触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜
第十章 嫉妬を煽る秘書
翌朝。
玲奈がダイニングへ入った時、隼人はもう朝食を終えかけていた。
窓の外には薄い雲が広がり、昨夜の雨が庭の木々に細かな雫を残している。
いつもと変わらない朝。
白いテーブルクロス。
焼きたてのパンの香り。
静かに動く使用人たち。
それなのに玲奈は、向かい側に座る夫をどうしても意識してしまった。
昨夜。
ホテルのラウンジへ突然現れた隼人。
九条蓮と二人で話していただけなのに、明らかに不機嫌だった。
しかも。
『九条とは二人になるな』
そう言ったくせに、玲奈が断ると何度も食い下がった。
最後には自分の車まで残していった。
嫉妬深い夫だ。
蓮の言葉が頭から離れない。
(まさか……ね)
玲奈は自分で否定する。
隼人が嫉妬している?
自分に?
そんな都合のいい話があるはずがない。
だったらどうして、香月美月とは平気でホテルの部屋に二人きりでいられるのだ。
あれ以来、隼人はその件をきちんと説明していない。
何もなかったとも。
美月を特別に思っていないとも。
「玲奈」
名前を呼ばれ、玲奈は顔を上げた。
「はい」
隼人の視線が玲奈の手元へ向く。
「紅茶が冷めている」
見ると、ほとんど口をつけていなかった。
「考え事をしていました」
「昨日のことか」
玲奈の手が止まる。
「昨日?」
「九条と会っていた件だ」
やはりそこなのだ。
玲奈の胸に小さな苛立ちが生まれた。
「仕事の打ち合わせです」
「それは聞いた」
「なら、もういいでしょう?」
「よくない」
即答だった。
玲奈は目を瞬いた。
隼人はコーヒーカップを置く。
「今後、九条と二人で会う必要がある時は、先に俺へ言え」
「どうしてですか?」
「どうしてもだ」
「それでは分かりません」
「玲奈」
「私、隼人さんの許可をいただかないと仕事もできないんですか?」
声を荒げたつもりはなかった。
けれど隼人の表情が少し変わる。
「許可とは言っていない」
「同じです」
「違う」
「では何ですか?」
玲奈はまっすぐ隼人を見る。
「九条さんと二人で会うと、何か問題があるんですか?」
隼人が一瞬、答えに詰まった。
玲奈は待った。
けれど返ってきたのは、
「あいつは信用できない」
という言葉だけだった。
胸の奥が少し沈む。
やっぱり。
玲奈自身を気にしているわけではない。
黒川のライバル会社だから。
九条蓮が信用できないから。
それだけなのだ。
「九条さんは、私にきちんと仕事を教えてくださいます」
「俺に聞けばいいだろう」
思いがけない言葉だった。
玲奈は隼人を見る。
「……隼人さんに?」
「ああ」
「でも、忙しいでしょう?」
「時間くらい作る」
「今まで作ってくださらなかったのに?」
言ってしまってから、玲奈の胸が痛んだ。
隼人も黙る。
責めるつもりではなかった。
ただ。
何度も二人の予定は仕事に奪われた。
玲奈が隼人の会社を訪ねれば、美月がそばにいた。
そして隼人自身も、玲奈に仕事の話をしたことなどほとんどない。
「……すみません」
玲奈は視線を下げた。
「言いすぎました」
「いや」
隼人は短く答えた。
しばらくして、
「今日は大学だけか」
と話題を変える。
玲奈もそれ以上は触れなかった。
「午後から一条本社へ行きます」
隼人の眉が少し動く。
「九条も来るのか」
また。
玲奈は少し呆れた。
「今日は来ません」
「そうか」
明らかに声が軽くなった気がする。
玲奈は思わず隼人を見る。
「何ですか?」
「何が」
「いえ……」
やっぱり分からない。
この人は時々、玲奈が期待してしまいそうな態度を取る。
けれど、その期待を確かめようとすると何も言ってくれない。
玲奈は紅茶を一口飲んだ。
少し冷めていた。
同じ日の午前。
黒川ホールディングス本社。
隼人が役員会へ出ている間、美月は自分のデスクで一通のメールを開いていた。
差出人は、ある調査会社。
依頼したのは昨夜。
件名には簡潔に、
《九条蓮氏・直近行動資料》
とある。
美月は添付された写真を開いた。
ホテルラウンジ。
窓際の席。
玲奈と蓮が向かい合っている。
一枚目は、資料を見ながら笑う玲奈。
二枚目。
蓮が何かを話し、玲奈が身を乗り出している。
そして三枚目。
二人の手がテーブルの上で重なって見える瞬間。
実際は資料が落ちそうになったところを押さえただけ。
美月には分かっていた。
昨夜、その場に居合わせた人間から状況も聞いている。
それでも。
写真だけを見れば話は違う。
若い男女がホテルのラウンジで二人きり。
楽しそうに笑い。
手まで触れている。
「……十分ね」
美月は小さく呟いた。
昨夜。
隼人は予定していた会食へ向かう直前まで、玲奈のことを気にしていた。
会食後も秘書へ一度、
『玲奈は帰宅したか』
と確認している。
七年間隼人を見てきた美月には、それがどれだけ異例か分かる。
今までの隼人なら、誰がどこで誰と会っていようと興味を持たなかった。
