冷徹営業トップは私の限界オタクでした~恋人編~

恋人編 第1話「今日も平常運転でした。」

陽菜子の家を出てから。
神崎は、しばらく夢の中を歩いているような感覚だった。
夜道を歩きながらも、頭の中にあるのはたった一つ。

――陽菜子さんと、キスをした。

「…………。」

自宅までは、それほど遠くない。
もともと二人の家は近所だった。
いつもなら何でもない帰り道なのに、今日は妙に長く感じる。
数時間前の出来事が、何度も頭の中で繰り返されていた。
陽菜子の頬へ触れたこと。

『キスしても、いいですか?』

そう聞いたこと。

そして。

――嫌じゃないです。

――紅夜くんなら……いいです。

許可をもらって。
自分から顔を近づけて。
陽菜子と、唇を重ねた。

「…………。」

神崎は歩きながら、自分の口元を押さえた。

「……キスした。」

小さく口にした途端。

一気に顔が熱くなる。

「無理だ……。」

思わずその場にしゃがみ込みそうになり、どうにか踏みとどまった。
ここはまだ外だ。
しかも陽菜子の家から、それほど離れていない。
今ここで叫んだら、最悪の場合、陽菜子にまで聞こえるかもしれない。
神崎は必死に口を押さえ、そのまま早足で自宅へ向かった。

数分後。
ようやく自宅へ着く。
玄関の扉を閉めた瞬間。
神崎はその場へしゃがみ込んだ。

「ギャアアアアアッ!!」

誰もいない玄関に、悲鳴が響き渡る。

「無理!!なんで俺はあんな恐れ多いことを!!」

自分から聞いた。
陽菜子も嫌ではないと言ってくれた。
それどころか。
キスのあと。

――私、嬉しかったですよ。

――紅夜くんからしてくれて。

「…………。」

神崎は両手で顔を覆った。
耳まで熱い。

「……夢では?」

あまりにも都合がよすぎる。
陽菜子と恋人になったことも。
手をつないだことも。
抱きしめたことも。

そして。
キスをしたことも。
全部。

「……いや。」

神崎はゆっくりと左手を見る。
今日、陽菜子とずっとつないでいた手。
まだ、その温もりが残っている気さえする。
神崎はその手を胸元へ当てた。

「……現実なんだ。」

陽菜子が、自分の恋人。
そして今日。
とうとうキスまでした。
神崎はふらふらとリビングへ向かい、そのままソファへ倒れ込んだ。
クッションへ顔を埋める。

「…………。」

数秒後。

「陽菜子さん、可愛かった……。」

ぼそりと呟いた。
キスをする直前。
恥ずかしそうに目を閉じた顔。
キスのあと、恐る恐る目を開けた顔。

そして。
自分が床へ崩れ落ちても、呆れながら笑ってくれた顔。
全部。
可愛かった。

「……無理。」

クッションを抱きしめたまま、神崎は丸くなる。

明日。
また会社へ行けば、陽菜子に会える。
いつも通り。
朝の挨拶をして。
予定が合えば、一緒に昼食を食べる。
それなのに。
明日は今までと違う。
昨日までの自分と陽菜子ではない。

――キスをしたあとの二人なのだ。

「…………仕事できるのか、俺。」

営業成績トップクラスの男は。
その夜、なかなか眠ることができなかった。


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