好きになる前に、恋人になった――いつか、君につながる

あなた自身は?

――凱――

宮本奈緒を初めて見たとき、別に、何かを感じたわけじゃない。

5か月前。上海。

俺がアンバサダーを務めるブランド「TOVEN(トヴェン)」の企画会議。
会議室に入ると、TOVENのブランド責任者がすぐに立ち上がった。

「Dean(ディーン),好久不见」
(Dean、お久しぶりです)

Deanは、俺の英語名だ。

「好久不见」
(お久しぶりです)

その隣に、一人の女性が立っていた。濃紺のジャケットに、細身のパンツ。
ブランド責任者が、彼女へ視線を向けた。

「Dean,这是VERA的宫本奈绪,她是这次粉丝见面会项目VERA这边的负责人」
(Dean、こちらVERA(ヴェラ)の宮本奈緒(みやもとなお)さん。今回のファンミーティングでVERA側の責任者です)

女性が一歩前に出て、名刺を差し出す。

「吴先生,您好。我是VERA的宫本奈绪,如果方便的话,您叫我奈绪就好。很高兴认识您」
(呉さん、初めまして。VERAの宮本奈緒です。よろしければ、奈緒と呼んでください。お会いできて嬉しいです)

名刺を受け取る。

Nao Miyamoto
宮本奈緒

VERA
Senior Manager, Brand Strategy
Tokyo / Shanghai

中国人の名前じゃなさそうだ。Tokyo……日本人だろうか。

「你好,奈绪。请多关照」
(初めまして、奈緒。よろしくお願いします)

奈緒。

目の前の女性は、柔らかく笑った。
中国語は流暢だったが、少しだけ母語ではないとわかる響きがある。

責任者にしては若いな、とは思った。まあ外資だし、実力主義なんだろう。仕事がしやすいといい。
ただ、それだけだった。

俺の隣にはマネージャーの小明(シャオミン)が座った。
今回、上海で俺の大規模なファンミーティングを開催することになっていた。そのイベントを後援するのがTOVENだ。

VERA社はブランド側から依頼を受け、今回のイベントを取りまとめていると聞いている。奈緒が、その中心にいるわけか。

会議が始まった。
ブランド責任者が、応募状況を共有する。

「活动报名开放以后,报名人数已经超过了原来预计的3倍」
(イベントの募集を開始してから、応募人数は当初の想定の3倍を超えています)

小さなどよめきが起きた。珍しいことじゃない。
その数字を前提に、今度は演出の話に移った。

ブランド側は、もっと印象に残る演出を求めている。制作側は、ステージを客席の中央まで延ばす案を出した。小明は安全面を懸念している。ステージを延ばせば、それだけ俺とファンの距離も近くなる。

警備をつけるという話も出たが、小明は譲らなかった。かといって、距離を取れば客席が減る。ブランド側も難色を示している。

なかなか話がまとまらない。
俺は画面を確認しながら、やり取りを聞いていた。

別に、意見がないわけじゃない。
作品を作るときなら、監督や演出と話すことも多い。役について思うことがあれば、俺も言う。

でも、今日は違う。俺が決める場じゃない。
まあ、いずれ落ち着くだろう。そんなふうに、どこか他人事みたいに見ていたところはある。

途中、奈緒の声が耳に入った。
柔らかいのに、よく通る声だなと思った。

しばらくして、奈緒がPCから手を離した。

「我觉得,我们可以把目的和实现方式分开考虑」
(目的と、それを実現する方法は、分けて考えてもいいと思います)

会議室が少し静かになった。
奈緒は続けた。

「品牌真正需要的,是让话题进一步扩大,对吗?」
(ブランド側が本当に必要としているのは、話題の広がりですよね)

ブランド責任者がうなずく。

「比如,把一部分内容留到活动结束后再发布,让话题持续下去,您觉得怎么样?」
(たとえば、一部のコンテンツをイベント後に公開して、話題を広げていくのはどうでしょう?)

ん?
空気が変わったな。

ブランド責任者の顔が明るくなった。
奈緒はステージ図面に画面を切り替え、今度は制作側へ視線を向けた。

「那延伸台能不能缩短一点,不进入观众区?」
(では、延伸ステージを少し短くして、観客席には入らない形にできますか?)

制作側が図面を見直す。調整できるらしい。
奈緒は小明にも安全面を確認した。

「这样会好很多」
(それなら、かなり良くなります)

話が少しずつ動いていく。
奈緒は誰かの意見を押し切るわけじゃない。それぞれの話を聞きながら、絡まっていたものをひとつずつほどいて、もう一度つなぎ直している。

気づけば、さっきまでぶつかっていた話が、1つの案にまとまり始めていた。

整理がうまいな。
仕事ができる。

思わず、少し口元が緩んだ。

でも、それだけだ。
俺の周りには、優秀な人間なんていくらでもいる。

制作側が修正した案をモニターに映した。ブランド側が確認し、小明も動線をもう一度見ている。
このまま話がまとまるのだろうと思った。

けれど、奈緒はまっすぐ俺を見た。

ん?

「吴先生」
(呉さん)

「嗯?」
(はい)

俺?

「吴先生,您觉得这个方案适合您吗?」
(呉さん、このプランはご自身に合っていると思いますか?)

会議室にいた何人かが、俺を見る。
奈緒も見ている。

へぇ。

俺に聞くんだ。

ファンミーティングなんだから、俺の意見を聞かれること自体は不思議じゃない。
ただ、俺がこういう会議に参加する頃には、案はもうほぼ固まっている。小明たちが事前に調整してくれているから、俺は最後に確認するだけでいい。

だいたい、そういうものだ。

なのに、この段階で聞くんだ。
この人、ブランド側の人間だよな。

このまま話をまとめたいはずだろうに。今さら俺が違うことを言ったら、どうするつもりなんだ。
でも、ただ賛成してほしいわけでもなさそうだ。

奈緒は、まっすぐ俺の答えを待っている。

「先把品牌和我们这些人的想法放在一边」
(ブランドや私たちの考えは、いったん置いておいて)

少しだけ身を乗り出した。

「您自己呢?您希望这次活动带给粉丝怎样的一段时光?」
(あなた自身は? 今回のイベントをどんな時間にしたいですか?)

俺自身は、今回のイベントをどんな時間にしたいのか。
俺は、すぐには答えなかった。

へぇ。
面白いな、この人。
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