冷徹営業トップは私の限界オタクでした~恋人編~

恋人編 第9話「あなたとの、その先を願ってしまいます。 」

四月のある朝。
営業部に入ってきた佐藤が、いつもより少し落ち着かなかった。

席に着いては鞄を開け、閉じたかと思えば隣の神崎をちらりと見る。

三度目で、神崎は資料から目を上げた。

「何かあったか。」

「えっ。」

「相談なら聞く。」

佐藤は背筋を伸ばした。
それから、普段の勢いが嘘のように、一度言葉をのみ込んだ。

「相談っていうか、ご報告なんですけど。」

神崎は手元のペンを置いた。

「俺、彼女と婚約しました。」

すぐには返事が出なかった。

佐藤の恋人の話は、ときどき聞いていた。
学生時代から付き合っていて、別の会社で働いていることも知っている。

それでも、「婚約」という言葉は、思いがけずはっきりと耳に残った。

「……そうか。おめでとう。」

そう伝えると、佐藤の顔が一気に明るくなった。

「ありがとうございます。」

「式は?」

「まだ先です。これからお互いの親にちゃんと挨拶して、住むところも探そうって話してて。」

そこまで話したところで、通りかかった寺内が足を止めた。

「何、佐藤、結婚するの?」

「はい。まだ婚約したところですけど。」

「おめでとう。朝からいい話だな。」

肩を軽く叩かれ、佐藤は照れたように笑った。

昼休みになっても、その報告が神崎の頭に残っていた。

給湯スペースで佐藤と一緒になったとき、気づけば自分から声をかけていた。

「……決め手は、何だったんだ。」

「え?」

「結婚を申し込もうと思った。」

佐藤は紙コップを持ったまま、少し目を丸くした。

「何か、きっかけがあったのか。」

尋ね直すと、佐藤は考えるように視線を落とした。

「でかい出来事があったわけじゃないんですけど。」

いつもの軽い調子が、少しだけ和らぐ。

「一緒に住む話をしてて。場所とか、お金とか、仕事のこととか、いろいろ話したんです。」

「……ああ。」

「そういうのを一緒に考えてたら、これから先も、こうやって二人で決めていきたいなって。」

佐藤が照れ隠しのように笑った。

「格好よく決めようとは思ってたんですけど、結局、当日は結構いっぱいいっぱいでした。」

「お前でもか。」

「俺でもって何ですか。めちゃくちゃ緊張しますよ。」

想像がついた。
その場にいなくても分かるくらいに。

神崎が口元を緩めると、佐藤は少し安心したように肩の力を抜いた。

「でも、言ってよかったです。」

その一言には、迷いがなかった。

*

「気になる?」

佐藤が出ていったあと、背後から声がした。

振り向くと、寺内が空のマグカップを持って立っていた。

「……別に。」

「自分から聞いといて、それは無理があるだろ。」

神崎は黙ってコーヒーを淹れた。
寺内は追及せず、隣で湯が沸くのを待っている。

しばらくして、神崎の方から口を開いた。

「この前、来年も誕生日を祝うと言われた。」

「春宮さんに?」

「ああ。」

「よかったじゃん。」

よかった。
それは間違いなかった。

あの夜の言葉を、何度も思い返している。
来年も、再来年も。
陽菜子は、自分の未来に神崎がいることを、ごく自然に話してくれた。

「……俺は、その先も一緒にいたい。」

口にすると、思っていたよりも簡単だった。

自分が望んでいることは、ずっと前から決まっていたのかもしれない。

寺内は茶化さなかった。

「それ、本人には言ったの?」

「……まだ。」

「じゃあ、俺より先に伝える相手がいるな。」

神崎はカップへ視線を落とした。

困らせたくなかった。
急かしたくも、重いと思わせたくもない。

けれど、何も言わずに大切にしているだけでは、自分がどんな未来を望んでいるのか、彼女には伝わらない。

「ま、佐藤に先を越されたとか、そういうので焦るなよ。」

「それはない。」

すぐに答えると、寺内が笑った。

「なら、いいんじゃない。」

*

その日の夜。
陽菜子と夕食を食べた帰り道で、佐藤の婚約の話をした。

「そうなんだ。おめでたいね。」

陽菜子は嬉しそうに笑った。

「いつも彼女の話をするとき、すごく楽しそうだもんね。」

「はい。」

「今度会ったら、お祝い言わなくちゃ。」

風が吹いて、彼女が少しだけ肩をすくめる。
神崎はつないだ手を、自分のコートのポケットへ入れた。

「ありがとう。」

見上げてくる笑顔に、胸が詰まる。

この人を幸せにしたいと、ずっと思ってきた。

けれど、幸せそうに笑っている姿を見るだけでは、もう足りない。

嬉しい日も、疲れた日も。
隣にいてほしい。

自分も、その隣にいたい。

陽菜子の部屋の前で足を止めると、彼女はつないだ手を一度だけ揺らした。

「じゃあ、またね。」

神崎はその手を、すぐには離せなかった。

「紅夜くん?」

「……誕生日に、お伝えしたいことがあります。」

陽菜子が瞬きをする。

「今じゃなくて?」

「はい。ちゃんと、話したいので。」

少し緊張した顔をしたあと、彼女は静かに頷いた。

「分かった。楽しみにしていてもいい話?」

神崎は彼女の手を握り直した。

「そう思っていただけたら、嬉しいです。」

部屋に入る彼女を見送ってから、神崎は自分の家へ向かった。

ポケットの中で、贈られたキーケースに触れる。

一人で帰る部屋を思い浮かべたあと、そこに陽菜子の靴が並ぶ光景を、初めてはっきりと思い描いた。
< 10 / 11 >

この作品をシェア

pagetop