触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜

第三章 妻より夫を知る人

黒川家に嫁いでから、玲奈には一つだけ新しく始めた習慣があった。

朝、新聞の経済面を読むこと。

これまでは芸能欄や新刊紹介くらいしか目を通していなかった新聞を、今では分からない言葉に小さな付箋を貼りながら読むようになった。

企業買収。

株主総会。

業務提携。

海外展開。

どれも高校を卒業したばかりの玲奈には馴染みの薄い言葉ばかりだった。

それでも知りたかった。

一条化粧品のことも。

黒川家のことも。

そして隼人が毎日何をしているのかも。

「……難しい」

朝のリビング。

テーブルいっぱいに新聞と経済雑誌を広げ、玲奈は小さく唸った。

窓から差し込む春の日差しが、白いテーブルクロスの上に柔らかな影を落としている。

今日は大学の入学前オリエンテーションもない。

友人と会う予定もない。

だから午前中を勉強に使うことにしたのだ。

「玲奈様、お紅茶をお持ちいたしました」

メイド長の佐和子がティーカップを置く。

「ありがとうございます」

「ずいぶん熱心でいらっしゃいますね」

「何も知らないままでは嫌だから」

玲奈は付箋だらけになった雑誌を見つめた。

「隼人さんの会社のことも、一条の会社のことも……少しくらい分かるようになりたくて」

佐和子が穏やかに笑う。

「隼人様がお聞きになれば、お喜びになると思います」

「そうでしょうか」

反射的に出た声が、自分で思ったより寂しかった。

玲奈は慌てて笑った。

「でも隼人さん、こういうことは香月さんと話したほうが早いでしょうね」

佐和子の表情が一瞬だけ曇った。

けれど何も言わず、

「玲奈様は玲奈様でございます」

とだけ答えた。

その意味を尋ねる前に、テーブルの端に置いていたスマートフォンが震えた。

画面には見慣れた名前。

隼人さん。

玲奈は思わず姿勢を正した。

電話ではなくメッセージだった。

『今夜、十九時に迎えを出す。支度をしておいてくれ』

玲奈は何度も文字を読み返した。

(今夜?)

