触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜

第十九章 妻として隣に立つ日

黒川邸へ戻った翌朝。

玲奈は、いつもより少し早く目を覚ました。

窓の外には柔らかな朝日が広がっている。

カーテンの隙間から入り込んだ光が、床の上に細長く伸びていた。

見慣れた寝室。

数日前まで暮らしていた部屋なのに。

一条家から戻ってきた今は、少しだけ違って見える。

ここは黒川家から与えられた部屋。

そう思っていた。

けれど昨夜からは。

自分で戻ると決めた場所になった。

玲奈はベッドの上で身体を起こした。

左手を見る。

薬指には結婚指輪。

そしてドレッサーの上には、隼人から誕生日にもらった花のネックレスが置いてある。

昨日まで。

この二つを見るたびに複雑だった。

自分は本当に妻なのか。

隼人にとって必要な存在なのか。

そんなことばかり考えていた。

今は――。

「……妻、なんだよね」

自分で呟いて。

途端に恥ずかしくなる。

昨夜。

玄関ホールで。

『私、これからもあなたの妻でいたいです』

あんなことを言った。

しかも。

隼人に抱きしめられて。

『触ってもいいか』

なんて聞かれて。

思い出すだけで頬が熱くなる。

「もう……」

玲奈は枕へ顔を埋めた。

昨日の自分は、どうしてあんなに大胆だったのだろう。

嬉しかった。

それだけだ。

隼人が好きだと分かって。

自分も隼人を選べると分かって。

感情のままに言葉が出た。

けれど一晩経つと。

とんでもなく恥ずかしい。

「玲奈様」

扉の外から佐和子の声がした。

玲奈は慌てて顔を上げる。

「はい!」

「ご朝食のお支度が整いました」

「今行きます」

いつもより大きな声になった。

佐和子が扉の向こうで少し笑ったような気がした。

玲奈はベッドから降りる。

着替え。

髪を整え。

最後に。

少し迷ってから。

花のネックレスを手に取った。


ダイニングへ入ると。

隼人はすでにいた。

玲奈の足が一瞬止まる。

いつものように黒いスーツ。

新聞ではなく、タブレットを手にしている。

何も変わらない朝。

なのに。

玲奈の心臓だけが、昨日までとは違う。

隼人が顔を上げる。

目が合う。

「おはよう」

「……おはようございます」

なぜ敬語になったのか。

自分でも分からない。

玲奈は少し早足で席へ向かった。

以前と同じ。

長いテーブルの向かい側。

けれど。

座ろうとしたところで。

「玲奈」

「はい?」

隼人が自分の隣の椅子を見る。

「こっちへ座れ」

玲奈は目を瞬いた。

「え?」

「遠い」

それだけ。

でも。

胸が強く鳴った。

今まで。

ずっと向かい側だった。

大きなテーブルの端と端。

夫婦なのに。

声を少し張らなければ普通に会話もできない距離。

「……ここ?」

玲奈が隼人の隣の椅子を指す。

「ああ」

玲奈は少し迷いながら移動した。

椅子を引く。

座る。

近い。

思っていた以上に。

隼人の腕がすぐ隣にある。

手を伸ばせば触れられる距離。

玲奈は急に落ち着かなくなった。

佐和子が紅茶を置く。

その表情が。

明らかに楽しそうだ。

玲奈は小声で言った。

「佐和子さん」

「はい?」

「笑ってません?」

「いいえ」

「絶対笑ってます」

「気のせいでございます」

絶対に違う。

玲奈が少しむっとしている横で。

隼人がふと目を止めた。

「それ」

玲奈は顔を向ける。

「何ですか?」

隼人の視線が、玲奈の首元へ落ちる。

花のネックレス。

玲奈の頬が少し熱くなる。

「……つけてみました」

「そうか」

それだけ。

いつもなら。

玲奈は少し不満に思ったかもしれない。

でも今は。

隼人の口元がほんの少しだけ緩んだのが分かった。

「似合いますか?」

あえて聞いた。

隼人が玲奈を見る。

「似合う」

「即答」

「聞いたのは玲奈だろう」

「そうですけど」

玲奈は嬉しくなって、紅茶へ視線を落とした。

すると。

隼人の手が伸びてきた。

玲奈の髪を少し避ける。

ネックレスの留め具を見る。

「曲がってる」

「え?」

「後ろ」

隼人の指が、玲奈の首筋近くへ触れる。

ほんの少し。

