触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜

第九章 妻が他の男と笑う理由

ホテルで美月と隼人を見た夜から、一週間が過ぎた。

玲奈は、あの日のことを隼人へ尋ねていない。

隼人もまた、それ以上の説明をしなかった。

表面上は何も変わっていない。

朝になれば同じ食卓につく。

隼人は玲奈の大学の予定を尋ね、帰宅が遅くなる日は知らせてくる。

玲奈も「いってらっしゃい」と送り出し、「おかえりなさい」と迎える。

けれど。

ほんの少しだけ、何かが変わっていた。

以前の玲奈なら、夜になれば隼人の帰宅を待っていた。

時計を何度も見て、玄関から物音がすれば顔を上げた。

最近はそうしない。

夕食を済ませれば自室へ戻り、一条化粧品の資料を読む。

大学の課題を終わらせる。

眠くなれば先に眠る。

期待しなければ、寂しくならない。

その方法を覚え始めていた。

「玲奈様」

夕方、大学の正門前。

車の扉を開けた亮が、玲奈へ声をかけた。

「本日は一条本社でよろしいでしょうか」

「はい。お願いします」

玲奈は後部座席へ乗り込む。

今日は一条化粧品の若年層向け新商品の企画について、九条コーポレーションとの打ち合わせが予定されている。

前回、蓮から提案されたスターターセット。

その案をさらに具体化するための話し合いだ。

玲奈自身も、この一週間かなり調べた。

学生が一度に出せる価格。

SNSで好まれるデザイン。

小容量の商品をどれくらいの期間試せれば購入につながるのか。

美緒や大学の友人たちにも意見を聞いた。

初めて、自分の意見が会社の商品になるかもしれない。

そのことが嬉しかった。

「神谷さん」

「はい」

「私、少し仕事が好きかもしれません」

助手席の亮が振り返る。

「少し、ですか」

「まだ分からないことばかりなので」

玲奈は膝の上に置いた資料を見た。

「でも、自分が考えたことが誰かの役に立つのって嬉しいですね」

「良いことだと思います」

「隼人さんにも、いつかそう思ってもらえるくらいになれたらいいな」

言ってから、玲奈は窓の外へ視線を向けた。

どうして結局、隼人の名前が出てしまうのだろう。

褒めてもらいたい。

認めてもらいたい。

自分を十八歳の少女ではなく、一人の人間として見てほしい。

その気持ちは消せなかった。


一条化粧品本社での打ち合わせは、予想以上に長引いた。

「この価格じゃ利益が薄すぎる」

資料を見ながら、蓮がはっきり言った。

会議室の大きな窓の外では、夕方の空が薄い紫色に染まり始めている。

玲奈は自分が作った試算表を見直した。

「でも、最初から利益を大きく取るより、使ってもらうことを優先したほうがいいと思います」

「それで赤字になったら意味がない」

「赤字にならないところまで調整します」

「どうやって?」

玲奈は別の資料を出した。

「容器です」

蓮が眉を上げる。

「容器?」

「最初に考えていたガラス製をやめて、再生プラスチックに変えます」

「高級感が落ちるぞ」

「その代わり、色と形を工夫します」

玲奈は試作品の写真を机へ並べた。

「大学の友人二十人に見てもらいました。こっちのほうが可愛いって答えた人が十六人です」

蓮が写真を手に取る。

「ちゃんと調べたんだ」

「思いつきだけで話したら、九条社長にまた反対されるでしょう?」

「俺、そんなに意地悪?」

「かなり」

周囲の社員たちが小さく笑う。

蓮も楽しそうに笑った。

「言うようになったな、一条さん」

「九条社長が遠慮なく言うからです」

「そのほうが仕事は早い」

玲奈も笑った。

こうして意見をぶつけるのは嫌ではなかった。

蓮は玲奈が十八歳だからと話を簡単にしない。

分からなければ説明する。

間違っていれば違うと言う。

良ければ良いと認める。

その接し方が心地よかった。

会議が終わった頃には、午後七時を回っていた。

社員たちが資料を片づけ始める。

「玲奈」

慎吾が声をかけた。

「俺はこのあと工場長とオンライン会議がある。先に帰っていいぞ」

「分かりました」

