触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜
第十八章 今度は、私があなたを選びます
隼人とすべてを話したからといって、翌日から何もかもが元通りになったわけではなかった。
玲奈はまだ一条家から大学へ通っている。
朝になれば昔から使っている部屋で目を覚まし、父と朝食を取る。
大学を終えれば一条化粧品へ顔を出し、新商品の企画会議に参加する。
そして夜になると――。
スマートフォンが鳴る。
以前とは違う。
隼人からだった。
『今日は何時に終わる』
『七時頃です』
『夕食は』
『父と食べます』
少し間を置いて。
『そうか』
たったそれだけ。
以前なら、
『帰れ』
と言われただろう。
あるいは、
『迎えを出す』
と勝手に決められたかもしれない。
けれど今は違う。
隼人は玲奈の予定を聞く。
それから、自分の予定も伝えてくる。
『今日は会食がある』
『香月さんも一緒ですか?』
玲奈が思い切って尋ねた時。
返事はすぐだった。
『違う、橘と佐伯が同行する』
さらに。
『香月はもう俺の秘書ではない』
そこまで書かれていた。
思わず笑ってしまった。
きっと玲奈が不安にならないように、必要以上に説明しているのだ。
あの隼人が。
一言伝えれば済むことを。
玲奈はベッドの上でスマートフォンを見ながら、小さく笑った。
少しずつ。
本当に少しずつ。
二人の関係は変わり始めていた。
でも。
玲奈はまだ黒川邸へ戻るとは言わなかった。
隼人も催促しない。
『待つ』
あの日。
そう言ってくれたから。
玲奈は、自分の答えを急いで出したくなかった。
会社のためでも。
父のためでも。
隼人が好きだと言ってくれたからでもなく。
自分自身の意思で。
選びたかった。
「玲奈様」
大学の正門を出たところで、亮が声をかけてきた。
「本日は一条本社でよろしいでしょうか」
「はい。お願いします」
護衛に戻ってからの亮は、以前と何も変わらなかった。
余計なことは聞かない。
必要以上に近づかない。
あの誕生日の夜についても、一度も口にしなかった。
それがありがたくもあり。
少し申し訳なくもあった。
車へ向かいながら。
玲奈は亮の横顔を見る。
「亮さん」
「はい」
名前で呼ぶことは、もう自然になっていた。
隼人が聞いたらまた不機嫌になるかもしれない。
そう考えると、少し可笑しい。
「今度、お礼をさせてください」
亮が玲奈を見る。
「何のお礼でしょう」
「いろいろです」
「いろいろ?」
「私が一人で泣いていた時、何度もそばにいてくれたから」
亮の歩みがほんの少し遅くなる。
玲奈は続けた。
「本当に助けてもらいました」
「仕事です」
いつもの返事。
玲奈は苦笑する。
「全部それで済ませますね」
「便利な言葉なので」
珍しく冗談めいた返事。
玲奈は笑った。
亮もほんのわずかに笑う。
それから。
少しだけ表情を変えた。
「玲奈さん」
今度は亮のほうが、様をつけなかった。
玲奈は足を止める。
亮も立ち止まった。
春より強くなった日差しが、大学前の並木道へ落ちている。
学生たちが二人の横を通り過ぎていく。
「何ですか?」
「旦那様とは……話せましたか」
玲奈は少し驚いた。
亮が自分から隼人のことを聞くのは珍しい。
「はい」
「そうですか」
それだけ。
でも。
亮の表情を見て。
玲奈は分かった。
この人には、きちんと伝えなければいけない。
「私」
玲奈は自分から言った。
「隼人さんを、もう一度信じてみたいと思っています」
亮の瞳がわずかに揺れた。
「……はい」
「でも、すぐ黒川邸へ戻るわけじゃありません」
「それでいいと思います」
やっぱり。
亮は玲奈の選択を否定しない。
「自分で決めたいんです」
「はい」
「今度は誰かのためじゃなくて」
玲奈は少しだけ笑った。
「私自身が、どうしたいのか」
亮は数秒、玲奈を見つめた。
それから静かに頷く。
「そうしてください」
「亮さん」
「玲奈さんが選んだなら」
亮の声は穏やかだった。
「俺は、それを守ります」
胸が少し痛んだ。
玲奈はもう。
亮の気持ちに気づいていた。
はっきり告白されたわけではない。
けれど。
自分を見る目。
あの誕生日の夜。
『好きな人に、自分を大切にしてほしいと思うのは普通です』
そう言ってくれた時の声。
気づかないほど、玲奈も幼くはない。
「……ありがとうございます」
それ以上。
何も言えなかった。
亮も求めなかった。
ただ。
いつものように車の扉を開けた。
「どうぞ」
「はい」
玲奈は乗り込む。
扉が閉まる直前。
亮がほんの少しだけ笑った。
それが。
なぜか少し寂しく見えた。
午後五時。
一条化粧品本社。
新商品企画会議は、これまでで一番良い雰囲気で終わった。
「スターターセットの最終試作品はこちらで進めます」
三浦部長が資料をまとめる。
「価格も予定通り三千九百八十円」