玲奈だけが違う。
だから――。
利用できる。
隼人が玲奈を大切に思っているなら、その感情を逆手に取ればいい。
嫉妬させる。
疑わせる。
そして二人を喧嘩させる。
玲奈が隼人に傷つけられたと思う回数を増やせばいい。
やがて玲奈自身が、この結婚を諦めるまで。
美月は写真のうち、最も親密に見える二枚だけを保存した。
午前十一時。
役員会を終えた隼人が執務室へ戻る。
美月はいつも通り資料を持って入った。
「お疲れ様でした」
「ああ」
隼人がジャケットを脱ぎ、椅子へ座る。
「次は?」
「十二時半から東洋製薬の役員との会食です。その後十四時から開発部との打ち合わせ」
「分かった」
美月はファイルを机へ置いた。
「それと……」
わざと少し言いにくそうに声を落とす。
隼人が顔を上げる。
「何だ」
「申し上げるべきか迷ったのですが」
「仕事なら言え」
「仕事ではありません」
隼人の眉がわずかに寄る。
美月はスマートフォンを取り出した。
「昨日のことです」
画面へ写真を表示する。
そして隼人の前へ置いた。
隼人の視線が落ちる。
数秒。
何も言わない。
美月はその反応を待った。
「どうしてこれを持っている」
第一声は低かった。
美月はあらかじめ用意していた答えを口にする。
「昨夜、取引先の方から送られてきました」
嘘ではない。
正確には、美月が頼んで送らせた。
「黒川夫人が九条社長と親しそうにしている、と」
隼人の顔から表情が消える。
写真には、玲奈が笑っている。
蓮も笑っている。
そして次の写真では、蓮の手が玲奈の手へ重なって見える。
「私は削除をお願いしたのですが」
美月は困ったように眉を下げた。
「財界では、こういう写真はすぐに広まりますから」
「誰に送られた」
「今のところ私だけだと思います」
「相手の名前を出せ」
「隼人さん」
「香月」
有無を言わせない声。
美月は静かに名前を告げた。
隼人は写真から目を離さない。
「玲奈は、最近九条社長とよくお会いになっているのでしょうか」
「仕事だ」
「そうなのですね」
「余計な憶測をするな」
「もちろんです」
美月はすぐに答えた。
けれど。
あえて、次の言葉を加える。
「ただ……少し意外でした」
隼人の視線が上がる。
「何が」
「玲奈様が、あんなに楽しそうに男性とお話しされる方だったなんて」
空気が変わった。
美月は心の中で笑った。
図星。
隼人自身も昨夜感じたことなのだろう。
自分の前では見せない笑顔を、玲奈が蓮には向けている。
「大学では、男性のお友達も多いのでしょうか」
「知らない」
短い返事。
「神谷さんとも親しくしていらっしゃいますものね」
今度は亮の名前を出す。
隼人の眉が寄った。
「何が言いたい」
「何も」
美月は穏やかに微笑む。
「ただ、玲奈様はお若いですから。隼人さんだけの世界で暮らす必要はありませんものね」
隼人の目が鋭くなる。
美月はすぐに頭を下げた。
「失礼いたしました」
それ以上は言わない。
十分だった。
種は落とした。
あとは隼人自身が勝手に考える。
玲奈が誰と会っているのか。
誰に笑っているのか。
誰と親しくなっているのか。
嫉妬という感情は、一度自覚すれば簡単には消えない。
午後三時。
一条化粧品本社。
玲奈は商品開発部のデスクで、新商品のサンプルを確認していた。
「こちらが改良版です」
担当者が小さなボトルを並べる。
「前より軽くなっていますね」
「容器を変更しました」
玲奈は一本手に取る。
透明感のある薄桃色。
以前よりずっと若い女性が持ち歩きやすいデザインになっている。
「可愛い」
玲奈は笑った。
「大学の友達にも見てもらっていいですか?」
「もちろんです。社外秘の部分だけお気をつけください」
「分かりました」
そこへ受付から内線が入った。
「玲奈様にお届け物がございます」
「私に?」
「はい。九条コーポレーションからです」
玲奈の手が止まる。
数分後。
社員が細長い箱を持ってくる。
「九条社長からだそうです」
周囲の女性社員が少しざわついた。
「九条社長から?」
「何でしょうね」
玲奈は困った。
「仕事の資料じゃないんですか?」
箱を開ける。
中に入っていたのは一本の万年筆だった。
深い紺色。
金具は控えめな銀色。
派手ではないが、見るからに上質なもの。
添えられたカード。
《数字を書くなら、そろそろちゃんとした道具を使え。次の試算表も期待してる。 蓮》
玲奈は思わず眉を寄せた。
「……呼び捨てで書かないでほしい」
そこへ女性社員が笑う。
「でも素敵ですね」
「かなり高いものじゃないですか?」
「受け取れません」
玲奈はすぐに箱を閉じようとした。
けれど商品開発部長の三浦が、
「仕事上の激励なら、あまり深く考えなくてもいいのでは?」
と言う。
「でも……」
「九条さんはそういう人です。取引相手にもよく贈り物をしますよ」
そうなのだろうか。
玲奈は少し迷った。
それでも個人的な贈り物に見える。
