この恋は、業務提携外につき。 ―最悪の相手と、最高の商品を。―
第一話 最悪の開発会議
ーアカリside.ー
東京、品川。
高層ビルが立ち並ぶオフィス街の一角に、白樹食品の本社ビルはある。
創業から七十年以上。
乾麺や即席麺を中心に、長年、日本の食卓に商品を届けてきた老舗食品メーカーだ。
スーパーへ行けば、きっと一度は白樹食品の商品を目にしたことがある。
特に乾麺製品は、会社が長年もっとも力を入れてきた分野だった。
そして今回。
そんな白樹食品が、初めて大規模な海外企業との業務提携に踏み切った。
相手は――韓国の大手食品メーカー、ハンウ食品。
韓国国内では知らない人はいないと言われるほどの食品企業で、こちらもまた、乾麺やインスタント麺を主力としている。
日本の白樹食品。
韓国のハンウ食品。
似た分野を得意としながら、これまでまったく違う市場で成長してきた二社が手を組む。
目的は、お互いの国での認知度向上。
そして、新たな販路の開拓。
その大々的な業務提携キャンペーンの目玉として立ち上がったのが――。
両社共同の、新商品開発プロジェクトだった。
「白樹部長。こちら、最終版です」
「あ、ありがとう。早かったね」
差し出された資料を受け取りながら、私はぱらぱらとページをめくった。
「昨日お願いしたばっかりだったよね?」
「はい。でも部長、今日使うって言ってましたから」
「助かる。あとでちゃんとお礼させて」
「じゃあランチ奢りでお願いします」
「ふふ。考えとく」
そんなやり取りをしながら資料を抱え、廊下を歩く。
すれ違う社員から、
「おはようございます、白樹部長」
「今日ですよね。頑張ってください」
「ありがとうございます」
と声を掛けられるたび、私は足を止めて返した。
白樹アカリ、二十八歳。
白樹食品、商品開発部長。
そして。
現社長、白樹隆一郎の娘。
――いわゆる、社長令嬢だ。
この肩書きは、入社した時からずっと私について回っている。
そして、今後も。
当然だと思う。
新入社員として会社へ入った時から、
〝社長の娘〟
というだけで、良くも悪くも目立った。
だからこそ。
誰よりも商品を知ろうとした。
工場にも何度も足を運んだ。
営業にも同行した。
試作品を何十、何百と食べた。
消費者調査にも立ち会ったし、売れなかった商品の原因分析だってした。
商品開発部長という肩書きを20代でもらった時にも、陰で何を言われるかは分かっていた。
だから、言わせないくらい仕事をするしかなかった。
「アカリ」
後ろから聞き慣れた声がして、振り向く。
「蓮」
「資料」
「あ」
神崎蓮が、私の腕から滑り落ちそうになっていたファイルをひょいと抜き取った。
「持ちすぎ」
「これくらい持てるって」
「知ってる。でも落としたら拾うの俺だから」
「拾わなきゃいいじゃん」
「それができたら高校の時から苦労してない」
「何それ」
思わず笑うと、蓮は呆れたように肩を竦めた。
神崎蓮。
二十九歳。
高校時代からの同級生で、大学も同じ。
途中、一年間の海外留学を挟んでいるため年齢は私より一つ上。
おかげで私が高校二年生の時に、留学留年した蓮も二年生。
そこから仲良くなって、大学も一緒、就職もうちの会社に入るなんて。
もう家族のような感覚。
そして仕事に関して言えば、文句のつけようがない。
とにかく速い。
頭の中にあるものを資料として形にするのも速ければ、人前でそれを説明するのも上手い。
相手の反応を見ながら言葉を変え、最終的にはこちらが欲しいところへ話を持っていく。
交渉の場では、正直、私よりずっと良い意味で厄介な相手だと思う。
今回のプロジェクトも、
『若い世代の感覚を活かせる二人に任せたい』
という父――社長の意向で、私と蓮が中心メンバーとして選ばれた。
「緊張してる?」
蓮が私の顔を覗き込む。
「……ちょっとだけ」
「珍しい」
「するでしょ。今回は規模が違うもん」
そう答えながら、会議室の前で一度息を吐いた。
今日が、第一回目の合同会議。
ここで両社の方向性を合わせ、次回までにそれぞれ具体的な商品案を持ち寄ることになっている。
会議室の扉を開ける。