「はい」
玲奈も資料へ目を落とす。
ここまで来るのに時間がかかった。
最初は。
何も分からなかった。
売上。
原価。
広告。
販売戦略。
でも。
少しずつ勉強した。
大学の友人たちにアンケートも取った。
九条側とも何度も意見を交わした。
初めて。
自分が会社の役に立てたと実感できる商品。
「発売が楽しみですね」
玲奈が言うと。
「その前に売らないとな」
向かい側から声。
九条蓮だった。
「九条さん」
「商品は作って終わりじゃない」
「分かっています」
「本当に?」
「最近、そればっかりですね」
玲奈が少しむっとする。
会議室に笑いが広がった。
蓮も笑う。
「じゃあ今日のところは合格」
「何目線なんですか」
「取引先」
「偉そうな取引先ですね」
慎吾が少し離れた席で苦笑している。
最初に出会った頃に比べれば。
蓮と玲奈はずいぶん気軽に話せるようになっていた。
仕事仲間として。
そして。
少し年上の友人として。
会議が終わる。
社員たちが部屋を出ていく。
玲奈も資料を片づけようとした時。
「玲奈さん」
蓮に呼ばれた。
「はい?」
「少し時間ある?」
玲奈は時計を見る。
「少しなら」
「屋上行こう」
「屋上?」
「話がある」
いつもの軽さがない。
玲奈は少し不思議に思った。
一条本社の屋上には、小さな休憩用庭園がある。
社員たちが昼休みに利用する場所。
夕方の今は誰もいなかった。
街の向こうへ夕日が沈み始め、空は橙色から淡い紫へ変わっている。
蓮はフェンス近くまで歩いてから振り返った。
玲奈は少し離れたところで立ち止まる。
「話って何ですか?」
「黒川と話したんだろ」
いきなり核心。
玲奈は目を瞬いた。
「どうして分かるんですか?」
「顔」
「また?」
「最近の玲奈さん、かなり分かりやすいよ」
玲奈は少し頬を膨らませた。
「みんな同じこと言う」
「じゃあ事実だな」
蓮は笑う。
でも。
すぐに真面目な顔へ戻った。
「戻るの?」
玲奈は答えに詰まる。
「黒川のところへ」
夕方の風が吹いた。
玲奈の黒髪が揺れる。
「まだ……決めていません」
「まだ?」
「はい」
「好きなんだろ?」
玲奈は少し黙った。
以前なら。
否定したかもしれない。
今は。
「はい」
ちゃんと言える。
「好きです」
蓮の目がほんの少し細くなる。
でも笑わなかった。
「そっか」
短い返事。
少しだけ。
風の音だけが続く。
「九条さん?」
「俺さ」
蓮はフェンスへ背中を預けた。
「最初は本当に、黒川への嫌がらせ半分だったんだよ」
玲奈は眉を寄せる。
「ひどい」
「知ってる」
「私を使おうとしたんですか?」
「黒川の若い奥さんが一条の会議に出てるって聞いて、ちょっと興味を持った」
「最低」
「最後まで聞けよ」
蓮が笑う。
玲奈は腕を組んだ。
「聞いてます」
「でも」
蓮の表情が変わる。
「途中から、どうでもよくなった」
「何が?」
「黒川が」
玲奈は目を瞬いた。
蓮は玲奈をまっすぐ見る。
「君自身が面白くなった」
いつもの冗談ではない。
玲奈の胸がざわつく。
「知らないことをそのままにしない」
「意見を否定されたら調べ直す」
「家の会社だからって甘えない」
少しずつ。
蓮の声が優しくなる。
「それでいて、黒川のことで簡単に泣く」
「最後はいりません」
「そこも含めて」
玲奈の頬が熱くなる。
嫌な予感。
でも。
逃げてはいけない。
蓮は一歩、玲奈へ近づいた。
「玲奈さん」
「はい」
「黒川と別れるなら」
心臓が大きく鳴った。
「俺と結婚しない?」
玲奈は動けなかった。
冗談。
そう思いたかった。
でも。
蓮の顔に笑いはない。
「九条さん」
「政略じゃない」
蓮は続けた。
「一条がどうなっても関係ない」
「九条グループとの取引も関係ない」
夕日の中。
蓮の目だけが真っ直ぐ玲奈を見る。
「俺が一条玲奈を欲しい」
以前。
誰かに女として求めてもらえたら。
自分は嬉しいのではないかと思ったことがある。
隼人は触れてくれない。
妻として欲しがっているのか分からない。
美月のような女性のほうが似合う。
そんな不安の中で。
誰かが自分を求めてくれたなら。
その人を選べば、もっと楽なのではないかと。
ほんの少し。
考えたこともあった。
でも今。
実際に言われて。
玲奈の心に浮かんだ答えは。
驚くほどはっきりしていた。
「……ありがとうございます」
玲奈は頭を下げた。
蓮が小さく息を吐く。
「その言い方、もう答え分かった」
「すみません」
「謝るなって」
玲奈は顔を上げる。
「九条さんに会えて良かったです」
「それ、振る時によく言うやつ」
「本当に」
玲奈は笑った。
「私、自分に何ができるか分からなかったから」
蓮は黙っている。
「九条さんが、ちゃんと私の意見を聞いてくれた」
「仕事では厳しかったですけど」
「俺、優しかっただろ」
「どこが?」
「そこは肯定しろよ」
