触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜
第四章 私をひとりの女性として見る人
四月。
街路樹の桜が淡い花びらを散らし始めた頃、玲奈の大学生活が始まった。
黒川家へ嫁いだあとも大学へ進学することは、結婚前から決まっていた。
父はもちろん、隼人も反対しなかった。
むしろ入学手続きについては、玲奈が驚くほど積極的だった。
『結婚したからといって、進学を諦める必要はない』
そう言った隼人の言葉を、玲奈は今でも覚えている。
だから大学だけは、黒川隼人の妻ではなく、一条玲奈としていられる場所になるのだと思っていた。
少なくとも、入学初日の朝までは。
「……え?」
黒川邸の玄関前。
玲奈は、目の前に立つ青年を見上げた。
長身。
黒いスーツ。
短く整えた黒髪に、少し鋭く見える目元。
けれど、真正面から見ると不思議と怖さはない。
年齢は隼人より少し若いくらいだろうか。
青年は玲奈へ深く頭を下げた。
「本日より玲奈様の警護を担当いたします。神谷亮です」
「……警護?」
玲奈は聞き返した。
亮が答えるより先に、背後から聞き慣れた声がした。
「大学へ通う間は神谷をつける」
振り返る。
隼人だった。
今日は会社へ直行するらしく、濃紺のスーツを着ている。
片手には革のビジネスバッグ。
朝日を背に玄関へ歩いてくる姿は、相変わらず隙がない。
玲奈は思わず顔をしかめた。
「聞いていません」
「今、言った」
「そういう意味ではありません」
隼人は玲奈の前で立ち止まった。
「何が不満だ」
「大学へ行くだけですよ?」
「ああ」
「護衛なんて必要ありません」
「必要だ」
迷いのない即答。
玲奈は唇を結んだ。
「普通の学生として通いたいんです」
「普通?」
「そうです。友達と講義を受けて、お昼を食べたり、帰りにお店へ寄ったり……」
「好きにすればいい」
「護衛の方が後ろにいたら、好きになんてできません」
「神谷は邪魔をしない」
「いるだけで目立ちます」
玲奈は思わず亮を見た。
身長は百八十センチを超えているだろう。
黒いスーツ姿で、見るからに一般学生ではない。
大学の構内を歩けば、間違いなく目立つ。
亮は少し困ったような顔をした。
隼人はまったく気にしていない。
「慣れろ」
「隼人さん」
「玲奈」
低い声で名前を呼ばれる。
それだけで、強く言い返そうとしていた玲奈の勢いが少し削がれる。
隼人は玲奈を見下ろした。
「今のお前は一条家の娘であるだけじゃない。黒川家の人間でもある」
「分かっています」
「なら、自分の立場を理解しろ」
「理解しています。でも……」
「なら神谷を連れていけ」
また決められた。
玲奈の胸に小さな苛立ちが広がる。
何を着るか。
何時に帰るか。
どこへ行くか。
大学へ行く時ですら。
いつも隼人が先に決める。
玲奈のためなのだろう。
それも分かっている。
けれど。
「……私の意見は聞いてくださらないんですね」
玲奈が小さく言うと、隼人の眉がわずかに動いた。
「危険に関することは別だ」
「そうですか」
「玲奈」
「遅刻しますから、行きます」
玲奈は隼人を見ずに玄関を出た。
春の風が頬を撫でる。
本当なら、大学へ向かう初めての朝をもっと楽しみにしていた。
新しい教室。
新しい友人。
高校とは違う生活。
その期待が、少しだけしぼんでしまった。
「玲奈様」
後ろから亮がついてくる。
玲奈は振り返らなかった。
「……すみません」
「何がでしょう」
「神谷さんは何も悪くないのに」
八つ当たりをしているようで申し訳なくなった。
すると亮が少し間を置いて答えた。
「慣れております」
玲奈が足を止める。
「いつも怒られてるんですか?」
「いいえ」
「では何に?」
「警護対象の方から、最初は邪魔だと思われることにです」
思わず亮を見る。
真面目な顔だった。
冗談なのか本気なのか分からない。
玲奈は少しだけ笑った。
「やっぱり邪魔だと言われるんですね」
「よくあります」
「傷つきません?」
「仕事ですから」
淡々としている。
けれど、さっきより話しやすい。
玲奈は車の前まで歩きながら尋ねた。
「神谷さんはおいくつですか?」
「二十二です」
「若い」
「玲奈様に言われると複雑ですね」
「どうしてですか?」
「十八歳でしょう」
その瞬間、玲奈の笑顔が少し曇った。
また年齢。
最近、その数字を聞くたびに自分が幼いと言われているような気がする。
亮はすぐに玲奈の変化へ気づいたらしい。
「あまり言われたくないですか?」
玲奈は驚いた。
「……分かります?」
「顔に出ています」
隼人にも同じことを言われたことがあった。
けれど亮の言い方は、からかうようでも、子供を諭すようでもない。
ただ玲奈の気持ちを確認しているだけだった。
「最近、よく言われるんです」
「十八歳だから?」
「はい」
玲奈は車へ乗り込む前に、小さく息を吐いた。
「十八歳って、そんなに子供でしょうか」
亮はすぐには答えなかった。
