触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜
第八章 二人だけの秘密
「玲奈様、こちらでお待ちになりますか?」
都内でも有数の格式を誇るホテル、その二階にあるラウンジ。
夕方六時を過ぎたばかりだというのに、吹き抜けのロビーにはドレス姿の女性やスーツ姿の男性たちが行き交っていた。
玲奈は亮の問いかけに、小さく頷いた。
「はい。父が来るまで、ここにいます」
「承知しました」
今日は大学の帰りに、一条化粧品が参加する慈善事業の打ち合わせへ顔を出すことになっていた。
正式な会議ではない。
一条化粧品が毎年協賛している女性支援団体のレセプションが、このホテルで行われるのだ。
本来なら父の慎吾と会場前で待ち合わせる予定だった。
けれど父から、
『会議が長引いている。三十分ほど遅れる』
と連絡が入った。
そのため玲奈は、先にホテルへ到着して待っている。
亮は少し離れた席へ移動した。
玲奈は一人、テーブルの上に置かれた紅茶へ視線を落とした。
白いカップから、細く湯気が上がっている。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
隼人からではなかった。
父からの追加連絡。
『悪い。もう少しかかりそうだ』
「……そう」
玲奈は小さく呟いた。
最近、自分でも嫌になるくらいスマートフォンを確認してしまう。
隼人から何か来ていないか。
今夜は早く帰るのか。
夕食を一緒に食べられるのか。
そんなことばかり。
けれど今日も、朝に聞いた言葉は同じだった。
『今夜は重要な案件がある。遅くなる』
それだけ。
玲奈も、
『分かりました』
と答えた。
以前なら、それで終わっていた。
今は違う。
隼人がどこで仕事をしているのか。
誰と一緒なのか。
どうして遅くなるのか。
気になってしまう。
特に――。
香月美月。
思い出したくなくても、あの女性の姿が頭に浮かぶ。
隼人のネクタイを直した指。
隼人のジャケットを羽織っていた肩。
仕事だから。
秘書だから。
何度そう言い聞かせても、心は簡単には納得してくれない。
「……やめよう」
玲奈はカップを持ち上げた。
ここに来たのは仕事のためだ。
隼人のことを考えるためではない。
一条化粧品の娘として、今日は父の隣に立つ。
それだけに集中しよう。
そう決めた時だった。
ラウンジの入口近くを、見覚えのある人物が横切った。
玲奈の手が止まる。
黒いスーツ。
背の高い男性。
歩く姿だけで分かってしまう。
「……隼人さん?」
思わず声が漏れた。
間違いない。
隼人だった。
その少し後ろには美月もいる。
玲奈は目を瞬いた。
ここで仕事だったのだろうか。
聞いてはいなかった。
けれど大きなホテルだ。
企業同士の会食や会議が行われることも多い。
特別なことではない。
「玲奈様?」
亮が気づいて近づいてくる。
「どうされました?」
「隼人さんが……」
玲奈が視線を向けた先には、もう二人の姿はなかった。
エレベーターホールへ向かったらしい。
「お声をかけますか?」
亮に聞かれ、玲奈は一瞬迷った。
朝からほとんど話せなかった。
もし少しでも会えるなら、挨拶くらいしたい。
それに今日のレセプションへ参加することも、直接は伝えていなかった。
「……行ってみます」
「同行します」
「大丈夫です。すぐそこですから」
「ですが」
「ホテルの中でしょう?」
玲奈が笑うと、亮は少し迷ったあと頷いた。
「では、こちらから見える範囲におります」
「ありがとうございます」
玲奈はバッグを持って立ち上がった。
隼人に会ったら、何と声をかけよう。
偶然ですね。
今日はこちらでお仕事だったんですか。
それとも、父が来るまで少し一緒にいてもいいですか。
考えるだけで、少しだけ足取りが軽くなる。
エレベーターホールへ着く。
上部の表示を見ると、一台が上階へ向かっていた。
玲奈はフロア案内へ視線を移す。
上階の多くは客室。
最上階近くにはスイートルーム。
会議室は三階から六階に集中している。
玲奈の眉が少し寄った。
(客室……?)