いつもなら広く感じる大会議室が、今日は妙に狭く見えた。
商品開発。
営業。
マーケティング。
広報。
白樹食品側の各部署から選ばれたメンバーがすでに席についていて、その向かい側にはハンウ食品側の席が用意されている。
これからここに、韓国側のメンバーも加わる。
……多いな。
資料では人数を把握していたはずなのに。
実際にこうして人が集まると、思った以上の圧迫感がある。
胸の奥が、少しだけ落ち着かない。
「大丈夫」
隣から、蓮が小さく言った。
「俺もついてるから、失敗する時は一緒だ」
冗談ぽく笑う蓮。
「縁起悪いこと言わないでよ!」
「じゃあその顔やめろ」
「どんな顔?」
「七五三の撮影で緊張してる子供みたいな顔」
「してないし」
「してる」
「してません」
小声で言い返した、その時だった。
会議室の扉が開く。
一瞬。
室内のざわめきが止まった。
数人の男女が、次々と中へ入ってくる。
ハンウ食品のメンバーだ。
そして、その先頭を歩いていた男性を見た瞬間。
なぜか。
白樹側の空気が、ほんの少しだけ変わった。
百八十センチは確実に超えている。
すらりとした長身に、身体へ綺麗に馴染んだダークカラーのスーツ。
姿勢が良く、歩き方にまったく迷いがない。
そして何より、顔が異様なくらい整っていた。
切れ長の目に、すっと通った鼻筋。
輪郭はシャープなのに、作り物めいた派手さはない。
テレビの中にいても違和感がない…というより。
下手な芸能人より、よほど目を引く。
「……すご」
どこかから、ほんの小さな声が聞こえた。
その気持ちは、分からなくもない。
ただ、本人は周囲の視線など気にも留めていないらしい。
表情一つ変えることなくこちらへ歩いてくると、用意されていた席の前で立ち止まった。
ハン・スヒョン。
ハンウ食品、事業本部長。
三十一歳。
そして、ハンウ食品会長の息子。
次期トップ候補として名前の挙がる人物だ。
若くして現在の地位に就いたのは、会長の息子だから――ではない。
少なくとも、事前資料を見る限りでは。
不採算事業の整理。
海外事業の再編。
新規流通網の開拓。
いくつもの大型案件を成功させ、数字で結果を残してきた。
判断が速く、無駄がない。
交渉相手に一切の隙を見せず、社内外からの評価は高い。
なるほど。
この一瞬での出来事でも、なんとなく分かる気がした。
「ハンウ食品、事業本部長のハン・スヒョンです。本日はよろしくお願いいたします」
低く、落ち着いた声。
流暢な日本語で話した。
…日本語も話せるんだ。
そう思い、蓮が私用にまとめた手元の人物総評をペラペラとめくる。
韓国語、日本語、英語が話せるらしい。
なんだか、もうすでに見せつけられた気分になる。
続いて、隣にいた女性が一礼する。
「イ・セヨンです。ハン本部長の補佐をしております。よろしくお願いいたします」
綺麗な人だった。
彼女は日本語は話せないようで、通訳の方が日本語で改めて話す。
すっきりとまとめられた髪に、隙のないスーツ姿。
必要な資料をすでに手元に揃えているところを見るだけでも、仕事のできる人だと分かる。
簡単な挨拶を済ませ、それぞれが席につく。
向かい合う形になった長いテーブル。
偶然なのか。
私のほぼ正面に、ハン・スヒョンが座った。
ちらりと視線を上げる。
「……」
目が合った。
私はなんとなくニコッと微笑む。
けれど。
向こうは特に表情を変えることもなく、すぐ手元の資料へ視線を落とした。
……何よ。
別に何かしてほしかったわけじゃないけど。
初対面の相手に向けるには、ずいぶん温度のない目だった。
微笑み返すくらいしてもいいじゃないの。
「それでは、お時間になりましたので始めさせていただきます」
蓮の声で、室内の空気が切り替わる。
会議が始まった。
最初に確認されたのは、今回の業務提携そのものの目的だった。
日本市場で長年の販売網を持つ白樹食品。
韓国市場を中心に、アジア圏でも急速に販路を広げているハンウ食品。
両社が互いの販売網と商品開発力を活用し、日本と韓国、それぞれでブランド認知を高める。
その象徴として。
共同ブランドによる、新商品の開発を行う。
