改札も通れない完璧令嬢に、庶民高校生の俺が普通の放課後を教えます
第十話 財閥令嬢と庶民男子の噂
玲華と名前で呼び合うようになってから二人の間の空気は明らかに変わった。
校舎裏での一件以来、俺たちは以前のように隠れることなく学校で言葉を交わすようになっていた。とはいえ玲華は公の場では「笹岡くん」と呼び、生徒会活動などの公的な場面では相応の距離感を保っていた。それでも廊下ですれ違う際の視線やちょっとした会話の端々に以前とは違う親密さがにじんでいた。すれ違いざまに一瞬だけ視線が絡み、どちらからともなく小さく微笑む。
「玲華、今『陽翔』って言いかけたでしょ」
「言っていません」
「『は――笹岡くん』って聞こえたけど」
「聞き間違いです」
「顔赤いよ」
「室温の問題です」
美桜は明らかに面白がっていたが、玲華はそれ以上取り合おうとしなかった。
そして、その変化に気づいたのは、美桜だけではなかった。
「ねえ、笹岡くんと鷹司会長って、最近仲良くない?」
最初は他愛のない噂話だった。だが日が経つにつれその噂は少しずつ形を変えていった。
それから間もなく、昼休みの教室でこんな声が聞こえるようになった。
「笹岡くん、玲華さんの家柄を利用してるんじゃない?」
「定食屋への出資、狙ってるんだって」
最初は聞き流していたが、同じような話が別のクラスからも聞こえてくるようになると、さすがに無視できなくなった。
「颯太、あの噂、聞いた?」
「ああ、聞いた。誰が言い出したんだろうな」
颯太は珍しく苦い顔をしていた。普段は軽口ばかり叩く男が、こういう時だけは真剣な表情を見せる。
「お前、そんなこと考えたこともないだろ」
「当たり前だろ。金なんかどうでもいい」
「分かってる。でも、噂ってのは事実かどうかより、広まるかどうかが問題なんだよな」
颯太の言葉通り、噂は日を追うごとに勢いを増していった。教室での視線が以前よりも冷たく感じられるようになる。教室に入るたびに、微かな沈黙が走る瞬間があった。誰も面と向かっては何も言わないが、視線の温度だけが確実に下がっていた。
その噂の出所を辿ると前生徒会長の西園寺透子に行き着くらしい、という話を美桜から聞いたのは数日後のことだった。
「透子先輩、直接的な嘘はついてないみたい。ただ、玲華と笹岡くんの身分差を、色んな人にそれとなく強調して回ってるって話。『笹岡くんが金目当てだ』と直接言ったわけじゃない。でも、『鷹司家の後継者が庶民の男子と親しくしていて大丈夫なのか』みたいな話を、何人にもしていたらしい」
「西園寺先輩が、なんで」
「あの人、玲華のお父さんが将来の協力者として評価してる人らしくて。玲華が庶民の男子と親しくするのを、後継者としての自覚が足りないって思ってるみたい」
美桜の話を聞きながら、俺は複雑な気持ちになった。悪意を持って攻撃されているというより、価値観の違いからじわじわと外堀を埋められているような感覚だった。露骨な悪口よりも、こういうやり方のほうがずっと厄介なのかもしれないと思った。
放課後、生徒会室で玲華と顔を合わせたとき、俺は思い切って噂の件を切り出した。窓の外は夕方の光に染まり始めていた。
「玲華、噂のこと知ってますか」
「……知っています」
「対処、しないんですか」
玲華は書類から視線を上げ、ゆっくりと首を振った。ペンを置く仕草にも、いつもの冷静さが滲んでいた。
「生徒会長としての権限を使えば、噂を抑え込むことは可能です。ですが、それをすれば……」
「それをすれば?」
「私が権力で黙らせたという事実が、かえって陽翔をより悪く見せることになります。『財閥の力で庶民を守っている』という構図は、噂をより強固にするだけです」
その判断には玲華らしい冷静さがあった。だが俺はどこかもどかしさを感じずにはいられなかった。頭では理解できても、感情の部分ではどうしても納得しきれない何かが残っていた。
「じゃあ、このまま放っておくんですか」
「放っておくわけではありません。ただ、力業では解決しないというだけです」
教室に戻ると俺の周りの空気は以前よりも明らかによそよそしくなっていた。話しかけてくる人数が減り噂話をしていたグループが俺が近づくと不自然に会話を止めることもあった。廊下を歩くだけで、周囲の視線がまとわりつくように感じられた。
それでも颯太だけは変わらず俺の隣にいた。