「九条社長、本日はありがとうございました」

慎吾が蓮へ頭を下げる。

「こちらこそ」

蓮も立ち上がった。

「一条さん」

「はい?」

「このあと時間ある?」

玲奈は目を瞬いた。

「私ですか?」

「君以外に一条さんが何人いるんだよ」

「父もいます」

「確かに」

蓮が笑う。

「三十分だけ。さっきの価格設定、もう少し話したい」

玲奈は時計を見た。

まだ七時過ぎ。

黒川邸へは連絡すればいい。

「仕事のお話ですか?」

「もちろん」

「なら大丈夫です」

「近くのホテルのラウンジにしよう。ここだと君のお父さんが捕まえに来そうだ」

「お父様はそんなことしません」

少し離れたところにいた慎吾が、

「するぞ」

と返した。

「お父様!」

会議室にまた笑いが広がった。


ホテルのラウンジは、昼間とは違った落ち着いた雰囲気に包まれていた。

大きな窓の向こうには東京の夜景が広がり、無数の灯りが宝石のように瞬いている。

玲奈と蓮は窓際の席へ向かい合って座った。

亮は玲奈から見える範囲の、少し離れた席にいる。

「神谷君、相変わらずいるな」

蓮が亮へ視線を向ける。

「護衛ですから」

「黒川も過保護だな」

玲奈はメニューを閉じる。

「隼人さんのことは今関係ありません」

蓮が面白そうに玲奈を見る。

「怒った?」

「怒っていません」

「じゃあ何で顔変わった?」

「変わってません」

「分かりやすいな」

最近、いろいろな人から同じことを言われる。

玲奈は少し不満そうにアイスティーを飲んだ。

「で、価格の話ですよね」

「ああ」

蓮は資料を広げた。

そこからしばらくは真面目な仕事の話になった。

蓮は九条グループが持つECサイトの購入データを参考に、若い女性が試しやすい価格帯を玲奈へ説明する。

玲奈も大学で集めたアンケート結果を見せた。

「面白いな、これ」

「何がですか?」

「高級感より、持ち歩きやすさを選ぶ人が多い」

「大学生だと旅行にも持っていきたいので」

「じゃあ容器、もっと小さくしてもいいか」

「でも小さすぎると割高に感じます」

「難しいな」

「だから考えるんでしょう?」

蓮が玲奈を見る。

そして笑った。

「本当に変わったな」

「何がですか?」

「最初に会った時」

蓮はテーブルへ肘をつかず、椅子の背へ身体を預けた。

「黒川の奥さんって呼んだら、すごい顔で睨まれた」

「睨んでません」

「睨んでた」

「失礼なことを言うからです」

「今なら、何て呼べばいい?」

「一条さんでいいです」

「玲奈さんは?」

玲奈が目を丸くする。

「どうして急に下の名前になるんですか」

「親しくなったから?」

「なってません」

「ひどいな」

蓮が笑う。

玲奈もつられて笑った。

仕事をしている時の蓮は鋭い。

でも仕事を離れると、こんなふうに軽口を言う。

隼人とはまるで違う。

「そういえば」

蓮が玲奈の前に置かれた資料を見る。

「この表、お前が作ったの?」

「はい」

「よくできてる」

玲奈は驚いた。

「本当ですか?」

「ああ。少なくとも最初の頃よりずっといい」

「……嬉しい」

思わず笑顔になる。

「頑張ったので」

「分かる」

簡単な言葉。

けれど玲奈には嬉しかった。

頑張った。

それを誰かに認めてもらえるだけで、こんなに気持ちが軽くなる。

「黒川にも見せた?」

玲奈の笑顔が少し薄くなった。

「まだです」

「何で?」

「忙しそうだから」

本当は、それだけではない。

見せて、

『玲奈にはまだ早い』

と言われるのが怖かった。

もしそう言われたら、今まで頑張ってきたものまで否定されたように感じてしまう。

「見せればいいのに」

「いつか」

玲奈はそれで話を終わらせた。

蓮もそれ以上は聞かなかった。

その時、ウェイターがコーヒーを運んできた。

玲奈が資料を避けようとして手を伸ばす。

同じタイミングで蓮も手を出した。

二人の指先が触れた。

「あ」

玲奈がすぐに手を引こうとする。

ところが資料の端がテーブルから落ちかけた。

蓮が玲奈の手ごと押さえるようにして資料を止める。

「危ない」

