軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜
「将臣、おかえりなさい」
声を返したのは女性──将臣の母だった。
父は無言のまま。
凪は思わず背筋を伸ばした。
将臣が目で合図を送り、二人は対面するように座った。
四人もいるのに、無言が部屋を支配する。
一番先にこれを破ったのが、将臣の母であった。
「まあ、可愛らしいお嬢さんね」
柔らかい笑みを浮かべる。
すかさず将臣が凪の顔を見ながら言う。
「こちらが麒麟堂薬舗のご長女、桐谷凪さんです」
「……初めまして。桐谷凪と申します」
ぎこちないながらも、丁寧に頭を下げた。
母はにこりと微笑む。
「確か、将臣の十個下の十八歳なんですってね」
そう言われて、凪は思わず将臣へ振り向く。
(ならこの方は、二十八歳……私ったら、本当に何も知らずに嫁いできてしまったのね)
安藤将臣という人物は、思っていたよりずっと年上だった。けれど、驚きを飲み込み、凪はもう一度頭を下げた。
「は、はい。薬屋育ちの世間知らずですが、精一杯、将臣をお支えいたします」
「軍人の家ですから商家のお嬢さんだと戸惑うこともあると思うわ。でも少しずつ、慣れていってね」
穏やかな声のおかげで凪は少しだけ身体の力を抜けた。
「はい。頑張ります」
再び、無言が支配する。
将臣は父を見据えている。
その視線に気がついているはずの父は微動だにしなかった。
「父上……」
将臣がかすかに眉を寄せて、小さく声を漏らす。
「ほら、あなたも何か言ってあげてくださいなっ」
妻に促されて、父は茶を一口飲み、湯呑みを静かに置いた。コトンという音だけで、部屋が凍るようだった。
ようやく父は、顔を将臣と凪に向けた。眉間に刻む皺がより深くなる。
「わしは、この婚姻を認めたわけではない」
父・憲一の低いはっきりとした声が、客間に響いた。
凪は心を射抜かれたような衝撃が胸に走る。
(あ……私は、望まれた嫁入りではないんだ……)
膝に重ねた指が、小刻みに震え出す。
蘇る父・源一郎の言葉。
『凪を、産ませなければよかった』
一瞬、目が眩み咄嗟に俯いた。
継母に麒麟堂を奪われ、父にも突き放され、着いた先でも歓迎されない。
(自分は、本当にいらない存在なんだっ)
俯いた顔を上げられず、凪は泣かないように唇を噛んだ。
「あなたっ!」
母が憲一を制する。
「薬師をして自立している頼もしいお嬢さんですよ! きっと将臣を陰ながらに支えてくださいますわっ!」
だが、憲一は静かに腕を組み直す。
「自立など不要だっ。夫を支えるのは、妻の家柄なのだからな」
(軍医に見合う家柄……薬屋では無理なことなの?)
凪は膝に重ねた指をぎゅうと握った。
「不甲斐ないのは、晴臣だけで十分だというのにっ……将臣まで逆らいおって!」
憲一は誰に言うわけでもなく、声を張った。
「晴臣は、まだ十六ですわっ。そんな言い方をするのはおやめくださいませっ」
母が口元を隠しながら抗議する。
そのやり取りを見た将臣は表情を曇らせ、小さく息を漏らした。
「……では、挨拶は済ませました。父上、母上、失礼します」
将臣が凪に軽く目配せする。
凪は両親へ小さく頭を下げると、静かに立ち上がった。
将臣が襖を開けようとした時だった。
憲一がすかさず、将臣の背に放った。
「待ちなさい」
低い重い声を落とし、憲一はゆっくり立ち上がった。
座敷に畳を踏む音だけが響き、凪は思わず肩を震わせる。
将臣だけは、目の前の憲一から視線を逸らさない。
憲一の眼光は背筋が震えるほど鋭かった。
「後悔するのは、将臣、お前だぞ?」
低い、刃のような言葉が落ちた。その言葉は将臣に向けられたものだったが、凪の胸の奥深くへも容赦なく突き刺さる。
(後悔……? 私なんかを嫁にしたことを……?)
父親の冷酷な眼光に耐えきれず、凪は身を縮め、視線を畳へ落とした。息が詰まる。どこへ行っても、自分は邪魔者なのだ。
——その時だった。
凪の視界がふっと暗くなった。
将臣が一歩前へ踏み出し、凪をすっぽりと自分の背中でかばうように立ち塞がったのだ。
「……後悔などしません」
将臣の揺らぎ一つない、低く力強い声が部屋に響き渡る。
将臣は父親の鋭い視線を受け止めながら、言い放った。
「私が、選んだことです」
凪は息を飲み、驚いて顔を跳ね上げた。
見上げる将臣の横顔には、痛々しい傷痕がある。けれどそこに恐怖など微塵もなかった。むしろその傷すらも、自分を守ってくれる圧倒的な強さの象徴に見えた。
(どうして……そこまでして、私を……?)
締め付けられていた胸が解放され、ゆっくりと空気を吸い込める自分に気がつく。
(……将臣様だけは、違う)
凛とした背中から目を離せない。
温度を感じない安藤家の中で、凪は初めて、あたたかい安心感に包まれていた。