改札も通れない完璧令嬢に、庶民高校生の俺が普通の放課後を教えます
第九話 君のために離れるなんて言わないで
玲華との間にできた距離は、日が経つほど深くなっていくように感じられた。
教室ですれ違っても玲華は事務的な会釈をするだけで、以前のような会話は一切なくなっていた。放課後も彼女はいつも通り迎えの車に乗り込み、俺と目を合わせることすら避けているようだった。廊下の向こうに黒髪が見えるだけで、体が勝手に緊張するようになっていた。
そんな状態が一週間ほど続いたある日、俺は昼休みの屋上で親友の小宮山颯太に胸の内を打ち明けていた。屋上のフェンス越しに見える校庭では、運動部の生徒たちが声を張り上げて走り込みをしていた。
「――ってことがあって。それから、ずっとこの調子」
「お前さ」
短く切った髪を無造作に立たせた颯太は、いつもの気楽そうな顔でパンをかじりながら言った。
「それ、完全にお前が悪いだろ」
「分かってる」
「鷹司さんの意思、一回も聞いてないじゃん。勝手に『会わない方がいい』みたいな空気作って、勝手に身を引いただけ」
言葉に容赦がないのが颯太のいいところであり今はそれが少しきつかった。パンをかじる音まで、やけに耳に刺さった。
「でも、俺と関わったせいで、鷹司さんの自由が制限されたのは事実で」
「だから? それを理由に離れるかどうかを決めるのは、笹岡じゃなくて鷹司さん本人だろ」
その一言が妙に胸に刺さった。頭では分かっていたはずのことを、正面から言葉にされると、こんなにも重く響くものかと思った。
「お前、いつも『相手のため』とか言いながら、結局は自分が傷つくのが怖いだけなんじゃねえの」
「……」
図星を突かれて俺は言葉に詰まった。フェンスの向こうから聞こえる掛け声が、やけに遠く感じられた。
颯太は肩をすくめるとパンの残りを口に押し込んだ。
「鷹司さんがどう思ってるか、直接聞いてみればいいじゃん。それが一番早い」
簡単に言ってくれると思いながらも、俺はその言葉を頭の中で繰り返していた。屋上の空は雲一つなく晴れていて、その眩しさが、なんだか今の自分には不釣り合いに思えた。
一方その頃。
生徒会室で書類を整理していた玲華のもとに美桜が訪れていた。窓から差し込む昼の光が、積み上げられた書類の山を白く照らしていた。
「玲華、まだ根詰めてるの?」
「……生徒会の仕事です」
「嘘つき。逃避でしょ、それ」
美桜はずかずかと部屋に入り込み玲華の向かいの椅子に腰を下ろした。
「笹岡くんと、何かあったんでしょ。最近、全然話してないみたいだし」
「……関係ありません」
「あるよ。玲華、明らかに元気ない」
玲華は書類から視線を上げず黙々と作業を続けようとした。ペン先が紙の上を滑る音だけが、やけに規則正しく響いていた。だが美桜は追及の手を緩めなかった。
「聞いた話だと、笹岡くんが自分から距離を置こうとしてるんだって?」
その言葉に玲華の手がぴたりと止まった。
「……どこで、その話を」
「颯太くんから。あの二人、隠し事できないタイプだから」
美桜はそう言って肩をすくめた。
「玲華のためを思って、身を引こうとしてるらしいよ、笹岡くん」
「……」
「で、玲華はそれでいいの?」
玲華は黙り込んだまま書類の一点をじっと見つめていた。文字の羅列が、もう頭に入ってこないのは明らかだった。
「……私のためだと言うなら、仕方ありません」
「本気で言ってる?」
美桜の声が珍しく真剣な響きを帯びた。
「玲華、いつも自分の意思で動いてきたじゃない。父親に対しても、周りの人間に対しても。それなのに、今回だけは、笹岡くんに勝手に決められて、それでいいの? 私は、玲華がずっと我慢してきたの知ってるから。やっと自分で選んだものまで、簡単に手放してほしくない」
その問いに玲華は答えられなかった。窓の外を見上げる横顔に、迷いが色濃く滲んでいた。
☆
放課後、俺は生徒会室の前で意を決して玲華を待つことにした。颯太の言葉が頭の中で何度も繰り返されていた。廊下の壁にもたれ、何度も深呼吸を繰り返した。