「両社とも、特に乾麺およびインスタント麺の開発を得意としています」
スクリーンの横に立った蓮が、資料を切り替える。
「そこで今回、まずは両社が長年蓄積してきたノウハウを生かせるカテゴリーを中心に、商品コンセプトを検討したいと考えています」
画面に映し出されたのは、
《共同開発商品 基本方針案》
の文字。
最初は白樹側から用意した案だ。
蓮がチラッと目で私に合図する。
私は資料を開きながら口を開いた。
「白樹食品としては、まず最初の商品だからこそ、消費者に安心して手に取っていただけるものが良いと考えています」
視線が集まる。
「両社が培ってきた乾麺、インスタント麺の技術を掛け合わせる。そのうえで、奇をてらいすぎず、何度でも食べたくなるものにする。今回の共同開発では、そういった商品を目指したいです」
シンプルだけれど、信頼できる味。
一度食べて終わりではなく。
食卓に根付く商品。
それが白樹食品側でまとめてきた方向性だった。
何人かが頷く。
しかし。
「…それは、新商品もインスタント麺で開発を進めたいと言うことでしょうか。」
静かな声がした。
私は顔を上げた。
ハン・スヒョンだった。
「……白樹側としては、そのような案で進めたいと思っております」
「そうですか」
短く、私の確認をとった。
迷いがない。
彼は資料を閉じると、こちらを見た。
「その方向性では、今回の業務提携を行う意味が薄いと考えます」
「どういう意味でしょうか」
「今のお話では、白樹食品がこれまで作ってきた商品に、ハンウ食品の技術を加えるだけです」
淡々とした声。
「それなら業務提携という大掛かりな形を取る必要はない。それぞれが自社商品を開発した方が効率的でしょう」
室内が、静かになる。
私は一度、息を吸った。
「もちろん、従来商品の延長線上にあるものをそのまま作るつもりはありません」
緊張で震えそうになる声を抑える。
ハン・スヒョンを見ると、私が言い終わった後に私の目をチラリと見た。
「ですが、カテゴリーそのものを限定している」
「それは…両社が最も得意とする分野ですから」
「だからこそです」
即座に返ってくる。
本当に。
頭の回転が速い。
「すでにノウハウがある分野だからこそ、それを土台に新しいカテゴリーへ挑戦できる。乾麺やインスタント麺である必要すらないと私は考えています」
「……」
思わず眉が動いた。
「初回から、ですか?」
「初回だからです」
「リスクが高すぎます」
今度は私が即答した。
「両社とも、消費者から持たれているブランドイメージがあります。それを大きく外れた商品を出せば、何の商品なのか伝わらなくなる可能性がある」
「新規顧客を取り込むためのプロジェクトでしょう」
「既存顧客を置き去りにする理由にはなりません」
「置き去りにするとは言っていません」
「でも、まったく別の分野へ行けばそうなる危険性があります」
「危険性があるから挑戦しない、と?」
言葉が。
綺麗にぶつかる。
会議室の空気が、明らかに変わっていた。
さっきまでメモを取っていた人たちまで、こちらを見ている。
ハン・スヒョンの隣の、イ・セヨンさんも、ハン・スヒョンをチラリと見て気まずそうな顔をする。
進行を務める蓮が「今日はお互いの意見をー」と何か言おうとした、その前に。
スヒョンが口を開いた。
「なるほど」
わずかに、顎を引く。
その表情は変わらない。
けれど。
次に出てきた言葉で、私は一瞬、耳を疑った。
「ずいぶん保守的なお考えなんですね」
……は?
「……保守的、ですか?」
「はい」
会議室の空気が凍りつく。
焦った顔をしたイ・セヨンさんがスヒョンをなだめるような目をする。
それでも、彼は平然としている。
全体を通訳する、通訳担当の方も、言葉選びにかなり困っているようだ。
…この中でも、彼は続けた。
「失敗しないものを選び、安全な場所から出ない。白樹部長のお考えを伺っていると、そう感じます」
そして。
ほんの少しだけ、目を細めた。
「その点を鑑みると、お父様にずいぶん大切に育てられたのでしょうね」
…………。
一瞬。
頭の中が真っ白になった。
……なにそれ。
どういう意味?