けれどすぐに考え直す。
ホテルのスイートルームを商談に使う企業もある。
父も以前、機密性の高い話をする時には利用すると話していた。
だから何もおかしくない。
玲奈はそう思いながら、次のエレベーターへ乗った。
何階かは分からない。
けれど先ほど上がっていったエレベーターは十五階で止まった。
玲奈も十五階のボタンを押す。
自分でも、どうしてそこまで追いかけるのか分からなかった。
ただ。
朝から一度も会えていない夫を見つけた。
それだけだった。
十五階の廊下は、ロビーとは別世界のように静かだった。
厚い絨毯が足音を吸い込み、壁に並ぶ照明が柔らかな光を落としている。
玲奈はゆっくり歩いた。
どの部屋なのだろう。
声も聞こえない。
「……やっぱり戻ろうかな」
ここまで来てしまった自分が急に恥ずかしくなる。
仕事中の隼人を探して、客室階まで来る妻。
まるで夫の行動を疑っているようではないか。
そんなつもりではない。
本当に。
玲奈は踵を返そうとした。
その時。
少し先の扉が開いた。
反射的に視線を向ける。
最初に出てきたのは、美月だった。
玲奈の身体が止まる。
会社で見る時とは雰囲気が違った。
髪をまとめていたピンが外されているのか、肩へ柔らかく髪が落ちている。
ジャケットも脱いでいた。
白いブラウス姿。
頬には少し赤みがあるように見えた。
その後ろから、隼人が出てくる。
隼人も上着を脱ぎ、ネクタイを緩めていた。
玲奈は声を出せなかった。
胸の中で、何かが大きく揺れる。
美月が振り返る。
「では、隼人さん」
その声は、会社で聞くものより少し柔らかかった。
「今夜のお話は、二人だけの秘密ということで」
玲奈の指先から血の気が引いた。
二人だけの秘密。
その言葉だけが、頭の中で繰り返される。
隼人が何か答えるより先に。
美月の視線がこちらへ向いた。
目が合う。
ほんの短い時間。
美月の瞳に驚きが浮かんだ。
けれど。
玲奈には、その驚きがどこか不自然に見えた。
「……玲奈様?」
隼人がこちらを見る。
「玲奈?」
今度は本当に驚いた顔。
玲奈は喉の奥が詰まった。
返事をしなければ。
何か言わなければ。
そう思うのに、声が出ない。
隼人が一歩こちらへ来る。
「どうしてここにいる」
玲奈はようやく口を開いた。
「下の階で……一条のレセプションがあるので」
「今日だったのか」
「はい」
「聞いていない」
責められているわけではない。
けれど玲奈の胸が痛んだ。
自分だって聞いていない。
隼人がこのホテルにいることも。
美月と二人で客室に入っていることも。
「隼人さんを見かけたので……」
玲奈は頑張って笑った。
「少しご挨拶をと思って」
「そうか」
隼人は玲奈を見つめている。
美月が少し困ったような顔をした。
「申し訳ありません、玲奈様。お仕事中でしたので」
「……分かっています」
玲奈は美月の服装を見ないようにした。
それでも視界に入る。
下ろされた髪。
脱いだジャケット。
隼人も同じように上着を脱いでいる。
普通だ。
部屋の中が暑かっただけかもしれない。
長時間仕事をしていたなら、ネクタイくらい緩める。
分かっている。
でも。
どうしてホテルの部屋で二人きりだったの。
どうして美月は、
『二人だけの秘密』
なんて言ったの。
聞きたい。
聞かなければ、きっと後悔する。
玲奈は隼人を見る。
「何のお仕事だったんですか?」
隼人の表情がわずかに変わった。
「まだ話せない」
胸の奥へ冷たいものが落ちた。
「……話せない?」
「ああ。正式に決まっていない案件だ」
「そうですか」
「玲奈」
「大丈夫です」
玲奈は笑った。
自分でも驚くほど、きれいに笑えた。
「お仕事なら、私が聞いてはいけないこともありますよね」
「そういう事ではない」
「分かっています」
分かっていない。
何も。
隼人が何を考えているのか。
美月との間に何があるのか。
この結婚をどう思っているのか。
何一つ。
美月が口を開いた。
「玲奈様、お気になさらないでください」
柔らかな声。
「社長と私は長く仕事をしておりますから、このような機密案件では二人で動くことも多いんです」
「香月」
隼人の声が少し低くなる。
けれど美月は玲奈を見たまま続けた。
「もう七年になりますものね」
七年。
またその数字。
玲奈の胸に刺さる。
「……そうでしたね」
玲奈は小さく頷いた。
七年。
自分と隼人の結婚生活は、まだ一か月にも満たない。
比べる方がおかしい。
分かっている。
それなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
「玲奈」
隼人がもう一度呼ぶ。
「下まで送る」
「大丈夫です」
「だが――」
「亮さんがいますから」
隼人の表情が止まる。
玲奈はそれに気づかなかった。
「父ももうすぐ来ると思います」
「神谷も来ているのか」
「はい」
「……そうか」
また。
隼人は亮の名前が出ると、少しだけ声が変わる。
以前なら理由が分からなかった。
今は考える余裕もない。
「では、お仕事に戻ってください」
玲奈は頭を下げた。
「お邪魔しました」