「あとでお礼をして、次からはお気遣いなくって伝えます」
「それがいいですね」
玲奈は箱を自分のバッグへ入れた。
その様子を。
少し離れた場所から亮が見ていた。
「神谷さん」
玲奈が気づく。
「何ですか、その顔」
「何も」
「絶対何か言いたそうです」
「俺の立場からは、何とも」
「隼人さんみたい」
亮がわずかに苦笑した。
「旦那様なら、おそらく俺より面倒だと思います」
玲奈は目を瞬いた。
「どういう意味ですか?」
「いえ」
「神谷さん」
「帰りましょう。今日は少し雨が降りそうです」
話を逸らされた。
玲奈は首を傾げながら、バッグを持った。
⸻
午後七時過ぎ。
玲奈が黒川邸へ戻ると、珍しく隼人の車が玄関前に停まっていた。
「帰っている……」
胸が少し弾んだ。
朝は気まずいまま別れた。
だからこそ、今夜は少し普通に話したかった。
「ただいま戻りました」
玄関へ入る。
佐和子が迎える。
「お帰りなさいませ、玲奈様」
「隼人さんは?」
「書斎にいらっしゃいます」
「今日は早いんですね」
「予定を一つ変更されたそうです」
玲奈は少し驚いた。
普段の隼人なら、仕事の予定を簡単には変更しない。
それでも帰っているなら。
一緒に夕食を食べられるかもしれない。
「着替えてきます」
玲奈が階段へ向かおうとした時。
「玲奈」
背後から声。
振り返る。
隼人が廊下の奥から歩いてくる。
「お帰りなさい」
玲奈は笑った。
しかし。
隼人の表情はいつもより険しい。
「今日、一条へ行ったな」
「はい」
「九条とは会ったか」
玲奈の笑顔が止まる。
また。
最初に聞くのはそれなのだ。
「今日は会っていません」
「本当に?」
胸がちくりと痛んだ。
「……疑っているんですか?」
隼人がわずかに表情を変える。
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味ですか?」
「確認しただけだ」
玲奈はバッグの持ち手を握った。
「私、嘘なんてつきません」
「分かっている」
「だったら何度も聞かないでください」
「玲奈」
声に少し苛立ちが混じる。
隼人も何かを我慢しているようだった。
玲奈はそれが分からない。
「九条から何か連絡は?」
今度こそ。
玲奈は目を見開いた。
どうして。
「……ありました」
隼人の表情が変わる。
「何が」
「仕事のことで」
「具体的に」
問い詰められているようで、玲奈の胸に反発が生まれる。
「どうして全部報告しないといけないんですか?」
「俺は夫だ」
玲奈の胸が強く痛んだ。
その言葉。
最近になって、隼人はよく使う。
夫。
妻。
けれど玲奈がその意味を確かめたい時には、何も言わない。
「夫なら、妻の交友関係を全部管理するんですか?」
「そうじゃない」
「そう聞こえます」
隼人が何か言いかける。
その時。
玲奈がバッグを持ち直した拍子に、中から細長い箱が少し見えた。
隼人の視線が止まる。
「それは何だ」
玲奈も見る。
万年筆の箱。
嫌な予感がした。
「仕事でいただいたものです」
「誰から」
聞かなくても分かっているような声だった。
玲奈は少し迷ってから答える。
「九条さんです」
隼人の顔から表情が消えた。
「見せろ」
「え?」
「それ」
「どうして?」
「いいから」
玲奈はしばらく隼人を見つめた。
それから箱を取り出す。
隼人が受け取る。
蓋を開ける。
紺色の万年筆。
そしてカード。
隼人の視線が止まる。
《次の試算表も期待してる。 蓮》
明らかに空気が変わった。
「……蓮?」
低い声。
玲奈は眉を寄せる。
「カードに書いてあるだけです」
「いつから名前でやり取りする仲になった」
「私は九条さんと呼んでいます」
「向こうは違う」
「知りません」
玲奈もだんだん腹が立ってきた。
「返せ」
隼人が言った。
「え?」
「これは返せ」
「どうしてですか?」
「個人的な贈り物だ」
「仕事の激励です」
「万年筆を贈る必要はない」
「そんなの、隼人さんが決めることでは――」
「ある」
隼人の声が少し強くなる。
玲奈も譲らなかった。
「ありません」
「玲奈」
「私がいただいたものです」
「だからこそだ」
「意味が分かりません」
本当に分からない。
隼人は自分が美月とホテルにいても説明しない。
美月にネクタイを直されても。
ジャケットを貸しても。
何も気にしない。
なのに。
玲奈が仕事相手から万年筆を一つもらっただけで、この態度。
「隼人さん」
玲奈は静かに聞いた。
「私が九条さんから何かをもらうのは、そんなに嫌なんですか?」
「ああ」
あまりにも早い返事。
玲奈の胸が大きく動いた。
「……どうして?」
今度こそ。
聞いた。
隼人は玲奈を見る。
答えられない。
ほんの数秒。
その時間が長く感じた。
そして。
「九条だからだ」
玲奈の中で、何かがしぼんだ。
やっぱり。
黒川のライバルだから。
それだけ。
玲奈は小さく笑った。
「そうですか」
「玲奈」
「でしたら、私にも一つお願いがあります」
「何だ」
玲奈は隼人をまっすぐ見る。
