冷徹営業トップは私の限界オタクでした~恋人編~
恋人編 第10話「私の限界オタクは、これからも隣にいます。」
陽菜子の誕生日は、穏やかな晴れの日だった。
約束どおり二人でケーキを選んでから、神崎の部屋へ向かった。
玄関に入ると、いつもより少しだけ華やかな景色が目に入る。
テーブルの上に、小さな花束が飾られていた。
「可愛い……。」
淡いピンクと白の花。
陽菜子が顔を寄せると、隣の神崎が静かに息をついた。
「よかったです。」
「選んでくれたの?」
「はい。」
「ありがとう。すごく好き。」
振り向いて伝えると、神崎は目を伏せた。
「……まだ、最初なんですが。」
「え?」
「いえ。何でもありません。」
コートを受け取る耳が赤い。
陽菜子は笑いながら、もう一度花束へ目を向けた。
夕食には、陽菜子が以前、美味しいと言った料理が並んだ。
サラダにスープ、それから、初めてこの部屋で食べたカルボナーラ。
「覚えててくれたんだ。」
「もちろんです。」
「これ、また食べたいと思ってたの。」
神崎の口元が、わずかに緩んだ。
食事のあと、ケーキと一緒に出てきたのは、白と深い青のマグカップだった。
陽菜子は思わず顔を上げる。
「この前の……。」
「はい。誕生日のプレゼントに。」
白い方が、陽菜子の前に置かれる。
「こちらに置いておいても、ご自宅へ持って帰っていただいても。好きな方で使ってください。」
陽菜子はカップの持ち手に指をかけた。
あの日、ガラス越しに見たときよりも、ずっと温かく感じる。
「ここに置いておいてもいい?」
神崎が頷く。
「いつ来ても、使えるようにしておきます。」
並んだ二つのカップを見ながら、陽菜子は微笑んだ。
「来る楽しみが増えちゃった。」
神崎は何か言いかけて、口を閉じた。
そのまま一度、ゆっくりと息を吸う。
陽菜子は、数日前の約束を思い出した。
誕生日に、お伝えしたいことがあります。
今日の彼は、いつも以上に丁寧だった。
皿を運ぶときも、お茶を淹れるときも、ときどき何かを確かめるように陽菜子を見る。
「……紅夜くん。」
呼びかけると、彼が顔を上げた。
「話したいことって、何?」
*
食器を片づけたあと、二人でソファに座った。
さっきまで食卓を挟んでいたのに、隣に座った途端、陽菜子まで緊張してしまう。
神崎は膝の上で手を組んでいた。
その指先に、わずかに力が入っている。
陽菜子はそっと、彼の手に触れた。
「そんなに緊張しなくても……。」
「すみません。何度も、考えてきたんですが。」
「うん。」
「陽菜子さんを前にすると、用意した言葉が、うまく出てこなくて。」
こんなときにも、仕事中の彼を思い出してしまった。
大勢の前で話すときも、難しい説明をするときも、迷いなく言葉を選ぶ人なのに。
陽菜子は手を離さず、続きを待った。
神崎が、触れていた手を包み込む。
「俺は、陽菜子さんが喜んでくださるなら、それだけでいいと思っていました。」
低く、静かな声だった。
「食事に付き合っていただけるだけでも、話をしていただけるだけでも、十分だったはずなんです。」
陽菜子は頷いた。
以前、名前も知らない誰かから届いていた差し入れ。
短い言葉しか書かれていない付箋。
あの頃から、彼はずっと自分を気にかけてくれていた。
「でも、一緒にいる時間が増えるたびに、帰したくなくなりました。」
包まれた手に、少しだけ力がこもる。
「今日あったことを、明日ではなく、その日のうちに聞きたいです。疲れて帰ってきたときに、無理に笑わなくてもいい場所を、一緒に作りたい。」
陽菜子の喉の奥が、熱くなった。
神崎は一度言葉を切り、まっすぐに彼女を見る。
「……俺が疲れたときも、隣にいてほしいです。」
その言葉が、何より嬉しかった。
何でもしてくれる人だった。
陽菜子のためならと、いつも自分のことを後回しにしてしまう人だった。
その彼が初めて、こんなふうに、自分を必要としてくれた。
