軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜
7話 軍医の隠したい願い
腰の軍刀が、歩調に合わせてかすかな金属音を立てる。
「一体、なんの呼び出しでしょうか。安藤少佐」
将臣の隣を歩く男は、伸びた前髪の隙間から目がかろうじて覗いていた。束ねた後ろ髪は無造作に括られている。
「二ノ宮大尉。お前の呼び出しなら、想像はつくが」
「某が、なぜです?」
身に覚えのない二ノ宮は胸に手を当て、大げさに声を張った。
将臣は足を止め、呆れたように相手を振り返る。
「体臭がする。軍の規則に反するその長髪。呼び出す理由として十分だ」
「なっ、これは験担ぎです! 某は好きでやっているのではありません!」
「仲間の無事を祈って風呂に入らないのは構わん」
将臣は腕を組んだ。
「だが、お前は腕のいい軍医だ。患者を不快にさせない程度の清潔さは保て」
「たった五日ですよ? 匂うわけがありません!」
揺れる前髪から、整った顔立ちが現れる。
将臣は長く息を吐いた。
「ここは戦場ではないんだ。平時は別の方法で験を担げ。行くぞ」
「は、はい!」
「入りたまえ」
執務室の重厚な扉を開き、将臣は一礼した。
「失礼いたします」
続けて二ノ宮も頭を下げた。
「忙しいところ悪かったね」
振り返ったのは、中肉中背の口髭を蓄えた大佐だった。胸元には勲章が幾重にも並んでいる。
「原田大佐。本日はどのような要件でしょうか」
「安藤少佐、二ノ宮大尉。今日は良い知らせがある」
二ノ宮の口元が、にやりと緩んだ。
原田は後に手を組み、歩み寄る。
「先般の戦地での功績を考慮し、近く昇進してもらうことになった」
将臣の眉が僅かに動いた。
「安藤少佐。君には軍病院を離れ、司令部へ異動してもらう」
(司令部への……内示)
その言葉だけで、胸の奥が静かに冷えていく。
(……患者から、遠ざかるのか)
将臣の瞳から、光がすっと引いた。
「二ノ宮大尉。君には彼の後任として、軍病院を任せたい」
「はっ!」
二ノ宮は嬉しさを隠しきれないハキハキとした声で返事をした。
その横で将臣だけが言葉を失っていた。
原田は気づかないまま続ける。
「安藤少佐。司令部勤務になれば、その先には軍医総監も見えてくるぞ」
(軍医総監……。それは本当に、私の望む場所なのか?)
脇に下ろした拳へ、静かに強い力がこもる。そっと目を伏せた。
薬草を抱えて笑う凪。
結丸を抱き上げ、嬉しそうに笑う凪。
「おかえりなさい」と迎えてくれる、あの柔らかな笑顔。
(……なぜ今、あの笑顔が浮かぶ。
私は軍の、仕事の話を聞いているはずなのに)
自分でも理由のわからない感情の揺れに、将臣の目が泳ぐ。
「安藤少佐」
名を呼ばれ、我に返る。
「……はい」
原田が目の前に立った。そして、将臣の肩へ重々しく手を置いた。
「君が現場主義なのは、知っている」
「……」
「だが、現場ばかりに優秀な人間を置き続けるほど、軍は甘くない。これは栄転だ。受け入れるのが当然なのだよ」
「……しかし」
「安藤少佐」
原田の声音が、一段と低く沈んだ。
「お父上の安藤大佐も喜んでおられた。期待を裏切るのは、親不孝だ」
(父上のために、受け入れろというのか)
握りしめた拳が、怒りと葛藤で震えた。
だがその震えも、やがて静かに消えていく。
「……承知いたしました」
深く頭を下げた。
(軍人である以上、上官の命令に逆らうことなどできない)
将臣は部屋を後にし、静まり返った長い廊下を一人歩く。
足音だけが空虚に響いていた。
目の奥に焼きついて離れないのは、「おかえりなさい」と優しく振り向いた、あの凪の笑顔だった。
(……帰りたい)
心の底から、ぽろりとこぼれ落ちたその言葉に、将臣自身がはっと息を飲んだ。
(私は今、どこへ帰りたいと思ったのだ)
冷たい廊下の真ん中で、将臣は足を止め、立ち尽くしていた。