「玲奈、待て」
隼人の手が伸びる。
けれど玲奈はほんの少しだけ後ろへ下がった。
触れられる前に。
隼人の手が止まる。
玲奈自身も、自分が避けたことに驚いた。
「……すみません」
誰に謝ったのか分からない。
玲奈はそのまま歩き出した。
背後から隼人に呼ばれた気がした。
けれど振り返れなかった。
エレベーターの扉が閉じた瞬間。
玲奈は壁へ背中を預けた。
「……何をしてるんだろう」
自分が。
隼人が。
それとも全部。
目の奥が熱い。
泣きたくない。
まだ何も分かっていない。
浮気を見たわけではない。
抱き合っていたわけでもない。
キスをしていたわけでもない。
仕事だと言われた。
それなら仕事なのだ。
「……だったら、どうして」
声が震える。
どうしてあんなに親密に見えたの。
どうして自分とは同じ部屋で夜を過ごそうとしない夫が、美月とはホテルの一室で二人になれるの。
そこが一番つらかった。
初夜からずっと。
隼人は玲奈へ触れない。
結婚してから一度も。
手を取られたことはある。
肩へ上着をかけてもらったことも。
頭を軽く撫でられたことも。
でも。
それは全部、玲奈が妻だからではなく、年下の少女だからなのではないか。
そして美月は違う。
大人の女性。
仕事もできる。
隼人と同じ世界で生きている。
ホテルの部屋で二人きりになっても不自然ではないほど、近い人。
玲奈は唇を強く結んだ。
エレベーターが二階へ着く。
扉が開く。
そこには亮が立っていた。
「玲奈様」
玲奈を見るなり、亮の表情が変わった。
「どうされました?」
「何でもありません」
「ですが」
「本当に」
声がうまく出ない。
亮は玲奈の顔をじっと見た。
それでも質問を重ねなかった。
「お父様から連絡がありました」
「え?」
「あと十分ほどで到着されるそうです」
「……そうですか」
「ラウンジへ戻りますか?」
玲奈は頷いた。
歩き出す。
けれど数歩進んだところで、足が止まった。
「神谷さん」
「はい」
「少しだけ……外へ行ってもいいですか?」
亮は何も聞かず、
「もちろんです」
と答えた。
ホテルの中庭。
夜の空気は思ったより冷たかった。
水盤の周りには小さな照明が並び、植えられた木々を下から照らしている。
人は少ない。
玲奈はベンチへ座った。
亮は少し離れた場所に立っている。
「隣、座ってもらえますか?」
玲奈が言う。
亮は一瞬迷ったあと、玲奈から少し距離を空けて腰を下ろした。
何も言わない。
それがありがたかった。
しばらくして。
玲奈はぽつりと口を開いた。
「神谷さん」
「はい」
「もし……」
言葉が続かない。
聞いて何になるのだろう。
それでも。
「もし結婚した相手に、ずっと親しい異性がいたら……どう思いますか?」
亮の表情が少し変わった。
けれど答えは慎重だった。
「状況によります」
「そうですよね」
玲奈は自嘲気味に笑った。
「変な質問」
「旦那様のことですか?」
玲奈の指が止まる。
「……分かります?」
「玲奈様が隠すのは、あまり得意ではありませんから」
以前にも似たことを言われた。
玲奈は少し笑った。
「今、隼人さんと香月さんを見ました」
亮は黙って聞いている。
「ホテルの部屋から、二人で出てきたんです」
亮の眉がわずかに寄る。
「仕事だそうです」
玲奈はすぐに付け加えた。
まるで隼人を庇うように。
「たぶん、本当に仕事なんです。隼人さん、嘘をつくような人じゃないから」
「はい」
「でも……」
声が少し震えた。
玲奈は自分の手を見つめる。
左手の薬指。
細い結婚指輪。
「私とは、同じ部屋で寝たこともないのに」
言ってしまった。
恥ずかしくて顔を上げられない。
「結婚した夜から、ずっと別々です」
亮は何も言わなかった。
「私が十八だからって」
玲奈は笑おうとした。
けれど今度はうまくいかなかった。
「香月さんなら、大人だからいいのかな」
「玲奈様」
「すみません」
玲奈は慌てて目元を押さえた。
「こんな話、困りますよね」
「困りません」
すぐに返された。
玲奈が顔を上げる。
亮は前を見たまま言った。
「俺は旦那様と香月さんの関係を知りません」
「はい」
「だから、そこについて無責任なことは言えません」
「……はい」
「ただ」
亮が玲奈を見る。
「玲奈様が傷ついていることは分かります」
その言葉で。
張っていた糸が少し緩んだ。
玲奈は視線を落とした。
「私、嫌な妻ですよね」
「なぜですか」
「夫の仕事を疑ってる」
「疑いたくて疑っているようには見えません」
「でも」
「好きだから気になるんでしょう」
玲奈の呼吸が止まりそうになった。
亮はあまりにも静かに言った。
「違いますか?」
否定できなかった。
今まで。
美緒にも言われた。
自分でも気づいていた。
それでも言葉にはしたくなかった。
玲奈は震える指を重ねた。
「……好きなんだと思います」
初めて。
声にした。
「たぶん、もうずっと前から」
言ってしまうと、胸の奥がさらに痛んだ。
好きだから。
美月が嫌だった。
美月が隼人を知っていることが羨ましかった。
隼人が他の女性へ優しくするだけで傷ついた。