自分が傷つくのが怖くて逃げていただけなのではないか。
玲華の意思を確認もせず勝手に彼女のためだと決めつけていただけなのではないか。
しばらくして書類を抱えた玲華が生徒会室から出てきた。俺の姿を見つけると一瞬だけ足を止める。
「……笹岡くん」
「少し、話せますか」
玲華は少し迷うような顔をしたあと小さく頷いた。人気のない校舎裏へ二人で足を運ぶ。
夕暮れの光が二人の影を長く伸ばしていた。校舎裏に響くのは、遠くの部活動の声と、風が木々を揺らす音だけだった。
「この間は、すみませんでした」
俺は先に頭を下げた。
「鷹司さんの意思も聞かずに、勝手に『会わない方がいい』みたいなこと言って」
「……」
「颯太に言われたんです。それを決めるのは、鷹司さん本人だって」
玲華はしばらく黙っていた。それから穏やかに、けれど確かな怒りを滲ませた声で口を開いた。
「私のためと言えば、私の意思を無視していいのですか」
その声には、これまで聞いたことのない強さがあった。夕日を背にしたその表情には、いつもの冷静さの奥に、抑えきれない感情が滲んでいた。
「私は、笹岡くんに守られたいと思ったことは、一度もありません。ただ、隣にいてほしいと思っただけです」
「……」
「それを、勝手に『私のため』という理由で終わらせられるのは、心外です」
玲華の目にははっきりと涙が浮かんでいた。感情を抑えることに慣れた彼女が、こんなにもむき出しの怒りと悲しみを見せるのは初めてだった。震える声の奥に、これまで押し殺してきた本音のすべてが詰まっているようだった。
「陽翔」
その瞬間玲華の口から零れた名前に俺は息を呑んだ。
「……今、なんて」
「勝手に一人で決めないで、陽翔」
もう一度はっきりと名前を呼ばれた。
その響きに胸の奥が締めつけられるような感覚があった。夕暮れの校舎裏に、その一言だけが確かな重みを持って響いた。
俺はようやく自分の過ちをはっきりと理解した。
「……すみません」
「謝罪はいりません」
「じゃあ、何を言えばいいですか」
「一緒に、考えてほしいです」
玲華の声はまだ震えていたが確かな意志を持っていた。
「私の父がどう言おうと、私が誰と一緒にいるかを決めるのは、私自身です。その選択の責任も、私が負います」
「……はい」
「だから、陽翔が勝手に、私のために身を引くようなことは、二度としないでください」
その言葉に俺は深く頷いた。
「分かりました。もう、勝手に決めません」
「約束、ですね」
「約束です」
玲華は少しだけ安堵したような表情を見せた。それから涙を拭うように目元を軽く擦った。夕日の光が涙の跡をわずかに光らせていた。
「……格好悪いところを、見せてしまいました」
「そんなことないです」
「今の私は、生徒会長でも、鷹司家の娘でもなく、ただの――」
玲華は言葉を選ぶように一瞬だけ間を置いた。
「……あなたのことが好きな、一人の女子高生です」
その告白めいた一言に俺は言葉を失った。心臓が急に大きく鳴り出したのが、自分でも分かった。
夕暮れの校舎裏。沈黙が二人の間に流れた。遠くで下校を促すチャイムが鳴っているのが、やけに現実離れして聞こえた。
やがて俺は自分の気持ちをようやく言葉にする決心をした。
「俺も、鷹司さんのことが」
言いかけたところで玲華が小さく首を振った。
「……今は、まだ」
「え?」
「今、お互いの気持ちを確かめ合うのは、まだ早い気がします。私は、父に自分の意思をきちんと伝えてから、陽翔と正式に向き合いたいです」
その言葉には玲華らしい誠実さがあった。中途半端な形で気持ちを重ねるのではなく、一つ一つ順序を踏んでいこうとする、彼女らしい生真面目さだった。
「隠れて会うのではなく、堂々と、学校でも普通に過ごしましょう。私が父に、自分の考えを伝えるまで」
「……分かりました」
俺はその提案を受け入れた。今はまだ告白の言葉を交わす時ではない。だが二人の間にあった距離は確かに縮まっていた。
「陽翔」
もう一度、玲華がその名前を呼んだ。
「はい、玲華」
