その青は廻る
「もう遅いし、帰って休んだ方がいい」

 あの時にはなかった言葉なのに、シートベルトを外した時の、どこかへ当たらないよう気遣う手が、首元を軽く掠めていく。

 助手席の背もたれの上部に手を掛けたままで、こちらを眺めながら、様子を窺うような顔をしていた。

 ごくりと、唾を飲み込んだ。まるで切っ先を向けられたみたいに、身体が動かなかった。

 その名前が脳裏で、何度も繰り返されているのに、口にしようとすると、歯痒くなってしまう。

「おやすみのキスでも、する?」

「しません」

 それなのに、言葉がするりと出てくる。同じやり取りでも、ニュアンスが違うのは分かっている。

「じゃあ、ハグしていい?」

「だめです」

 目の前で不服そうな顔をしたあと、諦めたようにふと目を伏せる。その顔を何度か見ている。

「今度、デートでもするか。……しないか」

 ぽつりと聞こえた言葉も、冗談だと流していた。二人の関係は、飽くまで客とキャストの卵。それ以上でも、それ以下でもなかった。

「ファミレスでも行くか、煙草も切れそうだし……」  

 時々しか来ないのに、帰る時には、それらしい理由をつけて、連れ出してくれた。店には前もって辞めることを告げていたけれど、いつからか間が空くようになっていた。自分も就職活動で気にする暇もなくて、仕事が決まったのをきっかけに携帯を変えた。その前に一度だけ、連絡を入れたことがあるが、女の人が出たから、慌てて切ったのを覚えている。

「これ、吸ってからでいいか?」その声に、ただ頷いた。

 今の配慮や先程の気遣いも、言葉や表情も、知っていたはず。なのにどうして、あんなこと思ったんだろう……。

 そこにあるものが滲んで見えて、軽く瞬きをした。もう、とっくに分かっていた。

「戸田さん」

 そう呼んだ時、ハンドルに伸ばした指先が、一瞬だけ止まった気がした。

「……どうした?」

 間を置いた返事が、胸の辺りで響いた。それは、時計の針のように刻まれている。

「あの時、私……」

「聞きたくない」

 今更、何かを口にしたところで、言い訳にしかならない。

「ごめんなさい……、でも」

「もう、いい」

 食い下がったとしても、距離は広がっていく。すでに、手の打ちようなどない。忘れていたせいで、最低なのは自分のほうだった。
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