七日後、この町から私が消える

第一章 一枚目の写真


 最初にその写真を見たとき、桐谷奏太は、誰かのくだらないいたずらだと思った。

 そう思わなければならなかった。

 八月二十四日、月曜日。

 夏休みも残り一週間となった朝だった。

「奏太ー! いつまで寝てるの!」

 一階から母親の声が飛んでくる。

 奏太は枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。

 午前七時四十三分。

「……やばっ」

 ベッドから飛び起きる。

 今日は午前九時から学校で文化祭の準備がある。

 夏休み中とはいえ、実行委員になってしまった以上、さぼるわけにはいかなかった。

 制服に着替え、階段を駆け下りる。

「おはよ」

「おはようじゃないでしょ。何回呼んだと思ってるの?」

 母親の真由美が呆れた顔をする。

 ダイニングテーブルには朝食が並んでいた。

 トースト。

 目玉焼き。

 サラダ。

 牛乳。

 そして――

 四枚の皿。

 奏太は一瞬だけ足を止めた。

「母さん」

「何?」

「これ、一個多くない?」

 真由美がテーブルを見る。

「あら」

 四枚目の皿。

 三人家族なのだから、本来なら必要ない。

「寝ぼけてたのかな」

 母親は笑いながら余分な皿を片づける。

「最近仕事忙しいからね」

「大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫」

 その程度の会話だった。

 奏太も特に気にしなかった。

「お兄ちゃん」

 向かい側に座っていた妹の美月が口を開く。

 中学二年生。

 普段なら朝からスマートフォンばかり見ている妹が、今日は珍しく奏太をじっと見ていた。

「何?」

「昨日の夜さ」

「うん」

「帰ってきたよね?」

 奏太は眉をひそめる。

「何言ってんの?」

「だから、昨日」

「俺、ずっと家にいたけど」

 美月の表情が止まる。

「……え?」

「夕方からずっと部屋にいたよ」

「でも……」

 何か言いかけて、美月は口を閉じた。

「何?」

「別に」

「気になるだろ」

「いいって」

 美月は目を逸らす。

「たぶん夢」

「変なやつ」

「お兄ちゃんに言われたくない」

 いつもの兄妹の会話。

 奏太はトーストを口へ押し込み、牛乳で流し込んだ。

「ごちそうさま!」

「ちょっと、ちゃんと食べなさい!」

「遅刻する!」

 鞄を持ち、玄関へ向かう。

「行ってきます!」

「行ってらっしゃい」

 靴を履いて扉を開ける。

 八月の強い日差しが、一気に目へ飛び込んできた。

「暑っ……」

 朝から蝉が鳴いている。

 いつもの住宅街。

 いつもの朝。

 何も変わらない。

 そのはずだった。

 玄関脇にある郵便受けの前を通った時、白いものが少しだけ飛び出しているのが見えた。

「ん?」

 新聞ではない。

 封筒でもない。

 奏太は引き抜いた。

 一枚の写真だった。

「……何これ」

 そこに写っていたのは、

 自分の家だった。

 ◇

 道路の反対側から撮影された写真だった。

 時刻は夜。

 街灯に照らされた桐谷家が、暗闇の中に浮かんでいる。

「いつ撮ったんだ?」

 奏太は写真へ顔を近づける。

 少なくとも昨日の夜だろう。

 玄関脇には母親が昨日買ってきたばかりの植木鉢が置かれている。

 しかし、妙なところがあった。

 二階。

 奏太の部屋。

 カーテンの隙間から明かりが漏れている。

「……?」

 昨夜は十一時前には電気を消したはずだった。

 写真の右下を見る。

 デジタルカメラの撮影日時らしき数字が印刷されている。

 8/24 02:13

 午前二時十三分。

「いやいや……」

 奏太は思わず笑った。

 その時間、自分は完全に眠っていた。

 電気を点けた記憶などない。

 タイマー式でもない。

「誰だよ、こんなの」

 クラスの誰かのいたずらだろうか。

 文化祭実行委員のメンバーには家を知っている友達もいる。

 驚かせようとして夜中に写真を撮った。

 そう考えれば説明できる。

「暇すぎだろ……」

 写真を鞄へ入れようとして、

 奏太の手が止まった。

 裏面に何か書いてある。

 黒い油性ペン。

 たった四文字。

 『あと七日』

「……は?」

 意味が分からない。

 七日後。

 八月三十一日。

 夏休み最後の日。

「何が七日なんだよ」