会議室が完全に静まり返る。
隣にいる蓮の空気が変わったのも分かった。
けれど。
私は机の下で、ぎゅっと指先を握った。
怒るな。
ここは仕事。
分かってる。
分かってるけど。
…今の言葉だけは、許せない。
…ていうか、お前に言われたくない。
「……そうですね」
にこり。
私は笑った。
それを見て、蓮が一瞬こちらを見る。
たぶん。
こいつ、怒ってる。
そう思ったに違いない。
「父には大切に育ててもらいました。その点については否定しません。感謝しています。」
「……」
「でも、ハン本部長は素晴らしいですね」
今度は、向こうがわずかに眉を動かした。
私は笑顔のまま続ける。
「どんな場面でも感情に左右されず、ご自分の考えを迷いなく口にできるなんて」
「……」
「…リスクがあっても失敗をかえりみず、進んでいくその姿勢、素晴らしいですね。」
セヨンさんが、ほんのわずかに目を動かした。
…それでも、私は止まらない。
止まることが、できない。
「今まであなたのお父様が築き上げてきた、イメージや信頼を〝ぶっ壊す〟ようなアイデアをお持ちで。
お父様はどのような教育をされたのでしょうか。
ハンウ食品の未来は明るいですね!」
「……」
静寂。
蓮が俯いた。
たぶん。
真っ青になって、あーあ、って顔をしている。
私はさらに、にっこりと微笑んだ。
スヒョンの目が、細くなる。
初めて。
あの無機質に見えた顔から、ほんの少しだけ感情が覗いた。
不快なのか。苛立ちなのか。
たぶん、その両方。
でも、そんなもの知るか。
すると、スヒョンが続ける。
「……白樹部長も」
低い声が落ちる。
「想像していたより、随分とはっきりものをおっしゃる方なんですね」
「ありがとうございます。その言葉、そのままそっくりお返しします。」
「僕は褒めてはいませんが?」
「奇遇ですね。私もです」
「……」
「……」
視線がぶつかる。
逸らしたら負けるような気がして。
私はそのまま彼を見返した。
――最悪。
第一印象は、その一言に尽きた。
顔がいいとか。
仕事ができるとか。
会長の息子だとか。
そんなことは、もうどうでもいい。
この人とは。
絶対に、合わない。
東京、品川。
高層ビルが立ち並ぶオフィス街の一角に、白樹食品の本社ビルはある。
創業から七十年以上。
乾麺や即席麺を中心に、長年、日本の食卓に商品を届けてきた老舗食品メーカーだ。
スーパーへ行けば、きっと一度は白樹食品の商品を目にしたことがある。
特に乾麺製品は、会社が長年もっとも力を入れてきた分野だった。
そして今回。
そんな白樹食品が、初めて大規模な海外企業との業務提携に踏み切った。
相手は――韓国の大手食品メーカー、ハンウ食品。
韓国国内では知らない人はいないと言われるほどの食品企業で、こちらもまた、乾麺やインスタント麺を主力としている。
日本の白樹食品。
韓国のハンウ食品。
似た分野を得意としながら、これまでまったく違う市場で成長してきた二社が手を組む。
目的は、お互いの国での認知度向上。
そして、新たな販路の開拓。
その大々的な業務提携キャンペーンの目玉として立ち上がったのが――。
両社共同の、新商品開発プロジェクトだった。
「白樹部長。こちら、最終版です」
「あ、ありがとう。早かったね」
差し出された資料を受け取りながら、私はぱらぱらとページをめくった。
「昨日お願いしたばっかりだったよね?」
「はい。でも部長、今日使うって言ってましたから」
「助かる。あとでちゃんとお礼させて」
「じゃあランチ奢りでお願いします」
「ふふ。考えとく」
そんなやり取りをしながら資料を抱え、廊下を歩く。
すれ違う社員から、
「おはようございます、白樹部長」
「今日ですよね。頑張ってください」
「ありがとうございます」
と声を掛けられるたび、私は足を止めて返した。
白樹アカリ、二十八歳。
白樹食品、商品開発部長。
そして。
現社長、白樹隆一郎の娘。
――いわゆる、社長令嬢だ。
この肩書きは、入社した時からずっと私について回っている。
そして、今後も。
当然だと思う。
新入社員として会社へ入った時から、
〝社長の娘〟
というだけで、良くも悪くも目立った。
