ハ シ ル !

第五話「辞めなかった人」

 飛鳥から連絡があったのは10月末のことだった。

 日曜一緒に走りに行こうってメッセージには書いてあったけれど、集合場所に指定されたのは地元の駅。

 私のオレンジのランニングウェアとシューズが場違いに思えて、敷地内にあるコンビニの裏からロータリーを覗いた。

 飛鳥のやつ、どこに——……

「誰か尾行してる?」
「うわぁ!!!」

 背後から声をかけられ、思わず数歩飛び出す。
 声の主は飛鳥だった。

「びっくりした!急に声かけないでよ」
 私はめくれあがった前髪を整えながら言った。

「え、ごめん。今から声かけまーすって言えば良かった?」
「ねぇうざいよ」
「ハハ」

 相変わらずの調子で笑いながら、飛鳥は駅構内へ向かって先に歩き出した。
 その背中を私は慌てて追いかける。

 すれ違う人も、ホームに見える人影も。
 みんなおしゃれをしている気がする。

 前方に視線を送れば、無機質な駅構内に、飛鳥のブルーのランニングウェアが浮いていた。

「ねぇ、走るんじゃないの?」

 たまらず私が声を掛けると、飛鳥はチラと私を振り返り、また前を向いた。

「走るよ」
「駅を?」
「ちがう」

 飛鳥は流れるように改札にスマホをかざす。
 ゲートが開き、そのまま改札の内側へ。

「え…ちょっと待って」
 改札を通る準備をしていなかった私は、もたついてしまう。
 チャージ、してあったかな。
 最小限の荷物しか無いはずなのに、すぐにスマホが出てこない。

「どうせならさ、景色がいいとこ走ろうよって話」

 飛鳥の少しだけ大きな声に、顔を上げる。
 改札の向こう側で、飛鳥が白い歯を見せていた。

 ようやく取り出したスマホが、手から滑り落ちそうになった。


 三十分ほど電車に揺られ、そこからバスで十五分。

 たどり着いたのは、地元を象徴する大きな川が流れる河川敷だった。
 すぐ隣には、その流れを見守るように山がそびえ、見上げれば頂に白い天守がちょこんと腰掛けている。
 ロープウェーの赤いゴンドラが見えた。

「……なにここ」
「知らない?メダリストロード」
「それは知ってるけど」
「俺、たまに走りに来る」

 そう言うと、飛鳥は屈伸を始めた。

 いつかのオリンピックメダリストが昔走ったこの河川敷を、地域貢献と称してランニングしやすい形に整えた——確か、そんな場所。

「ふーん……」
 つられるように、私もストレッチをする。
 飛鳥がくくっと笑うから、膝裏を軽く蹴っておいた。

 走り始めると、私の耳にはたくさんの音が流れ込んできた。

 川に架かる橋を通る車の走行音。
 交差点の信号から鳴る鳥のさえずり。
 流れる水の音。
 すれ違う他のランナーの息づかい。
 スケートボードのタイヤの音。

 走ったことないはずの場所なのに、なぜか懐かしい気持ちになった。

 私のペースに合わせて走っている飛鳥からは、余裕があるのか、鼻歌が聞こえる。

「飛鳥」
「んー?」
「なんでここ走るの」
「え。だから、景色」
「それだけ?」
「他に何があんの」
「いや……」

 あまりに当然のように言われ、私はそれ以上の言葉が出なかった。

 景色、か。

 桜。
 ふとそんなものを思い出した。

 初めて母に手を引かれ走った。
 たった3キロの市民マラソンだった。
 おそろいのTシャツを着て。
 途中なんか歩いていたし、頭上を舞う桜の花びらにずっと気を取られていた。
 私は多分、マラソンだなんて思っていなかった。
 ただ、母と手を繋いで桜の下を走った。
 そんな光景だけを、覚えていた。

 私は視線の先に目を凝らす。
 桜も無ければ、折り返し地点もない。
 川と、続く堤防と、その奥にかかるいくつもの橋だけ。
 この河川敷は、あの3キロよりずっと長いのに。
 なんでかな。


 帰りはバスには乗らずに駅まで歩いた。
 というか、走った。
 さすがに汗だくでバスには乗れない。
 ホームで電車を待つ間も、自分のにおいが気になって仕方なかった。
 電車を待つ列からは少し離れた場所で、二人並んだ。

「汗だくで電車とか本当、ナイ」
「ごめんって。電車は連結のとこでやり過ごそ」
「当たり前じゃん。恥ずかしすぎる」
「汗ふきシート買ったんだから、怒るなよ」

 今度は腕をグーで殴ったら「暴力反対」と言い返された。

 そのうち飛鳥がぽつりと言う。

「今日どれくらい走ったかな」

 私はスマートウォッチを確認した。
 思ったより走っていた。

 あっという間、だった気がした。
 それに——楽しかった。……たぶん。

 顔を上げると、飛鳥が私を見ていた。

「なに?」

 飛鳥は「べつに」とそっぽを向いた。
 朝よりも、襟足が跳ねている。

「飛鳥ってさ、」
 また、目が合う。

「なんで陸上続けてるの?」
 私の問いかけに、飛鳥は「なんで…」と右上にある電光掲示板を見た。
 そして、笑う。
「なんでだろ」

 ホームにアナウンスが響く。
 誰かが階段を駆け上がる。
 それを眺める飛鳥を、見つめた。

 飛鳥は、ただ景色が見たくてここまで来た。
 そのくせ続けてる理由も分かっていない。

 私には、辞める理由なんていくらでもあったのに。

 また、飛鳥の呑気な鼻歌が隣から聞こえてきた。

「……音痴」

 私のランニングシューズの紐は、少しだけ、ほどけていた。






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