運転手が後部座席の扉を開けて待っている。
少し考えてから、亮は言った。
「人によると思います」
「人?」
「年齢だけで大人か子供かを決められるとは思いません」
玲奈は目を瞬いた。
亮はそれ以上何も言わず、助手席側へ回った。
たったそれだけの言葉なのに。
玲奈の胸に、小さく温かなものが残った。
大学は想像していた以上に賑やかだった。
広いキャンパス。
レンガ造りの講堂。
新入生を勧誘する上級生たち。
サークルの看板を持った学生があちこちで声を上げている。
高校まで女子校だった玲奈にとって、男子学生が普通に隣を歩いている光景だけでも新鮮だった。
「玲奈!」
正門をくぐったところで、聞き慣れた声がした。
「美緒!」
高校時代からの親友、白石美緒が駆け寄ってくる。
肩までの髪を揺らし、玲奈の腕へ飛びついた。
「久しぶり!」
「一週間ぶりでしょう?」
「一週間でも久しぶりなの。結婚してから気軽に遊びに誘えなくなったし」
「そんなことないよ」
「本当に?」
「もちろん」
二人で笑う。
その瞬間。
美緒の視線が玲奈の後ろへ向いた。
「……玲奈」
「何?」
「あの人、誰?」
振り返る。
数メートル離れたところに亮が立っていた。
近すぎず。
遠すぎず。
周囲を確認しながら、玲奈たちを見守っている。
「……護衛」
「護衛?」
美緒の声が裏返った。
近くにいた学生まで振り返る。
「声が大きい」
「だって護衛って何? 映画?」
「私も必要ないって言ったんだけど」
「黒川さん?」
玲奈は頷いた。
美緒は亮を見てから玲奈を見る。
「すごいね。結婚すると本当に世界変わるんだ」
その言葉に玲奈は苦笑した。
「私は変わりたくなかったんだけどね」
美緒は何かを感じ取ったのか、それ以上は言わなかった。
「行こう。最初の講義、同じでしょう?」
「うん」
玲奈は友人と並んで歩き始めた。
亮は後ろからついてくる。
けれど宣言通り、話しかけてくることも、必要以上に近づくこともなかった。
教室へ入る前には姿を消し、講義が終わる頃には廊下の端で待っている。
昼休みも、玲奈たちとは別の席。
確かに邪魔ではない。
「神谷さん、意外と気にならないね」
美緒がサンドイッチを食べながら言う。
「朝はすごく嫌だったんだけど」
「格好いいし」
「そこ?」
「大事でしょう」
美緒が楽しそうに笑う。
「二十二歳なんでしょう?」
「うん」
「若いじゃん」
「そうだけど」
「黒川さんより話しやすそう」
玲奈の手が止まった。
「……隼人さんだって話しにくくないよ」
思わず庇うように言った。
美緒がじっと玲奈を見る。
「何?」
「別に」
「その顔、何?」
「玲奈、ちゃんと黒川さんのこと好きになってきてるんだなと思って」
「……え?」
玲奈の頬が熱くなる。
「違う」
「何が?」
「そういうんじゃないから」
「はいはい」
「本当に!」
美緒は完全に信じていない。
玲奈はストローでアイスティーを混ぜた。
氷が小さく音を立てる。
好き。
その言葉だけが頭に残った。
昨夜も考えていた。
隼人のことをもっと知りたい。
帰宅を待ってしまう。
少し優しくされるだけで嬉しい。
美月と一緒にいると胸が苦しくなる。
それを恋と呼ぶのなら。
自分はもう……。
「玲奈?」
「何でもない」
「また考え込んでる」
玲奈は笑ってごまかした。
答えを出すのが怖かった。
午後の講義を終えた頃には、朝の不機嫌さもすっかり消えていた。
久しぶりに同年代の友人たちと過ごしたことが楽しかった。
講義について話しながら、美緒と正門へ向かう。
「このあとどうする?」
「帰るよ」
「もう?」
「隼人さんに、終わったら真っ直ぐ帰るように言われてるから」
美緒が露骨に顔をしかめた。
「厳しくない?」
「そうかな」
「大学生でしょう?」
「でも……」
「玲奈」
少し離れた場所から呼ばれた。
亮だった。
「車を正門へ回しております」
「ありがとうございます」
美緒が時計を見る。
「まだ四時じゃん」
そして何かを思いついたように玲奈の腕を掴んだ。
「新しくできたカフェ行こうよ」
「カフェ?」
「駅前。入学したら一緒に行こうって言ったでしょう?」
覚えている。
高校卒業前。
二人で雑誌を見ながら約束した。
玲奈は一瞬迷った。
「でも……」
美緒が亮を見る。
「神谷さん」
「はい」
「玲奈、寄り道したら怒られます?」
あまりにも直接的な質問に、玲奈が慌てた。
「美緒!」
ところが亮は真面目に答えた。
「行き先と帰宅予定時刻を教えていただければ、警護上は問題ありません」
玲奈が亮を見る。
「……いいんですか?」
「俺は玲奈様の行動を決める立場ではありません」
その言葉に玲奈は少し驚いた。
「でも隼人さんは……」
「旦那様からは、安全を確保するよう命じられております」
「真っ直ぐ帰せとは?」
「聞いておりません」
玲奈は黙った。
朝、隼人に『神谷をつける』と言われただけだ。
自分の中で勝手に、寄り道まで禁止されていると思い込んでいたのかもしれない。
それでも。