「だから怖いんです」
玲奈は小さく続ける。
「隼人さんが、私を好きじゃなかったら」
亮は玲奈を見つめている。
「この結婚が終わったら、きっと私は何も残らない」
「玲奈様」
「父の会社を救うために結婚したんだから、愛してほしいなんて言うのは欲張りでしょう?」
亮の表情が少し厳しくなった。
「俺は、そうは思いません」
「でも――」
「結婚した理由と、結婚した後に抱く気持ちは別でしょう」
玲奈は何も言えない。
「玲奈様が好きになったなら、その気持ちまで契約で決められるものではありません」
胸の奥に、温かなものが落ちた。
隼人なら、こんな言葉をくれるだろうか。
分からない。
でも今は。
ただ聞いてもらえたことが嬉しかった。
同じ頃。
十五階。
隼人は客室へ戻らず、廊下に立っていた。
「隼人さん」
美月が呼ぶ。
「会議資料の確認がまだ――」
「後にする」
「ですが」
「香月」
隼人が振り返る。
美月の言葉が止まった。
「さっき、なぜあんな言い方をした」
「……あんな言い方?」
「二人だけの秘密だ」
美月は一瞬だけ黙った。
それから微笑む。
「機密案件ですもの。間違ったことは申し上げておりません」
「玲奈の前で言う必要はない」
声は静かだった。
けれど美月は分かっている。
隼人は怒っている。
「申し訳ありません」
美月は素直に頭を下げた。
「まさか奥様がいらっしゃるとは思いませんでしたので」
嘘だった。
玲奈がこのホテルのレセプションへ参加することは、昼には把握していた。
隼人の予定管理をする美月なら、関連企業の催しも確認できる。
もしかしたら会うかもしれない。
そう思った。
だから。
普段なら会議が終わるまで結っている髪を、わざとほどいた。
ジャケットも部屋へ置いたまま出た。
そして玲奈が廊下にいるのを見つけた瞬間。
あの言葉を選んだ。
「玲奈に余計な誤解をさせるな」
隼人が言う。
美月の胸が痛む。
「誤解?」
「仕事だ」
「もちろんです」
「ならそれ以上の意味に聞こえる言い方をするな」
美月は隼人を見つめた。
七年間。
この男が女性のことでこれほど苛立つ姿など見たことがない。
「……奥様は、そんなに疑っていらっしゃるのでしょうか」
「知らない」
「では説明すればよろしいのでは?」
隼人の眉が寄る。
「機密事項を話せるわけがない」
「仕事の内容ではなく」
美月は少しだけ笑う。
「私とは何もない、と」
隼人が黙った。
美月の胸がわずかに高鳴る。
言わないのか。
それとも。
言えないのか。
けれど次の瞬間。
「そんなことを玲奈が疑っているとは思わなかった」
その言葉が美月の期待を切り裂いた。
隼人は迷っていたのではない。
玲奈が嫉妬する可能性そのものを考えていなかっただけ。
「……そうですか」
美月は笑った。
「奥様はお若いですから、不安になりやすいのかもしれませんね」
隼人の視線が美月へ向く。
「年齢は関係ない」
美月の指先がわずかに強く握られた。
以前なら隼人自身が玲奈を若いと扱っていた。
それなのに最近。
少しずつ変わっている。
玲奈が自分以外の誰かと親しくなるたび。
玲奈が自分へ反発するたび。
隼人は、あの少女を子供として扱えなくなり始めている。
「今日は戻る」
隼人が言った。
「え?」
「残りは明日確認する」
「まだ先方から追加資料が――」
「橘に回せ」
「隼人さん」
「玲奈が下にいる」
美月の顔から笑みが消えそうになる。
隼人はもうこちらを見ていなかった。
「送っていく」
短く言い残し、歩き出す。
美月はその背中を見つめた。
自分が作ったはずの亀裂。
なのに。
その亀裂を見つけた隼人が、玲奈を追いかけようとしている。
それでは意味がない。
「……まだよ」
誰にも聞こえない声で呟く。
今日一度だけなら。
隼人が追えば、玲奈はきっと許す。
あの子は隼人を好きになり始めている。
なら。
もっと強く思わせなければならない。
自分は妻ではない。
隼人に必要とされているのは別の女性なのだと。
玲奈自身が諦めるまで。
中庭。
玲奈のスマートフォンが震えた。
画面には隼人の名前。
玲奈の指が止まる。
亮が静かに立ち上がった。
「俺は少し離れます」
「神谷さん」
「旦那様からでしょう?」
「……はい」
亮はそれ以上何も言わず、玲奈から距離を取った。
玲奈はしばらく画面を見つめたあと、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『どこにいる』
いつもより少し早い声。
「中庭です」
『そこにいろ』
「え?」
『今行く』
電話が切れる。
玲奈はスマートフォンを見つめた。
数分後。
ホテルの出入口から隼人が現れた。
先ほどとは違い、ジャケットを着ている。
歩く速度がいつもより速い。
玲奈を見つけ、そのまま真っ直ぐこちらへ向かってくる。
「玲奈」
「……お仕事は?」
「今日は終わりだ」
「でも」
「帰るぞ」
「私はこれからレセプションがあります」
隼人が止まる。
「ああ……そうだったな」
珍しく、本当に忘れていたような顔をした。
玲奈は少しだけ可笑しくなった。
