別府の湯けむり、君と50年の未来

大分弁は、私の大切な言葉

 翌朝。

 雪と遥斗は、鉄輪温泉の旅館を出た。

 昨日の夜まで賑やかだった街も、朝になると少し静かだった。

「今日はどこから行く?」

 遥斗が聞く。

「地獄温泉ミュージアムに行きたい」

「昨日、地獄巡りしたのに?」

「うん。昨日とは違う楽しさがあるやろ?」

 雪が笑う。

「また大分弁出た」

「もう……」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 けれど、雪の胸の奥には、ずっと抱えていたことがあった。

 鎌倉で暮らしていた頃。

「雪って、大分弁可愛いね」

 そう言われることもあった。

 最初は嬉しかった。

 自分が生まれ育った場所の言葉を褒めてもらえるのは、嬉しかった。

 でも、ときには――。

「田舎もんみたい」

「何言ってるか分からない」

 そんな言葉を投げられることもあった。

 雪は笑ってごまかしていた。

 でも、本当は悲しかった。

 大分弁は、私にとってただの方言じゃない。

 家族と話した言葉。

 幼い頃、友達と笑った言葉。

 そして、遥斗と過ごした時間の中で交わしてきた言葉。

 全部、大切な思い出だった。

     *

 地獄温泉ミュージアムに入る。

 二人は展示を一つずつ見ていった。

 雨水が地面に染み込み、地層を通り、長い年月をかけて温泉になっていく。

 映像を見ながら、雪は静かに呟いた。

「……すごいね」

「うん」

「雨が降って、すぐ温泉になるんじゃないんやね」

「長い時間をかけるんだな」

 遥斗が答える。

 雪はしばらく展示を見つめていた。

 そして、少し迷ってから口を開いた。

「遥斗くん」

「ん?」

「私ね……鎌倉で、大分弁のことで笑われたことがあるんよ」

 遥斗が雪を見る。

「笑われた?」

「うん。『田舎もんみたい』って言われたり……」

 雪は目を伏せた。

「可愛いって言ってくれる人もいる。でも、馬鹿にされることもあって……」

「……」

「だから、標準語で話さないといけないのかなって思った」

 雪の声が少し震える。

「でもね」

 目の前の映像を見ながら、雪は続けた。

「大分弁って、私にとって大事な言葉なんよ」

 遥斗は黙って聞いていた。

「家族と話した言葉も、友達と笑った言葉も……遥斗くんと話した言葉も、全部大分弁なんよ」

 雪の目に涙が浮かんだ。

「だから……笑われると悲しい」

「雪」

 遥斗は優しく呼んだ。

「俺は、雪の大分弁好きだよ」

「……本当?」

「うん」

 遥斗は笑った。

「雪が大分弁で話してると、なんか安心する」

「……ありがとう」

「大分弁を無理に隠さなくていいと思う」

 雪は顔を上げた。

「雪が大分で育ったことも、大分弁を話すことも、全部雪の大切な一部だろ」

「……うん」

「誰かに笑われたからって、大切なものまで手放さなくていいよ」

 雪の頬を涙が伝った。

 けれど、その涙はさっきまでの悲しい涙とは違った。

「遥斗くん……」

「俺は、その言葉をずっと聞いていたい」

 雪は涙を拭いて、笑った。

「じゃあ……これからも大分弁で話すけん」

「うん。いっぱい聞くけん」

 二人は笑い合った。

     *

 ミュージアムを出ると、別府の街には白い湯煙が立ち上っていた。

 二人は昨日に続いて、もう一度地獄巡りの道を歩いた。

 海地獄。

 血の池地獄。

 昨日と同じ景色なのに、今日は少し違って見える。

「遥斗くん」

「ん?」

「私、大分が好きやわ」

「うん。知ってる」

「ここに帰ってくると、やっぱり落ち着く」

 雪は湯煙の向こうを見つめる。

「いつかまた、一緒に歩けるかな」

「歩けるよ」

 遥斗は迷わず答えた。

「約束する」

 雪は嬉しそうに笑った。

「約束やけんね」

「ああ、約束」

 けれど――。

 楽しい時間には、終わりが近づいていた。

 雪は今日、鎌倉へ帰らなければならない。

 大分駅から、また遠く離れた場所へ。

 そして二人はまだ知らなかった。

 この旅の最後に待っている別れが、二人の未来を変えるほど大切な時間になることを。
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