軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜
「暖簾が出ていない……」
「ここしばらく、旦那様は店に立てる体調ではありませんでした」
千代がしょんぼり肩を落としてそう言った。
重い扉を開くと、凪はその異変にすぐに気がついた。
(薬草の香りが、消えている⁈)
足をもつれさせながら店内に踏み入った凪は、息を飲んで絶句した。
薄暗い店内、薬棚が外され、薬研が片付けられている。代わりに、見たこともない小洒落た西洋家具が置かれていた。
「何よ、これ!!」
声を震わせ、凪は吸い寄せられる。
壁にある薬箪笥を一つ開けると──中身がなくなっていた。
「どこにいったの……?」
信じることができず、狂ったように一段、二段と箪笥の箱を乱雑に引き出していく。
「ないっ、薬が、ないっ!!」
「凪!」
半狂乱になった凪を、将臣が後ろから強く抱きとめた。
「私たちの薬がっ! 兄様と父上と一緒に作った薬が、なくなってしまった!!」
凪は将臣の胸に顔を埋めて叫び、ぽろぽろと悔し涙をこぼした。
将臣は奥歯を噛み締め、泣き叫ぶ凪をただ強く抱きしめ続けた。
すると、店の奥からコツコツと不快な音が近づいてきた。
「騒々しいと思ったら、凪さん。何しに来られたの?」
菫色のワンピースに、大きな貝のネックレスをした翠が、だるそうにやってきた。
その見下すような目に、凪の血が頭に上る。
「薬を返してっ! 麒麟堂を潰そうとしているのは、お義母様ではないですか!!」
「あらやだ。安心して、薬は売るわよ」
「でも、全て消えてしまったわ……!」
「そうよ。これからは西洋の薬を売るの」
翠はにやりと、口の端を上げた。
「なぜです⁉︎ 薬は、父が作っているではないですか!!」
今にも飛び出さんばかりの凪を、将臣が抑えつける。
翠は口に指を添え、呆れたように息を漏らした。
「ふっ。古臭い薬なんて、誰が買うの? これからは西洋の時代よ」
次の瞬間、翠の顔からすうっと感情が消えた。見ている者が、鳥肌が立つほどに。
「あの人はもう、店にすら立てない。だから、代わりに私が商売をする。夫婦で助け合うのは、当然のことだわ!」
翠は胸に手を当て、ぎりっと睨んだ。
しかし、凪のその隣に立つ将臣が視界に入ると、一気に態度を変えた。
「あら、嫌だわ。軍医殿もいらっしゃったのね。見苦しいところをお見せしてしまいました」
急にしおらしく猫を被る。
「ちょっと、こちらにお座りになってくださいな。相談に乗っていただきたいことがございますの」
中央に残された、木製の椅子をさっと引いた。
「千代。お茶を!」
横目でギロリと睨み言いつけると、千代は身体を跳ねさせ「はい!」と奥へと走った。
「軍医殿。見ての通り、麒麟堂が倒産の危機に瀕していますの」
わざとらしく手を回して、ガランとした店内を仰いだ。
「こうして親戚になったのも、何かのご縁。凪さんのためにも、どうか少しばかり、ご支援していただけませんかしら?」
眉を下げて、凪と将臣を交互に見ていた。
黙っていた将臣が一歩前へと出た。天井から床、薬箪笥を確かめるように、ゆっくりと見回す。
「住民の健康を守る『麒麟堂薬舗』を残すためなら、資金を出しましょう」
翠の目が歓喜に見開かれ、ギラリと輝いた。
「まあ! さすが軍医殿ですわ! 麒麟堂も、時代に合わせて変わっていくべきだとわかっていらっしゃるのね!!」
「しかし……」
将臣はゆっくりと翠へと向き直った。その目は、氷のように冷たく鋭い。
「流行だけを意識した西洋品を売るためには、一銭も出せません」
「……はあ?」
翠の引きつった笑顔が固まる。
「麒麟堂が守ってきた薬の歴史には価値がある。だから私は、継ぐべき価値あるものにしか、お金は出しません」
一切の余地も与えず、きっぱりと断った。
「なっ……!!」
翠は顔を真っ赤にして言い返そうとするが、怒りで言葉を詰まらせる。
「凪。お義父上の体調を見に行こう」
将臣は翠を一切視界に入れず、凪を促して父の部屋へと向かった。