冷徹営業トップは私の限界オタクでした~恋人編~

恋人編 第2話「二人だけに分かるものが少しずつ増えていきます。」

昼休み。

陽菜子と神崎は、会社から少し離れたカフェに来ていた。

向かい合って席に座ったものの、なぜか朝から妙に落ち着かない。

理由は分かっている。

昨夜のことを思い出してしまうからだ。

陽菜子はメニューを眺めながら、ちらりと神崎を見る。

目が合った。

「……っ」

慌ててメニューへ視線を戻す。

昨夜、あの顔がすぐ目の前にあった。

そう思った瞬間、また頬が熱くなった。

「陽菜子さん。」

「は、はい!」

「……そんなに意識されると、俺も意識してしまいます。」

「ご、ごめんなさい……」

「謝らないでください。むしろ嬉しいです。」

神崎はそう言ってから、口元を手で覆った。

「俺とのキスを思い出して照れている陽菜子さん……尊い。」

「紅夜くん?」

「聞こえるように言いました。」

「なんでですか……」

「陽菜子さんが尊いという事実は、きちんとご本人にもお伝えしておきたいので。」

「もう……」

まったく悪びれる様子のない神崎に、陽菜子は思わず笑った。

それから料理が運ばれてくる頃には、二人とも少しずついつもの調子を取り戻していた。

水族館で見た魚の話。
次はどこへ行こうかという話。
会社であったちょっとした出来事。

そんな他愛もない話をしているうちに、陽菜子はふと思った。

付き合う前にも、二人で食事をしたことはある。

けれど、今は違う。

目の前にいる人は、自分の恋人なのだ。

それがなんだか嬉しくて、陽菜子は小さく笑った。

「……どうしました?」

「いえ。なんだか幸せだなって思って。」

神崎の動きが止まった。

「……はい?」

「こうして一緒にお昼を食べられるのも嬉しいですし、朝も会社に来れば紅夜くんに会えますし。」

陽菜子は何気なく続ける。

「同じ会社でよかったですね。」

神崎の動きが止まった。

「……はい?」

「だって、会社に来れば紅夜くんに会えますから。」

「ぐっ……」

神崎は胸元をぎゅっと押さえ、声を飲み込んだ。

「紅夜くん?」

「……大丈夫です。今、なんとか耐えました。」

「何にですか?」

「陽菜子さんの可愛さにです。」

「もう……」

陽菜子が照れたように笑う。
神崎は再び胸元を押さえた。

「……っ、追撃はやめてください。」

「何もしてませんよ?」

「存在してくださっているだけで十分な攻撃力です。」

「それ、褒めてます?」

「最大級に。」

やっぱり紅夜くんは紅夜くんだ。
恋人になっても、この人は変わらない。
それが陽菜子には、なんだか嬉しかった。

昼休みを終え、二人は会社へ戻った。

エレベーターを降りたところで、神崎は営業部へ、陽菜子は経理部へ向かう。

「では、春宮さん。また後で。」

会社へ戻った途端、呼び方も元通りだ。
陽菜子は少しだけ寂しくなった。
二人きりのときは『陽菜子さん』なのに。

会社では『春宮さん』。

自分だって同じように『神崎さん』と呼ばなくてはいけない。

二人が付き合っていることは、あの一件以来、営業部ではすっかり知られている。
けれど、会社全体に公表しているわけではなく、経理部をはじめ他部署にはまだほとんど知られていなかった。

「はい。神崎さんもお仕事頑張ってください。」

「ありがとうございます。」

神崎が営業部へ向かって歩き出す。
その背中を見送ってから、陽菜子も経理部へ戻ろうとした。

「あ。」

ふと、神崎が社員証を落としたことに気づく。

「紅夜くん!」

呼んだ瞬間。
神崎の足が止まった。
陽菜子も止まった。
廊下を歩いていた数人の社員が、こちらを見る。

「…………」

「…………」

やってしまった。
会社では神崎さん。
そう決めていたのに。
神崎がゆっくりと振り返る。

「ご、ごめんなさい。神崎さん。これ、落としましたよ。」

陽菜子は慌てて社員証を拾い、神崎へ差し出した。

「ありがとうございます。」

神崎はいつもの落ち着いた声で受け取った。
表情もいつも通り。
完璧な営業マンの顔だ。

よかった。

陽菜子がほっとした、そのとき。
神崎が小さな声で呟いた。

「……もう一度お願いします。」

「え?」

「今の。」

「今のって……」

「紅夜くん、のところです。」

「会社ですよ?」

「分かっています。」

神崎の耳が赤い。

「ですが、不意打ちは保存できません。」

「保存……?」

「もう一度聞けば記憶に刻めるかと。」

「しません。」

「そんな……」

「会社では神崎さんです。」

「……はい。」

明らかにしょんぼりしている。
さっきまで完璧な営業マンの顔をしていたのに。
陽菜子は思わず笑ってしまった。

「じゃあ、帰るときに。」

「……!」

神崎の顔が上がった。

「帰るときは、紅夜くんって呼びますね。」

「…………」

「神崎さん?」

神崎は片手で顔を覆った。

「……午後も頑張れます。」

「よかったです。」

「むしろ今日一日どころか、今週いっぱい働けます。」

「無理はしないでくださいね。」

「はい。春宮さん。」

会社では『春宮さん』と『神崎さん』。
二人きりになれば、『陽菜子さん』と『紅夜くん』。

付き合う前と変わらない毎日の中に、二人だけに分かるものが少しずつ増えていく。
陽菜子は、それがなんだかくすぐったくて。
でも、とても嬉しかった。
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