玲奈が笑う。
蓮も少し笑った。
そして。
玲奈はきちんと言った。
「でも、私は隼人さんが好きです」
胸に迷いはなかった。
「だから」
一度息を吸う。
「九条さんとは結婚できません」
蓮は空を見上げた。
「……知ってた」
「え?」
「たぶん無理だろうなって」
「だったらどうして」
「言わないまま終わるの嫌だから」
蓮らしい。
玲奈は少し笑った。
「ありがとうございます」
「もう一回言ったら怒るぞ」
「では、言いません」
「それでいい」
蓮はフェンスから離れる。
そして玲奈の横を通り過ぎる直前。
「でも」
足を止める。
「黒川がまた君を泣かせたら」
玲奈が振り返る。
蓮は少し意地悪そうに笑った。
「今度は遠慮しない」
「九条さん」
「離婚届持って俺のところへ来い」
「行きません」
「即答か」
「はい」
「可愛くないな」
「十九歳ですから」
玲奈が言うと。
蓮は声を上げて笑った。
⸻
その夜。
玲奈は父の書斎を訪れた。
慎吾はデスクで資料を読んでいた。
「お父様」
「どうした」
「少しいい?」
「ああ」
玲奈は父の向かいへ座る。
少し緊張していた。
「一条の会社」
慎吾が顔を上げる。
「うん」
「黒川からの支援って……今どのくらい必要?」
父の表情が変わる。
「なぜ聞く」
「ちゃんと知りたいから」
慎吾は資料を閉じた。
「資本提携そのものは続いているが、当初ほど依存はしていない」
「本当に?」
「ああ」
新商品の開発。
九条を含めた販路拡大。
不採算事業の整理。
この数か月で、一条化粧品は少しずつ立ち直っている。
「今すぐ黒川との提携を切っても平気、とは言わん」
慎吾は現実的に言った。
「だが、お前の婚姻がなければ会社が潰れるという状態では、もうない」
玲奈はゆっくり息を吐いた。
胸の奥にあった最後の鎖が。
ほどけるようだった。
「そう」
「玲奈」
父は娘を見る。
「黒川君と何か決めるのか」
玲奈は少し考えた。
「うん」
「離婚?」
「違う」
即答。
自分でも驚く。
慎吾の目が少し和らぐ。
玲奈は笑った。
「私、やっと分かったの」
「何が」
「今まで私」
玲奈は自分の左手を見る。
結婚指輪。
一条家へ来てからも外さなかった。
「会社のために隼人さんの妻になったと思ってた」
それは事実だ。
始まりは。
「だから、会社が助かったら……私は隼人さんの隣にいる理由がなくなるんだって、どこかで思ってた」
慎吾は黙って聞いている。
「でも」
玲奈は指輪を指先でなぞった。
「違った」
「……」
「会社がなくても」
「黒川家との約束がなくても」
胸の奥が温かい。
「私は隼人さんのそばにいたい」
自分で言って。
初めて。
完全に答えが出た。
「それが分かったから」
玲奈は顔を上げる。
「黒川邸へ帰ろうと思う」
慎吾はしばらく何も言わなかった。
そして。
「そうか」
たったそれだけ。
玲奈は少し拍子抜けした。
「反対しないの?」
「してほしいのか?」
「そうじゃないけど」
慎吾は小さく笑う。
「前にお前が嫁いだ時とは違う」
「違う?」
「あの時のお前は、一条の会社を背負っていた」
玲奈は黙る。
「今は自分で決めている」
父の声は優しかった。
「なら、俺が止める理由はない」
目の奥が熱くなる。
「お父様」
「ただし」
慎吾の顔が急に真剣になる。
「また泣いて帰ってきたら、次は簡単に返さない」
玲奈は思わず笑った。
「はい」
午後九時。
黒川邸。
隼人は書斎にいた。
デスクの上には仕事の資料。
けれど。
ほとんど進んでいない。
スマートフォンを見る。
玲奈からの連絡はない。
今日は。
九条との打ち合わせがあることを聞いていた。
本当なら。
気になって仕方がなかった。
何時に終わるのか。
二人きりではないか。
蓮が余計なことを言わないか。
何度も連絡したくなった。
でも。
我慢した。
玲奈が自分で決めると言った。
待つと言ったのは自分だ。
「……長い」
思わず呟く。
たった数日。
それなのに。
黒川邸はひどく静かだった。
以前も静かな家だった。
それを何とも思わなかった。
玲奈が来てから。
朝食の席で小さく文句を言う声が増えた。
帰宅すれば、
『おかえりなさい』
と聞こえるようになった。
リビングには大学の教科書が置かれ。
冷蔵庫には玲奈が買ってきた見慣れない菓子が増え。
庭には玲奈が好きだという白い花が植えられた。
いなくなって初めて分かった。
いつの間にか。
この家のあちこちに玲奈がいる。
「隼人様」
ノック。
佐和子だった。
「何だ」
「少々よろしいでしょうか」
「入れ」
扉が開く。
佐和子はなぜか少し笑っていた。
「お客様がお見えです」
隼人の眉が寄る。
「こんな時間に誰だ」
「玄関へお越しいただければ、お分かりになるかと」
「誰なのか言え」
「ご自分で」
妙に楽しそう。
隼人は立ち上がった。
何だ。
こんな時間に。