「行きたいところがあるなら、行かれてはいかがですか」
亮が言う。
「俺も同行します」
美緒が玲奈の腕を引く。
「決まり!」
「ちょっと」
「行こう!」
玲奈は戸惑いながらも、最後には笑った。
「……うん」
たった一時間の寄り道。
それだけなのに。
ひどく自由になった気がした。
カフェは大学生や会社員で混み合っていた。
白を基調とした明るい店内。
大きな窓の向こうには桜並木が見える。
玲奈と美緒は窓際の席へ座った。
亮は少し離れたカウンター席。
時々こちらを確認しているだけだ。
「優秀」
美緒が小声で言う。
「何が?」
「あの護衛さん。全然邪魔しない」
「確かに」
「それにさ」
美緒が声をさらに落とす。
「玲奈のこと、ちゃんと玲奈として扱ってる感じする」
玲奈は瞬きをした。
「どういう意味?」
「黒川夫人だからこうしろ、ああしろじゃなくて、玲奈がどうしたいか聞いてくれるじゃん」
その言葉が胸へ残った。
玲奈は無意識に亮を見る。
ちょうど亮もこちらを確認したところだった。
目が合う。
亮は小さく会釈するだけで、すぐ視線を外した。
「そうかも」
玲奈は小さく言った。
隼人は優しい。
けれど、玲奈に何かを尋ねるより先に答えを決めることが多い。
それに比べて亮は、
『行きたいなら行けばいい』
と言った。
自分の意思を尊重されたことが、思っていた以上に嬉しかった。
「でも」
玲奈はケーキへフォークを入れた。
「隼人さんは、私のことを心配してるだけだと思う」
「好きだから?」
また言われた。
玲奈はむっとして美緒を見る。
「どうしてそうなるの」
「だって新婚だし」
「政略結婚」
「政略結婚でも夫婦でしょう」
「……そうだけど」
玲奈はカップへ口をつけた。
ミルクティーの甘さが舌に広がる。
夫婦。
その言葉が以前より重く感じられる。
「でもね」
玲奈は窓の外を見る。
「隼人さんには……私よりずっと長くそばにいる人がいるの」
「秘書?」
玲奈が驚く。
「知ってるの?」
「有名じゃん。香月美月さん」
やはり。
胸の奥が小さく痛む。
「やっぱり有名なんだ」
「仕事のパートナーとしてでしょう?」
「……分からない」
「黒川さんから何か言われた?」
玲奈は首を横に振った。
「何も」
「じゃあ本人に聞けばいいじゃん」
「聞けないよ」
「どうして?」
玲奈はしばらく答えられなかった。
「だって……」
好きだと知られそうだから。
そう言いかけて、やめた。
自分で認めてしまえば、もう逃げられない気がした。
カフェを出た時には、日が少し傾いていた。
美緒と別れ、玲奈は亮と車へ向かう。
春の風に桜の花びらが舞っている。
「今日はありがとうございました」
玲奈が言った。
「何がでしょう」
「カフェ」
「俺は何もしていません」
「でも、行っていいと言ってくれたから」
亮は少しだけ玲奈を見る。
「玲奈様」
「はい」
「俺に許可を取る必要はありません」
玲奈は足を止めた。
亮も止まる。
「警護はします。でも、玲奈様の生活を決めるのは俺ではありません」
「……隼人さんとは違いますね」
口にしてから、まずかったと思った。
夫と護衛を比べるような言い方。
けれど亮は隼人を悪く言わなかった。
「旦那様は、玲奈様を大切にされているんでしょう」
「大切……」
「心配しすぎるくらいには」
玲奈は苦笑した。
「私には、子供だから心配されているようにしか思えません」
亮が玲奈を見る。
玲奈は歩きながら続けた。
「大学へ行くだけで護衛。帰りが遅ければ注意される。お酒は駄目。服が薄ければ上着を着ろって」
思い出すほど、少し腹が立ってくる。
「父親みたいでしょう?」
「それは……」
亮が珍しく言葉に困った。
玲奈は笑った。
「神谷さんまで困らなくても」
「では一つだけ」
「はい?」
「子供だとは思いません」
玲奈が亮を見る。
「え?」
亮の表情は変わらない。
「少なくとも今日一日見ていて、そうは感じませんでした」
「でも十八ですよ」
「それが?」
玲奈は驚いた。
あまりにも当然のように返されたからだ。
亮は続ける。
「自分の家の会社のことを知ろうとして、大学にも通って、自分で考えている。十分だと思います」
玲奈は何も言えなかった。
そんなふうに言われたことがなかった。
十八歳。
若い。
まだ高校を卒業したばかり。
知らないことが多い。
最近の玲奈は、ずっとそんな言葉ばかりを受け取ってきた。
「……ありがとうございます」
自然と笑顔になる。
亮もほんの少しだけ表情を和らげた。
その時だった。
風が強く吹いた。
「きゃっ」
玲奈の髪が大きく揺れる。
まとめきれなかった黒髪が頬へかかり、桜の花びらが一枚、髪に絡んだ。
玲奈が気づかず歩き出そうとすると、
「玲奈様」
「はい?」
亮が手を伸ばしかける。
けれど途中で止めた。
「髪に花びらが」
「あ……どこですか?」
「右です」
玲奈が髪を触る。
「ここ?」
「もう少し上です」
「分からない」
何度触っても取れない。
亮が少し迷ってから、