それだけなのに。

玲奈の肩がびくっと揺れた。

隼人の手が止まる。

「……嫌だったか」

「違います!」

あまりにも早く否定してしまった。

隼人の眉が少し上がる。

玲奈は恥ずかしくなった。

「急だったから」

「そうか」

「それだけです」

「分かった」

隼人はゆっくり留め具を直した。

触れる指先は慎重だった。

昨夜。

『触っていいか』

そう聞いてくれたことを、ちゃんと覚えている。

そのことが。

玲奈には何より嬉しかった。


朝食の途中。

隼人のスマートフォンが震えた。

画面を確認した隼人の表情が、少し仕事のものへ戻る。

「何かありました?」

「ああ」

玲奈は少しだけ身構えた。

以前なら。

美月からの連絡かもしれない。

そう考えて胸がざわついた。

隼人は隠さなかった。

「人事からだ」

「……香月さん?」

「ああ」

玲奈の手が少し止まる。

隼人は続けた。

「今日付で、正式に経営企画室への異動が決まった」

玲奈はしばらく黙った。

予想していた。

それでも。

実際に聞くと複雑だった。

「辞めさせるわけではないんですね」

「仕事の能力まで否定するつもりはない」

隼人らしい答えだった。

「ただ、俺の専属には戻さない」

「……はい」

「玲奈」

「何ですか?」

隼人は少し言葉を選ぶ。

「不満か」

玲奈は首を横に振った。

「いいえ」

「ではなぜその顔だ」

「その顔って何ですか」

「複雑そうだ」

玲奈は少し考えた。

正直に言う。

「香月さんがしたことは、許せないです」

SNSの写真。

誕生日の予定。

ホテルでの匂わせ。

玲奈を傷つけるために意図的に行ったこと。

許す必要はないと思う。

「でも」

玲奈は紅茶へ視線を落とす。

「七年間、隼人さんを好きだったこと自体は……悪いことじゃないから」

隼人は何も言わない。

「私も、隼人さんを好きだから」

好きな人が自分を見てくれない苦しさ。

少しだけなら分かる。

「だから少しだけ、かわいそうだなって思っただけです」

隼人の眉が寄る。

「玲奈」

「はい?」

「そこまで考える必要はない」

「でも――」

「俺は同情で玲奈を選んだわけじゃない」

思いがけない言葉。

玲奈は目を瞬く。

「香月に同情して何かを変えるつもりもない」

はっきりしている。

隼人はこういうところだけは迷わない。

玲奈は少し笑った。

「隼人さんって、時々すごく冷たいですね」

「そうか」

「でも」

玲奈はネックレスへ指を触れた。

「今は、それでいいと思います」

美月に期待を持たせるような曖昧さを残すほうが。

きっと残酷だから。


午前十時。

黒川ホールディングス。

美月は段ボール箱へ自分の荷物を入れていた。

七年間使ったデスク。

ペン立て。

名刺ケース。

海外出張先で買った小さな置物。

すべてを。

一つずつ。

箱へ移す。

周囲の社員たちは、どう声をかければいいか迷っているようだった。

異動理由は公表されていない。

けれど。

美月のSNS投稿が社内で話題になったことは、誰もが知っている。

「香月さん」

奈緒が近づいてきた。

「何?」

以前なら。

美月は奈緒に細かく仕事の指示を出していた。

今は。

立場が変わった。

「社長の今日の予定について、確認したいことが」

美月の指が止まる。

「もう私の仕事じゃないでしょう」

奈緒が少し困った顔をする。

「……そうですね」

美月は箱へ視線を落とした。

「会議資料は共有フォルダに入れてある」

「はい」

「海外顧客の好みや注意点は一覧にしてあるから」

「ありがとうございます」

「それと――」

いつものように。

隼人の食事。

体調。

癖。

全部を説明しそうになった。

けれど。

美月は止めた。

もう。

そこまで口を出す必要はない。

いや。

出してはいけない。

「……何でもない」

奈緒が少し驚く。

美月は箱の蓋を閉じた。

「七年間、お疲れ様でした」

奈緒が言う。

その言葉に。

胸が少しだけ痛んだ。

「ありがとう」

美月は笑った。

今度の笑顔には。

昨日までのような棘はなかった。

ただ。

ひどく疲れていた。

デスクを離れる。

最後に。

隼人の執務室の扉を見る。

七年間。

毎日。