 少し気味が悪かった。

 だが、それ以上考えている時間もない。

 奏太は写真を鞄へ入れ、自転車にまたがった。

 ◇

「それ、普通に怖くね?」

 午前九時十五分。

 二年三組の教室。

 親友の高瀬直人は写真を見るなり、そう言った。

「だよな」

「警察案件じゃん」

「大げさだって」

「夜中の二時に家の写真撮られてんだぞ?」

 直人は写真を窓の光へ透かす。

「しかも『あと七日』って。殺人予告っぽいじゃん」

「やめろよ」

「冗談、冗談」

 笑いながら写真を返してくる。

 文化祭準備のため、教室には十人ほどの生徒が集まっていた。

 机の上には段ボールや画用紙が散乱している。

「奏太!」

 教室の奥から女子生徒が手を振った。

 水瀬莉子。

 奏太とは小学校からの幼なじみだった。

「遅い!」

「まだ十五分じゃん」

「十五分も、でしょ」

「細かいな」

「実行委員なんだから働いてください」

「はいはい」

 莉子が奏太の手にある写真へ気づく。

「何それ?」

「なんか朝、郵便受けに入ってた」

「写真?」

 莉子へ渡す。

 さっきの直人とは違い、莉子は笑わなかった。

「……これ誰が撮ったの?」

「知らない」

「昨日?」

「たぶん」

「警察に言った?」

「直人と同じこと言うなよ」

「いや、言ったほうがいいって」

 莉子は真剣だった。

「家を夜中に撮られてるんでしょ?」

「でも一枚だけだし」

「一枚だからって」

 莉子は裏返す。

 そして眉をひそめた。

「何これ」

「七日後に世界が滅亡するらしい」

「笑い事じゃないって」

 莉子は写真を奏太へ返す。

「せめて、おばさんには言いなよ」

「分かったよ」

「絶対だからね」

 奏太は適当に返事をした。

 その時だった。

「あれ?」

 莉子が教室の後ろを見た。

「どうした?」

「いや……」

 視線の先には壁がある。

 文化祭用の飾りを貼るため、古い掲示物が外されていた。

 そこに一枚だけ、クラス写真が残っている。

 一年生だった頃の集合写真。

 莉子が近づく。

「これ、去年の写真だよね?」

「そうじゃない?」

「奏太」

「ん?」

「どこ?」

「何が?」

「奏太、どこに写ってる?」

 奏太も写真を見る。

 三十五人ほどの生徒。

 前列。

 中列。

 後列。

「……あれ?」

 自分を探す。

 見つからない。

「休んだんじゃない?」

「いや」

 奏太は覚えていた。

 確かに撮影した。

 場所も覚えている。

 体育館前。

 奏太は後列の右端にいた。

 隣は直人だった。

「直人」

「ん?」

「去年のクラス写真撮った日、俺いたよな?」

「いたんじゃね?」

「適当だな」

「一年前だぞ?」

 直人も写真を見る。

「あれ、マジでいないじゃん」

「だろ?」

「休んでたんじゃね?」

「だからいたって」

 莉子は写真をじっと見つめている。

「……変なの」

 だが結局、その程度だった。

 印刷ミスか。

 別の日に撮り直した写真なのか。

 奏太自身も、そこまで深く考えなかった。

 朝の写真と結びつけることもしなかった。

 この時はまだ。

 ◇

 午後四時。

 文化祭準備を終え、奏太は帰宅した。

「ただいま」

 返事がない。

 母親は仕事。

 美月は部活だろう。

 冷蔵庫から麦茶を取り出し、そのまま二階へ上がる。

 自室の扉を開ける。

 そして、

 奏太は立ち止まった。

「……あれ?」

 何かがおかしい。

 机。

 ベッド。

 本棚。

 ゲーム機。

 朝と何も変わっていない。

 なのに違和感がある。

 奏太は部屋を見回した。

 そして気づく。

「写真……?」

 机の横。

 壁に飾ってある家族写真。

 三年前、家族で旅行へ行った時のものだ。

 父親が亡くなる少し前。

 父。

 母。

 美月。

 そして奏太。

 四人で撮った最後の写真。

 そのはずだった。

 奏太は額縁を壁から外す。

「なんだ……これ」

 父親。

 母親。

 美月。

 三人が笑っている。

 奏太もいる。

 いや。

 いるはずの場所だけ、不自然に空いていた。

 父と美月の間。

 一人分ほどの隙間。

 奏太は覚えている。

 自分はそこに立っていた。

「……嘘だろ」

 写真を裏返す。

 何度見ても同じ。

「加工……?」

 誰かが家へ入り、写真をすり替えた?