でも笑えない。
隼人は玲奈の顔を見る。
「さっきのことだが」
胸が大きく鳴る。
言ってくれる。
そう思った。
美月とは何もない。
そう言ってくれたら。
きっと簡単に安心してしまう。
玲奈は待った。
けれど隼人が口にしたのは。
「今日の案件については、今は説明できない」
それだった。
玲奈の期待がゆっくりしぼむ。
「……分かっています」
「ただ、誤解するようなことは――」
その時。
ロビー側から父の声がした。
「玲奈!」
慎吾がこちらへ向かってくる。
「遅くなって悪かった」
玲奈は反射的に立ち上がった。
「お父様」
「黒川君もいたのか」
「ええ」
隼人が答える。
話はそこで切れた。
玲奈は父の隣へ移動する。
「では、行ってきます」
隼人を見る。
「玲奈」
「今夜は先に休みますね」
「……ああ」
玲奈は父と一緒にホテルの中へ戻った。
振り返らなかった。
だから知らない。
隼人がいつまでもその背中を見ていたことを。
そして隼人も知らなかった。
ほんの少し言葉が足りなかっただけで。
玲奈の中に初めて、
この人を好きでいてはいけないのかもしれない
という思いが生まれ始めていたことを。
都内でも有数の格式を誇るホテル、その二階にあるラウンジ。
夕方六時を過ぎたばかりだというのに、吹き抜けのロビーにはドレス姿の女性やスーツ姿の男性たちが行き交っていた。
玲奈は亮の問いかけに、小さく頷いた。
「はい。父が来るまで、ここにいます」
「承知しました」
今日は大学の帰りに、一条化粧品が参加する慈善事業の打ち合わせへ顔を出すことになっていた。
正式な会議ではない。
一条化粧品が毎年協賛している女性支援団体のレセプションが、このホテルで行われるのだ。
本来なら父の慎吾と会場前で待ち合わせる予定だった。
けれど父から、
『会議が長引いている。三十分ほど遅れる』
と連絡が入った。
そのため玲奈は、先にホテルへ到着して待っている。
亮は少し離れた席へ移動した。
玲奈は一人、テーブルの上に置かれた紅茶へ視線を落とした。
白いカップから、細く湯気が上がっている。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
隼人からではなかった。
父からの追加連絡。
『悪い。もう少しかかりそうだ』
「……そう」
玲奈は小さく呟いた。
最近、自分でも嫌になるくらいスマートフォンを確認してしまう。
隼人から何か来ていないか。
今夜は早く帰るのか。
夕食を一緒に食べられるのか。
そんなことばかり。
けれど今日も、朝に聞いた言葉は同じだった。
『今夜は重要な案件がある。遅くなる』
それだけ。
玲奈も、
『分かりました』
と答えた。
以前なら、それで終わっていた。
今は違う。
隼人がどこで仕事をしているのか。
誰と一緒なのか。
どうして遅くなるのか。
気になってしまう。
特に――。
香月美月。
思い出したくなくても、あの女性の姿が頭に浮かぶ。
隼人のネクタイを直した指。
隼人のジャケットを羽織っていた肩。
仕事だから。
秘書だから。
何度そう言い聞かせても、心は簡単には納得してくれない。
「……やめよう」
玲奈はカップを持ち上げた。
ここに来たのは仕事のためだ。
隼人のことを考えるためではない。
一条化粧品の娘として、今日は父の隣に立つ。
それだけに集中しよう。
そう決めた時だった。
ラウンジの入口近くを、見覚えのある人物が横切った。
玲奈の手が止まる。
黒いスーツ。
背の高い男性。
歩く姿だけで分かってしまう。
「……隼人さん?」
思わず声が漏れた。
間違いない。
隼人だった。
その少し後ろには美月もいる。
玲奈は目を瞬いた。
ここで仕事だったのだろうか。
聞いてはいなかった。
けれど大きなホテルだ。
企業同士の会食や会議が行われることも多い。
特別なことではない。
「玲奈様?」
亮が気づいて近づいてくる。
「どうされました?」
「隼人さんが……」
玲奈が視線を向けた先には、もう二人の姿はなかった。
エレベーターホールへ向かったらしい。
「お声をかけますか?」
亮に聞かれ、玲奈は一瞬迷った。
朝からほとんど話せなかった。
もし少しでも会えるなら、挨拶くらいしたい。
それに今日のレセプションへ参加することも、直接は伝えていなかった。
「……行ってみます」
「同行します」
「大丈夫です。すぐそこですから」
「ですが」
「ホテルの中でしょう?」
玲奈が笑うと、亮は少し迷ったあと頷いた。
「では、こちらから見える範囲におります」
「ありがとうございます」
玲奈はバッグを持って立ち上がった。
隼人に会ったら、何と声をかけよう。
偶然ですね。
今日はこちらでお仕事だったんですか。
それとも、父が来るまで少し一緒にいてもいいですか。
考えるだけで、少しだけ足取りが軽くなる。
エレベーターホールへ着く。
上部の表示を見ると、一台が上階へ向かっていた。
玲奈はフロア案内へ視線を移す。
上階の多くは客室。
最上階近くにはスイートルーム。
会議室は三階から六階に集中している。
玲奈の眉が少し寄った。
(客室……?)