初めて名前で呼び返すと玲華の頬がわずかに赤らんだ。夕暮れの光の中で、その表情はどこまでも柔らかかった。
教室ですれ違っても玲華は事務的な会釈をするだけで、以前のような会話は一切なくなっていた。放課後も彼女はいつも通り迎えの車に乗り込み、俺と目を合わせることすら避けているようだった。廊下の向こうに黒髪が見えるだけで、体が勝手に緊張するようになっていた。
そんな状態が一週間ほど続いたある日、俺は昼休みの屋上で親友の小宮山颯太に胸の内を打ち明けていた。屋上のフェンス越しに見える校庭では、運動部の生徒たちが声を張り上げて走り込みをしていた。
「――ってことがあって。それから、ずっとこの調子」
「お前さ」
短く切った髪を無造作に立たせた颯太は、いつもの気楽そうな顔でパンをかじりながら言った。
「それ、完全にお前が悪いだろ」
「分かってる」
「鷹司さんの意思、一回も聞いてないじゃん。勝手に『会わない方がいい』みたいな空気作って、勝手に身を引いただけ」
言葉に容赦がないのが颯太のいいところであり今はそれが少しきつかった。パンをかじる音まで、やけに耳に刺さった。
「でも、俺と関わったせいで、鷹司さんの自由が制限されたのは事実で」
「だから? それを理由に離れるかどうかを決めるのは、笹岡じゃなくて鷹司さん本人だろ」
その一言が妙に胸に刺さった。頭では分かっていたはずのことを、正面から言葉にされると、こんなにも重く響くものかと思った。
「お前、いつも『相手のため』とか言いながら、結局は自分が傷つくのが怖いだけなんじゃねえの」
「……」
図星を突かれて俺は言葉に詰まった。フェンスの向こうから聞こえる掛け声が、やけに遠く感じられた。
颯太は肩をすくめるとパンの残りを口に押し込んだ。
「鷹司さんがどう思ってるか、直接聞いてみればいいじゃん。それが一番早い」
簡単に言ってくれると思いながらも、俺はその言葉を頭の中で繰り返していた。屋上の空は雲一つなく晴れていて、その眩しさが、なんだか今の自分には不釣り合いに思えた。
一方その頃。
生徒会室で書類を整理していた玲華のもとに美桜が訪れていた。窓から差し込む昼の光が、積み上げられた書類の山を白く照らしていた。
「玲華、まだ根詰めてるの?」
「……生徒会の仕事です」
「嘘つき。逃避でしょ、それ」
美桜はずかずかと部屋に入り込み玲華の向かいの椅子に腰を下ろした。
「笹岡くんと、何かあったんでしょ。最近、全然話してないみたいだし」
「……関係ありません」
「あるよ。玲華、明らかに元気ない」
玲華は書類から視線を上げず黙々と作業を続けようとした。ペン先が紙の上を滑る音だけが、やけに規則正しく響いていた。だが美桜は追及の手を緩めなかった。
「聞いた話だと、笹岡くんが自分から距離を置こうとしてるんだって?」
その言葉に玲華の手がぴたりと止まった。
「……どこで、その話を」
「颯太くんから。あの二人、隠し事できないタイプだから」
美桜はそう言って肩をすくめた。
「玲華のためを思って、身を引こうとしてるらしいよ、笹岡くん」
「……」
「で、玲華はそれでいいの?」
玲華は黙り込んだまま書類の一点をじっと見つめていた。文字の羅列が、もう頭に入ってこないのは明らかだった。
「……私のためだと言うなら、仕方ありません」
「本気で言ってる?」
美桜の声が珍しく真剣な響きを帯びた。
「玲華、いつも自分の意思で動いてきたじゃない。父親に対しても、周りの人間に対しても。それなのに、今回だけは、笹岡くんに勝手に決められて、それでいいの? 私は、玲華がずっと我慢してきたの知ってるから。やっと自分で選んだものまで、簡単に手放してほしくない」
その問いに玲華は答えられなかった。窓の外を見上げる横顔に、迷いが色濃く滲んでいた。
☆
放課後、俺は生徒会室の前で意を決して玲華を待つことにした。颯太の言葉が頭の中で何度も繰り返されていた。廊下の壁にもたれ、何度も深呼吸を繰り返した。
自分が傷つくのが怖くて逃げていただけなのではないか。