だからこそ。
誰よりも商品を知ろうとした。
工場にも何度も足を運んだ。
営業にも同行した。
試作品を何十、何百と食べた。
消費者調査にも立ち会ったし、売れなかった商品の原因分析だってした。
商品開発部長という肩書きを20代でもらった時にも、陰で何を言われるかは分かっていた。
だから、言わせないくらい仕事をするしかなかった。
「アカリ」
後ろから聞き慣れた声がして、振り向く。
「蓮」
「資料」
「あ」
神崎蓮が、私の腕から滑り落ちそうになっていたファイルをひょいと抜き取った。
「持ちすぎ」
「これくらい持てるって」
「知ってる。でも落としたら拾うの俺だから」
「拾わなきゃいいじゃん」
「それができたら高校の時から苦労してない」
「何それ」
思わず笑うと、蓮は呆れたように肩を竦めた。
神崎蓮。
二十九歳。
高校時代からの同級生で、大学も同じ。
途中、一年間の海外留学を挟んでいるため年齢は私より一つ上。
おかげで私が高校二年生の時に、留学留年した蓮も二年生。
そこから仲良くなって、大学も一緒、就職もうちの会社に入るなんて。
もう家族のような感覚。
そして仕事に関して言えば、文句のつけようがない。
とにかく速い。
頭の中にあるものを資料として形にするのも速ければ、人前でそれを説明するのも上手い。
相手の反応を見ながら言葉を変え、最終的にはこちらが欲しいところへ話を持っていく。
交渉の場では、正直、私よりずっと良い意味で厄介な相手だと思う。
今回のプロジェクトも、
『若い世代の感覚を活かせる二人に任せたい』
という父――社長の意向で、私と蓮が中心メンバーとして選ばれた。
「緊張してる?」
蓮が私の顔を覗き込む。
「……ちょっとだけ」
「珍しい」
「するでしょ。今回は規模が違うもん」
そう答えながら、会議室の前で一度息を吐いた。
今日が、第一回目の合同会議。
ここで両社の方向性を合わせ、次回までにそれぞれ具体的な商品案を持ち寄ることになっている。
会議室の扉を開ける。
いつもなら広く感じる大会議室が、今日は妙に狭く見えた。
商品開発。
営業。
マーケティング。
広報。
白樹食品側の各部署から選ばれたメンバーがすでに席についていて、その向かい側にはハンウ食品側の席が用意されている。
これからここに、韓国側のメンバーも加わる。
……多いな。
資料では人数を把握していたはずなのに。
実際にこうして人が集まると、思った以上の圧迫感がある。
胸の奥が、少しだけ落ち着かない。
「大丈夫」
隣から、蓮が小さく言った。
「俺もついてるから、失敗する時は一緒だ」
冗談ぽく笑う蓮。
「縁起悪いこと言わないでよ!」
「じゃあその顔やめろ」
「どんな顔?」
「七五三の撮影で緊張してる子供みたいな顔」
「してないし」
「してる」
「してません」
小声で言い返した、その時だった。
会議室の扉が開く。
一瞬。
室内のざわめきが止まった。
数人の男女が、次々と中へ入ってくる。
ハンウ食品のメンバーだ。
そして、その先頭を歩いていた男性を見た瞬間。
なぜか。
白樹側の空気が、ほんの少しだけ変わった。
百八十センチは確実に超えている。
すらりとした長身に、身体へ綺麗に馴染んだダークカラーのスーツ。
姿勢が良く、歩き方にまったく迷いがない。
そして何より、顔が異様なくらい整っていた。
切れ長の目に、すっと通った鼻筋。
輪郭はシャープなのに、作り物めいた派手さはない。
テレビの中にいても違和感がない…というより。
下手な芸能人より、よほど目を引く。
「……すご」
どこかから、ほんの小さな声が聞こえた。
その気持ちは、分からなくもない。
ただ、本人は周囲の視線など気にも留めていないらしい。
表情一つ変えることなくこちらへ歩いてくると、用意されていた席の前で立ち止まった。
ハン・スヒョン。
ハンウ食品、事業本部長。
三十一歳。
そして、ハンウ食品会長の息子。
次期トップ候補として名前の挙がる人物だ。
若くして現在の地位に就いたのは、会長の息子だから――ではない。
少なくとも、事前資料を見る限りでは。
不採算事業の整理。
海外事業の再編。
新規流通網の開拓。