けれどすぐに考え直す。
ホテルのスイートルームを商談に使う企業もある。
父も以前、機密性の高い話をする時には利用すると話していた。
だから何もおかしくない。
玲奈はそう思いながら、次のエレベーターへ乗った。
何階かは分からない。
けれど先ほど上がっていったエレベーターは十五階で止まった。
玲奈も十五階のボタンを押す。
自分でも、どうしてそこまで追いかけるのか分からなかった。
ただ。
朝から一度も会えていない夫を見つけた。
それだけだった。
十五階の廊下は、ロビーとは別世界のように静かだった。
厚い絨毯が足音を吸い込み、壁に並ぶ照明が柔らかな光を落としている。
玲奈はゆっくり歩いた。
どの部屋なのだろう。
声も聞こえない。
「……やっぱり戻ろうかな」
ここまで来てしまった自分が急に恥ずかしくなる。
仕事中の隼人を探して、客室階まで来る妻。
まるで夫の行動を疑っているようではないか。
そんなつもりではない。
本当に。
玲奈は踵を返そうとした。
その時。
少し先の扉が開いた。
反射的に視線を向ける。
最初に出てきたのは、美月だった。
玲奈の身体が止まる。
会社で見る時とは雰囲気が違った。
髪をまとめていたピンが外されているのか、肩へ柔らかく髪が落ちている。
ジャケットも脱いでいた。
白いブラウス姿。
頬には少し赤みがあるように見えた。
その後ろから、隼人が出てくる。
隼人も上着を脱ぎ、ネクタイを緩めていた。
玲奈は声を出せなかった。
胸の中で、何かが大きく揺れる。
美月が振り返る。
「では、隼人さん」
その声は、会社で聞くものより少し柔らかかった。
「今夜のお話は、二人だけの秘密ということで」
玲奈の指先から血の気が引いた。
二人だけの秘密。
その言葉だけが、頭の中で繰り返される。
隼人が何か答えるより先に。
美月の視線がこちらへ向いた。
目が合う。
ほんの短い時間。
美月の瞳に驚きが浮かんだ。
けれど。
玲奈には、その驚きがどこか不自然に見えた。
「……玲奈様?」
隼人がこちらを見る。
「玲奈?」
今度は本当に驚いた顔。
玲奈は喉の奥が詰まった。
返事をしなければ。
何か言わなければ。
そう思うのに、声が出ない。
隼人が一歩こちらへ来る。
「どうしてここにいる」
玲奈はようやく口を開いた。
「下の階で……一条のレセプションがあるので」
「今日だったのか」
「はい」
「聞いていない」
責められているわけではない。
けれど玲奈の胸が痛んだ。
自分だって聞いていない。
隼人がこのホテルにいることも。
美月と二人で客室に入っていることも。
「隼人さんを見かけたので……」
玲奈は頑張って笑った。
「少しご挨拶をと思って」
「そうか」
隼人は玲奈を見つめている。
美月が少し困ったような顔をした。
「申し訳ありません、玲奈様。お仕事中でしたので」
「……分かっています」
玲奈は美月の服装を見ないようにした。
それでも視界に入る。
下ろされた髪。
脱いだジャケット。
隼人も同じように上着を脱いでいる。
普通だ。
部屋の中が暑かっただけかもしれない。
長時間仕事をしていたなら、ネクタイくらい緩める。
分かっている。
でも。
どうしてホテルの部屋で二人きりだったの。
どうして美月は、
『二人だけの秘密』
なんて言ったの。
聞きたい。
聞かなければ、きっと後悔する。
玲奈は隼人を見る。
「何のお仕事だったんですか?」
隼人の表情がわずかに変わった。
「まだ話せない」
胸の奥へ冷たいものが落ちた。
「……話せない?」
「ああ。正式に決まっていない案件だ」
「そうですか」
「玲奈」
「大丈夫です」
玲奈は笑った。
自分でも驚くほど、きれいに笑えた。
「お仕事なら、私が聞いてはいけないこともありますよね」
「そういう事ではない」
「分かっています」
分かっていない。
何も。
隼人が何を考えているのか。
美月との間に何があるのか。
この結婚をどう思っているのか。
何一つ。
美月が口を開いた。
「玲奈様、お気になさらないでください」
柔らかな声。
「社長と私は長く仕事をしておりますから、このような機密案件では二人で動くことも多いんです」
「香月」
隼人の声が少し低くなる。
けれど美月は玲奈を見たまま続けた。
「もう七年になりますものね」
七年。
またその数字。
玲奈の胸に刺さる。
「……そうでしたね」
玲奈は小さく頷いた。
七年。
自分と隼人の結婚生活は、まだ一か月にも満たない。
比べる方がおかしい。
分かっている。
それなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
「玲奈」
隼人がもう一度呼ぶ。
「下まで送る」
「大丈夫です」
「だが――」
「亮さんがいますから」
隼人の表情が止まる。
玲奈はそれに気づかなかった。
「父ももうすぐ来ると思います」
「神谷も来ているのか」
「はい」
「……そうか」
また。
隼人は亮の名前が出ると、少しだけ声が変わる。
以前なら理由が分からなかった。
今は考える余裕もない。
「では、お仕事に戻ってください」
玲奈は頭を下げた。
「お邪魔しました」
「玲奈、待て」
隼人の手が伸びる。
けれど玲奈はほんの少しだけ後ろへ下がった。
触れられる前に。
隼人の手が止まる。
玲奈自身も、自分が避けたことに驚いた。
「……すみません」
誰に謝ったのか分からない。
玲奈はそのまま歩き出した。
背後から隼人に呼ばれた気がした。
けれど振り返れなかった。
エレベーターの扉が閉じた瞬間。