続けてもう一通。

『桐生商事主催の慈善パーティーがある。夫婦で出席する』

少しだけ胸が弾んだ。

夫婦で。

その言葉が嬉しかった。

二人きりではない。

仕事の一環だとも分かっている。

それでも隼人の隣に立てる。

先日の会社訪問以来、美月の姿が頭から離れなかった玲奈にとって、それは思っていた以上に嬉しいことだった。

「佐和子さん」

「はい」

「今夜、パーティーに行くそうです」

「あら。それではドレスのご用意をいたしましょう」

玲奈は立ち上がった。

「私、自分で選んでもいいですか?」

「もちろんでございます」

「少しだけ……大人っぽいものがいいです」

佐和子が玲奈を見る。

「大人っぽいもの、でございますか?」

「はい」

玲奈は視線を逸らした。

理由を聞かれたくなかった。

ただ。

隼人の隣に並んだ時に、妹のようには見られたくなかった。

香月美月のような、大人の女性にはなれない。

けれど少しくらい。

妻らしく見られたい。

そんな小さな願いだった。

夕方。

玲奈の部屋には三着のドレスが並べられていた。

淡い桃色。

深い青。

そして、シャンパンゴールド。

玲奈が選んだのは三着目だった。

華美すぎない。

けれど肩から鎖骨にかけての線が綺麗に見えるデザインで、腰から下へ柔らかく広がる。

髪もいつものように下ろすのではなく、低い位置でまとめてもらった。

鏡の中にいる自分は、普段よりずっと大人びて見えた。

「……変じゃない?」

「とてもお似合いです」

スタイリストが笑う。

「十九歳には見えません」

「まだ十八です」

「あら、失礼いたしました」

玲奈も笑った。

少しだけ自信が出る。

これなら。

隼人も一度くらい、綺麗だと言ってくれるだろうか。

そんな期待をしてしまった。

やがて階下から車が到着したと知らせが入った。

玲奈は小さなバッグを手に、階段を下りる。

玄関ホールにはすでに隼人が立っていた。

黒いタキシード。

仕事帰りなのだろう。

いつもより少し疲れているように見える。

玲奈が階段を下りる音に気づき、隼人が顔を上げた。

視線が玲奈へ向く。

そして止まった。

玲奈も足を止めそうになった。

隼人が何も言わない。

「……お待たせしました」

「ああ」

それだけだった。

玲奈の胸が少し沈む。

やっぱり、自分が期待しすぎたのだ。

「行くぞ」

「はい」

玲奈が玄関へ向かうと、後ろから隼人の声がする。

「玲奈」

「はい?」

振り返る。

隼人の視線が玲奈の肩元へ落ちた。

「そのドレス」

心臓が跳ねる。

「……変ですか?」

「いや」

隼人は少し眉を寄せた。

「寒くないのか」

玲奈は数秒、何も言えなかった。

そして思わず笑いそうになる。

期待した自分が恥ずかしい。

「大丈夫です」

「上着は持ったか?」

「車にあります」

「そうか」

それで終わり。

(本当にそれだけなんだ)

玲奈は隼人より先に外へ出た。

後ろで佐和子が小さくため息をついたことには気づかなかった。


会場となったホテルの大広間には、すでに多くの招待客が集まっていた。

天井から下がる巨大なシャンデリア。

生演奏の弦楽器。

磨かれたグラスの音。

女性たちのドレス。

男性たちの黒い礼装。

結婚式以来の大きな社交の場に、玲奈は少し緊張した。

隼人の腕へ手を添える。

触れた瞬間、隼人がこちらを見た。

「どうした」

「……人が多くて」

「俺から離れるな」

「はい」

その言葉に、玲奈の心が少し温かくなる。

隼人の妻としてここにいる。

今だけはそう実感できた。

会場へ入ると、すぐに何人もの人々が隼人へ挨拶に来た。

「黒川専務、ご結婚おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「こちらが奥様ですね」

玲奈は頭を下げる。

「一条玲奈です」

「ああ、一条化粧品のお嬢様でしたか。お若いのにしっかりしていらっしゃる」

「ありがとうございます」

何度も同じような挨拶を交わす。

最初は緊張していた玲奈も、少しずつ慣れてきた。

隼人は必要な時にはさりげなく玲奈を会話へ入れてくれる。

相手の名前も小声で教えてくれた。

「今の方は?」

「東都銀行の副頭取だ」

「以前、お父様とお会いしていた方?」

「ああ。よく覚えていたな」

その一言が嬉しくて、玲奈は微笑んだ。

「一応、勉強しています」

「勉強?」

「新聞とか雑誌とか」

隼人が少し意外そうな顔をした。

「なぜ」

「一条のことも黒川のことも、何も分からないままでは嫌なので」

隼人の視線が玲奈に向く。

何か言いかけたところで、

「隼人さん」

聞き覚えのある女性の声がした。

玲奈の胸が小さく揺れる。

振り返らなくても分かった。

香月美月だった。

今日は仕事用のスーツではない。

深いワインレッドのドレス。

髪はゆるくまとめられ、耳元には小さなダイヤが輝いている。

会社で会った時とは違う華やかさ。

それでも隼人の隣に立つと、やはりよく似合って見えた。

「桐生会長がお呼びです」

「分かった」

美月が玲奈へ微笑む。

「奥様もこんばんは」

「こんばんは」

「とても素敵なドレスですわ」

「ありがとうございます」

褒められているのに、なぜか素直に喜べない。

美月の視線が玲奈の肩へ移る。

「少しお若い方向けのデザインかと思っていましたけれど、玲奈様にはよくお似合いです」

ほんのわずかな言い回し。

けれど玲奈には分かった。

また年齢のことだ。

「……ありがとうございます」

笑って返す。

その時、通りかかった給仕が銀のトレーを差し出した。

シャンパン。

玲奈は少し迷ってから一つ取ろうとした。

乾杯くらいなら。

そう思っただけだった。

しかしグラスへ指が触れる直前。

隼人の手が玲奈の手首を軽く押さえた。

「玲奈」

「はい?」

「それはやめておけ」

玲奈は目を瞬いた。

「どうしてですか?」

「飲み慣れていないだろう」

「少しくらいなら大丈夫です」

「ジュースにしろ」

給仕も困った顔をしている。

玲奈の頬が熱くなる。

周囲には人がいる。

「隼人さん」

小さな声で呼ぶ。

「私、子供じゃありません」

「分かっている」

「だったら……」

「体調を崩してからでは遅い」

隼人は近くの給仕へ視線を向ける。

「ノンアルコールのものを」

「かしこまりました」

玲奈は何も言えなくなった。

そこへ美月がトレーからシャンパングラスを一つ取る。

「では私はいただきますね」

隼人は止めない。

当たり前だ。

美月は二十七歳。

お酒にも慣れている。

比べることではない。

分かっている。

それでも、胸が痛かった。

そのやり取りを見ていた中年の女性が楽しそうに笑う。

「まあ、黒川さんはずいぶん奥様を大切になさっているのね」

「大切というより……」

別の女性が玲奈と隼人を見比べる。

「妹さんを心配しているみたい」

笑い声。

悪意はない。

だから、玲奈は笑うしかなかった。

「七歳も離れておりますから」

自分からそう言ってみせる。

隼人が玲奈を見る。

「玲奈」

「なんですか?」

「何でもない」

玲奈は給仕から渡された果汁入りのグラスを持った。

隣では美月がシャンパンを口へ運んでいる。

大人の女性。

隼人と同じ世界にいる人。

玲奈は透明なグラスの中で揺れる果汁を見つめた。

