別府の湯けむり、君と50年の未来

再会は、湯煙の向こう

 夏休みの別府駅。

 駅前には、観光客の声と、どこか懐かしい大分の空気が広がっていた。

 雪は、駅の改札を出ると、少しだけ立ち止まった。

 鎌倉で暮らすようになって、一年。

 たった一週間だけの帰省だった。

 それなのに――。

「……懐かしい」

 思わず、大分弁が口からこぼれそうになる。

 そのときだった。

「雪?」

 聞き覚えのある声。

 振り向くと、そこに遥斗が立っていた。

「……遥斗くん」

 一年ぶりだった。

 幼い頃から一緒に遊び、高校生になってからも、何度も別府の街を歩いた。

 けれど、久しぶりに会うと、なぜか少し照れくさい。

「久しぶり」

「うん……久しぶり」

 雪は小さく笑った。

「鎌倉、どう?」

「楽しいよ。でも……」

「でも?」

「大分に帰ってくると、やっぱり落ち着く」

 遥斗が笑う。

「そっか」

 駅を出ると、別府の街に独特の湯煙が見えた。

 白い煙が、夏の空へゆっくりと昇っている。

「今日、地獄巡りするんやろ?」

「うん。昔みたいに」

「じゃあ、行こう」

 二人は並んで歩き始めた。

     *

 最初に訪れたのは、海地獄。

 青く澄んだ湯を見つめながら、雪は懐かしそうに笑った。

「覚えちょる?」

「何を?」

「小学生のとき、ここでスタンプ押したやん」

「ああ。雪、スタンプ押す場所間違えてたよな」

「もう! 言わんでいいやん」

 雪が笑う。

 その笑い方も、昔と変わらない。

 遥斗は、そんな雪を横目で見ながら思った。

 ――やっぱり、好きだ。

 一年離れていても、その気持ちは消えていなかった。

 二人は海地獄、鬼石坊主地獄、かまど地獄、鬼山地獄、白池地獄、そして血の池地獄へと歩いていく。

 スタンプを一つずつ埋めていくたび、幼い頃の思い出が蘇ってくる。

「暑いなぁ」

 雪が額の汗を拭う。

「大丈夫?」

「大丈夫やけん」

 その瞬間、遥斗が笑った。

「今、大分弁出た」

「え?」

「『やけん』って」

 雪は少し驚いたあと、笑った。

「……ほんとや」

 鎌倉で暮らしている間、標準語を話すことが増えていた。

 でも、遥斗と一緒に別府を歩いていると、自然と昔の言葉が戻ってくる。

「やっぱり……遥斗くんと歩く別府が一番好きやわぁ」

 何気なく言った言葉。

 けれど、遥斗の胸には、その一言が深く刺さった。

「……俺も」

「え?」

「いや、なんでもない」

 湯煙が二人の間を通り過ぎる。

 見えなくなって、また見える。

 まるで、二人の未来のようだった。

     *

 夜。

 鉄輪温泉の旅館。

 友人や親戚も集まり、賑やかな夜になった。

 笑い声。

 食事の音。

 昔話。

 久しぶりの帰省を、みんなが喜んでくれていた。

 けれど、夜が深くなるにつれて、一人、また一人と部屋へ戻っていく。

 気づけば、ベランダにいるのは雪と遥斗だけだった。

 遠くに湯煙が見える。

「今日、楽しかったね」

「うん」

 雪は手すりに寄りかかり、夜の別府を眺める。

「でも……」

「ん?」

「明日が終わったら、またすぐ鎌倉に戻らんといけん……」

 雪の声が少し小さくなる。

「……寂しいな」

 遥斗は何も言えなかった。

 明日。

 たった一日で、この一週間の帰省は終わる。

 また雪は鎌倉へ帰る。

 自分は大分に残る。

 今まで何度も経験してきた距離なのに、今日はいつもより遠く感じた。

「雪」

「ん?」

「明日、最後まで一緒にいよう」

「うん」

 雪は笑った。

 その笑顔を見ながら、遥斗は心の中で約束する。

 いつか。

 この距離をなくす。

 いつか必ず――。

 雪を迎えに行く。

 夜空には、星が静かに輝いていた。

 そして二人はまだ知らなかった。

 翌日、訪れる場所が――

 二人の未来を変える、大切な場所になることを。
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