玲奈は壁へ背中を預けた。
「……何をしてるんだろう」
自分が。
隼人が。
それとも全部。
目の奥が熱い。
泣きたくない。
まだ何も分かっていない。
浮気を見たわけではない。
抱き合っていたわけでもない。
キスをしていたわけでもない。
仕事だと言われた。
それなら仕事なのだ。
「……だったら、どうして」
声が震える。
どうしてあんなに親密に見えたの。
どうして自分とは同じ部屋で夜を過ごそうとしない夫が、美月とはホテルの一室で二人になれるの。
そこが一番つらかった。
初夜からずっと。
隼人は玲奈へ触れない。
結婚してから一度も。
手を取られたことはある。
肩へ上着をかけてもらったことも。
頭を軽く撫でられたことも。
でも。
それは全部、玲奈が妻だからではなく、年下の少女だからなのではないか。
そして美月は違う。
大人の女性。
仕事もできる。
隼人と同じ世界で生きている。
ホテルの部屋で二人きりになっても不自然ではないほど、近い人。
玲奈は唇を強く結んだ。
エレベーターが二階へ着く。
扉が開く。
そこには亮が立っていた。
「玲奈様」
玲奈を見るなり、亮の表情が変わった。
「どうされました?」
「何でもありません」
「ですが」
「本当に」
声がうまく出ない。
亮は玲奈の顔をじっと見た。
それでも質問を重ねなかった。
「お父様から連絡がありました」
「え?」
「あと十分ほどで到着されるそうです」
「……そうですか」
「ラウンジへ戻りますか?」
玲奈は頷いた。
歩き出す。
けれど数歩進んだところで、足が止まった。
「神谷さん」
「はい」
「少しだけ……外へ行ってもいいですか?」
亮は何も聞かず、
「もちろんです」
と答えた。
ホテルの中庭。
夜の空気は思ったより冷たかった。
水盤の周りには小さな照明が並び、植えられた木々を下から照らしている。
人は少ない。
玲奈はベンチへ座った。
亮は少し離れた場所に立っている。
「隣、座ってもらえますか?」
玲奈が言う。
亮は一瞬迷ったあと、玲奈から少し距離を空けて腰を下ろした。
何も言わない。
それがありがたかった。
しばらくして。
玲奈はぽつりと口を開いた。
「神谷さん」
「はい」
「もし……」
言葉が続かない。
聞いて何になるのだろう。
それでも。
「もし結婚した相手に、ずっと親しい異性がいたら……どう思いますか?」
亮の表情が少し変わった。
けれど答えは慎重だった。
「状況によります」
「そうですよね」
玲奈は自嘲気味に笑った。
「変な質問」
「旦那様のことですか?」
玲奈の指が止まる。
「……分かります?」
「玲奈様が隠すのは、あまり得意ではありませんから」
以前にも似たことを言われた。
玲奈は少し笑った。
「今、隼人さんと香月さんを見ました」
亮は黙って聞いている。
「ホテルの部屋から、二人で出てきたんです」
亮の眉がわずかに寄る。
「仕事だそうです」
玲奈はすぐに付け加えた。
まるで隼人を庇うように。
「たぶん、本当に仕事なんです。隼人さん、嘘をつくような人じゃないから」
「はい」
「でも……」
声が少し震えた。
玲奈は自分の手を見つめる。
左手の薬指。
細い結婚指輪。
「私とは、同じ部屋で寝たこともないのに」
言ってしまった。
恥ずかしくて顔を上げられない。
「結婚した夜から、ずっと別々です」
亮は何も言わなかった。
「私が十八だからって」
玲奈は笑おうとした。
けれど今度はうまくいかなかった。
「香月さんなら、大人だからいいのかな」
「玲奈様」
「すみません」
玲奈は慌てて目元を押さえた。
「こんな話、困りますよね」
「困りません」
すぐに返された。
玲奈が顔を上げる。
亮は前を見たまま言った。
「俺は旦那様と香月さんの関係を知りません」
「はい」
「だから、そこについて無責任なことは言えません」
「……はい」
「ただ」
亮が玲奈を見る。
「玲奈様が傷ついていることは分かります」
その言葉で。
張っていた糸が少し緩んだ。
玲奈は視線を落とした。
「私、嫌な妻ですよね」
「なぜですか」
「夫の仕事を疑ってる」
「疑いたくて疑っているようには見えません」
「でも」
「好きだから気になるんでしょう」
玲奈の呼吸が止まりそうになった。
亮はあまりにも静かに言った。
「違いますか?」
否定できなかった。
今まで。
美緒にも言われた。
自分でも気づいていた。
それでも言葉にはしたくなかった。
玲奈は震える指を重ねた。
「……好きなんだと思います」
初めて。
声にした。
「たぶん、もうずっと前から」
言ってしまうと、胸の奥がさらに痛んだ。
好きだから。
美月が嫌だった。
美月が隼人を知っていることが羨ましかった。
隼人が他の女性へ優しくするだけで傷ついた。
「だから怖いんです」
玲奈は小さく続ける。
「隼人さんが、私を好きじゃなかったら」
亮は玲奈を見つめている。
「この結婚が終わったら、きっと私は何も残らない」
「玲奈様」
「父の会社を救うために結婚したんだから、愛してほしいなんて言うのは欲張りでしょう?」
亮の表情が少し厳しくなった。
「俺は、そうは思いません」
「でも――」
「結婚した理由と、結婚した後に抱く気持ちは別でしょう」
玲奈は何も言えない。
「玲奈様が好きになったなら、その気持ちまで契約で決められるものではありません」
胸の奥に、温かなものが落ちた。
隼人なら、こんな言葉をくれるだろうか。
分からない。
でも今は。
ただ聞いてもらえたことが嬉しかった。
同じ頃。
十五階。