「失礼します」
と一言断り、玲奈の髪から花びらを取った。
ほんの一瞬。
指先が髪へ触れただけ。
玲奈も何も意識していなかった。
「取れました」
亮の手のひらに、小さな桜の花びら。
「ありがとうございます」
玲奈は笑った。
その瞬間。
「――何をしている」
低い声がした。
玲奈の笑顔が止まる。
数メートル先。
黒い車の横に隼人が立っていた。
「隼人さん?」
どうしてここに。
会社にいる時間のはずだ。
隼人の視線は玲奈ではなく、亮へ向けられていた。
いつもと変わらないように見える。
けれど。
何かが違う。
「旦那様」
亮が頭を下げる。
「玲奈様の髪に花びらがついていましたので」
「そうか」
短い返事。
隼人がこちらへ歩いてくる。
「どうしてここに?」
玲奈が尋ねる。
「近くで会議が終わった」
「そうなんですか」
「帰るぞ」
「はい」
玲奈は車へ向かおうとした。
けれど隼人が亮を見たまま言う。
「神谷」
「はい」
「今後、必要以上に玲奈へ触れるな」
玲奈は驚いて振り返った。
「隼人さん?」
亮は顔色一つ変えない。
「承知しました」
「ちょっと待ってください」
玲奈は隼人の前へ回った。
「花びらを取ってもらっただけですよ?」
「見ていた」
「なら分かるでしょう?」
「ああ」
「では、どうしてそんな言い方をするんですか?」
隼人は玲奈を見る。
「護衛の仕事に、お前の髪へ触れることは含まれていない」
「そんな……」
あまりにも細かい。
玲奈は呆れてしまった。
「神谷さんは悪くありません」
「別に責めていない」
「責めているように聞こえます」
「注意しただけだ」
「だから、その必要がないと言っているんです」
隼人の眉が寄った。
「玲奈」
「何ですか」
「車に乗れ」
またそれ。
話を終わらせようとする言い方。
玲奈の胸に朝から積もっていたものが戻ってくる。
「……分かりました」
言い返すのも疲れた。
玲奈は亮へ振り返った。
「神谷さん、今日はありがとうございました」
「いえ」
「楽しかったです」
その言葉に、隼人の視線が玲奈へ戻る。
「楽しかった?」
玲奈は気づかない。
「はい。大学も、帰りに寄ったカフェも」
「カフェ?」
今度こそ、玲奈も気づいた。
隼人の声が低くなっている。
「美緒と行きました」
「神谷も?」
「護衛ですから」
「……そうか」
隼人はそれ以上何も言わなかった。
けれど明らかに機嫌が悪い。
玲奈には理由が分からない。
「私、何か悪いことしました?」
「していない」
「では、どうして怒っているんですか?」
「怒っていない」
絶対に怒っている。
玲奈はため息をついた。
「隼人さんって、分かりにくいです」
「お前に言われたくない」
「私は分かりやすいっていつも言うじゃないですか」
隼人が何か言おうとする。
けれどやめた。
「……帰るぞ」
またそれだけ。
玲奈は先に車へ乗り込んだ。
帰りの車内。
隼人は隣に座っていた。
いつもなら別々の車で帰ることが多いため、こうして並ぶのは珍しい。
けれど会話はない。
玲奈は窓の外を眺めていた。
夕方の街。
学生たちが友人と笑いながら歩いている。
ついさっきまで自分も同じだった。
楽しかった。
大学へ行って。
美緒と話して。
カフェへ寄って。
亮とも普通に話せた。
それなのに隼人といると、急に緊張する。
嫌いだからではない。
むしろ逆だから困る。
好きかもしれない人に、自分がどう見られているのか分からない。
「玲奈」
「はい」
「神谷と何を話した」
玲奈は隼人を見る。
「今日ですか?」
「ああ」
「色々です」
「色々とは」
「大学のこととか、護衛のこととか」
「他には?」
妙に細かい。
玲奈は少し考える。
「年齢の話もしました」
隼人の表情がわずかに動いた。
「年齢?」
「神谷さんは、十八歳だからって子供とは思わないって」
車内の空気が変わった気がした。
「……そうか」
短い返事。
「はい」
玲奈は窓へ視線を戻した。
「嬉しかったです」
「何が」
「初めて言われたから」
隼人は黙った。
玲奈は続ける。
「最近、誰に会っても若いとか、高校を卒業したばかりとか言われるでしょう?」
「事実だ」
その言葉に玲奈の胸がまた痛くなる。
「そうですね」
「玲奈」
「でも神谷さんは、年齢だけで決めないと言ってくれました」
隼人から返事はない。
しばらくして。
「神谷を気に入ったのか」
予想もしなかった質問だった。
玲奈は隼人を見る。
「気に入った?」
「話しやすそうだった」
「話しやすいですよ」
素直に答えた。
隼人の口元がわずかに引き締まる。
「そうか」
「隼人さん?」
「何だ」
「やっぱり怒ってます?」
「怒っていない」
「ならいいですけど」
玲奈はそれ以上聞かなかった。
隼人が何を考えているのか、やはり分からない。
けれど。
隼人自身も分かっていなかった。
玲奈が別の男を見て笑うだけで。
自分の知らないところで言葉を交わし、その男を『話しやすい』と言うだけで。
どうしてこんなにも面白くないのか。