いくつもの大型案件を成功させ、数字で結果を残してきた。
判断が速く、無駄がない。
交渉相手に一切の隙を見せず、社内外からの評価は高い。
なるほど。
この一瞬での出来事でも、なんとなく分かる気がした。
「ハンウ食品、事業本部長のハン・スヒョンです。本日はよろしくお願いいたします」
低く、落ち着いた声。
流暢な日本語で話した。
…日本語も話せるんだ。
そう思い、蓮が私用にまとめた手元の人物総評をペラペラとめくる。
韓国語、日本語、英語が話せるらしい。
なんだか、もうすでに見せつけられた気分になる。
続いて、隣にいた女性が一礼する。
「イ・セヨンです。ハン本部長の補佐をしております。よろしくお願いいたします」
綺麗な人だった。
彼女は日本語は話せないようで、通訳の方が日本語で改めて話す。
すっきりとまとめられた髪に、隙のないスーツ姿。
必要な資料をすでに手元に揃えているところを見るだけでも、仕事のできる人だと分かる。
簡単な挨拶を済ませ、それぞれが席につく。
向かい合う形になった長いテーブル。
偶然なのか。
私のほぼ正面に、ハン・スヒョンが座った。
ちらりと視線を上げる。
「……」
目が合った。
私はなんとなくニコッと微笑む。
けれど。
向こうは特に表情を変えることもなく、すぐ手元の資料へ視線を落とした。
……何よ。
別に何かしてほしかったわけじゃないけど。
初対面の相手に向けるには、ずいぶん温度のない目だった。
微笑み返すくらいしてもいいじゃないの。
「それでは、お時間になりましたので始めさせていただきます」
蓮の声で、室内の空気が切り替わる。
会議が始まった。
最初に確認されたのは、今回の業務提携そのものの目的だった。
日本市場で長年の販売網を持つ白樹食品。
韓国市場を中心に、アジア圏でも急速に販路を広げているハンウ食品。
両社が互いの販売網と商品開発力を活用し、日本と韓国、それぞれでブランド認知を高める。
その象徴として。
共同ブランドによる、新商品の開発を行う。
「両社とも、特に乾麺およびインスタント麺の開発を得意としています」
スクリーンの横に立った蓮が、資料を切り替える。
「そこで今回、まずは両社が長年蓄積してきたノウハウを生かせるカテゴリーを中心に、商品コンセプトを検討したいと考えています」
画面に映し出されたのは、
《共同開発商品 基本方針案》
の文字。
最初は白樹側から用意した案だ。
蓮がチラッと目で私に合図する。
私は資料を開きながら口を開いた。
「白樹食品としては、まず最初の商品だからこそ、消費者に安心して手に取っていただけるものが良いと考えています」
視線が集まる。
「両社が培ってきた乾麺、インスタント麺の技術を掛け合わせる。そのうえで、奇をてらいすぎず、何度でも食べたくなるものにする。今回の共同開発では、そういった商品を目指したいです」
シンプルだけれど、信頼できる味。
一度食べて終わりではなく。
食卓に根付く商品。
それが白樹食品側でまとめてきた方向性だった。
何人かが頷く。
しかし。
「…それは、新商品もインスタント麺で開発を進めたいと言うことでしょうか。」
静かな声がした。
私は顔を上げた。
ハン・スヒョンだった。
「……白樹側としては、そのような案で進めたいと思っております」
「そうですか」
短く、私の確認をとった。
迷いがない。
彼は資料を閉じると、こちらを見た。
「その方向性では、今回の業務提携を行う意味が薄いと考えます」
「どういう意味でしょうか」
「今のお話では、白樹食品がこれまで作ってきた商品に、ハンウ食品の技術を加えるだけです」
淡々とした声。
「それなら業務提携という大掛かりな形を取る必要はない。それぞれが自社商品を開発した方が効率的でしょう」
室内が、静かになる。
私は一度、息を吸った。
「もちろん、従来商品の延長線上にあるものをそのまま作るつもりはありません」
緊張で震えそうになる声を抑える。
ハン・スヒョンを見ると、私が言い終わった後に私の目をチラリと見た。
「ですが、カテゴリーそのものを限定している」
「それは…両社が最も得意とする分野ですから」
「だからこそです」
即座に返ってくる。
本当に。