「すみません」

「別に」

ほんの数秒。

それだけだった。

けれど。

少し離れた場所から、その光景を見ている男がいた。


隼人が同じホテルへ到着したのは、午後八時前だった。

海外企業の役員との会食。

予定より少し早く着いたため、橘とロビーを歩いていた。

「先方は十分ほど遅れるそうです」

橘がスマートフォンを確認しながら言う。

「ラウンジで待つか」

「あちらです」

隼人が何気なく視線を向ける。

そこで足が止まった。

窓際の席。

見覚えのある黒髪。

最初は似ているだけかと思った。

けれど違わない。

玲奈だった。

その向かい側に座っている男を見た瞬間。

隼人の表情が変わる。

九条蓮。

なぜ。

どうして二人でいる。

さらに。

玲奈が笑った。

隼人の目が細くなる。

自分といる時には、最近あんなふうに笑わない。

話しかければ答える。

時には笑う。

けれど以前より、どこか距離がある。

その玲奈が。

九条には楽しそうに笑っている。

「隼人様?」

橘が声をかける。

隼人は答えなかった。

今度は蓮が何かを言った。

玲奈が少しむっとした顔をして、それからまた笑う。

親しげだった。

思っていたより、ずっと。

そして。

テーブルの上で二人の手が重なった。

隼人の中で何かが切れた。

「会食は十分後だったな」

「はい」

「先に行っていてくれ」

「隼人様?」

隼人はもう歩き出していた。


「次回までに、ここの数字をもう一度――」

蓮が話していた時。

玲奈の背後から声がした。

「随分、楽しそうだな」

聞き間違えるはずがなかった。

玲奈の肩がびくりと揺れる。

振り返る。

「……隼人さん?」

そこに立っていたのは、間違いなく隼人だった。

黒いスーツ。

いつも通りきちんと整えられている。

けれど表情だけが違う。

怒っている。

玲奈にはすぐ分かった。

「どうしてここに?」

「俺の質問が先だ」

低い声。

「何をしている」

玲奈は一瞬戸惑った。

「仕事です」

「二人で?」

「はい」

隼人の眉が寄る。

蓮が椅子へ座ったまま、面白そうに隼人を見上げた。

「夫に許可が必要だったか?」

「九条」

「怖い顔するなよ」

蓮は少しも怯まない。

「仕事の打ち合わせだ」

「会社でやればいい」

玲奈の胸に小さな苛立ちが生まれた。

「会社で会議をしたあと、続きを話していただけです」

「なら社内で続ければいい」

「父が別の会議で使うので出てきたんです」

「他の会議室があるだろう」

「隼人さん」

玲奈は思わず声を強くした。

どうして責められているのだろう。

何も悪いことなどしていない。

「私は仕事をしていただけです」

隼人が玲奈を見る。

「仕事なら九条と二人になる必要はない」

その言葉で。

玲奈の中に、あの夜の光景が蘇った。

ホテルの客室。

髪を下ろした美月。

ネクタイを緩めた隼人。

『二人だけの秘密』

玲奈の表情から、少しずつ温度が消える。

「……そうなんですね」

隼人の眉が動く。

「何が」

玲奈はまっすぐ夫を見た。

「仕事でも、異性と二人きりになってはいけないんですね?」

「玲奈」

「知りませんでした」

「何が言いたい」

本当に分からないのだろうか。

玲奈は悲しくなった。

蓮も何かを察したらしい。

隼人へ向けて、少し冷たい笑みを浮かべる。

「黒川」

「何だ」

「お前、自分は秘書とホテルの部屋に二人でいるらしいな」

隼人の顔が変わった。

玲奈が蓮を見る。

「どうして――」

「噂になってる」

蓮は肩をすくめた。

「極秘案件でホテル使うのは珍しくないけどな」

そして隼人を見る。

「自分がやるのは仕事。妻がやれば駄目なのか?」

「お前には関係ない」

「あるよ」

蓮の声から笑いが消える。

「一条とは取引の話をしてる」

「会社の話なら一条社長としろ」

「今の企画は玲奈さんも参加している」

玲奈さん。

その呼び方に、隼人の視線が鋭くなる。

「いつから名前で呼ぶ仲になった」

玲奈は目を見開いた。

そこ?

今、気にするところがそこなの?