そして、その感情に名前があることを。
隼人はまだ認めようとはしていなかった。
街路樹の桜が淡い花びらを散らし始めた頃、玲奈の大学生活が始まった。
黒川家へ嫁いだあとも大学へ進学することは、結婚前から決まっていた。
父はもちろん、隼人も反対しなかった。
むしろ入学手続きについては、玲奈が驚くほど積極的だった。
『結婚したからといって、進学を諦める必要はない』
そう言った隼人の言葉を、玲奈は今でも覚えている。
だから大学だけは、黒川隼人の妻ではなく、一条玲奈としていられる場所になるのだと思っていた。
少なくとも、入学初日の朝までは。
「……え?」
黒川邸の玄関前。
玲奈は、目の前に立つ青年を見上げた。
長身。
黒いスーツ。
短く整えた黒髪に、少し鋭く見える目元。
けれど、真正面から見ると不思議と怖さはない。
年齢は隼人より少し若いくらいだろうか。
青年は玲奈へ深く頭を下げた。
「本日より玲奈様の警護を担当いたします。神谷亮です」
「……警護?」
玲奈は聞き返した。
亮が答えるより先に、背後から聞き慣れた声がした。
「大学へ通う間は神谷をつける」
振り返る。
隼人だった。
今日は会社へ直行するらしく、濃紺のスーツを着ている。
片手には革のビジネスバッグ。
朝日を背に玄関へ歩いてくる姿は、相変わらず隙がない。
玲奈は思わず顔をしかめた。
「聞いていません」
「今、言った」
「そういう意味ではありません」
隼人は玲奈の前で立ち止まった。
「何が不満だ」
「大学へ行くだけですよ?」
「ああ」
「護衛なんて必要ありません」
「必要だ」
迷いのない即答。
玲奈は唇を結んだ。
「普通の学生として通いたいんです」
「普通?」
「そうです。友達と講義を受けて、お昼を食べたり、帰りにお店へ寄ったり……」
「好きにすればいい」
「護衛の方が後ろにいたら、好きになんてできません」
「神谷は邪魔をしない」
「いるだけで目立ちます」
玲奈は思わず亮を見た。
身長は百八十センチを超えているだろう。
黒いスーツ姿で、見るからに一般学生ではない。
大学の構内を歩けば、間違いなく目立つ。
亮は少し困ったような顔をした。
隼人はまったく気にしていない。
「慣れろ」
「隼人さん」
「玲奈」
低い声で名前を呼ばれる。
それだけで、強く言い返そうとしていた玲奈の勢いが少し削がれる。
隼人は玲奈を見下ろした。
「今のお前は一条家の娘であるだけじゃない。黒川家の人間でもある」
「分かっています」
「なら、自分の立場を理解しろ」
「理解しています。でも……」
「なら神谷を連れていけ」
また決められた。
玲奈の胸に小さな苛立ちが広がる。
何を着るか。
何時に帰るか。
どこへ行くか。
大学へ行く時ですら。
いつも隼人が先に決める。
玲奈のためなのだろう。
それも分かっている。
けれど。
「……私の意見は聞いてくださらないんですね」
玲奈が小さく言うと、隼人の眉がわずかに動いた。
「危険に関することは別だ」
「そうですか」
「玲奈」
「遅刻しますから、行きます」
玲奈は隼人を見ずに玄関を出た。
春の風が頬を撫でる。
本当なら、大学へ向かう初めての朝をもっと楽しみにしていた。
新しい教室。
新しい友人。
高校とは違う生活。
その期待が、少しだけしぼんでしまった。
「玲奈様」
後ろから亮がついてくる。
玲奈は振り返らなかった。
「……すみません」
「何がでしょう」
「神谷さんは何も悪くないのに」
八つ当たりをしているようで申し訳なくなった。
すると亮が少し間を置いて答えた。
「慣れております」
玲奈が足を止める。
「いつも怒られてるんですか?」
「いいえ」
「では何に?」
「警護対象の方から、最初は邪魔だと思われることにです」
思わず亮を見る。
真面目な顔だった。
冗談なのか本気なのか分からない。
玲奈は少しだけ笑った。
「やっぱり邪魔だと言われるんですね」
「よくあります」
「傷つきません?」
「仕事ですから」
淡々としている。
けれど、さっきより話しやすい。
玲奈は車の前まで歩きながら尋ねた。
「神谷さんはおいくつですか?」
「二十二です」
「若い」
「玲奈様に言われると複雑ですね」
「どうしてですか?」
「十八歳でしょう」
その瞬間、玲奈の笑顔が少し曇った。
また年齢。
最近、その数字を聞くたびに自分が幼いと言われているような気がする。
亮はすぐに玲奈の変化へ気づいたらしい。
「あまり言われたくないですか?」
玲奈は驚いた。
「……分かります?」
「顔に出ています」
隼人にも同じことを言われたことがあった。
けれど亮の言い方は、からかうようでも、子供を諭すようでもない。
ただ玲奈の気持ちを確認しているだけだった。
「最近、よく言われるんです」
「十八歳だから?」
「はい」
玲奈は車へ乗り込む前に、小さく息を吐いた。
「十八歳って、そんなに子供でしょうか」
亮はすぐには答えなかった。
運転手が後部座席の扉を開けて待っている。
少し考えてから、亮は言った。
「人によると思います」