何度この扉を開けたのだろう。

『隼人さん』

そう呼べば。

いつも、

『仕事中は社長と呼べ』

と少し嫌そうな顔をされた。

それでも。

本気で止められるまでは。

どこか甘えていた。

自分だけは特別だと。

思いたかった。

けれど。

違った。

最後まで。

美月は秘書だった。

それを認めるまで。

ずいぶん遠回りをした。

「香月さん」

奈緒が呼ぶ。

美月は振り返らず答えた。

「何?」

「お元気で」

美月は少しだけ立ち止まる。

「同じ会社よ」

「そうでした」

小さな笑い。

美月も。

ほんの少しだけ笑った。

そして。

今度こそ。

執務室の前から離れた。


昼過ぎ。

玲奈は大学で講義を受けていた。

けれど。

少しだけ集中できなかった。

理由は。

朝。

隼人に言われた一言。

『今夜は早く帰る』

以前なら。

それだけ。

でも今日は違う。

『夕食を一緒に食べたい』

隼人が。

自分からそう言った。

命令でも。

予定確認でもない。

一緒に食べたい。

その言い方が嬉しかった。

「玲奈」

隣の美緒が小声で呼ぶ。

「何?」

「顔」

「また?」

「さっきからずっと笑ってる」

玲奈は慌てて口元を押さえる。

「笑ってない」

「笑ってる」

「講義中だから静かにして」

「はいはい」

美緒は楽しそうに前を向いた。

玲奈もノートへ視線を戻す。

けれど。

ペンを動かしながら。

また少しだけ笑ってしまった。


午後四時。

講義を終えて外へ出る。

正門近くには亮が待っていた。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です」

玲奈は自然に笑う。

亮が少しだけ玲奈を見る。

「今日は黒川邸へ?」

「はい」

「承知しました」

二人で車へ向かう。

途中。

玲奈は少し考えてから亮へ声をかけた。

「亮さん」

「はい」

「昨日のことなんですけど」

亮の足がほんの少し遅くなる。

玲奈は続ける。

「九条さんに求婚されました」

亮の表情が止まった。

玲奈は慌てる。

「断りました」

「……そうですか」

短い返事。

「はい」

玲奈は少しだけ緊張した。

「私、隼人さんのところへ戻りました」

「知っております」

「そうですよね」

護衛なのだから当然だ。

少し歩く。

玲奈は勇気を出して言った。

「亮さん」

「はい」

「私、ずっと甘えていました」

亮が玲奈を見る。

「寂しい時に」

「泣きたい時に」

「亮さんなら聞いてくれるって」

胸が少し苦しい。

「それで、もし亮さんを期待させていたなら……ごめんなさい」

亮はしばらく何も言わなかった。

春の終わりの風が吹く。

並木道の葉が揺れる。

「玲奈さん」

「はい」

「謝らないでください」

穏やかな声。

「俺が勝手に好きになっただけです」

玲奈の胸が痛んだ。

やはり。

そうだった。

「……いつから?」

思わず聞いてしまった。

亮は少しだけ笑った。

「聞きますか」

「すみません」

「最初は」

亮は前を向く。

「守らなければいけない人でした」

「はい」

「それがいつの間にか」

少しだけ声が柔らかくなる。

「笑っていてほしい人になりました」

玲奈は何も言えなかった。

「でも」

亮は続ける。

「旦那様と話した後の玲奈さんを見て」

「はい」

「俺では駄目なんだと分かりました」

玲奈の胸が締めつけられる。

「亮さん」

「だから、これで終わりにします」

すぐに。

そんなふうに。

簡単にはできないはずなのに。

亮は笑った。

「護衛は続けます」

「いいんですか?」

「仕事ですから」

玲奈は少しだけ笑った。

最後まで。

亮らしい。

「ありがとうございます」

「はい」

「でも」

亮の目が少し鋭くなる。

「旦那様がまた玲奈さんを泣かせたら」

玲奈は瞬きをする。

「その時は、もう一度考えます」

「何を?」

「奪うかどうか」

玲奈の目が大きくなる。

「亮さん!」

初めて。

亮が声を立てて笑った。

「冗談です」

「絶対違う」

「半分は」

「半分?」

「車が来ました」

また逃げた。

玲奈は少しむっとしながらも。

最後には笑った。

寂しさはある。

でも。