 すぐに机の引き出しを確認する。

 現金はある。

 ゲーム機もある。

 窓も閉まっている。

 荒らされた形跡はない。

 奏太は一階へ駆け下りた。

 玄関。

 鍵は掛かっていた。

「どうなってんだよ……」

 そこで、

 ガタン。

 二階から音がした。

 奏太の動きが止まる。

 誰もいないはずだ。

 母親は仕事。

 美月は部活。

 奏太は階段を見上げる。

「……美月?」

 返事はない。

 ゆっくり階段を上る。

 一段。

 一段。

 ギシッ。

 自分の足音だけが聞こえる。

 二階へ着く。

 廊下には誰もいない。

「誰かいるの?」

 返事はない。

 奏太の部屋。

 美月の部屋。

 母親の寝室。

 そして廊下の突き当たり。

 何も変わっていない。

 その時、

 コン。

 小さな音。

「……?」

 奏太は振り向く。

 廊下の壁。

 何もない。

 気のせいか。

 そう思った直後。

 コン。

 また鳴った。

 今度ははっきり聞こえた。

 壁の向こうからだ。

 奏太はゆっくり近づく。

 そこは階段と自分の部屋の間にある壁だった。

「なんだ?」

 耳を当てる。

 何も聞こえない。

 奏太は指の関節で壁を叩いた。

 コン、コン。

 普通の音。

 少し横へ移動する。

 コン、コン。

 同じ。

 さらに横。

 コン、コン。

「……ん?」

 一か所だけ音が違った。

 軽い。

 壁の向こうが空洞になっているような音。

「こんなところに……?」

 収納なんてなかったはずだ。

 その時。

 奏太のスマートフォンが鳴った。

「うわっ!」

 思わず飛び退く。

 莉子からだった。

「もしもし?」

『奏太?』

「何?」

『今、家?』

「いるけど」

『写真のこと、おばさんに言った?』

「まだ帰ってない」

『ちゃんと言いなよ』

「分かってるって」

『それとさ』

「ん?」

 莉子の声が少し低くなる。

『さっき気になって、去年の写真探したんだけど』

「写真?」

『クラス写真』

 奏太は黙る。

『私のスマホに撮ってあったやつ』

「それで?」

 数秒の沈黙。

『……奏太、写ってたよ』

「え?」

『ちゃんといた。後列の右端』

「じゃあ学校に貼ってあるやつだけ……」

『違うの』

 莉子が遮った。

『さっきもう一回見たら』

 声が震えている。

『消えてた』

「……は?」

『最初はいたの。絶対にいた』

「加工とかじゃなくて?」

『そんなわけないでしょ!』

 莉子が珍しく声を荒らげる。

 そして、

『ねえ奏太』

「何?」

『朝の写真……もう一回ちゃんと見て』

「なんで?」

『二階の窓』

 奏太は鞄から例の写真を取り出した。

 自宅。

 午前二時十三分。

 二階の自分の部屋には明かりが点いている。

「見てるけど」

『窓のところ』

 奏太は目を凝らす。

 そして、

 呼吸が止まった。

「……何だよ、これ」

 朝は気づかなかった。

 カーテンの隙間。

 そこに、

 人が立っている。

 顔までは見えない。

 だが体格からして少年のように見える。

 奏太の部屋。

 午前二時十三分。

 誰かがカーテンの隙間から、写真を撮影している人物を見つめていた。

『奏太?』

「……いる」

『え?』

「俺の部屋に……誰かいる」

 その瞬間。

 背後から、

 コン。

 奏太は振り返った。

 廊下の壁。

 さっきの場所。

 コン。

 もう一度。

『どうしたの?』

「静かにして」

『え?』

「莉子、ちょっと黙って」

 奏太はスマートフォンを握ったまま壁へ近づく。

 耳を当てる。

 しばらく何も聞こえなかった。

 やっぱり家鳴りだ。

 そう思った時だった。

 壁の向こうから、

 声がした。

 小さな、

 少年の声。

「……奏太」

 全身から汗が引いた。

『奏太?』

 電話の向こうから莉子の声。

「今……」

『何?』

「俺の名前……」

 奏太は壁を見つめる。

「誰かが呼んだ」

『え……?』

 そして壁の向こうから、

 今度ははっきりと聞こえた。