「人?」
「年齢だけで大人か子供かを決められるとは思いません」
玲奈は目を瞬いた。
亮はそれ以上何も言わず、助手席側へ回った。
たったそれだけの言葉なのに。
玲奈の胸に、小さく温かなものが残った。
大学は想像していた以上に賑やかだった。
広いキャンパス。
レンガ造りの講堂。
新入生を勧誘する上級生たち。
サークルの看板を持った学生があちこちで声を上げている。
高校まで女子校だった玲奈にとって、男子学生が普通に隣を歩いている光景だけでも新鮮だった。
「玲奈!」
正門をくぐったところで、聞き慣れた声がした。
「美緒!」
高校時代からの親友、白石美緒が駆け寄ってくる。
肩までの髪を揺らし、玲奈の腕へ飛びついた。
「久しぶり!」
「一週間ぶりでしょう?」
「一週間でも久しぶりなの。結婚してから気軽に遊びに誘えなくなったし」
「そんなことないよ」
「本当に?」
「もちろん」
二人で笑う。
その瞬間。
美緒の視線が玲奈の後ろへ向いた。
「……玲奈」
「何?」
「あの人、誰?」
振り返る。
数メートル離れたところに亮が立っていた。
近すぎず。
遠すぎず。
周囲を確認しながら、玲奈たちを見守っている。
「……護衛」
「護衛?」
美緒の声が裏返った。
近くにいた学生まで振り返る。
「声が大きい」
「だって護衛って何? 映画?」
「私も必要ないって言ったんだけど」
「黒川さん?」
玲奈は頷いた。
美緒は亮を見てから玲奈を見る。
「すごいね。結婚すると本当に世界変わるんだ」
その言葉に玲奈は苦笑した。
「私は変わりたくなかったんだけどね」
美緒は何かを感じ取ったのか、それ以上は言わなかった。
「行こう。最初の講義、同じでしょう?」
「うん」
玲奈は友人と並んで歩き始めた。
亮は後ろからついてくる。
けれど宣言通り、話しかけてくることも、必要以上に近づくこともなかった。
教室へ入る前には姿を消し、講義が終わる頃には廊下の端で待っている。
昼休みも、玲奈たちとは別の席。
確かに邪魔ではない。
「神谷さん、意外と気にならないね」
美緒がサンドイッチを食べながら言う。
「朝はすごく嫌だったんだけど」
「格好いいし」
「そこ?」
「大事でしょう」
美緒が楽しそうに笑う。
「二十二歳なんでしょう?」
「うん」
「若いじゃん」
「そうだけど」
「黒川さんより話しやすそう」
玲奈の手が止まった。
「……隼人さんだって話しにくくないよ」
思わず庇うように言った。
美緒がじっと玲奈を見る。
「何?」
「別に」
「その顔、何?」
「玲奈、ちゃんと黒川さんのこと好きになってきてるんだなと思って」
「……え?」
玲奈の頬が熱くなる。
「違う」
「何が?」
「そういうんじゃないから」
「はいはい」
「本当に!」
美緒は完全に信じていない。
玲奈はストローでアイスティーを混ぜた。
氷が小さく音を立てる。
好き。
その言葉だけが頭に残った。
昨夜も考えていた。
隼人のことをもっと知りたい。
帰宅を待ってしまう。
少し優しくされるだけで嬉しい。
美月と一緒にいると胸が苦しくなる。
それを恋と呼ぶのなら。
自分はもう……。
「玲奈?」
「何でもない」
「また考え込んでる」
玲奈は笑ってごまかした。
答えを出すのが怖かった。
午後の講義を終えた頃には、朝の不機嫌さもすっかり消えていた。
久しぶりに同年代の友人たちと過ごしたことが楽しかった。
講義について話しながら、美緒と正門へ向かう。
「このあとどうする?」
「帰るよ」
「もう?」
「隼人さんに、終わったら真っ直ぐ帰るように言われてるから」
美緒が露骨に顔をしかめた。
「厳しくない?」
「そうかな」
「大学生でしょう?」
「でも……」
「玲奈」
少し離れた場所から呼ばれた。
亮だった。
「車を正門へ回しております」
「ありがとうございます」
美緒が時計を見る。
「まだ四時じゃん」
そして何かを思いついたように玲奈の腕を掴んだ。
「新しくできたカフェ行こうよ」
「カフェ?」
「駅前。入学したら一緒に行こうって言ったでしょう?」
覚えている。
高校卒業前。
二人で雑誌を見ながら約束した。
玲奈は一瞬迷った。
「でも……」
美緒が亮を見る。
「神谷さん」
「はい」
「玲奈、寄り道したら怒られます?」
あまりにも直接的な質問に、玲奈が慌てた。
「美緒!」
ところが亮は真面目に答えた。
「行き先と帰宅予定時刻を教えていただければ、警護上は問題ありません」
玲奈が亮を見る。
「……いいんですか?」
「俺は玲奈様の行動を決める立場ではありません」
その言葉に玲奈は少し驚いた。
「でも隼人さんは……」
「旦那様からは、安全を確保するよう命じられております」
「真っ直ぐ帰せとは?」
「聞いておりません」
玲奈は黙った。
朝、隼人に『神谷をつける』と言われただけだ。
自分の中で勝手に、寄り道まで禁止されていると思い込んでいたのかもしれない。
それでも。
「行きたいところがあるなら、行かれてはいかがですか」
亮が言う。
「俺も同行します」
