ハ シ ル !
第七話「継続する人」
大会前の最後のタイム記録会だった。
私は父の隣で、来た人に記録表とストップウォッチを配った。
今日は、父とタイムを記録し合う。
大会運営のお偉いさんが何人か来ていて、父と挨拶を交わしていた。
「娘さんですか? いいですね親子で襷を繋ぐ。ドラマがある」
走ることとは無縁そうな、お腹が前に突き出たおじさんだった。
胸には何かのバッチが光っていて、それは私を萎縮させた。
「あはは。ドラマなんてとんでもない。たまたま重なっただけです」
父は柔らかい声でそう答えた。
私は黙って、遠くでストレッチをしていた陽菜ちゃんや飛鳥たちを眺めていた。
——ドラマなんて、あるもんか。
それから何度かお互いにタイムを測定した。
父は、良いとも悪いとも言わず、頷くだけ。
私も特に口を出さなかった。
父が代表で走る40歳以上の部門は、9人の中でも一番上の世代。
48歳の父は、決して若くはない。
それでも、毎朝ランニングをしている父は、タイムこそそれなりだけれど、息はそんなに上がっていないように見えた。
最低限の測定だけ済ませ、この日は解散となった。
帰りの車内には、ラジオが流れていた。
地方ラジオだった。
興味は無い。
でも、父はよくこのラジオを好んで聞いている。
『あなたのお悩み、流しましょう〜』
耳心地の良い柔らかい女性の声が、コーナー名を読み上げた。
そして、トイレの水を流す音が、車に響き渡った。
また、このコーナーか。
私は、触っていたスマホを伏せ、そっと目を閉じた。
『40代男性の方からです。“私は走るのが日課の市民ランナーです。毎朝必ず走ります。ルートは決めていません。その時に曲がりたい角を曲がり、渡りたい横断歩道を渡る。そして帰りたくなったら家へ帰る。ただそれだけです。走ることは、生活の一部で、歯を磨くようなものです。”うーん。素敵な習慣ですね』
女性の声が、さらに柔らかくなった気がした。
『続きを読みますね。“実は、娘と襷を繋ぐことになりました。”……ほうほう。襷ということはもしかして県民駅伝でしょうか。いいじゃないですか。そんな時期ですね』
私は、思わず閉じていた瞼を持ち上げた。
背中を少し浮かせ、運転席の父を見る。
前だけを見て、ハンドルを握っていた。
——そんな訳、ないか
また、シートに体重を預けた。
『“ただ最近、なぜ毎朝走っているのかとたまに聞かれます。でも答えに困ります。速く走りたい訳でもない。ストレス発散になっているかと言われればむしろ疲れる。ただ習慣だから走ってる。それだけなのです。世の市民ランナーの皆さんは、どうして走っているのでしょうか”』
そこまで聞いて、小さく笑った。
変な悩み。
でも……走ることが歯を磨くことと同じ。
そんな人も、いるんだ。
『なるほどですね。えー、最後にはこう書かれていますよ。“走ることから距離を置いていた娘が、最近また走っています。襷を受け取る日が、楽しみです”』
——え。
それから女性パーソナリティは、解決策なのかただの肯定なのか、そんな話をし始めた。
私はもう一度、父に視線を向ける。
これ、お父さんだよね?
父は運転席の窓を少しだけ開けた。
横目で私を見て、すぐに逸らした。
さすがに、それは……バレバレだよ。
私は首にかけていたタオルで、口元を覆った。
楽しみとか、思ってたんだ。
助手席の窓ガラスに反射する、微かにゆるむ父の頬を見てから、また瞼を閉じた。
習慣だから走る——
そんな理由でも、続けていいのか。
『——それでは、このお悩みも、綺麗さっぱり、トイレに流してしまいましょう』
車内には、水の流れる音だけが響き渡った。
私は父の隣で、来た人に記録表とストップウォッチを配った。
今日は、父とタイムを記録し合う。
大会運営のお偉いさんが何人か来ていて、父と挨拶を交わしていた。
「娘さんですか? いいですね親子で襷を繋ぐ。ドラマがある」
走ることとは無縁そうな、お腹が前に突き出たおじさんだった。
胸には何かのバッチが光っていて、それは私を萎縮させた。
「あはは。ドラマなんてとんでもない。たまたま重なっただけです」
父は柔らかい声でそう答えた。
私は黙って、遠くでストレッチをしていた陽菜ちゃんや飛鳥たちを眺めていた。
——ドラマなんて、あるもんか。
それから何度かお互いにタイムを測定した。
父は、良いとも悪いとも言わず、頷くだけ。
私も特に口を出さなかった。
父が代表で走る40歳以上の部門は、9人の中でも一番上の世代。
48歳の父は、決して若くはない。
それでも、毎朝ランニングをしている父は、タイムこそそれなりだけれど、息はそんなに上がっていないように見えた。
最低限の測定だけ済ませ、この日は解散となった。
帰りの車内には、ラジオが流れていた。
地方ラジオだった。
興味は無い。
でも、父はよくこのラジオを好んで聞いている。
『あなたのお悩み、流しましょう〜』
耳心地の良い柔らかい女性の声が、コーナー名を読み上げた。
そして、トイレの水を流す音が、車に響き渡った。
また、このコーナーか。
私は、触っていたスマホを伏せ、そっと目を閉じた。
『40代男性の方からです。“私は走るのが日課の市民ランナーです。毎朝必ず走ります。ルートは決めていません。その時に曲がりたい角を曲がり、渡りたい横断歩道を渡る。そして帰りたくなったら家へ帰る。ただそれだけです。走ることは、生活の一部で、歯を磨くようなものです。”うーん。素敵な習慣ですね』
女性の声が、さらに柔らかくなった気がした。
『続きを読みますね。“実は、娘と襷を繋ぐことになりました。”……ほうほう。襷ということはもしかして県民駅伝でしょうか。いいじゃないですか。そんな時期ですね』
私は、思わず閉じていた瞼を持ち上げた。
背中を少し浮かせ、運転席の父を見る。
前だけを見て、ハンドルを握っていた。
——そんな訳、ないか
また、シートに体重を預けた。
『“ただ最近、なぜ毎朝走っているのかとたまに聞かれます。でも答えに困ります。速く走りたい訳でもない。ストレス発散になっているかと言われればむしろ疲れる。ただ習慣だから走ってる。それだけなのです。世の市民ランナーの皆さんは、どうして走っているのでしょうか”』
そこまで聞いて、小さく笑った。
変な悩み。
でも……走ることが歯を磨くことと同じ。
そんな人も、いるんだ。
『なるほどですね。えー、最後にはこう書かれていますよ。“走ることから距離を置いていた娘が、最近また走っています。襷を受け取る日が、楽しみです”』
——え。
それから女性パーソナリティは、解決策なのかただの肯定なのか、そんな話をし始めた。
私はもう一度、父に視線を向ける。
これ、お父さんだよね?
父は運転席の窓を少しだけ開けた。
横目で私を見て、すぐに逸らした。
さすがに、それは……バレバレだよ。
私は首にかけていたタオルで、口元を覆った。
楽しみとか、思ってたんだ。
助手席の窓ガラスに反射する、微かにゆるむ父の頬を見てから、また瞼を閉じた。
習慣だから走る——
そんな理由でも、続けていいのか。
『——それでは、このお悩みも、綺麗さっぱり、トイレに流してしまいましょう』
車内には、水の流れる音だけが響き渡った。