玄関ホールへ向かう。
階段を下りる。
そして。
途中で。
足が止まった。
玄関に。
一人の女性が立っている。
淡いベージュのワンピース。
長い黒髪。
足元には小さな旅行鞄。
隼人を見つけると。
大きな焦げ茶色の瞳が少しだけ揺れた。
「……玲奈?」
本当に。
しばらく理解できなかった。
玲奈が。
ここにいる。
「こんばんは」
少し緊張した声。
隼人は階段を下りた。
いつもより速い。
玲奈の前まで来る。
「どうした」
口から出たのは。
ひどく間の抜けた言葉だった。
玲奈が少し笑う。
「帰ってきました」
隼人の表情が止まる。
「……帰ると、言ってなかった」
「言ってません」
「なぜ」
「自分で決めてから言おうと思ったから」
隼人は玲奈を見る。
「決めた?」
「はい」
玲奈の手が、左手の結婚指輪へ触れる。
緊張している。
心臓がうるさい。
でも。
もう逃げない。
「一条の会社」
「……ああ」
「まだ黒川家との提携は必要です」
隼人の表情が少し硬くなる。
玲奈はすぐ続けた。
「でも、私があなたと結婚していないと会社が潰れる状態では、もうありません」
隼人は黙る。
「だから」
玲奈は一度、息を吸った。
「もし私が隼人さんと別れたいなら」
言葉にするだけで。
隼人の目が険しくなる。
「今なら、会社を理由にせず離れられます」
「玲奈」
「最後まで聞いてください」
隼人が口を閉じる。
玲奈はまっすぐ夫を見た。
「今日」
「九条さんに、結婚してほしいと言われました」
隼人の顔が完全に固まった。
空気が変わる。
「……何?」
声が低い。
玲奈は危うく笑いそうになる。
本当に。
分かりやすくなった。
「離婚するなら、自分と結婚しないかって」
「九条……」
今すぐ電話でもしそうな顔。
玲奈は慌てて続ける。
「断りました」
隼人の動きが止まる。
「……断った?」
「はい」
「なぜ」
玲奈は一瞬。
呆気に取られた。
「なぜって……」
隼人自身も。
聞いてから気づいたらしい。
少し気まずそうに目を逸らす。
玲奈はとうとう笑った。
「そこ、聞くんですか?」
「……確認だ」
「隼人さん」
「何だ」
玲奈は笑顔を消す。
そして。
今までで一番。
素直な気持ちを言葉にした。
「私が好きなのは、隼人さんだからです」
隼人の目が見開かれた。
玲奈の頬も熱い。
でも。
言えた。
「会社のためじゃありません」
一歩。
隼人へ近づく。
「黒川家のためでもありません」
もう一歩。
「お父様に言われたからでもないです」
玲奈は隼人の前に立つ。
「私が決めました」
そして。
自分から。
隼人の手を取った。
大きな手。
今まで。
何度か触れた。
でも。
玲奈から取るのは初めてだった。
隼人の指がわずかに動く。
「玲奈」
「はい」
玲奈は笑った。
少しだけ涙が滲んでいる。
「私、これからもあなたの妻でいたいです」
隼人は何も言わなかった。
一秒。
二秒。
玲奈が不安になる。
「隼人さん?」
「……今」
やっと声が出る。
「何と言った」
玲奈は目を瞬いた。
「聞こえなかったんですか?」
「もう一度」
「嫌です」
「玲奈」
「恥ずかしいので一回だけです」
隼人の眉が寄る。
「大事なところだ」
「ちゃんと聞いていたでしょう?」
「聞いていた」
「なら――」
次の瞬間。
隼人の腕が玲奈の腰へ回った。
玲奈の身体が引き寄せられる。
「きゃっ」
胸元へぶつかる。
驚いて顔を上げると。
すぐ近くに隼人の顔。
今まで。
こんなに近づいたことはなかった。
玲奈の心臓が跳ねる。
隼人も。
少しだけ苦しそうな顔をしていた。
「……触ってもいいか」
あの日と同じ問い。
玲奈の胸が温かくなる。
「もう触ってます」
「そういう意味じゃない」
低い声。
玲奈にも。
意味は分かった。
頬が熱くなる。
でも。
逃げなかった。
「はい」
小さく答える。
隼人の腕へ、自分から手を添える。
「いいです」
その言葉を聞いた瞬間。
隼人の表情が変わった。
けれど。
すぐには何もしなかった。
確認するように玲奈の目を見る。
本当に嫌ではないか。
そんなふうに。
玲奈は小さく笑う。
そして。
ほんの少しだけ背伸びをした。
「隼人さん」
「何だ」
「今度は待たせないでください」
隼人の目が揺れる。
「……分かった」
そう答えた声は。
今まで玲奈が聞いたことのないほど優しかった。
玄関ホールには。
少し離れたところで佐和子たち使用人がいる。
だから。
二人はそれ以上近づかなかった。
玲奈も。
今はそれで十分だった。
隼人の胸元へ額を預ける。
腕が少し強くなる。
「おかえり」
耳元で聞こえた。
玲奈は目を閉じた。
ずっと。
聞きたかった言葉のような気がした。
「ただいま」
会社を救うために始まった結婚。
愛されていないと思って。
何度も泣いて。
何度も諦めようとした。
けれど。
今は違う。
玲奈は。
誰かに選ばれたから、ここにいるのではない。