隼人は客室へ戻らず、廊下に立っていた。
「隼人さん」
美月が呼ぶ。
「会議資料の確認がまだ――」
「後にする」
「ですが」
「香月」
隼人が振り返る。
美月の言葉が止まった。
「さっき、なぜあんな言い方をした」
「……あんな言い方?」
「二人だけの秘密だ」
美月は一瞬だけ黙った。
それから微笑む。
「機密案件ですもの。間違ったことは申し上げておりません」
「玲奈の前で言う必要はない」
声は静かだった。
けれど美月は分かっている。
隼人は怒っている。
「申し訳ありません」
美月は素直に頭を下げた。
「まさか奥様がいらっしゃるとは思いませんでしたので」
嘘だった。
玲奈がこのホテルのレセプションへ参加することは、昼には把握していた。
隼人の予定管理をする美月なら、関連企業の催しも確認できる。
もしかしたら会うかもしれない。
そう思った。
だから。
普段なら会議が終わるまで結っている髪を、わざとほどいた。
ジャケットも部屋へ置いたまま出た。
そして玲奈が廊下にいるのを見つけた瞬間。
あの言葉を選んだ。
「玲奈に余計な誤解をさせるな」
隼人が言う。
美月の胸が痛む。
「誤解?」
「仕事だ」
「もちろんです」
「ならそれ以上の意味に聞こえる言い方をするな」
美月は隼人を見つめた。
七年間。
この男が女性のことでこれほど苛立つ姿など見たことがない。
「……奥様は、そんなに疑っていらっしゃるのでしょうか」
「知らない」
「では説明すればよろしいのでは?」
隼人の眉が寄る。
「機密事項を話せるわけがない」
「仕事の内容ではなく」
美月は少しだけ笑う。
「私とは何もない、と」
隼人が黙った。
美月の胸がわずかに高鳴る。
言わないのか。
それとも。
言えないのか。
けれど次の瞬間。
「そんなことを玲奈が疑っているとは思わなかった」
その言葉が美月の期待を切り裂いた。
隼人は迷っていたのではない。
玲奈が嫉妬する可能性そのものを考えていなかっただけ。
「……そうですか」
美月は笑った。
「奥様はお若いですから、不安になりやすいのかもしれませんね」
隼人の視線が美月へ向く。
「年齢は関係ない」
美月の指先がわずかに強く握られた。
以前なら隼人自身が玲奈を若いと扱っていた。
それなのに最近。
少しずつ変わっている。
玲奈が自分以外の誰かと親しくなるたび。
玲奈が自分へ反発するたび。
隼人は、あの少女を子供として扱えなくなり始めている。
「今日は戻る」
隼人が言った。
「え?」
「残りは明日確認する」
「まだ先方から追加資料が――」
「橘に回せ」
「隼人さん」
「玲奈が下にいる」
美月の顔から笑みが消えそうになる。
隼人はもうこちらを見ていなかった。
「送っていく」
短く言い残し、歩き出す。
美月はその背中を見つめた。
自分が作ったはずの亀裂。
なのに。
その亀裂を見つけた隼人が、玲奈を追いかけようとしている。
それでは意味がない。
「……まだよ」
誰にも聞こえない声で呟く。
今日一度だけなら。
隼人が追えば、玲奈はきっと許す。
あの子は隼人を好きになり始めている。
なら。
もっと強く思わせなければならない。
自分は妻ではない。
隼人に必要とされているのは別の女性なのだと。
玲奈自身が諦めるまで。
中庭。
玲奈のスマートフォンが震えた。
画面には隼人の名前。
玲奈の指が止まる。
亮が静かに立ち上がった。
「俺は少し離れます」
「神谷さん」
「旦那様からでしょう?」
「……はい」
亮はそれ以上何も言わず、玲奈から距離を取った。
玲奈はしばらく画面を見つめたあと、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『どこにいる』
いつもより少し早い声。
「中庭です」
『そこにいろ』
「え?」
『今行く』
電話が切れる。
玲奈はスマートフォンを見つめた。
数分後。
ホテルの出入口から隼人が現れた。
先ほどとは違い、ジャケットを着ている。
歩く速度がいつもより速い。
玲奈を見つけ、そのまま真っ直ぐこちらへ向かってくる。
「玲奈」
「……お仕事は?」
「今日は終わりだ」
「でも」
「帰るぞ」
「私はこれからレセプションがあります」
隼人が止まる。
「ああ……そうだったな」
珍しく、本当に忘れていたような顔をした。
玲奈は少しだけ可笑しくなった。
でも笑えない。
隼人は玲奈の顔を見る。
「さっきのことだが」
胸が大きく鳴る。
言ってくれる。
そう思った。
美月とは何もない。
そう言ってくれたら。
きっと簡単に安心してしまう。
玲奈は待った。
けれど隼人が口にしたのは。
「今日の案件については、今は説明できない」
それだった。
玲奈の期待がゆっくりしぼむ。
「……分かっています」
「ただ、誤解するようなことは――」
その時。
ロビー側から父の声がした。
「玲奈!」
慎吾がこちらへ向かってくる。
「遅くなって悪かった」
玲奈は反射的に立ち上がった。
「お父様」
「黒川君もいたのか」
「ええ」
隼人が答える。
話はそこで切れた。
玲奈は父の隣へ移動する。
「では、行ってきます」
隼人を見る。
「玲奈」
「今夜は先に休みますね」
「……ああ」
玲奈は父と一緒にホテルの中へ戻った。
振り返らなかった。
だから知らない。
隼人がいつまでもその背中を見ていたことを。
そして隼人も知らなかった。
ほんの少し言葉が足りなかっただけで。
玲奈の中に初めて、
この人を好きでいてはいけないのかもしれない
という思いが生まれ始めていたことを。