「そこにいるの?」

 その声を聞いた瞬間。

 奏太は動けなくなった。

 知らない声ではなかった。

 毎日聞いている。

 動画を撮れば入っている。

 電話をすれば相手に届いている。

 間違えるはずがない。

 壁の向こうから聞こえてきたのは――

 奏太自身の声だった。

 ◇

 午後七時十二分。

「ただいま」

 玄関が開く音がした。

「母さん!」

 奏太は一階へ駆け下りた。

「ちょっと!」

「何?」

「二階の壁!」

「壁?」

「なんかいる!」

 母親は呆れた顔をする。

「虫?」

「違うって!」

 奏太は朝届いた写真と、家族写真を見せた。

 母親の表情から笑みが消える。

「これ……どこに入ってたの?」

「郵便受け」

「誰が撮ったの?」

「分かんない」

 母親はしばらく写真を見つめていた。

 そして家族写真へ目を移す。

「……奏太」

「何?」

「これ、何がおかしいの?」

「何って……」

 奏太は言葉を失う。

「俺がいないだろ」

 母親は写真を見る。

 父親。

 母親。

 美月。

 そして不自然な空間。

「あなた?」

「そうだよ!」

「でも……」

 母親は困惑した表情を浮かべる。

「この旅行、奏太は行ってないでしょう?」

「……え?」

「熱を出して、おばあちゃんの家にいたじゃない」

「何言ってんの?」

 奏太は笑おうとした。

 しかし笑えなかった。

「俺、行ったよ」

「行ってないわよ」

「行った!」

 海。

 ホテル。

 父親と釣りをしたこと。

 美月とアイスを食べたこと。

 全部覚えている。

「父さんがこの写真撮る前に三脚倒してさ……」

 母親の顔が強張る。

「奏太」

「何?」

「お父さん、三脚なんて持ってなかったわよ」

 その時。

「ただいま」

 美月が帰ってきた。

「美月!」

「何?」

「この写真覚えてるよな?」

 奏太は家族写真を見せる。

 美月は写真を見る。

「うん」

「俺もいたよな?」

 美月は黙った。

「美月?」

「……分かんない」

「分かんないって何だよ」

「覚えてない」

「俺とアイス食べただろ!」

「知らないよ!」

 美月は声を上げる。

 そして階段へ向かおうとして、

 突然足を止めた。

 廊下の壁を見つめる。

「……お兄ちゃん」

「何?」

「朝の話なんだけど」

 奏太は黙る。

「昨日の夜、私が見たの……」

「何を?」

 美月は青ざめた顔で奏太を見る。

「二時くらいにトイレ行ったの」

「うん」

「そしたら廊下に、お兄ちゃんがいた」

 奏太の背中に冷たいものが走る。

「でも俺、寝てた」

「だから変だと思った」

「何してた?」

 美月は壁を指さした。

 今日、音が聞こえた場所。

「あそこに立ってた」

「……俺が?」

「うん」

「何してた?」

 美月は少し迷ってから答えた。

「壁に耳を当ててた」

 母親が黙って二人を見る。

「それから?」

「私が『何してるの?』って聞いたら」

 美月の声が震える。

「お兄ちゃん、こっち見た」

「何て言った?」

 美月は答えなかった。

「美月」

「……『まだいる』って」

「何が?」

「分かんない」

「それだけ?」

 美月は首を横へ振る。

「そのあと部屋に戻ったから」

「俺の?」

「違う」

 奏太は眉をひそめる。

「じゃあ、どこ?」

 美月は壁を指さした。

「そこ」

 沈黙。

「……何言ってんの?」

「だから」

 美月自身も混乱している。

「そこに入っていったの」

「扉なんてないだろ」

「昨日は……」

 美月が言葉を止めた。

「昨日は?」

「扉があった」

 誰も話さなくなった。

 奏太はゆっくり壁を見る。

 白い壁紙。

 何もない。

 扉などない。

 その時だった。

 ピンポーン。

 三人が同時に玄関を見る。

 インターホン。

 母親がモニターを確認する。

「誰もいない……」

 奏太は嫌な予感がした。

 玄関を開ける。

「奏太!」

 母親が止める。

 しかしもう遅かった。

 外には誰もいない。

 住宅街は静まり返っている。