頭の回転が速い。
「すでにノウハウがある分野だからこそ、それを土台に新しいカテゴリーへ挑戦できる。乾麺やインスタント麺である必要すらないと私は考えています」
「……」
思わず眉が動いた。
「初回から、ですか?」
「初回だからです」
「リスクが高すぎます」
今度は私が即答した。
「両社とも、消費者から持たれているブランドイメージがあります。それを大きく外れた商品を出せば、何の商品なのか伝わらなくなる可能性がある」
「新規顧客を取り込むためのプロジェクトでしょう」
「既存顧客を置き去りにする理由にはなりません」
「置き去りにするとは言っていません」
「でも、まったく別の分野へ行けばそうなる危険性があります」
「危険性があるから挑戦しない、と?」
言葉が。
綺麗にぶつかる。
会議室の空気が、明らかに変わっていた。
さっきまでメモを取っていた人たちまで、こちらを見ている。
ハン・スヒョンの隣の、イ・セヨンさんも、ハン・スヒョンをチラリと見て気まずそうな顔をする。
進行を務める蓮が「今日はお互いの意見をー」と何か言おうとした、その前に。
スヒョンが口を開いた。
「なるほど」
わずかに、顎を引く。
その表情は変わらない。
けれど。
次に出てきた言葉で、私は一瞬、耳を疑った。
「ずいぶん保守的なお考えなんですね」
……は?
「……保守的、ですか?」
「はい」
会議室の空気が凍りつく。
焦った顔をしたイ・セヨンさんがスヒョンをなだめるような目をする。
それでも、彼は平然としている。
全体を通訳する、通訳担当の方も、言葉選びにかなり困っているようだ。
…この中でも、彼は続けた。
「失敗しないものを選び、安全な場所から出ない。白樹部長のお考えを伺っていると、そう感じます」
そして。
ほんの少しだけ、目を細めた。
「その点を鑑みると、お父様にずいぶん大切に育てられたのでしょうね」
…………。
一瞬。
頭の中が真っ白になった。
……なにそれ。
どういう意味?
会議室が完全に静まり返る。
隣にいる蓮の空気が変わったのも分かった。
けれど。
私は机の下で、ぎゅっと指先を握った。
怒るな。
ここは仕事。
分かってる。
分かってるけど。
…今の言葉だけは、許せない。
…ていうか、お前に言われたくない。
「……そうですね」
にこり。
私は笑った。
それを見て、蓮が一瞬こちらを見る。
たぶん。
こいつ、怒ってる。
そう思ったに違いない。
「父には大切に育ててもらいました。その点については否定しません。感謝しています。」
「……」
「でも、ハン本部長は素晴らしいですね」
今度は、向こうがわずかに眉を動かした。
私は笑顔のまま続ける。
「どんな場面でも感情に左右されず、ご自分の考えを迷いなく口にできるなんて」
「……」
「…リスクがあっても失敗をかえりみず、進んでいくその姿勢、素晴らしいですね。」
セヨンさんが、ほんのわずかに目を動かした。
…それでも、私は止まらない。
止まることが、できない。
「今まであなたのお父様が築き上げてきた、イメージや信頼を〝ぶっ壊す〟ようなアイデアをお持ちで。
お父様はどのような教育をされたのでしょうか。
ハンウ食品の未来は明るいですね!」
「……」
静寂。
蓮が俯いた。
たぶん。
真っ青になって、あーあ、って顔をしている。
私はさらに、にっこりと微笑んだ。
スヒョンの目が、細くなる。
初めて。
あの無機質に見えた顔から、ほんの少しだけ感情が覗いた。
不快なのか。苛立ちなのか。
たぶん、その両方。
でも、そんなもの知るか。
すると、スヒョンが続ける。
「……白樹部長も」
低い声が落ちる。
「想像していたより、随分とはっきりものをおっしゃる方なんですね」
「ありがとうございます。その言葉、そのままそっくりお返しします。」
「僕は褒めてはいませんが?」
「奇遇ですね。私もです」
「……」
「……」
視線がぶつかる。
逸らしたら負けるような気がして。
私はそのまま彼を見返した。
――最悪。
第一印象は、その一言に尽きた。
顔がいいとか。
仕事ができるとか。
会長の息子だとか。
そんなことは、もうどうでもいい。
この人とは。
絶対に、合わない。