冷徹営業トップは私の限界オタクでした~恋人編~
翌朝。
陽菜子が会社へ到着し、経理部へ向かって廊下を歩いていると。
見慣れた人影があった。
経理部の入り口の前。
黒いスーツ姿の神崎が立っている。
(紅夜くん。)
その姿を見た瞬間。
陽菜子の胸が、どくんと大きく鳴った。
いつもと同じ。
会社では隙のないスーツ姿。
背筋をまっすぐ伸ばして立つ姿は、どこから見ても完璧な営業マンだった。
以前から、神崎はこうして朝に経理部まで来てくれることがあった。
挨拶をしたり。
その日の昼食の予定を聞いたり。
だから。
今日だって、何も特別なことではない。
そのはずなのに。
「春宮さん。」
陽菜子に気づいた神崎が、柔らかく微笑む。
会社なので、呼び方はいつも通り。
『春宮さん』。
「おはようございます。」
「……おはようございます。」
陽菜子も笑顔を返した。
その瞬間だった。
昨夜のことが、頭に浮かぶ。
ソファに並んで座って。
神崎が頬へ触れて。
少しずつ顔が近づいてきて。
そして――。
唇が重なった。
「…………っ。」
陽菜子の顔が、一気に熱くなった。
思わず神崎から視線をそらす。
「……春宮さん?」
「はいっ!」
声が裏返った。
神崎が少し心配そうに陽菜子の顔を覗き込む。
「どうしました?」
「な、なんでもないです。」
「ですが、顔が赤いような……。」
「だ、大丈夫です!」
陽菜子は慌てて両手で頬を押さえた。
それがいけなかった。
神崎がぴたりと固まる。
「…………。」
「神崎さん?」
神崎はじっと陽菜子を見つめていた。
そして。
何かに気づいたように、目をわずかに見開く。
「……まさか。」
「え?」
「今……。」
神崎の耳が、みるみる赤くなっていく。
「昨日のこと、思い出しました?」
「――っ!」
図星だった。
陽菜子の顔がさらに赤くなる。
「な、なんで分かるんですか!」
その反応で、答えを言ってしまったようなものだった。
「…………。」
神崎の身体がふらりと揺れる。
「神崎さん?」
「……無理です。」
「え?」
神崎は胸元をぎゅっと掴んだ。
「朝からそれは無理です……。」
「何がですか?」
「俺の顔を見ただけで昨日のキスを思い出して、そんなに真っ赤になるなんて……。」
「言わないでください!」
「ギャッ……!」
神崎は叫びかけ、慌てて自分の口を押さえた。
しかし。
経理部にいた数人が、何事かとこちらを見ていた。
「か、神崎さん!?」
陽菜子が慌てて小声で呼びかける。
神崎は必死に息を整えようとしていた。
しかし。
目の前には。
自分とのキスを思い出して、耳まで赤くなっている陽菜子がいる。
耐えられるはずがなかった。
「昨日の、その……キスのことだって、まだ処理できていないのに……。」
神崎は周囲を気にして、最後の言葉だけ声を潜めた。
「会社で言わないでください!」
「その翌朝に俺を見て思い出して赤くなるなんて、そんな……。」
「神崎さん!」
「尊すぎます……。」
とうとう神崎はその場へしゃがみ込んだ。

「神崎さん!?」
陽菜子も慌ててしゃがむ。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ではありません……。」
「昨日も同じことしてましたよね?」
「昨日より状況が悪化しています。」
「なんでですか。」
「昨日のキスを、陽菜子さんも思い出してくれていたので……。」
神崎は片手で顔を覆う。
「俺だけが一晩中思い出していたわけではなかった……。」
「一晩中?」
陽菜子が目を丸くする。
「あ。」
神崎が固まった。
「一晩中、思い出してたんですか?」
「…………。」
神崎が視線をそらす。
その耳は真っ赤だった。
陽菜子はしばらく神崎を見つめたあと。
ふふっと笑った。
「私もですよ。」
「……え?」
神崎が顔を上げる。
陽菜子は少し恥ずかしそうに笑った。
「私も今朝、起きてから昨日のこと思い出しました。」
「…………。」
「だから、紅夜く……。」
陽菜子は周囲を見て、慌てて言い直す。
「神崎さんの顔を見たら、また思い出しちゃって。」
「…………。」
神崎の目が大きく見開かれる。
「神崎さん?」
「…………春宮さん。」
「はい?」
神崎は胸元を押さえたまま、震える声で言った。
「今日はもう帰ってもいいでしょうか。」
「まだ出勤したばかりですよ?」
「仕事になる気がしません。」
「ダメです。」
即答すると。
神崎はがっくりと項垂れた。
そのとき。
経理部の奥から声が聞こえた。
「……陽菜子。」
振り返る。
恵美が自分のデスクから、こちらを見ていた。
「恵美。」
恵美は床にしゃがみ込んでいる神崎と、その隣にいる陽菜子を交互に見る。
そして。
大きなため息をついた。
「恋人になったら、少しくらい落ち着くのかと思ってた。」
「……。」
「……。」
陽菜子と神崎が同時に黙る。
恵美はさらに呆れたような顔をした。
「むしろ悪化してない?」
「……否定できません。」
神崎が真顔で答える。
陽菜子は堪えきれず笑った。
恋人になって。
手をつないで。
抱きしめて。
キスまでした。
それでも。
いや。
もしかすると、距離が近づくほど。
この人はもっと大変になっていくのかもしれない。
「そういえば、神崎さん。」
陽菜子はまだしゃがんでいる神崎を見る。
「今日はお昼、空いてますか?」
神崎が顔を上げた。
「……はい。」
「じゃあ、一緒に食べませんか?」
「…………。」
また固まった。
陽菜子は嫌な予感がして、眉を下げる。
「神崎さん?」
数秒後。
神崎は両手で顔を覆った。
「朝から幸せすぎます……。」
「お昼の約束しただけですよ?」
「キスをした翌朝に、恋人からランチへ誘っていただきました。」
「今までも何度も一緒に行ってるじゃないですか。」
「昨日までとは違います。」
聞き覚えのある言葉に。
陽菜子は思わず吹き出した。
「ふふっ。またそれですか?」
「全然違います。」
神崎は真剣な顔で言う。
けれど。
耳はまだ真っ赤だった。
陽菜子はそんな神崎を見て、楽しそうに笑った。
どうやら。
恋人になっても。
キスをしても。
神崎紅夜が自分の前で冷静になれる日は。
まだまだ、ずっと先らしい。