「香月さんと二人きりにならないでください」
隼人が止まる。
「……何?」
「私が九条さんから贈り物をいただくのが嫌なら」
胸は痛かった。
それでも言う。
「私は、隼人さんが香月さんとホテルの部屋で二人になるのが嫌です」
初めて。
はっきり口にした。
隼人の目がわずかに見開かれる。
「玲奈」
「できますか?」
隼人が答えない。
仕事だ。
そう言うのだろう。
美月は秘書だから。
必要だから。
それなら玲奈だって同じだ。
蓮は仕事相手。
「……できないでしょう?」
玲奈は自分でも驚くほど静かな声で言った。
「私だけ駄目なのは、おかしいです」
隼人の顔に、初めて迷いが浮かんだ。
「香月とは仕事だ」
「私も仕事です」
「同じじゃない」
「どう違うんですか?」
隼人は答えられない。
玲奈の胸が苦しくなる。
「私は隼人さんの妻だから、九条さんとは距離を取らないといけない」
玲奈は続けた。
「では、隼人さんは私の夫でしょう?」
その言葉に隼人の表情が変わる。
「夫なら、私が嫌だと思うことも少しくらい気にしてくださってもいいんじゃないですか?」
言い終えた途端。
泣きそうになった。
それだけは嫌だった。
玲奈は隼人から万年筆の箱を取り返す。
「夕食は部屋でいただきます」
「玲奈、待て」
「今は話したくありません」
「俺は――」
「何ですか?」
玲奈が振り返る。
隼人の言葉が止まる。
ここでも。
何も言ってくれない。
玲奈は小さく頭を下げた。
「おやすみなさい」
そのまま階段を上がった。
⸻
一人残された玄関ホール。
隼人はしばらく動けなかった。
――私は、隼人さんが香月さんとホテルの部屋で二人になるのが嫌です。
玲奈が。
嫌だと言った。
嫉妬していたのか。
今まで。
ネクタイ。
出張。
ホテル。
美月との距離。
隼人にとっては、すべて仕事だった。
美月を女性として意識したことなど一度もない。
だから。
玲奈が嫌がる可能性を、真剣に考えたことがなかった。
自分は玲奈が九条と笑っているだけで腹が立つ。
手が触れている写真一枚で、仕事が手につかなくなる。
贈り物まで見つければ、返せと言った。
それなのに。
玲奈にだけ、
『仕事だから気にするな』
と言えるのか。
「……最低だな」
自分でも分かった。
隼人は額へ手を当てた。
その時。
スマートフォンが鳴る。
画面には美月の名前。
数秒見つめてから出る。
「何だ」
『隼人さん。明日の海外案件ですが、ホテル側から会議室の確認が――』
「香月」
『はい?』
「今後、二人だけで客室を使う打ち合わせは入れるな」
電話の向こうが静かになる。
『……どうされたのですか?』
「必要なら会議室を取れ」
『機密性の高い案件では、これまで――』
「方法は考えろ」
美月はしばらく黙った。
『奥様に、何か言われましたか?』
隼人の眉が寄る。
「関係ない」
『……承知しました』
電話を切る。
隼人は階段を見上げる。
玲奈の姿はもう見えない。
謝るべきなのだろう。
それくらい分かる。
けれど。
玲奈の部屋へ行って何を言えばいい。
『嫉妬していた』
そんな言葉。
今まで誰かを好きだと口にしたことすらほとんどない男に、簡単に言えるはずがなかった。
隼人はまだ知らない。
その夜。
美月が電話を切ったあと。
自分のデスクでスマートフォンを強く握りしめていたことを。
「……玲奈」
美月は低く呟いた。
ついに。
玲奈が自分との距離を隼人へ問題にした。
そして隼人は、それを受け入れた。
七年間。
誰にも変えられなかった仕事のやり方を。
玲奈の一言で。
「そんなの……認めない」
美月の瞳から、これまでの余裕が少しずつ消えていく。
玲奈を不安にさせれば、離れていくと思っていた。
ところが逆だった。
玲奈は少しずつ、自分の気持ちを隼人へ伝え始めている。
なら。
次はもっと強く。
玲奈が隼人へ何も求められなくなるほど。
夫婦の間に、決定的な誤解を作らなければならない。
美月は机の上に置かれた隼人の翌月の予定表へ視線を落とした。
その中の一つの日付で、指が止まる。
玲奈の誕生日。
隼人が珍しく、夜の予定をすべて空白にしていた。
美月はその欄をじっと見つめる。
そして。
ゆっくりと微笑んだ。
次に壊す約束は――。
もう決まった。
玲奈がダイニングへ入った時、隼人はもう朝食を終えかけていた。
窓の外には薄い雲が広がり、昨夜の雨が庭の木々に細かな雫を残している。
いつもと変わらない朝。
白いテーブルクロス。
焼きたてのパンの香り。
静かに動く使用人たち。
それなのに玲奈は、向かい側に座る夫をどうしても意識してしまった。
昨夜。
ホテルのラウンジへ突然現れた隼人。
九条蓮と二人で話していただけなのに、明らかに不機嫌だった。
しかも。
『九条とは二人になるな』
そう言ったくせに、玲奈が断ると何度も食い下がった。
最後には自分の車まで残していった。
嫉妬深い夫だ。
蓮の言葉が頭から離れない。
(まさか……ね)
玲奈は自分で否定する。
隼人が嫉妬している?