自分が。
この人を選んだ。
そして初めて。
黒川邸を――。
本当の意味で。
自分の帰る家だと思えた。
玲奈はまだ一条家から大学へ通っている。
朝になれば昔から使っている部屋で目を覚まし、父と朝食を取る。
大学を終えれば一条化粧品へ顔を出し、新商品の企画会議に参加する。
そして夜になると――。
スマートフォンが鳴る。
以前とは違う。
隼人からだった。
『今日は何時に終わる』
『七時頃です』
『夕食は』
『父と食べます』
少し間を置いて。
『そうか』
たったそれだけ。
以前なら、
『帰れ』
と言われただろう。
あるいは、
『迎えを出す』
と勝手に決められたかもしれない。
けれど今は違う。
隼人は玲奈の予定を聞く。
それから、自分の予定も伝えてくる。
『今日は会食がある』
『香月さんも一緒ですか?』
玲奈が思い切って尋ねた時。
返事はすぐだった。
『違う、橘と佐伯が同行する』
さらに。
『香月はもう俺の秘書ではない』
そこまで書かれていた。
思わず笑ってしまった。
きっと玲奈が不安にならないように、必要以上に説明しているのだ。
あの隼人が。
一言伝えれば済むことを。
玲奈はベッドの上でスマートフォンを見ながら、小さく笑った。
少しずつ。
本当に少しずつ。
二人の関係は変わり始めていた。
でも。
玲奈はまだ黒川邸へ戻るとは言わなかった。
隼人も催促しない。
『待つ』
あの日。
そう言ってくれたから。
玲奈は、自分の答えを急いで出したくなかった。
会社のためでも。
父のためでも。
隼人が好きだと言ってくれたからでもなく。
自分自身の意思で。
選びたかった。
「玲奈様」
大学の正門を出たところで、亮が声をかけてきた。
「本日は一条本社でよろしいでしょうか」
「はい。お願いします」
護衛に戻ってからの亮は、以前と何も変わらなかった。
余計なことは聞かない。
必要以上に近づかない。
あの誕生日の夜についても、一度も口にしなかった。
それがありがたくもあり。
少し申し訳なくもあった。
車へ向かいながら。
玲奈は亮の横顔を見る。
「亮さん」
「はい」
名前で呼ぶことは、もう自然になっていた。
隼人が聞いたらまた不機嫌になるかもしれない。
そう考えると、少し可笑しい。
「今度、お礼をさせてください」
亮が玲奈を見る。
「何のお礼でしょう」
「いろいろです」
「いろいろ?」
「私が一人で泣いていた時、何度もそばにいてくれたから」
亮の歩みがほんの少し遅くなる。
玲奈は続けた。
「本当に助けてもらいました」
「仕事です」
いつもの返事。
玲奈は苦笑する。
「全部それで済ませますね」
「便利な言葉なので」
珍しく冗談めいた返事。
玲奈は笑った。
亮もほんのわずかに笑う。
それから。
少しだけ表情を変えた。
「玲奈さん」
今度は亮のほうが、様をつけなかった。
玲奈は足を止める。
亮も立ち止まった。
春より強くなった日差しが、大学前の並木道へ落ちている。
学生たちが二人の横を通り過ぎていく。
「何ですか?」
「旦那様とは……話せましたか」
玲奈は少し驚いた。
亮が自分から隼人のことを聞くのは珍しい。
「はい」
「そうですか」
それだけ。
でも。
亮の表情を見て。
玲奈は分かった。
この人には、きちんと伝えなければいけない。
「私」
玲奈は自分から言った。
「隼人さんを、もう一度信じてみたいと思っています」
亮の瞳がわずかに揺れた。
「……はい」
「でも、すぐ黒川邸へ戻るわけじゃありません」
「それでいいと思います」
やっぱり。
亮は玲奈の選択を否定しない。
「自分で決めたいんです」
「はい」
「今度は誰かのためじゃなくて」
玲奈は少しだけ笑った。
「私自身が、どうしたいのか」
亮は数秒、玲奈を見つめた。
それから静かに頷く。
「そうしてください」
「亮さん」
「玲奈さんが選んだなら」
亮の声は穏やかだった。
「俺は、それを守ります」
胸が少し痛んだ。
玲奈はもう。
亮の気持ちに気づいていた。
はっきり告白されたわけではない。
けれど。
自分を見る目。
あの誕生日の夜。
『好きな人に、自分を大切にしてほしいと思うのは普通です』
そう言ってくれた時の声。
気づかないほど、玲奈も幼くはない。
「……ありがとうございます」
それ以上。
何も言えなかった。
亮も求めなかった。
ただ。
いつものように車の扉を開けた。
「どうぞ」
「はい」
玲奈は乗り込む。
扉が閉まる直前。
亮がほんの少しだけ笑った。
それが。
なぜか少し寂しく見えた。
午後五時。
一条化粧品本社。
新商品企画会議は、これまでで一番良い雰囲気で終わった。
「スターターセットの最終試作品はこちらで進めます」
三浦部長が資料をまとめる。
「価格も予定通り三千九百八十円」
「はい」
玲奈も資料へ目を落とす。
ここまで来るのに時間がかかった。
最初は。
何も分からなかった。