「来年も、再来年も、その先も。誕生日だけではなくて、何でもない日を、陽菜子さんと一緒に過ごしたいです。」
神崎の指先が震えていた。
陽菜子は、その手を両手で握った。
「陽菜子さん。」
名前を呼ぶ声が、わずかにかすれる。
「俺と、結婚してください。」
部屋の中が、静かになった。
何か答えようとすると、先に涙がこぼれた。
神崎の顔に、一瞬で不安が浮かぶ。
「……陽菜子さん。」
「うん。」
それだけでは足りないと分かっているのに、胸がいっぱいで、言葉が続かない。
陽菜子は一度頷いてから、彼の目を見た。
「私も、一緒にいたい。」
神崎が動きを止めた。
「嬉しい日も、疲れた日も。紅夜くんが帰ってきたら、おかえりって言いたい。」
涙を拭おうとした彼の手に、自分の手を重ねる。
「私でよければ、よろしくお願いします。」
彼は、すぐには何も言わなかった。
ただ、陽菜子を見つめたまま唇を引き結び、何かを必死にこらえている。
その目元が赤くなっていくのを見て、陽菜子は泣きながら笑ってしまった。
「紅夜くん?」
「……少し、待ってください。」
「うん。」
「今、抱きしめたら、しばらく離せません。」
陽菜子の胸が、きゅっと鳴った。
自分から距離を詰めて、彼の背中へ腕を回す。
「いいよ。今日は、まだ帰らないから。」
神崎の息が止まった。
それから、壊れものに触れるような腕が背中に回り、少しずつ強くなる。
「……本当に、俺でいいんですか。」
肩口に落ちた声は、頼りないほど小さかった。
陽菜子は彼の背中を撫でた。
「紅夜くんが、いいんだよ。」
抱きしめる腕が止まり、深い息が髪を揺らした。
「……ありがとうございます。」
「こちらこそ。」
しばらくして、神崎がようやく身体を離した。
赤くなった目元を見られるのが恥ずかしいのか、少し視線を落としたまま口を開く。
「指輪は、一緒に選んでいただけますか。」
「うん。一緒に選びたい。」
「はい。」
その返事があまりに嬉しそうで、陽菜子はまた笑った。
神崎の手が頬に触れる。
唇が重なったのは、どちらからともなくだった。
そっと触れて離れたあとも、彼はすぐ近くで陽菜子を見つめていた。
「……今日も、世界一可愛いです。」
「泣いた顔なのに?」
「はい。困るくらい。」
真剣な答えに、とうとう声を立てて笑ってしまった。
神崎も、少しだけ笑った。
大きな口元から、見慣れた八重歯が覗く。
陽菜子はその頬に手を添えた。
「大好きだよ、ちくわくん。」
彼が目を閉じ、額を陽菜子の肩に預けた。
「……今、それは。」
「だめだった?」
「嬉しすぎて、顔を上げられません。」
陽菜子は笑いながら、赤茶色の髪を優しく撫でた。
会社では冷静で、誰もが頼りにする営業トップ。
その彼が今、自分の肩に顔を埋めて、幸せを持て余している。
「……顔、見せて?」
神崎はゆっくり顔を上げた。
目元も耳も赤いまま、それでも陽菜子を見る眼差しは、どこまでも優しかった。
「こんな状態で言っても、頼りないかもしれませんが。」
「うん。」
「一生、大切にします。」
陽菜子は、頬に添えられた彼の手に自分の手を重ねた。
「私にも、大切にさせてね。」
神崎の顔が、またくしゃりと歪む。
「……陽菜子さんには、一生敵いませんね。」
そう言って笑う彼に、陽菜子から唇を重ねた。
テーブルには、白と深い青のマグカップが二つ。
これから少しずつ、二人で使うものが増えていく。
別れ際の「またね」が、いつか同じ玄関で交わす「ただいま」に変わる。
そんな毎日を、この人と重ねていきたい。
「大好きだよ。」
すぐ近くで囁くと、彼は眩しそうに目を細めた。
「……愛しています、陽菜子さん。」
返事の代わりに、もう一度抱きしめた。
背中に回された腕は温かくて、陽菜子もそっと目を閉じる。
冷徹営業トップは、私の限界オタクでした。
そしてこれからは、一生をともにする、大切な家族になります。