自分に?
そんな都合のいい話があるはずがない。
だったらどうして、香月美月とは平気でホテルの部屋に二人きりでいられるのだ。
あれ以来、隼人はその件をきちんと説明していない。
何もなかったとも。
美月を特別に思っていないとも。
「玲奈」
名前を呼ばれ、玲奈は顔を上げた。
「はい」
隼人の視線が玲奈の手元へ向く。
「紅茶が冷めている」
見ると、ほとんど口をつけていなかった。
「考え事をしていました」
「昨日のことか」
玲奈の手が止まる。
「昨日?」
「九条と会っていた件だ」
やはりそこなのだ。
玲奈の胸に小さな苛立ちが生まれた。
「仕事の打ち合わせです」
「それは聞いた」
「なら、もういいでしょう?」
「よくない」
即答だった。
玲奈は目を瞬いた。
隼人はコーヒーカップを置く。
「今後、九条と二人で会う必要がある時は、先に俺へ言え」
「どうしてですか?」
「どうしてもだ」
「それでは分かりません」
「玲奈」
「私、隼人さんの許可をいただかないと仕事もできないんですか?」
声を荒げたつもりはなかった。
けれど隼人の表情が少し変わる。
「許可とは言っていない」
「同じです」
「違う」
「では何ですか?」
玲奈はまっすぐ隼人を見る。
「九条さんと二人で会うと、何か問題があるんですか?」
隼人が一瞬、答えに詰まった。
玲奈は待った。
けれど返ってきたのは、
「あいつは信用できない」
という言葉だけだった。
胸の奥が少し沈む。
やっぱり。
玲奈自身を気にしているわけではない。
黒川のライバル会社だから。
九条蓮が信用できないから。
それだけなのだ。
「九条さんは、私にきちんと仕事を教えてくださいます」
「俺に聞けばいいだろう」
思いがけない言葉だった。
玲奈は隼人を見る。
「……隼人さんに?」
「ああ」
「でも、忙しいでしょう?」
「時間くらい作る」
「今まで作ってくださらなかったのに?」
言ってしまってから、玲奈の胸が痛んだ。
隼人も黙る。
責めるつもりではなかった。
ただ。
何度も二人の予定は仕事に奪われた。
玲奈が隼人の会社を訪ねれば、美月がそばにいた。
そして隼人自身も、玲奈に仕事の話をしたことなどほとんどない。
「……すみません」
玲奈は視線を下げた。
「言いすぎました」
「いや」
隼人は短く答えた。
しばらくして、
「今日は大学だけか」
と話題を変える。
玲奈もそれ以上は触れなかった。
「午後から一条本社へ行きます」
隼人の眉が少し動く。
「九条も来るのか」
また。
玲奈は少し呆れた。
「今日は来ません」
「そうか」
明らかに声が軽くなった気がする。
玲奈は思わず隼人を見る。
「何ですか?」
「何が」
「いえ……」
やっぱり分からない。
この人は時々、玲奈が期待してしまいそうな態度を取る。
けれど、その期待を確かめようとすると何も言ってくれない。
玲奈は紅茶を一口飲んだ。
少し冷めていた。
同じ日の午前。
黒川ホールディングス本社。
隼人が役員会へ出ている間、美月は自分のデスクで一通のメールを開いていた。
差出人は、ある調査会社。
依頼したのは昨夜。
件名には簡潔に、
《九条蓮氏・直近行動資料》
とある。
美月は添付された写真を開いた。
ホテルラウンジ。
窓際の席。
玲奈と蓮が向かい合っている。
一枚目は、資料を見ながら笑う玲奈。
二枚目。
蓮が何かを話し、玲奈が身を乗り出している。
そして三枚目。
二人の手がテーブルの上で重なって見える瞬間。
実際は資料が落ちそうになったところを押さえただけ。
美月には分かっていた。
昨夜、その場に居合わせた人間から状況も聞いている。
それでも。
写真だけを見れば話は違う。
若い男女がホテルのラウンジで二人きり。
楽しそうに笑い。
手まで触れている。
「……十分ね」
美月は小さく呟いた。
昨夜。
隼人は予定していた会食へ向かう直前まで、玲奈のことを気にしていた。
会食後も秘書へ一度、
『玲奈は帰宅したか』
と確認している。
七年間隼人を見てきた美月には、それがどれだけ異例か分かる。
今までの隼人なら、誰がどこで誰と会っていようと興味を持たなかった。
玲奈だけが違う。
だから――。
利用できる。
隼人が玲奈を大切に思っているなら、その感情を逆手に取ればいい。
嫉妬させる。
疑わせる。
そして二人を喧嘩させる。
玲奈が隼人に傷つけられたと思う回数を増やせばいい。
やがて玲奈自身が、この結婚を諦めるまで。
美月は写真のうち、最も親密に見える二枚だけを保存した。
午前十一時。
役員会を終えた隼人が執務室へ戻る。
美月はいつも通り資料を持って入った。
「お疲れ様でした」
「ああ」
隼人がジャケットを脱ぎ、椅子へ座る。
「次は?」
「十二時半から東洋製薬の役員との会食です。その後十四時から開発部との打ち合わせ」
「分かった」
美月はファイルを机へ置いた。
「それと……」
わざと少し言いにくそうに声を落とす。
隼人が顔を上げる。
「何だ」
「申し上げるべきか迷ったのですが」
「仕事なら言え」
「仕事ではありません」
隼人の眉がわずかに寄る。
美月はスマートフォンを取り出した。
「昨日のことです」
画面へ写真を表示する。
そして隼人の前へ置いた。
隼人の視線が落ちる。
数秒。
何も言わない。
美月はその反応を待った。
「どうしてこれを持っている」
第一声は低かった。
美月はあらかじめ用意していた答えを口にする。
「昨夜、取引先の方から送られてきました」
嘘ではない。
正確には、美月が頼んで送らせた。
「黒川夫人が九条社長と親しそうにしている、と」
隼人の顔から表情が消える。
写真には、玲奈が笑っている。
蓮も笑っている。
そして次の写真では、蓮の手が玲奈の手へ重なって見える。
「私は削除をお願いしたのですが」
美月は困ったように眉を下げた。
「財界では、こういう写真はすぐに広まりますから」
「誰に送られた」
「今のところ私だけだと思います」
「相手の名前を出せ」
「隼人さん」
「香月」
有無を言わせない声。
美月は静かに名前を告げた。
隼人は写真から目を離さない。
「玲奈は、最近九条社長とよくお会いになっているのでしょうか」
「仕事だ」
「そうなのですね」
「余計な憶測をするな」
「もちろんです」
美月はすぐに答えた。
けれど。
あえて、次の言葉を加える。
「ただ……少し意外でした」
隼人の視線が上がる。
「何が」
「玲奈様が、あんなに楽しそうに男性とお話しされる方だったなんて」
空気が変わった。
美月は心の中で笑った。
図星。
隼人自身も昨夜感じたことなのだろう。
自分の前では見せない笑顔を、玲奈が蓮には向けている。
「大学では、男性のお友達も多いのでしょうか」
「知らない」
短い返事。
「神谷さんとも親しくしていらっしゃいますものね」
今度は亮の名前を出す。
隼人の眉が寄った。
「何が言いたい」
「何も」
美月は穏やかに微笑む。
「ただ、玲奈様はお若いですから。隼人さんだけの世界で暮らす必要はありませんものね」
隼人の目が鋭くなる。
美月はすぐに頭を下げた。
「失礼いたしました」
それ以上は言わない。
十分だった。
種は落とした。
あとは隼人自身が勝手に考える。
玲奈が誰と会っているのか。
誰に笑っているのか。
誰と親しくなっているのか。
嫉妬という感情は、一度自覚すれば簡単には消えない。
午後三時。
一条化粧品本社。
玲奈は商品開発部のデスクで、新商品のサンプルを確認していた。
「こちらが改良版です」
担当者が小さなボトルを並べる。
「前より軽くなっていますね」
「容器を変更しました」
玲奈は一本手に取る。
透明感のある薄桃色。
以前よりずっと若い女性が持ち歩きやすいデザインになっている。
「可愛い」
玲奈は笑った。
「大学の友達にも見てもらっていいですか?」
「もちろんです。社外秘の部分だけお気をつけください」
「分かりました」
そこへ受付から内線が入った。
「玲奈様にお届け物がございます」
「私に?」
「はい。九条コーポレーションからです」
玲奈の手が止まる。
数分後。
社員が細長い箱を持ってくる。
「九条社長からだそうです」
周囲の女性社員が少しざわついた。
「九条社長から?」
「何でしょうね」
玲奈は困った。
「仕事の資料じゃないんですか?」
箱を開ける。
中に入っていたのは一本の万年筆だった。
深い紺色。
金具は控えめな銀色。
派手ではないが、見るからに上質なもの。
添えられたカード。
《数字を書くなら、そろそろちゃんとした道具を使え。次の試算表も期待してる。 蓮》
玲奈は思わず眉を寄せた。
「……呼び捨てで書かないでほしい」
そこへ女性社員が笑う。
「でも素敵ですね」
「かなり高いものじゃないですか?」
「受け取れません」
玲奈はすぐに箱を閉じようとした。
けれど商品開発部長の三浦が、
「仕事上の激励なら、あまり深く考えなくてもいいのでは?」
と言う。
「でも……」
「九条さんはそういう人です。取引相手にもよく贈り物をしますよ」
そうなのだろうか。
玲奈は少し迷った。
それでも個人的な贈り物に見える。
「あとでお礼をして、次からはお気遣いなくって伝えます」
「それがいいですね」
玲奈は箱を自分のバッグへ入れた。
その様子を。
少し離れた場所から亮が見ていた。
「神谷さん」
玲奈が気づく。
「何ですか、その顔」
「何も」
「絶対何か言いたそうです」
「俺の立場からは、何とも」
「隼人さんみたい」
亮がわずかに苦笑した。
「旦那様なら、おそらく俺より面倒だと思います」
玲奈は目を瞬いた。
「どういう意味ですか?」
「いえ」
「神谷さん」
「帰りましょう。今日は少し雨が降りそうです」
話を逸らされた。
玲奈は首を傾げながら、バッグを持った。
⸻
午後七時過ぎ。
玲奈が黒川邸へ戻ると、珍しく隼人の車が玄関前に停まっていた。
「帰っている……」
胸が少し弾んだ。
朝は気まずいまま別れた。
だからこそ、今夜は少し普通に話したかった。
「ただいま戻りました」
玄関へ入る。
佐和子が迎える。
「お帰りなさいませ、玲奈様」
「隼人さんは?」
「書斎にいらっしゃいます」
「今日は早いんですね」
「予定を一つ変更されたそうです」
玲奈は少し驚いた。
普段の隼人なら、仕事の予定を簡単には変更しない。
それでも帰っているなら。
一緒に夕食を食べられるかもしれない。
「着替えてきます」
玲奈が階段へ向かおうとした時。
「玲奈」
背後から声。
振り返る。
隼人が廊下の奥から歩いてくる。
「お帰りなさい」
玲奈は笑った。
しかし。
隼人の表情はいつもより険しい。
「今日、一条へ行ったな」
「はい」
「九条とは会ったか」
玲奈の笑顔が止まる。
また。
最初に聞くのはそれなのだ。
「今日は会っていません」
「本当に?」
胸がちくりと痛んだ。
「……疑っているんですか?」
隼人がわずかに表情を変える。
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味ですか?」
「確認しただけだ」
玲奈はバッグの持ち手を握った。
「私、嘘なんてつきません」
「分かっている」
「だったら何度も聞かないでください」
「玲奈」
声に少し苛立ちが混じる。
隼人も何かを我慢しているようだった。
玲奈はそれが分からない。
「九条から何か連絡は?」
今度こそ。
玲奈は目を見開いた。
どうして。
「……ありました」
隼人の表情が変わる。
「何が」
「仕事のことで」
「具体的に」
問い詰められているようで、玲奈の胸に反発が生まれる。
「どうして全部報告しないといけないんですか?」
「俺は夫だ」
玲奈の胸が強く痛んだ。
その言葉。
最近になって、隼人はよく使う。
夫。
妻。
けれど玲奈がその意味を確かめたい時には、何も言わない。
「夫なら、妻の交友関係を全部管理するんですか?」
「そうじゃない」
「そう聞こえます」
隼人が何か言いかける。
その時。
玲奈がバッグを持ち直した拍子に、中から細長い箱が少し見えた。
隼人の視線が止まる。
「それは何だ」
玲奈も見る。
万年筆の箱。
嫌な予感がした。
「仕事でいただいたものです」
「誰から」
聞かなくても分かっているような声だった。
玲奈は少し迷ってから答える。
「九条さんです」
隼人の顔から表情が消えた。
「見せろ」
「え?」
「それ」
「どうして?」
「いいから」
玲奈はしばらく隼人を見つめた。
それから箱を取り出す。
隼人が受け取る。
蓋を開ける。
紺色の万年筆。
そしてカード。
隼人の視線が止まる。
《次の試算表も期待してる。 蓮》
明らかに空気が変わった。
「……蓮?」
低い声。
玲奈は眉を寄せる。
「カードに書いてあるだけです」
「いつから名前でやり取りする仲になった」
「私は九条さんと呼んでいます」
「向こうは違う」
「知りません」
玲奈もだんだん腹が立ってきた。
「返せ」
隼人が言った。
「え?」
「これは返せ」
「どうしてですか?」
「個人的な贈り物だ」
「仕事の激励です」
「万年筆を贈る必要はない」
「そんなの、隼人さんが決めることでは――」
「ある」
隼人の声が少し強くなる。
玲奈も譲らなかった。
「ありません」
「玲奈」
「私がいただいたものです」
「だからこそだ」
「意味が分かりません」
本当に分からない。
隼人は自分が美月とホテルにいても説明しない。
美月にネクタイを直されても。
ジャケットを貸しても。
何も気にしない。
なのに。
玲奈が仕事相手から万年筆を一つもらっただけで、この態度。
「隼人さん」
玲奈は静かに聞いた。
「私が九条さんから何かをもらうのは、そんなに嫌なんですか?」
「ああ」
あまりにも早い返事。
玲奈の胸が大きく動いた。
「……どうして?」
今度こそ。
聞いた。
隼人は玲奈を見る。
答えられない。
ほんの数秒。
その時間が長く感じた。
そして。
「九条だからだ」
玲奈の中で、何かがしぼんだ。
やっぱり。
黒川のライバルだから。
それだけ。
玲奈は小さく笑った。
「そうですか」
「玲奈」
「でしたら、私にも一つお願いがあります」
「何だ」
玲奈は隼人をまっすぐ見る。
「香月さんと二人きりにならないでください」
隼人が止まる。
「……何?」
「私が九条さんから贈り物をいただくのが嫌なら」
胸は痛かった。
それでも言う。
「私は、隼人さんが香月さんとホテルの部屋で二人になるのが嫌です」
初めて。
はっきり口にした。
隼人の目がわずかに見開かれる。
「玲奈」
「できますか?」
隼人が答えない。
仕事だ。
そう言うのだろう。
美月は秘書だから。
必要だから。
それなら玲奈だって同じだ。
蓮は仕事相手。
「……できないでしょう?」
玲奈は自分でも驚くほど静かな声で言った。
「私だけ駄目なのは、おかしいです」
隼人の顔に、初めて迷いが浮かんだ。
「香月とは仕事だ」
「私も仕事です」
「同じじゃない」
「どう違うんですか?」
隼人は答えられない。
玲奈の胸が苦しくなる。
「私は隼人さんの妻だから、九条さんとは距離を取らないといけない」
玲奈は続けた。
「では、隼人さんは私の夫でしょう?」
その言葉に隼人の表情が変わる。
「夫なら、私が嫌だと思うことも少しくらい気にしてくださってもいいんじゃないですか?」
言い終えた途端。
泣きそうになった。
それだけは嫌だった。
玲奈は隼人から万年筆の箱を取り返す。
「夕食は部屋でいただきます」
「玲奈、待て」
「今は話したくありません」
「俺は――」
「何ですか?」
玲奈が振り返る。
隼人の言葉が止まる。
ここでも。
何も言ってくれない。
玲奈は小さく頭を下げた。
「おやすみなさい」
そのまま階段を上がった。
⸻
一人残された玄関ホール。
隼人はしばらく動けなかった。
――私は、隼人さんが香月さんとホテルの部屋で二人になるのが嫌です。
玲奈が。
嫌だと言った。
嫉妬していたのか。
今まで。
ネクタイ。
出張。
ホテル。
美月との距離。
隼人にとっては、すべて仕事だった。
美月を女性として意識したことなど一度もない。
だから。
玲奈が嫌がる可能性を、真剣に考えたことがなかった。
自分は玲奈が九条と笑っているだけで腹が立つ。
手が触れている写真一枚で、仕事が手につかなくなる。
贈り物まで見つければ、返せと言った。
それなのに。
玲奈にだけ、
『仕事だから気にするな』
と言えるのか。
「……最低だな」
自分でも分かった。
隼人は額へ手を当てた。
その時。
スマートフォンが鳴る。
画面には美月の名前。
数秒見つめてから出る。
「何だ」
『隼人さん。明日の海外案件ですが、ホテル側から会議室の確認が――』
「香月」
『はい?』
「今後、二人だけで客室を使う打ち合わせは入れるな」
電話の向こうが静かになる。
『……どうされたのですか?』
「必要なら会議室を取れ」
『機密性の高い案件では、これまで――』
「方法は考えろ」
美月はしばらく黙った。
『奥様に、何か言われましたか?』
隼人の眉が寄る。
「関係ない」
『……承知しました』
電話を切る。
隼人は階段を見上げる。
玲奈の姿はもう見えない。
謝るべきなのだろう。
それくらい分かる。
けれど。
玲奈の部屋へ行って何を言えばいい。
『嫉妬していた』
そんな言葉。
今まで誰かを好きだと口にしたことすらほとんどない男に、簡単に言えるはずがなかった。
隼人はまだ知らない。
その夜。
美月が電話を切ったあと。
自分のデスクでスマートフォンを強く握りしめていたことを。
「……玲奈」
美月は低く呟いた。
ついに。
玲奈が自分との距離を隼人へ問題にした。
そして隼人は、それを受け入れた。
七年間。
誰にも変えられなかった仕事のやり方を。
玲奈の一言で。
「そんなの……認めない」
美月の瞳から、これまでの余裕が少しずつ消えていく。
玲奈を不安にさせれば、離れていくと思っていた。
ところが逆だった。
玲奈は少しずつ、自分の気持ちを隼人へ伝え始めている。
なら。
次はもっと強く。
玲奈が隼人へ何も求められなくなるほど。
夫婦の間に、決定的な誤解を作らなければならない。
美月は机の上に置かれた隼人の翌月の予定表へ視線を落とした。
その中の一つの日付で、指が止まる。
玲奈の誕生日。
隼人が珍しく、夜の予定をすべて空白にしていた。
美月はその欄をじっと見つめる。
そして。
ゆっくりと微笑んだ。
次に壊す約束は――。
もう決まった。