売上。
原価。
広告。
販売戦略。
でも。
少しずつ勉強した。
大学の友人たちにアンケートも取った。
九条側とも何度も意見を交わした。
初めて。
自分が会社の役に立てたと実感できる商品。
「発売が楽しみですね」
玲奈が言うと。
「その前に売らないとな」
向かい側から声。
九条蓮だった。
「九条さん」
「商品は作って終わりじゃない」
「分かっています」
「本当に?」
「最近、そればっかりですね」
玲奈が少しむっとする。
会議室に笑いが広がった。
蓮も笑う。
「じゃあ今日のところは合格」
「何目線なんですか」
「取引先」
「偉そうな取引先ですね」
慎吾が少し離れた席で苦笑している。
最初に出会った頃に比べれば。
蓮と玲奈はずいぶん気軽に話せるようになっていた。
仕事仲間として。
そして。
少し年上の友人として。
会議が終わる。
社員たちが部屋を出ていく。
玲奈も資料を片づけようとした時。
「玲奈さん」
蓮に呼ばれた。
「はい?」
「少し時間ある?」
玲奈は時計を見る。
「少しなら」
「屋上行こう」
「屋上?」
「話がある」
いつもの軽さがない。
玲奈は少し不思議に思った。
一条本社の屋上には、小さな休憩用庭園がある。
社員たちが昼休みに利用する場所。
夕方の今は誰もいなかった。
街の向こうへ夕日が沈み始め、空は橙色から淡い紫へ変わっている。
蓮はフェンス近くまで歩いてから振り返った。
玲奈は少し離れたところで立ち止まる。
「話って何ですか?」
「黒川と話したんだろ」
いきなり核心。
玲奈は目を瞬いた。
「どうして分かるんですか?」
「顔」
「また?」
「最近の玲奈さん、かなり分かりやすいよ」
玲奈は少し頬を膨らませた。
「みんな同じこと言う」
「じゃあ事実だな」
蓮は笑う。
でも。
すぐに真面目な顔へ戻った。
「戻るの?」
玲奈は答えに詰まる。
「黒川のところへ」
夕方の風が吹いた。
玲奈の黒髪が揺れる。
「まだ……決めていません」
「まだ?」
「はい」
「好きなんだろ?」
玲奈は少し黙った。
以前なら。
否定したかもしれない。
今は。
「はい」
ちゃんと言える。
「好きです」
蓮の目がほんの少し細くなる。
でも笑わなかった。
「そっか」
短い返事。
少しだけ。
風の音だけが続く。
「九条さん?」
「俺さ」
蓮はフェンスへ背中を預けた。
「最初は本当に、黒川への嫌がらせ半分だったんだよ」
玲奈は眉を寄せる。
「ひどい」
「知ってる」
「私を使おうとしたんですか?」
「黒川の若い奥さんが一条の会議に出てるって聞いて、ちょっと興味を持った」
「最低」
「最後まで聞けよ」
蓮が笑う。
玲奈は腕を組んだ。
「聞いてます」
「でも」
蓮の表情が変わる。
「途中から、どうでもよくなった」
「何が?」
「黒川が」
玲奈は目を瞬いた。
蓮は玲奈をまっすぐ見る。
「君自身が面白くなった」
いつもの冗談ではない。
玲奈の胸がざわつく。
「知らないことをそのままにしない」
「意見を否定されたら調べ直す」
「家の会社だからって甘えない」
少しずつ。
蓮の声が優しくなる。
「それでいて、黒川のことで簡単に泣く」
「最後はいりません」
「そこも含めて」
玲奈の頬が熱くなる。
嫌な予感。
でも。
逃げてはいけない。
蓮は一歩、玲奈へ近づいた。
「玲奈さん」
「はい」
「黒川と別れるなら」
心臓が大きく鳴った。
「俺と結婚しない?」
玲奈は動けなかった。
冗談。
そう思いたかった。
でも。
蓮の顔に笑いはない。
「九条さん」
「政略じゃない」
蓮は続けた。
「一条がどうなっても関係ない」
「九条グループとの取引も関係ない」
夕日の中。
蓮の目だけが真っ直ぐ玲奈を見る。
「俺が一条玲奈を欲しい」
以前。
誰かに女として求めてもらえたら。
自分は嬉しいのではないかと思ったことがある。
隼人は触れてくれない。
妻として欲しがっているのか分からない。
美月のような女性のほうが似合う。
そんな不安の中で。
誰かが自分を求めてくれたなら。
その人を選べば、もっと楽なのではないかと。
ほんの少し。
考えたこともあった。
でも今。
実際に言われて。
玲奈の心に浮かんだ答えは。
驚くほどはっきりしていた。
「……ありがとうございます」
玲奈は頭を下げた。
蓮が小さく息を吐く。
「その言い方、もう答え分かった」
「すみません」
「謝るなって」
玲奈は顔を上げる。
「九条さんに会えて良かったです」
「それ、振る時によく言うやつ」
「本当に」
玲奈は笑った。
「私、自分に何ができるか分からなかったから」
蓮は黙っている。
「九条さんが、ちゃんと私の意見を聞いてくれた」
「仕事では厳しかったですけど」
「俺、優しかっただろ」
「どこが?」
「そこは肯定しろよ」
玲奈が笑う。
蓮も少し笑った。
そして。
玲奈はきちんと言った。
「でも、私は隼人さんが好きです」
