商品開発プロジェクトが、まもなく同じ会議室へと引き合わせようとしていた。
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