軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜
夜の帳がすっかり降りる頃には、離れはしんと静まり返っていた。
部屋の隅では、結丸が丸くなって寝息を立てている。
夕餉を終えた凪は、小さな盆に徳利と盃をふたつ並べた。その隣へ、昼間作った結菓子をそっと添える。
障子越しに虫の音が細く響く。あまりにも静かな夜だった。
(ここは……大事な場面)
凪は胸の前で、小さく息を整えた。
(しっかりしないと)
徳利を持つ指先に力を込めると、かすかに震えていることに気づく。
祝言──そう呼ぶには、あまりにも慎ましい席だった。
豪華な衣装も、人々の祝いの声もない。それでも将臣が「祝杯をしよう」と言ってくれたことが、凪には何より嬉しかった。
座卓に二人で肩を並べて座る。
いつもより少し近く、彼の体温を感じる距離だった。それだけで凪の鼓動は速くなる。
凪は静かに徳利を傾けた。酒が盃へ細く流れ込み、澄んだ音を立てる。
「……一献、どうぞ」
「ああ」
将臣は一息に酒を飲み干した。そして空になった盃を、今度は凪へ差し出す。
凪は一瞬だけ目を丸くした。
「私も……ですか」
「祝いの席だからな」
低く、穏やかな声だった。
凪は頷き、盃を両手で受け取る。
今度は将臣が徳利を持ち、静かに酒を注いだ。
盃の縁まで満ちた酒が、灯りを受けて淡く揺れる。
(初めてのお酒……)
凪は恐る恐る口をつけた。ひやりとした酒が喉を滑り落ちる。
「……っ」
思わず目を瞬かせる。想像していたよりも、喉が熱かった。
「無理に飲まなくてもいい」
「大丈夫です」
将臣が凪から受け取った盃を、ことりと置く。
「すまないな。本来なら、正式な祝言を挙げるべきだった」
凪は小さく首を振った。
「私は、これで十分です」
笑おうとした。だが胸の奥で、小さな寂しさが疼いた。
「父上の許しが出ていない以上、大勢を招くことはできない」
将臣は少し間を置いた。
「仕事も落ち着いて、凪の父上の体調も良くなったら……その時は、きちんと祝言を挙げよう」
(私は、将臣様に迎え入れていただけただけで、十分幸せ……)
凪は心の中で、そっとつぶやく。
「ありがとうございます」
ふと、二人の間に心地よい無言が流れた。凪はたまらず、結菓子を手に取る。
「どうぞ。結菓子になります」
「ああ。……あの時と同じ匂いだな」
将臣はどこか遠くを見るような目で、柔らかく微笑んだ。懐紙を丁寧に剥がし、あんこ玉を口に運ぶ。目を閉じ、味わうようにゆっくりと噛みしめていた。
(すっと心が解けていくような甘さ。あの時、私を救った味……)
やがて将臣が目を開く。
「……美味しい」
そう呟いたきり、将臣はしばらく結菓子を見つめていた。
再び静寂が訪れる。
将臣の次の言葉を待つ凪は、居住まいを正した。
それに気がついた将臣が、珍しく視線を泳がせる。そして、何か言葉を探すように口を開いた。
「……これには、何が入っている?」
「ニッキです。兄が好きだったんです」
「そうか……桐谷の衛生胴乱には、いつもこれが入っていた」
「そういえば兄が、軍医にも差し上げると言っていました」
(兄はもういない。けれど、その思い出が、こうして将臣様と私を繋げてくださっている)
二人の会話は、思いのほか長く続いた。
しばらくして、凪は自分の頬にそっと手を当てた。お酒のせいで頬が妙に熱く、頭がぼんやりとしてくる。
「冷えた水を取ってこよう。待っていなさい」
将臣が部屋を出ると、寝ていた結丸がむくりと顔を上げた。そのまま彼の後を追いかけるが、目の前で静かに襖が閉まってしまう。
「みゃーん」と不満そうに前足で襖を掻いた。
「今、開けるわね」
凪が代わりに襖をすべらせると、結丸は足音も立てずに廊下の暗がりへ消えて行った。
振り返ったその時、足先が壁に立てかけてあった軍刀に触れてしまった。キャシャンっと金属の重い音が響き、床へ倒れてしまう。
「あっ、いけない」
咄嗟に手が伸びた。
拾い上げようと、鞘の表面についた古い切り傷に指先が触れた瞬間──
ドクンと景色が裏返った。
──薄暗い野戦テント
血だらけで青白い顔をした兄・朔也が横たわっている。
その胸を必死に押さえ、左頬から血を流しながら、なりふり構わず叫んでいる男がいる。
『死ぬな! 頼む、息を返せっ、桐谷っ!!』
狂ったように叫ぶ、将臣の姿だった。
そして、そこでぶつりと、映像が途切れた──
「──っ⁈」
凪の顔から、一気に血の気が引いてしまう。
全身の毛穴が開くような衝撃。膝ががくがくと震え、軍刀を落としそうになる。
(今のは……何……? 兄様……? 将臣様……?)
その時、静かに襖が開いた。
水を入れたコップを持った将臣が立ち尽くしている。
足元を結丸がすり抜けて部屋に入ったが、将臣の視線は微動だにしない。ただ真っ直ぐに、青ざめて軍刀を抱える凪と、その指先に釘付けになっていた。
凪は震える声を振り絞る。
「兄の……最後を……ご存じなのですか?」
ガチャン──と大きな音が響いた。
将臣の手からコップが落ち、畳に水が広がる。だがそれより早く、将臣は獣のような速さで凪の間合いに踏み込んでいた。
凪は強い力で腕を掴まれ、軍刀を取り上げられる。
「……傷を、読んだのか?」
地を這うような、聞いたこともない低い声だった。
(将臣様っ──私の力を……知っているの……!?)
驚愕で喉が引きつり、呼吸が止まる。
将臣は凪の細い腕を握りしめたまま、顔を極限まで近づけた。
「二度と、傷を読むなっ」
その顔は、恐ろしいほどの怒りに歪んでいた。
いや──違う。
怒りではない。
今にも壊れてしまいそうなほど悲しく、苦しそうに、彼が懇願していた。
(お願いだ。凪──読まないでくれ──)
声にならない叫びが、彼の強張った身体から伝わってくるようだった。
先ほどまで穏やかに結菓子を味わっていた人とは、まるで別人のようだった。
「ご……ごめんなさい……っ」
凪の目から、ぼろぼろと涙が溢れ出した。
将臣は返事をしない。ただ苦しそうな眼差しで凪を見つめ、握りしめた軍刀の柄を指が白くなるまで握り締めている。
その姿は、あまりにも別人に見えた。
凪は涙で滲む視界の中、震える自分の両手を強く握りしめた。
──兄様が戦死した、あの日。
(将臣様は……何を隠しているの……?)
兄様と、私を妻にしたこの人には、
私の知らない秘密がある──。