胸に迷いはなかった。
「だから」
一度息を吸う。
「九条さんとは結婚できません」
蓮は空を見上げた。
「……知ってた」
「え?」
「たぶん無理だろうなって」
「だったらどうして」
「言わないまま終わるの嫌だから」
蓮らしい。
玲奈は少し笑った。
「ありがとうございます」
「もう一回言ったら怒るぞ」
「では、言いません」
「それでいい」
蓮はフェンスから離れる。
そして玲奈の横を通り過ぎる直前。
「でも」
足を止める。
「黒川がまた君を泣かせたら」
玲奈が振り返る。
蓮は少し意地悪そうに笑った。
「今度は遠慮しない」
「九条さん」
「離婚届持って俺のところへ来い」
「行きません」
「即答か」
「はい」
「可愛くないな」
「十九歳ですから」
玲奈が言うと。
蓮は声を上げて笑った。
⸻
その夜。
玲奈は父の書斎を訪れた。
慎吾はデスクで資料を読んでいた。
「お父様」
「どうした」
「少しいい?」
「ああ」
玲奈は父の向かいへ座る。
少し緊張していた。
「一条の会社」
慎吾が顔を上げる。
「うん」
「黒川からの支援って……今どのくらい必要?」
父の表情が変わる。
「なぜ聞く」
「ちゃんと知りたいから」
慎吾は資料を閉じた。
「資本提携そのものは続いているが、当初ほど依存はしていない」
「本当に?」
「ああ」
新商品の開発。
九条を含めた販路拡大。
不採算事業の整理。
この数か月で、一条化粧品は少しずつ立ち直っている。
「今すぐ黒川との提携を切っても平気、とは言わん」
慎吾は現実的に言った。
「だが、お前の婚姻がなければ会社が潰れるという状態では、もうない」
玲奈はゆっくり息を吐いた。
胸の奥にあった最後の鎖が。
ほどけるようだった。
「そう」
「玲奈」
父は娘を見る。
「黒川君と何か決めるのか」
玲奈は少し考えた。
「うん」
「離婚?」
「違う」
即答。
自分でも驚く。
慎吾の目が少し和らぐ。
玲奈は笑った。
「私、やっと分かったの」
「何が」
「今まで私」
玲奈は自分の左手を見る。
結婚指輪。
一条家へ来てからも外さなかった。
「会社のために隼人さんの妻になったと思ってた」
それは事実だ。
始まりは。
「だから、会社が助かったら……私は隼人さんの隣にいる理由がなくなるんだって、どこかで思ってた」
慎吾は黙って聞いている。
「でも」
玲奈は指輪を指先でなぞった。
「違った」
「……」
「会社がなくても」
「黒川家との約束がなくても」
胸の奥が温かい。
「私は隼人さんのそばにいたい」
自分で言って。
初めて。
完全に答えが出た。
「それが分かったから」
玲奈は顔を上げる。
「黒川邸へ帰ろうと思う」
慎吾はしばらく何も言わなかった。
そして。
「そうか」
たったそれだけ。
玲奈は少し拍子抜けした。
「反対しないの?」
「してほしいのか?」
「そうじゃないけど」
慎吾は小さく笑う。
「前にお前が嫁いだ時とは違う」
「違う?」
「あの時のお前は、一条の会社を背負っていた」
玲奈は黙る。
「今は自分で決めている」
父の声は優しかった。
「なら、俺が止める理由はない」
目の奥が熱くなる。
「お父様」
「ただし」
慎吾の顔が急に真剣になる。
「また泣いて帰ってきたら、次は簡単に返さない」
玲奈は思わず笑った。
「はい」
午後九時。
黒川邸。
隼人は書斎にいた。
デスクの上には仕事の資料。
けれど。
ほとんど進んでいない。
スマートフォンを見る。
玲奈からの連絡はない。
今日は。
九条との打ち合わせがあることを聞いていた。
本当なら。
気になって仕方がなかった。
何時に終わるのか。
二人きりではないか。
蓮が余計なことを言わないか。
何度も連絡したくなった。
でも。
我慢した。
玲奈が自分で決めると言った。
待つと言ったのは自分だ。
「……長い」
思わず呟く。
たった数日。
それなのに。
黒川邸はひどく静かだった。
以前も静かな家だった。
それを何とも思わなかった。
玲奈が来てから。
朝食の席で小さく文句を言う声が増えた。
帰宅すれば、
『おかえりなさい』
と聞こえるようになった。
リビングには大学の教科書が置かれ。
冷蔵庫には玲奈が買ってきた見慣れない菓子が増え。
庭には玲奈が好きだという白い花が植えられた。
いなくなって初めて分かった。
いつの間にか。
この家のあちこちに玲奈がいる。
「隼人様」
ノック。
佐和子だった。
「何だ」
「少々よろしいでしょうか」
「入れ」
扉が開く。
佐和子はなぜか少し笑っていた。
「お客様がお見えです」
隼人の眉が寄る。
「こんな時間に誰だ」
「玄関へお越しいただければ、お分かりになるかと」
「誰なのか言え」
「ご自分で」
妙に楽しそう。
隼人は立ち上がった。
何だ。
こんな時間に。
玄関ホールへ向かう。
階段を下りる。
そして。
途中で。
足が止まった。
玄関に。
一人の女性が立っている。