 街灯。

 蝉の声。

 遠くを走る車。

 そして郵便受けから、

 一枚の白い紙が飛び出していた。

「……嘘だろ」

 奏太はゆっくり引き抜く。

 写真だった。

 また自分の家。

 しかし今度は外からではない。

 家の中から撮られている。

 リビング。

 昨夜の奏太がソファで眠っている。

 確かに昨日、テレビを見ながら一時間ほど寝てしまった。

 写真は、そのすぐそばから撮影されていた。

 奏太の寝顔がはっきり写っている。

 撮影日時。

 8/23 22:41

 写真の端に、誰かの影が映り込んでいる。

 撮影者とは別の人間。

 つまり。

 昨夜このリビングには、

 眠っている奏太。

 写真を撮った人物。

 そしてもう一人。

 少なくとも三人がいた。

「母さん……」

 声が出ない。

 写真を裏返す。

 昨日と同じ黒い文字。

 しかし数字だけが変わっていた。

 『あと六日』

 その瞬間。

 二階から音がした。

 ガチャ。

 扉が開く音。

 奏太。

 母親。

 美月。

 三人とも玄関にいる。

 誰も二階にはいない。

 それなのに。

 ギシッ。

 ギシッ。

 ゆっくりと誰かが廊下を歩いている。

 そして――

 美月が震える指で階段の上を指した。

「……お兄ちゃん」

「何?」

「あれ」

 階段の上。

 二階の暗闇。

 そこに誰かが立っていた。

 奏太と同じくらいの身長。

 同じ髪型。

 同じTシャツ。

 暗くて顔だけが見えない。

 奏太は動けなかった。

 人影も動かない。

 やがて、

 ゆっくりと右手を上げた。

 そして人差し指を口元へ当てる。

 静かに。

 そう伝えるように。

 次の瞬間。

 廊下の照明が消えた。

「……!」

 母親がスイッチを押す。

 明かりが戻る。

 誰もいない。

 三人はしばらく階段を見上げていた。

 やがて美月が、ほとんど聞こえない声で呟いた。

「違う……」

「何が?」

 奏太が聞く。

 美月は兄を見た。

 その顔には、恐怖ではなく混乱が浮かんでいた。

「昨日見たお兄ちゃん……」

 一度、階段を見る。

 そして奏太へ視線を戻す。

「今の人じゃない」

「どういう意味?」

 美月は答えなかった。

 その夜。

 奏太は自室の扉に鍵を掛けた。

 机を扉の前へ移動させた。

 カーテンも閉めた。

 照明を消すことだけはできなかった。

 ベッドへ入り、スマートフォンを見る。

 午前一時五十八分。

 眠れるはずがない。

 午前二時十一分。

 何も起きない。

 二時十二分。

 静かだった。

 そして、

 午前二時十三分。

 部屋の照明が消えた。

「……え?」

 停電ではない。

 スマートフォンは動いている。

 奏太はライトを点ける。

 その時、

 コン。

 壁から音がした。

 奏太は息を止める。

 コン、コン。

 昨日と同じ場所。

 いや。

 昨日より近い。

「誰だよ……」

 返事はない。

「誰なんだよ!」

 奏太は叫んだ。

 しばらく沈黙。

 そして、

 壁の向こうから声がした。

「奏太」

 自分の声。

 奏太はベッドから動けない。

「……何だよ」

 思わず返事をしてしまった。

 数秒後。

 壁の向こうの「奏太」が答える。

「やっと聞こえた」

「誰だ」

「奏太」

「ふざけんな!」

「ふざけてないよ」

「お前は誰なんだ!」

 長い沈黙。

 やがて声がした。

「忘れたの?」

 奏太は答えられない。

 壁の向こうで、

 何かを引っかくような音がする。

 そして自分と同じ声が、

 楽しそうでも、

 怒っているようでもない、

 妙に静かな声で言った。

「この部屋」

 一拍。

「最初は僕のだったんだよ」

 奏太の手からスマートフォンが落ちた。

 その直後。

 壁の向こうから、

 ドアノブを回す音がした。

 そこには扉などないはずなのに。

 ――第二章「あと六日」へ続く。
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