玲華の意思を確認もせず勝手に彼女のためだと決めつけていただけなのではないか。
しばらくして書類を抱えた玲華が生徒会室から出てきた。俺の姿を見つけると一瞬だけ足を止める。
「……笹岡くん」
「少し、話せますか」
玲華は少し迷うような顔をしたあと小さく頷いた。人気のない校舎裏へ二人で足を運ぶ。
夕暮れの光が二人の影を長く伸ばしていた。校舎裏に響くのは、遠くの部活動の声と、風が木々を揺らす音だけだった。
「この間は、すみませんでした」
俺は先に頭を下げた。
「鷹司さんの意思も聞かずに、勝手に『会わない方がいい』みたいなこと言って」
「……」
「颯太に言われたんです。それを決めるのは、鷹司さん本人だって」
玲華はしばらく黙っていた。それから穏やかに、けれど確かな怒りを滲ませた声で口を開いた。
「私のためと言えば、私の意思を無視していいのですか」
その声には、これまで聞いたことのない強さがあった。夕日を背にしたその表情には、いつもの冷静さの奥に、抑えきれない感情が滲んでいた。
「私は、笹岡くんに守られたいと思ったことは、一度もありません。ただ、隣にいてほしいと思っただけです」
「……」
「それを、勝手に『私のため』という理由で終わらせられるのは、心外です」
玲華の目にははっきりと涙が浮かんでいた。感情を抑えることに慣れた彼女が、こんなにもむき出しの怒りと悲しみを見せるのは初めてだった。震える声の奥に、これまで押し殺してきた本音のすべてが詰まっているようだった。
「陽翔」
その瞬間玲華の口から零れた名前に俺は息を呑んだ。
「……今、なんて」
「勝手に一人で決めないで、陽翔」
もう一度はっきりと名前を呼ばれた。
その響きに胸の奥が締めつけられるような感覚があった。夕暮れの校舎裏に、その一言だけが確かな重みを持って響いた。
俺はようやく自分の過ちをはっきりと理解した。
「……すみません」
「謝罪はいりません」
「じゃあ、何を言えばいいですか」
「一緒に、考えてほしいです」
玲華の声はまだ震えていたが確かな意志を持っていた。
「私の父がどう言おうと、私が誰と一緒にいるかを決めるのは、私自身です。その選択の責任も、私が負います」
「……はい」
「だから、陽翔が勝手に、私のために身を引くようなことは、二度としないでください」
その言葉に俺は深く頷いた。
「分かりました。もう、勝手に決めません」
「約束、ですね」
「約束です」
玲華は少しだけ安堵したような表情を見せた。それから涙を拭うように目元を軽く擦った。夕日の光が涙の跡をわずかに光らせていた。
「……格好悪いところを、見せてしまいました」
「そんなことないです」
「今の私は、生徒会長でも、鷹司家の娘でもなく、ただの――」
玲華は言葉を選ぶように一瞬だけ間を置いた。
「……あなたのことが好きな、一人の女子高生です」
その告白めいた一言に俺は言葉を失った。心臓が急に大きく鳴り出したのが、自分でも分かった。
夕暮れの校舎裏。沈黙が二人の間に流れた。遠くで下校を促すチャイムが鳴っているのが、やけに現実離れして聞こえた。
やがて俺は自分の気持ちをようやく言葉にする決心をした。
「俺も、鷹司さんのことが」
言いかけたところで玲華が小さく首を振った。
「……今は、まだ」
「え?」
「今、お互いの気持ちを確かめ合うのは、まだ早い気がします。私は、父に自分の意思をきちんと伝えてから、陽翔と正式に向き合いたいです」
その言葉には玲華らしい誠実さがあった。中途半端な形で気持ちを重ねるのではなく、一つ一つ順序を踏んでいこうとする、彼女らしい生真面目さだった。
「隠れて会うのではなく、堂々と、学校でも普通に過ごしましょう。私が父に、自分の考えを伝えるまで」
「……分かりました」
俺はその提案を受け入れた。今はまだ告白の言葉を交わす時ではない。だが二人の間にあった距離は確かに縮まっていた。
「陽翔」
もう一度、玲華がその名前を呼んだ。
「はい、玲華」
初めて名前で呼び返すと玲華の頬がわずかに赤らんだ。夕暮れの光の中で、その表情はどこまでも柔らかかった。