さっきまで少しだけ自信を持てていたドレスまで、急に幼く見える気がした。


パーティーは進んだ。

玲奈は隼人と一緒に何人もの招待客へ挨拶した。

しかし先ほどの言葉が、ずっと頭に残っていた。

妹さんみたい。

隼人はどう思ったのだろう。

否定しなかった。

それが余計につらかった。

やがて食事の時間となり、招待客は丸テーブルへ案内された。

玲奈は隼人の隣。

反対側には美月。

仕事関係者も何人か同席していた。

前菜が運ばれる。

話題は自然と企業経営や海外市場の話になった。

玲奈には分からない話も多い。

それでも一生懸命聞いた。

「黒川さん、次の東南アジア展開については?」

年配の男性が尋ねる。

隼人が答える。

「まず現地企業との提携を優先します。単独進出よりリスクが少ない」

「香月さんも同行されるとか」

「ええ」

美月が笑う。

「来月はシンガポールへ一週間ほど」

玲奈の手が止まった。

聞いていない。

隼人が海外へ行くことも。

美月が同行することも。

玲奈の知らない予定が、当然のように他人の口から語られる。

「奥様は?」

質問が玲奈へ向く。

「え?」

「ご一緒されないのですか?」

玲奈が答えに困っていると、隼人が先に口を開いた。

「玲奈は大学が始まります」

「なるほど」

話はすぐ次へ移る。

玲奈は笑顔を保ちながら、膝の上で指を握った。

連れて行ってほしいわけではない。

ただ。

一言くらい教えてほしかった。

「玲奈様」

美月が向かい側から声をかける。

「こちらのお魚、美味しいですよ」

「はい」

「ただ、付け合わせのセロリは隼人さんには勧めないほうがよろしいです」

玲奈が顔を上げる。

「セロリ?」

「苦手なんです」

美月が楽しそうに笑った。

「昔から」

玲奈は隼人を見る。

「そうなんですか?」

「ああ」

知らなかった。

その一言が、また胸に刺さる。

次に肉料理が運ばれる。

玲奈が何か言うより先に、美月がスタッフへ声をかけた。

「黒川専務のソースは別添えでお願いします」

「かしこまりました」

「濃い味はあまり好まれませんので」

「香月」

隼人が美月を見る。

「そこまでしなくていい」

「いつものことですから」

いつものこと。

その言葉に玲奈の笑顔が少しだけ固くなる。

玲奈は知らない。

隼人が何を食べられないのか。

どんな味が好きなのか。

コーヒーはどう飲むのか。

海外出張へ何を持っていくのか。

疲れた日は何を食べるのか。

妻になったのに。

何一つ知らない。

「奥様はまだご存じないことが多いでしょう?」

美月が穏やかな声で言った。

「……はい」

「無理もありませんわ。これからですもの」

優しい言葉。

けれど玲奈は、どうしても素直に受け取れなかった。

美月は続けた。

「隼人さんは少し面倒なんです。嫌いなものも多いですし、朝は機嫌が悪いこともありますし」

「香月」

「事実でしょう?」

美月が楽しそうに隼人を見る。

隼人も呆れたように眉を寄せただけだった。

長い時間を一緒に過ごしてきた人同士の空気。

そこへ玲奈は入れない。

胸の奥に、重いものが積もっていく。

その時だった。

「玲奈」

隼人の声。

「はい?」

「食べないのか」

玲奈の皿には料理がほとんど残っていた。

「……お腹がいっぱいで」

「昼もあまり食べていなかっただろう」

「どうして知っているんですか?」

「佐和子から聞いた」

また。

玲奈は胸の奥がちくりとする。

隼人は自分の食事を気にする。

帰宅時間を気にする。

寒くないか、疲れていないか、眠れているか。

たしかに大切にしてくれている。

でもそれは……。

「子供みたいですね」

思わず口にしてしまった。

「何?」

「何でもありません」

玲奈はナイフを置いた。

「少し席を外してもいいですか?」

「具合が悪いのか?」

「お化粧を直したいだけです」

立ち上がる。

隼人も立とうとした。

「一人で大丈夫です」

少し強く言ってしまった。

隼人の動きが止まる。

玲奈は頭を下げ、その場を離れた。


化粧室には誰もいなかった。

玲奈は鏡の前に立つ。

大人っぽくしてもらったはずの自分。

けれど今は、無理に背伸びした高校生にしか見えなかった。

「……何してるんだろう」

鏡の中の自分へ呟く。

美月に勝ちたいわけではない。

そもそも勝ち負けではない。

隼人と美月は仕事仲間だ。

それくらい分かっている。

でも。

(私より、ずっと隼人さんのことを知ってる)

悔しかった。

妻だから自動的に一番近い人になれるわけではない。

結婚指輪があっても。

同じ家に住んでいても。

隼人のことを何も知らなければ、心の距離まで縮まるわけではない。

玲奈はバッグからリップを取り出した。

少しだけ色を直す。

泣くほどのことではない。

こんなことで泣いたら、本当に子供だと思われる。

「大丈夫」

自分に言い聞かせ、化粧室を出た。

廊下の向こうから二人の女性が歩いてくる。

先ほど同じテーブルにいた令嬢たちだった。

玲奈に気づいていないらしく、小さな声で話している。

「でも驚いたわ。黒川さん、本当にご結婚なさるとは思わなかった」

「私も、てっきり香月さんかと」

玲奈の足が止まる。

「七年でしょう? いつも一緒だもの」

「海外出張も会食も全部香月さん。黒川さんが他の女性をそばに置かないのも有名だったし」

「それなのに、ずいぶん若い奥様よね」

「一条家の救済でしょう?」

心臓が大きく鳴った。

「会社同士の結婚なら仕方ないわ」

二人の声が遠ざかる。

玲奈は壁際に立ったまま動けなかった。

一条家の救済。

政略結婚。

知っていた。

最初から分かっていたこと。

なのに誰かの口から言われると、胸に鋭く刺さった。

てっきり香月さんかと。

やっぱり。

周囲から見ても二人はそう見えていたのだ。

玲奈は唇を噛んだ。

「……玲奈?」

低い声。

玲奈が顔を上げる。

少し離れた場所に隼人が立っていた。

「何をしている」

「隼人さん」

「遅いから見に来た」

隼人が近づいてくる。

「顔色が悪い」

「大丈夫です」

「帰るか?」

「まだパーティーの途中でしょう?」

「別に構わない」

玲奈は隼人を見つめた。

この人は優しい。

本当に。

だから余計に分からない。

「隼人さん」

「何だ」

玲奈は尋ねようとした。

香月さんとは、どういう関係なのですか。

昔、好きだったのですか。

今も大切なのですか。

私ではなく、あの人と結婚したかったのですか。

聞きたいことはいくつもあった。

けれど。

「……何でもありません」

言えなかった。

好きでもない夫に、嫉妬する妻だと思われるのが怖かった。

隼人が眉を寄せる。

「さっきからそればかりだな」

「本当に何でもないんです」

玲奈は笑った。

「戻りましょう」

隼人は納得していない顔だった。

それでも無理に聞かなかった。

会場へ戻ろうとした時、隼人が自分のタキシードの上着を脱いだ。

玲奈の肩にかける。

突然包まれた温かさに、玲奈は驚いた。

「隼人さん?」

「冷えている」

「でも会場は暖かいです」

「手が冷たい」

どうして分かったのだろう。

玲奈が何か言う前に、隼人は歩き出した。

肩に残る上着。

隼人の香り。

嬉しい。

悔しいくらい嬉しかった。

たったこれだけで。

さっきまで落ち込んでいた心が簡単に揺れる。

玲奈は上着の襟を指先で掴んだ。

「……ずるい」

小さな声は隼人には届かなかった。


その夜。

黒川邸へ戻った後も、玲奈は眠れなかった。

ベッドの上で横になり、暗い天井を見つめる。

美月の言葉。

パーティーで聞いた噂。

隼人が肩へかけてくれた上着。

全部が頭の中で混ざっていた。

隼人は自分を大切にしてくれている。

それは間違いない。

でも。

その大切が、妻への愛情なのかは分からない。

玲奈は枕元のスマートフォンを手に取った。

検索欄へ文字を入れる。

黒川隼人 香月美月。

数秒迷った。

こんなことをする自分が嫌だった。

それでも指は止まらなかった。

検索ボタンを押す。

いくつもの記事が表示される。

『黒川グループ若き後継者を支える美人秘書』

『黒川隼人氏、海外視察へ~同行する右腕・香月美月氏』

『財界の名コンビ』

古い記事。

三年前。

四年前。

五年前。

写真の中には、今より少し若い隼人と美月がいた。

海外のホテル。

企業パーティー。

会見。

空港。

どの写真でも二人は並んでいる。

一枚だけ。

美月が隼人を見上げて笑っている写真があった。

隼人は正面を向いている。

ただそれだけ。

恋人同士に見えるようなものではない。

なのに玲奈には、その写真から目を離せなかった。

「……ずっと一緒だったんだ」

自分がまだ制服を着ていた頃も。

友達と試験勉強をしていた頃も。

隼人の隣には美月がいた。

七年。

玲奈が簡単に埋められる時間ではない。

スマートフォンを伏せる。

胸の奥が苦しい。

何を期待していたのだろう。

結婚したから。

指輪をもらったから。

少し優しくされたから。

いつか自分を好きになってくれるかもしれないなんて。

「そんなの……分からないのに」

玲奈は毛布を胸元まで引き上げた。

そして初めて思った。

隼人のことを、もっと知りたい。

美月が知っているからではない。

妻だからでもない。

ただ……。

あの人のことを知りたいと思ってしまった。

その感情が何なのか。

十八歳の玲奈にも、本当はもう分かり始めていた。

認めるのが怖いだけだった。

もし隼人を好きになってしまったら。

隼人の心が別の女性に向いていた時、自分はきっと今よりずっと傷つく。

だから。

これ以上好きにならないほうがいい。

そう思ったはずなのに。

玲奈は暗い部屋の中で、肩に残っているような隼人の上着の温かさを思い出していた。
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