淡いベージュのワンピース。
長い黒髪。
足元には小さな旅行鞄。
隼人を見つけると。
大きな焦げ茶色の瞳が少しだけ揺れた。
「……玲奈?」
本当に。
しばらく理解できなかった。
玲奈が。
ここにいる。
「こんばんは」
少し緊張した声。
隼人は階段を下りた。
いつもより速い。
玲奈の前まで来る。
「どうした」
口から出たのは。
ひどく間の抜けた言葉だった。
玲奈が少し笑う。
「帰ってきました」
隼人の表情が止まる。
「……帰ると、言ってなかった」
「言ってません」
「なぜ」
「自分で決めてから言おうと思ったから」
隼人は玲奈を見る。
「決めた?」
「はい」
玲奈の手が、左手の結婚指輪へ触れる。
緊張している。
心臓がうるさい。
でも。
もう逃げない。
「一条の会社」
「……ああ」
「まだ黒川家との提携は必要です」
隼人の表情が少し硬くなる。
玲奈はすぐ続けた。
「でも、私があなたと結婚していないと会社が潰れる状態では、もうありません」
隼人は黙る。
「だから」
玲奈は一度、息を吸った。
「もし私が隼人さんと別れたいなら」
言葉にするだけで。
隼人の目が険しくなる。
「今なら、会社を理由にせず離れられます」
「玲奈」
「最後まで聞いてください」
隼人が口を閉じる。
玲奈はまっすぐ夫を見た。
「今日」
「九条さんに、結婚してほしいと言われました」
隼人の顔が完全に固まった。
空気が変わる。
「……何?」
声が低い。
玲奈は危うく笑いそうになる。
本当に。
分かりやすくなった。
「離婚するなら、自分と結婚しないかって」
「九条……」
今すぐ電話でもしそうな顔。
玲奈は慌てて続ける。
「断りました」
隼人の動きが止まる。
「……断った?」
「はい」
「なぜ」
玲奈は一瞬。
呆気に取られた。
「なぜって……」
隼人自身も。
聞いてから気づいたらしい。
少し気まずそうに目を逸らす。
玲奈はとうとう笑った。
「そこ、聞くんですか?」
「……確認だ」
「隼人さん」
「何だ」
玲奈は笑顔を消す。
そして。
今までで一番。
素直な気持ちを言葉にした。
「私が好きなのは、隼人さんだからです」
隼人の目が見開かれた。
玲奈の頬も熱い。
でも。
言えた。
「会社のためじゃありません」
一歩。
隼人へ近づく。
「黒川家のためでもありません」
もう一歩。
「お父様に言われたからでもないです」
玲奈は隼人の前に立つ。
「私が決めました」
そして。
自分から。
隼人の手を取った。
大きな手。
今まで。
何度か触れた。
でも。
玲奈から取るのは初めてだった。
隼人の指がわずかに動く。
「玲奈」
「はい」
玲奈は笑った。
少しだけ涙が滲んでいる。
「私、これからもあなたの妻でいたいです」
隼人は何も言わなかった。
一秒。
二秒。
玲奈が不安になる。
「隼人さん?」
「……今」
やっと声が出る。
「何と言った」
玲奈は目を瞬いた。
「聞こえなかったんですか?」
「もう一度」
「嫌です」
「玲奈」
「恥ずかしいので一回だけです」
隼人の眉が寄る。
「大事なところだ」
「ちゃんと聞いていたでしょう?」
「聞いていた」
「なら――」
次の瞬間。
隼人の腕が玲奈の腰へ回った。
玲奈の身体が引き寄せられる。
「きゃっ」
胸元へぶつかる。
驚いて顔を上げると。
すぐ近くに隼人の顔。
今まで。
こんなに近づいたことはなかった。
玲奈の心臓が跳ねる。
隼人も。
少しだけ苦しそうな顔をしていた。
「……触ってもいいか」
あの日と同じ問い。
玲奈の胸が温かくなる。
「もう触ってます」
「そういう意味じゃない」
低い声。
玲奈にも。
意味は分かった。
頬が熱くなる。
でも。
逃げなかった。
「はい」
小さく答える。
隼人の腕へ、自分から手を添える。
「いいです」
その言葉を聞いた瞬間。
隼人の表情が変わった。
けれど。
すぐには何もしなかった。
確認するように玲奈の目を見る。
本当に嫌ではないか。
そんなふうに。
玲奈は小さく笑う。
そして。
ほんの少しだけ背伸びをした。
「隼人さん」
「何だ」
「今度は待たせないでください」
隼人の目が揺れる。
「……分かった」
そう答えた声は。
今まで玲奈が聞いたことのないほど優しかった。
玄関ホールには。
少し離れたところで佐和子たち使用人がいる。
だから。
二人はそれ以上近づかなかった。
玲奈も。
今はそれで十分だった。
隼人の胸元へ額を預ける。
腕が少し強くなる。
「おかえり」
耳元で聞こえた。
玲奈は目を閉じた。
ずっと。
聞きたかった言葉のような気がした。
「ただいま」
会社を救うために始まった結婚。
愛されていないと思って。
何度も泣いて。
何度も諦めようとした。
けれど。
今は違う。
玲奈は。
誰かに選ばれたから、ここにいるのではない。
自分が。
この人を選んだ。
そして初めて。
黒川邸を――。
本当の意味で。
自分の帰る家だと思えた。