昨日までの片想い

昨日までの腐れ縁(三)

「また明日な」

 そう言って、Y字路で私から離れていく後ろ姿。その背中を見送る時間が、私は嫌いだ。
 だんだん小さくなっていく姿を眺めていると、自分だけがその場に取り残されたような気がする。
 背中が見えなくなれば、急に世界が広くなる。だから私は、一人になると走って帰る。
 家まで。玄関を開けるまで。そして、そこで思い出す。帰ったところで、家にも誰もいないことを。
 
 自室へ入り、制服のままベッドへ倒れ込む。
 そのまま頭まで布団を被ると、暗い空間の中で携帯の光だけが顔を照らす。
 目的もなくSNSを開き、画面を滑らせていく。
 通知が表示されれば少し期待する。
 開いてみれば、ただの広告。

「……何だよ」

 携帯を投げ捨てそうになって、やめた。
 きっと、あいつに連絡すれば、たぶん出る。私が悪態をついたって、面倒くさそうに笑うだろう。
 でも。今は学校じゃない。帰り道でもない。
 何の理由もないのに電話するのは、何となく違う気がした。

「でも、いつも笑ってるから……」

 どれだけ悪態をついても。どれだけ面倒を掛けても。あいつは、だいたいいつも笑ってくれる。
 だから甘えている。それくらいは、自分でも分かっている。
 一人でいることから目を逸らすために、動画アプリを開いて音量を上げる。

「ははっ……この猫、どんな態勢してるの」

 布団の中で、自分の乾いた笑い声だけが耳に残る。
 次はどの動画を観ようか。画面をスクロールして、動画のサムネを見て、適当な動画を選んでいく。
 面白くなければ、次の動画へ。面白くても、コメント欄と並行して眺めて。
 時間の消費。この退屈な時間が少しでも減るように。
 動画の向こうで、楽しそうにゲームをしている人たち。一人でいると、それすら、羨望の対象で。

「……寝よ」

 眠くなんてない。
 それでも携帯を伏せ、目を閉じる。
 それと同時に通知音が鳴った。

「また広告……」

 面倒くさそうに画面を見る。
 着信。
 表示された名前を見た。身体が勝手に動いた。布団から飛び出し、ベッドの上で身体を起こす。
 たったそれだけで、世界は明るくなる。

『お、出た出た』

 電話の向こうから、いつもと変わらない声が聞こえる。

「なにか用? 勉強で忙しいんだけど」
『明日の英語の範囲でさ。文法が──』

 最後まで聞く前にベッドから降り、リュックを開ける。
 数学。
 国語。
 これも違う。

「英語どこやったっけ……」
『おーい、聞いてるか』
「聞いてない。英語が何だって」

 引き出しを開け、ようやく目的のノートを見つける。
 ページを捲(めく)れば、自分でも目が痛くなりそうなくらい色だらけだった。
 赤。青。緑。蛍光ペンだらけのノート。でも、あいつがこれを分かりやすいと言ったから。

「ノート、写真で送ればいいの?」
『教えてくれないのかよっ!』

 思わず笑った。
 電話越しの勉強会が始まる。英語の教科書とノートを開き、聞かれたところを一つずつ説明していく。
 質問されれば、すぐ答え。教えるのは嫌いじゃない。
 むしろ。
 頼られるのは、少し気分がいい。
 さっきまで、あんなに進まなかった時間が、今は勝手に流れていく。

『いや、まじで助かったわ』
「今日のあんまんのお返しだから。これでチャラね」
『ちっちぇーな』

 もう少し。そう思った。
 何か話題はないだろうかと部屋の中へ視線を向ける。
 でも、何もない。
 電話の向こうから、あいつを呼ぶ家族の声が聞こえてきた。
 私は、無意識に自分の部屋を見渡す。電気も点けていない。物も少ない。家族が帰ってくるのは、まだずっと先だ。

『悪い。飯だって言うから、一旦切るわ』
「あっそ」

 軽く返した。
 でも、携帯を耳から離す気にはなれなかった。
 また動画でも見るか。SNSも、もう見飽きた。また暗い布団へ戻るしかない。

『あ、そうだ』
「まだ何か用?」
『時間はお前に合わせるんだけどさ。後で、物理も教えてほしくて』
「物理?」

 頭の中を英語から切り替える。

「一年の総復習のはずだから、等速直線運動とか──」
『お前、よくそんなすらすら出てくるな……後で! 後で教えてくれ! 今は英語で体力使い切った』
「何それ」
『じゃ、また後でな』

 通話が切れた。
 一瞬で、部屋が静かになる。壁掛け時計の秒針だけが、カチ、カチ、と音を立てていた。
 私はそのままベッドへ倒れ込む。
 静寂が、はっきりと存在を主張してくる。

「あ……ご飯とお風呂、先に済ませとこ」

 次にいつ電話が掛かってくるか分からない。
 だから、今のうちに──。
 私は、急いで部屋を後にする。いつでも電話に出られるように、携帯を手に持ったまま。
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