美緒が玲奈の腕を引く。
「決まり!」
「ちょっと」
「行こう!」
玲奈は戸惑いながらも、最後には笑った。
「……うん」
たった一時間の寄り道。
それだけなのに。
ひどく自由になった気がした。
カフェは大学生や会社員で混み合っていた。
白を基調とした明るい店内。
大きな窓の向こうには桜並木が見える。
玲奈と美緒は窓際の席へ座った。
亮は少し離れたカウンター席。
時々こちらを確認しているだけだ。
「優秀」
美緒が小声で言う。
「何が?」
「あの護衛さん。全然邪魔しない」
「確かに」
「それにさ」
美緒が声をさらに落とす。
「玲奈のこと、ちゃんと玲奈として扱ってる感じする」
玲奈は瞬きをした。
「どういう意味?」
「黒川夫人だからこうしろ、ああしろじゃなくて、玲奈がどうしたいか聞いてくれるじゃん」
その言葉が胸へ残った。
玲奈は無意識に亮を見る。
ちょうど亮もこちらを確認したところだった。
目が合う。
亮は小さく会釈するだけで、すぐ視線を外した。
「そうかも」
玲奈は小さく言った。
隼人は優しい。
けれど、玲奈に何かを尋ねるより先に答えを決めることが多い。
それに比べて亮は、
『行きたいなら行けばいい』
と言った。
自分の意思を尊重されたことが、思っていた以上に嬉しかった。
「でも」
玲奈はケーキへフォークを入れた。
「隼人さんは、私のことを心配してるだけだと思う」
「好きだから?」
また言われた。
玲奈はむっとして美緒を見る。
「どうしてそうなるの」
「だって新婚だし」
「政略結婚」
「政略結婚でも夫婦でしょう」
「……そうだけど」
玲奈はカップへ口をつけた。
ミルクティーの甘さが舌に広がる。
夫婦。
その言葉が以前より重く感じられる。
「でもね」
玲奈は窓の外を見る。
「隼人さんには……私よりずっと長くそばにいる人がいるの」
「秘書?」
玲奈が驚く。
「知ってるの?」
「有名じゃん。香月美月さん」
やはり。
胸の奥が小さく痛む。
「やっぱり有名なんだ」
「仕事のパートナーとしてでしょう?」
「……分からない」
「黒川さんから何か言われた?」
玲奈は首を横に振った。
「何も」
「じゃあ本人に聞けばいいじゃん」
「聞けないよ」
「どうして?」
玲奈はしばらく答えられなかった。
「だって……」
好きだと知られそうだから。
そう言いかけて、やめた。
自分で認めてしまえば、もう逃げられない気がした。
カフェを出た時には、日が少し傾いていた。
美緒と別れ、玲奈は亮と車へ向かう。
春の風に桜の花びらが舞っている。
「今日はありがとうございました」
玲奈が言った。
「何がでしょう」
「カフェ」
「俺は何もしていません」
「でも、行っていいと言ってくれたから」
亮は少しだけ玲奈を見る。
「玲奈様」
「はい」
「俺に許可を取る必要はありません」
玲奈は足を止めた。
亮も止まる。
「警護はします。でも、玲奈様の生活を決めるのは俺ではありません」
「……隼人さんとは違いますね」
口にしてから、まずかったと思った。
夫と護衛を比べるような言い方。
けれど亮は隼人を悪く言わなかった。
「旦那様は、玲奈様を大切にされているんでしょう」
「大切……」
「心配しすぎるくらいには」
玲奈は苦笑した。
「私には、子供だから心配されているようにしか思えません」
亮が玲奈を見る。
玲奈は歩きながら続けた。
「大学へ行くだけで護衛。帰りが遅ければ注意される。お酒は駄目。服が薄ければ上着を着ろって」
思い出すほど、少し腹が立ってくる。
「父親みたいでしょう?」
「それは……」
亮が珍しく言葉に困った。
玲奈は笑った。
「神谷さんまで困らなくても」
「では一つだけ」
「はい?」
「子供だとは思いません」
玲奈が亮を見る。
「え?」
亮の表情は変わらない。
「少なくとも今日一日見ていて、そうは感じませんでした」
「でも十八ですよ」
「それが?」
玲奈は驚いた。
あまりにも当然のように返されたからだ。
亮は続ける。
「自分の家の会社のことを知ろうとして、大学にも通って、自分で考えている。十分だと思います」
玲奈は何も言えなかった。
そんなふうに言われたことがなかった。
十八歳。
若い。
まだ高校を卒業したばかり。
知らないことが多い。
最近の玲奈は、ずっとそんな言葉ばかりを受け取ってきた。
「……ありがとうございます」
自然と笑顔になる。
亮もほんの少しだけ表情を和らげた。
その時だった。
風が強く吹いた。
「きゃっ」
玲奈の髪が大きく揺れる。
まとめきれなかった黒髪が頬へかかり、桜の花びらが一枚、髪に絡んだ。
玲奈が気づかず歩き出そうとすると、
「玲奈様」
「はい?」
亮が手を伸ばしかける。
けれど途中で止めた。
「髪に花びらが」
「あ……どこですか?」
「右です」
玲奈が髪を触る。
「ここ?」
「もう少し上です」
「分からない」
何度触っても取れない。
亮が少し迷ってから、
「失礼します」
と一言断り、玲奈の髪から花びらを取った。
ほんの一瞬。