この人の優しさに助けられたことを。

玲奈はきっと忘れない。


午後六時半。

黒川邸。

玲奈がリビングへ入ると。

隼人がいた。

珍しく。

ジャケットを脱ぎ。

ネクタイも緩めている。

テーブルの上には仕事の資料がない。

「……本当に早い」

思わず口にした。

隼人が玲奈を見る。

「何だ」

「帰ってくるって言っても、七時半くらいだと思ってました」

「六時には会社を出た」

玲奈は少し驚く。

「そんなに早く?」

「ああ」

「仕事は?」

「明日やる」

以前なら。

絶対に言わなかった。

玲奈は少しだけ笑う。

「変わりましたね」

「誰のせいだ」

「私?」

「ああ」

隼人が悪びれず言う。

玲奈は隣のソファへ座った。

「悪い変化ですか?」

「分からない」

「そこは良いって言ってください」

隼人がほんの少し笑う。

「努力する」

それでも十分。

玲奈は笑った。

「今日」

隼人が言う。

「香月の異動が済んだ」

「……はい」

玲奈は静かに聞く。

「今後、俺の予定に香月が関わることはほとんどない」

「そこまで説明してくれなくても大丈夫です」

「必要だろ」

「昨日までなら」

玲奈は少し考える。

「今は、隼人さんが説明してくれるって分かったから」

隼人の表情が少し変わる。

玲奈は続ける。

「疑ったら聞きます」

「……ああ」

「勝手に思い込まないようにします」

「俺も」

「はい?」

「言う」

玲奈は目を瞬く。

隼人は少し言いにくそうだった。

「必要なことは」

「ちゃんと?」

「ああ」

「嫉妬した時も?」

隼人の顔が固まる。

玲奈が笑う。

「そこは別」

「どうしてですか」

「言わなくても分かるだろ」

「分かりません」

「玲奈」

「ちゃんと言うって今言いました」

隼人が額へ手を当てる。

玲奈は楽しそうに笑った。

これまで。

隼人が困ると、自分まで不安になった。

今は違う。

隼人の困った顔を見て。

少し可笑しいと思える。

それだけ。

二人の間に安心が増えたのだと思う。


夕食。

今日は。

長いテーブルではなく。

小さなダイニングルームを使った。

玲奈が以前、

「二人だけなのに、大きなテーブルは寂しい」

と口にしたことを。

隼人が覚えていたらしい。

小さな丸テーブル。

隣ではなく向かい側でも、手を伸ばせば届く距離。

「隼人さん」

「何だ」

「セロリ、嫌いなんですよね」

隼人のフォークが止まる。

玲奈が笑う。

「知ってます」

「香月から聞いたのか」

一瞬。

少しだけ空気が変わる。

でも。

玲奈は首を横に振った。

「以前、食事の時に聞きました」

「ああ」

「今度から」

玲奈は料理を見る。

「私にも、好きなものと嫌いなものを教えてください」

「なぜ」

「妻だから」

以前なら。

その言葉は玲奈を苦しめた。

今は。

自分から言える。

「香月さんより隼人さんのことを知りたいからじゃありません」

玲奈は笑った。

「私が知りたいからです」

隼人はしばらく玲奈を見る。

そして。

「ああ」

静かに答えた。

「何から聞く」

玲奈は少し考える。

「では」

楽しそうに指を折る。

「好きな食べ物」

「魚」

「広すぎます」

「焼いたもの」

「もう少し詳しく」

「面倒だな」

「ちゃんと答えるって約束しました」

「そんな約束はしてない」

「似たようなものです」

隼人が小さく息を吐く。

けれど。

答えてくれた。

好きな魚。

苦手な野菜。

コーヒーは朝だけ二杯飲むこと。

疲れていると食べなくなる癖。

そして。

好きな本。

好きな映画。

子供の頃に苦手だったもの。

仕事とは関係のない話。

玲奈が知りたかった隼人。

美月が知っていた『社長としての隼人』ではなく。

玲奈だけがこれから知っていく。

一人の男性としての。

黒川隼人。

その夜。

二人は初めて。

食事が終わってもすぐ席を立たなかった。

話すことがなくなるまで。

ゆっくり。

何でもない会話を続けた。

それだけの時間が。

玲奈には。

どんな高価な誕生日プレゼントよりも嬉しかった。
< 19 / 20 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop