軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜
序章 結菓子の誕生
薬種屋・ 麒麟堂薬舗の店内は、薬草の匂いと朝のひんやりとした空気に満ちていた。季節は変わり、流れる風からも湿り気が消えている。
兄の朔也が、綺麗に磨かれた革ブーツの紐をぎゅっと締め上げる。ゆっくりと立ち上がり、革鞄を肩にかけ、水筒の革紐を整えた。正式に任官したばかりの朔也は、深緑の軍帽を胸に当て、父へ顔を向ける。
「父上。しばらく留守にいたしますが、麒麟堂をよろしくお願いいたします」
「麒麟堂のことは案ずるな」
「……はい」
「凪もおる」
父の源一郎は、七三に分けた髪に濃紺の着物、黒羽織姿で息子を見据えていた。いつもより、その表情は沈んでいる。
朔也は軽く頭を下げた。
「──兄様!」
震えまいと思うほど、凪の声は大きくなった。
色白で小柄な凪は、柔らかな顔立ちに大きな瞳を揺らし、胸元まで伸びた艶やかな黒髪を簡素な束髪にまとめている。
生成り色の清楚な着物を着た妹の姿に、朔也はゆっくりと振り向いた。
凪とよく似た黒髪に、端正な顔立ち。妹よりずっと背の高い兄が、ふっと微笑む。
「……凪」
「はい」
凪は潤んだ大きな瞳で朔也を見上げた。
「……父上と麒麟堂は、お前に任せる」
静かで重い言葉に、凪は一瞬、息を飲む。
「教えられることは、もう全部教えた」
「兄様がお帰りになるまで、必ず守ります!」
華奢な身体が震えぬよう、凪は精一杯、背を伸ばした。
朔也は深緑の軍帽を深く被った。
「では、行ってまいります」
その目に迷いはなかった。
父は表情を変えぬまま、小さく頷く。
出口へ向かう朔也の革靴の高い音が店内に響いた。
「兄様、お待ちください!」
凪は駆け寄り、朔也の腕を取る。その掌に、すっぽりと収まる薬包紙に包んだ丸い菓子を握らせた。
「何だ、これは?」
「あんこ玉です。乾燥させた『さらし餡』の粉を薬草と蜜で固めました。これなら日持ちもしますし、手軽に栄養も摂れますから」
朔也は菓子を鼻先へ寄せる。その香りに目を細め、笑みを浮かべた。
「桂皮(ニッキ)……俺の好きな薬草だ。覚えてくれていたのか」
「はい。ニッキは身体を温めますし、過酷な仕事場では、好きな香りがきっと気持ちを和らげてくれます」
凪は兄から視線を外さない。
朔也は眉を下げた。
「凪、お前は立派な薬師だ」
込み上げるものをぐっと堪え、凪は菓子の詰まった巾着を朔也へ差し出した。
「こんなに……現地の軍医殿にも食べてもらおう。きっと、救われる」
目尻を下げて微笑む朔也の手が凪の指先に触れた。
朔也の親指の付け根には、重い薬研を何年も転がし続けてできた硬い胼胝があった。
その皮膚に指先が重なった、その瞬間──
薄暗い奥座敷──
母を亡くし、自分の持つ化け物じみた能力を恐れて泣いていた幼い凪。その前で、まだ少年だった朔也が必死に薬研を転がしていた。慣れない手は擦り切れ、指先には血が滲んでいる。
『薬は人を助ける。凪も薬師を目指せ』
薬研を止めた朔也は、幼い凪をそっと抱き寄せ、額を合わせた。
『俺が凪を守る。だから、もう泣くな』
他人の傷の痛みに耐えきれず泣いてばかりいた凪を、暗闇から救い出してくれた兄。
それが、凪にとって最初の『傷の記憶』だった。
「──凪?」
兄の声に、凪ははっと現実へ引き戻された。
痛みの余韻が脳裏に残り指先が小さく震える。
朔也はもう痛まない胼胝のある手で、凪の頭を優しく撫でる。
「凪、これは人と人を結ぶ菓子になる」
少しだけ考え、
「結菓子……だな」
と、いつものように微笑んだ。
その笑みが尊く、同時にひどく切なく映る。
凪は思わず唇を軽く噛んだ。
「兄様、必ず……必ずお帰りくださいませ!」
凪は前掛けの端を強く握りしめる。
朔也は手をゆっくり下ろし、凪を覗き込んだ。
「凪、もう奥座敷に隠れるな。お前もきっと、然るべき居場所に結ばれる」
小さな頃から変わらない、凪を落ち着かせてくれる兄の声。
凪は目を閉じ、その温もりを胸に刻んだ。
再び革靴の高い音が響き、凪はそっと目を開ける。
朔也は扉を開く直前、一度だけ振り返った。そして穏やかに笑い、静かに手を上げる。
開いた扉から差し込む朝日を受け、深緑の軍服の金色のボタンが眩しく光った。その光景が凪の目に焼き付く。やがてその姿は、朝日に溶けるように小さくなっていった。
凪はいつまでも、その後ろ姿を見送っていた。
それきり、朔也は二度と振り返ることなく麒麟堂を後にした。