指先が髪へ触れただけ。
玲奈も何も意識していなかった。
「取れました」
亮の手のひらに、小さな桜の花びら。
「ありがとうございます」
玲奈は笑った。
その瞬間。
「――何をしている」
低い声がした。
玲奈の笑顔が止まる。
数メートル先。
黒い車の横に隼人が立っていた。
「隼人さん?」
どうしてここに。
会社にいる時間のはずだ。
隼人の視線は玲奈ではなく、亮へ向けられていた。
いつもと変わらないように見える。
けれど。
何かが違う。
「旦那様」
亮が頭を下げる。
「玲奈様の髪に花びらがついていましたので」
「そうか」
短い返事。
隼人がこちらへ歩いてくる。
「どうしてここに?」
玲奈が尋ねる。
「近くで会議が終わった」
「そうなんですか」
「帰るぞ」
「はい」
玲奈は車へ向かおうとした。
けれど隼人が亮を見たまま言う。
「神谷」
「はい」
「今後、必要以上に玲奈へ触れるな」
玲奈は驚いて振り返った。
「隼人さん?」
亮は顔色一つ変えない。
「承知しました」
「ちょっと待ってください」
玲奈は隼人の前へ回った。
「花びらを取ってもらっただけですよ?」
「見ていた」
「なら分かるでしょう?」
「ああ」
「では、どうしてそんな言い方をするんですか?」
隼人は玲奈を見る。
「護衛の仕事に、お前の髪へ触れることは含まれていない」
「そんな……」
あまりにも細かい。
玲奈は呆れてしまった。
「神谷さんは悪くありません」
「別に責めていない」
「責めているように聞こえます」
「注意しただけだ」
「だから、その必要がないと言っているんです」
隼人の眉が寄った。
「玲奈」
「何ですか」
「車に乗れ」
またそれ。
話を終わらせようとする言い方。
玲奈の胸に朝から積もっていたものが戻ってくる。
「……分かりました」
言い返すのも疲れた。
玲奈は亮へ振り返った。
「神谷さん、今日はありがとうございました」
「いえ」
「楽しかったです」
その言葉に、隼人の視線が玲奈へ戻る。
「楽しかった?」
玲奈は気づかない。
「はい。大学も、帰りに寄ったカフェも」
「カフェ?」
今度こそ、玲奈も気づいた。
隼人の声が低くなっている。
「美緒と行きました」
「神谷も?」
「護衛ですから」
「……そうか」
隼人はそれ以上何も言わなかった。
けれど明らかに機嫌が悪い。
玲奈には理由が分からない。
「私、何か悪いことしました?」
「していない」
「では、どうして怒っているんですか?」
「怒っていない」
絶対に怒っている。
玲奈はため息をついた。
「隼人さんって、分かりにくいです」
「お前に言われたくない」
「私は分かりやすいっていつも言うじゃないですか」
隼人が何か言おうとする。
けれどやめた。
「……帰るぞ」
またそれだけ。
玲奈は先に車へ乗り込んだ。
帰りの車内。
隼人は隣に座っていた。
いつもなら別々の車で帰ることが多いため、こうして並ぶのは珍しい。
けれど会話はない。
玲奈は窓の外を眺めていた。
夕方の街。
学生たちが友人と笑いながら歩いている。
ついさっきまで自分も同じだった。
楽しかった。
大学へ行って。
美緒と話して。
カフェへ寄って。
亮とも普通に話せた。
それなのに隼人といると、急に緊張する。
嫌いだからではない。
むしろ逆だから困る。
好きかもしれない人に、自分がどう見られているのか分からない。
「玲奈」
「はい」
「神谷と何を話した」
玲奈は隼人を見る。
「今日ですか?」
「ああ」
「色々です」
「色々とは」
「大学のこととか、護衛のこととか」
「他には?」
妙に細かい。
玲奈は少し考える。
「年齢の話もしました」
隼人の表情がわずかに動いた。
「年齢?」
「神谷さんは、十八歳だからって子供とは思わないって」
車内の空気が変わった気がした。
「……そうか」
短い返事。
「はい」
玲奈は窓へ視線を戻した。
「嬉しかったです」
「何が」
「初めて言われたから」
隼人は黙った。
玲奈は続ける。
「最近、誰に会っても若いとか、高校を卒業したばかりとか言われるでしょう?」
「事実だ」
その言葉に玲奈の胸がまた痛くなる。
「そうですね」
「玲奈」
「でも神谷さんは、年齢だけで決めないと言ってくれました」
隼人から返事はない。
しばらくして。
「神谷を気に入ったのか」
予想もしなかった質問だった。
玲奈は隼人を見る。
「気に入った?」
「話しやすそうだった」
「話しやすいですよ」
素直に答えた。
隼人の口元がわずかに引き締まる。
「そうか」
「隼人さん?」
「何だ」
「やっぱり怒ってます?」
「怒っていない」
「ならいいですけど」
玲奈はそれ以上聞かなかった。
隼人が何を考えているのか、やはり分からない。
けれど。
隼人自身も分かっていなかった。
玲奈が別の男を見て笑うだけで。
自分の知らないところで言葉を交わし、その男を『話しやすい』と言うだけで。
どうしてこんなにも面白くないのか。
そして、その感情に名前があることを。
隼人はまだ認めようとはしていなかった。