蓮は逆に楽しそうになった。

「今から」

「九条さん!」

玲奈が止める。

「冗談だよ」

「今、冗談を言うところじゃありません」

玲奈が蓮へ向かって言う。

そのやり取りさえ、隼人には気に入らなかった。

二人の間には、自分が知らない空気がある。

玲奈が蓮に遠慮なく言い返す。

蓮もそれを楽しんでいる。

隼人が知らないところで、二人はいつからこんなに近くなったのか。

「玲奈」

隼人が言う。

「帰るぞ」

玲奈は顔を上げた。

「まだお話が終わっていません」

「後日にしろ」

「嫌です」

隼人の表情が固まる。

玲奈自身も、こんなにはっきり拒否したのは初めてだった。

「あと十五分で終わります」

「玲奈」

「先に帰っていてください」

「……俺と帰らないのか」

声が少し変わった。

玲奈は一瞬だけ心が揺れる。

でも。

ここで従ったら、また同じだ。

隼人が決めて。

玲奈が受け入れる。

「亮さんと帰ります」

隼人の視線が、離れた場所にいる亮へ向く。

さらに機嫌が悪くなったのが分かった。

蓮が小さく笑う。

「大変だな、黒川」

「黙れ」

「妻の周り、男ばっかりになって」

「九条社長!」

玲奈が止める。

隼人が蓮を睨む。

その時。

蓮が玲奈の前に落ちていた紙を拾った。

「これ」

「あ、ありがとうございます」

玲奈が受け取る。

ただそれだけ。

けれど隼人の目には、蓮が玲奈へ近づくこと自体が気に入らない。

「玲奈」

今度の声は、怒りというより焦りに近かった。

「十五分だけです」

玲奈は言った。

「終わったら帰ります」

「……」

「私も、自分の仕事を途中で投げたくありません」

隼人は何も言えなくなった。

玲奈の顔。

そこには、以前のように自信なさげな少女の姿はなかった。

仕事を任され。

自分で考え。

自分の意見を守ろうとしている。

ほんの短い間に。

玲奈は隼人の知らない場所で変わり始めていた。

「分かった」

ようやく出た言葉。

玲奈が少し驚く。

「隼人さん?」

「十五分だ」

「……はい」

隼人は蓮を見る。

「九条」

「何?」

「余計なことをするな」

「何が余計か分からないな」

「全部だ」

「嫉妬深い夫だ」

隼人の表情が険しくなる。

玲奈の胸が大きく動いた。

嫉妬。

まさか。

隼人が?

蓮が冗談を言っているだけだ。

そう思うのに。

「俺は会食がある」

隼人は玲奈へ言った。

「終わったら連絡しろ」

「どうして?」

「迎えに行く」

「亮さんがいます」

「俺が行く」

有無を言わせない声。

けれど今度は、いつもの命令とは少し違って聞こえた。

隼人はそれだけ言うと、その場を離れた。

玲奈は遠ざかっていく背中を見つめる。

蓮が隣で小さく笑った。

「分かりやすいな」

玲奈が振り返る。

「何がですか?」

「旦那」

「全然分かりません」

「本当に?」

「はい」

玲奈は資料を揃える。

「怒っているだけでしょう?」

「何に?」

「九条さんが黒川のライバルだから」

蓮はしばらく玲奈を見る。

それから、

「そう思ってるなら、黒川も苦労するな」

と呟いた。

「何ですか?」

「何でもない」

玲奈は首を傾げた。

隼人が嫉妬している。

そんな都合のいいこと。

信じられるはずがなかった。


十五分後。

玲奈がホテルを出ると、正面玄関近くに黒い車が停まっていた。

「……え?」

隼人の車。

会食があると言っていたはずなのに。

車の横に立つ運転手が頭を下げた。

「玲奈様。隼人様より、こちらでお待ちするよう申しつかっております」

「隼人さんは?」

「会食へ向かわれました」

玲奈は言葉を失った。

迎えに来ると言ったのに。

自分は会食へ行かなければならないから、車だけ残したらしい。

「亮さんは?」

振り返ると、亮がすぐ後ろにいる。

「俺も同行いたします」

「……そう」

玲奈は車へ乗り込んだ。

本当に分からない人だ。

ホテルまで乗ってきた車を置いて、自分は別の車で会食へ向かったのだろう。

そこまでする必要があるのか。

玲奈は窓の外を眺めた。

昼間より冷えた夜の街。

ガラスへ自分の顔が映る。

そして。

蓮の言葉が頭へ蘇る。

『嫉妬深い夫だ』

「……まさかね」

思わず呟く。

亮が助手席から振り返る。

「何か?」

「何でもありません」

玲奈はすぐに首を横に振った。

隼人が自分に嫉妬する。

そんなわけがない。

自分を女性として見ているかどうかさえ分からないのに。

ただ。

玲奈は知らなかった。

同じ頃。

取引先との会食の席で。

いつもなら相手の話を一言一句聞き逃さない隼人が、珍しく何度も腕時計へ目を落としていたことを。

そして頭の中から。

玲奈が九条蓮へ向けて笑っていた顔が、どうしても離れなくなっていたことを。
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