「笹岡は、玲華さんの金なんか興味ないって、俺が一番知ってる。おかしなこと言ってる奴がいたら、遠慮なく言い返してやるから」
その言葉に、俺はどれだけ救われたか分からない。誰もが遠巻きにする中で、変わらず隣にいてくれる存在の大きさを、このとき改めて実感した。
さらに以前、玲華に助けられたことのある生徒たちも少しずつ味方になってくれた。以前、生徒会の相談で玲華に助けられた下級生が噂を否定するように周囲に話してくれているという話も聞いた。廊下ですれ違うたびに小さく会釈をしてくれる後輩がいることに、俺は密かに励まされていた。
だがそれでも噂の勢いは簡単には収まらなかった。
「笹岡くんって、鷹司さんに取り入って、店に投資してもらうつもりなんだって」
そんな声が直接、俺の耳に入ってくることも増えていった。教室の隅で聞こえよがしに話される言葉に、拳を握りしめて堪えることもあった。
☆
ある日の放課後、俺は玲華にこれまでとは違う覚悟を伝えた。
「玲華、今回は俺も、逃げずに向き合いたいです」
「陽翔?」
「これまで、玲華にばっかり守られてきました。噂のことも、自分から動いて、はっきりさせたいです」
玲華はしばらく俺を見つめたあと小さく頷いた。その目には、これまでとは違う、対等な信頼のようなものが浮かんでいた。
「……分かりました。では、一緒に調べましょう」
その日から俺と玲華は噂がどう広まったのかその経緯を調べ始めることにした。放課後の生徒会室に、俺たちだけが残って資料を突き合わせる日々が続いた。
美桜の協力を得て噂を最初に口にした生徒を辿り、そこから話がどう伝わっていったのかを一つずつ確認していく。地道な作業だったが玲華の情報整理能力と颯太の顔の広さが思った以上に役に立った。玲華が整理したメモは驚くほど分かりやすく、誰がいつ何を話したのか、時系列で一目瞭然になっていた。
「この噂、最初に言い出したのは三年生の女子生徒みたい。でも、その子自身は西園寺先輩から聞いた話をそのまま広めただけって言ってる」
美桜がまとめてきた情報を前に、玲華は目を細めた。
「やはり、透子が関わっているようですね」
「玲華、西園寺先輩と直接話すつもりですか」
「はい。このまま噂だけが広がり続ける状況を、放置するわけにはいきません」
その声にはこれまでとは違う、迷いのない強さがあった。夕暮れの生徒会室に差し込む光の中、玲華の横顔には確かな覚悟が浮かんでいた。
玲華は自分の権力を使わず、事実を積み重ねて対峙する道を選ぼうとしている。財力や立場に頼れば、きっと一瞬で片がつくはずだ。それでも玲華は、決してその道を選ばなかった。
俺はその隣で、今度こそ彼女を一人で戦わせないと心に決めていた。
校舎裏での一件以来、俺たちは以前のように隠れることなく学校で言葉を交わすようになっていた。とはいえ玲華は公の場では「笹岡くん」と呼び、生徒会活動などの公的な場面では相応の距離感を保っていた。それでも廊下ですれ違う際の視線やちょっとした会話の端々に以前とは違う親密さがにじんでいた。すれ違いざまに一瞬だけ視線が絡み、どちらからともなく小さく微笑む。
「玲華、今『陽翔』って言いかけたでしょ」
「言っていません」
「『は――笹岡くん』って聞こえたけど」
「聞き間違いです」
「顔赤いよ」
「室温の問題です」
美桜は明らかに面白がっていたが、玲華はそれ以上取り合おうとしなかった。
そして、その変化に気づいたのは、美桜だけではなかった。
「ねえ、笹岡くんと鷹司会長って、最近仲良くない?」
最初は他愛のない噂話だった。だが日が経つにつれその噂は少しずつ形を変えていった。
それから間もなく、昼休みの教室でこんな声が聞こえるようになった。
「笹岡くん、玲華さんの家柄を利用してるんじゃない?」
「定食屋への出資、狙ってるんだって」
最初は聞き流していたが、同じような話が別のクラスからも聞こえてくるようになると、さすがに無視できなくなった。
「颯太、あの噂、聞いた?」
「ああ、聞いた。誰が言い出したんだろうな」
颯太は珍しく苦い顔をしていた。普段は軽口ばかり叩く男が、こういう時だけは真剣な表情を見せる。
「お前、そんなこと考えたこともないだろ」
「当たり前だろ。金なんかどうでもいい」
「分かってる。でも、噂ってのは事実かどうかより、広まるかどうかが問題なんだよな」
颯太の言葉通り、噂は日を追うごとに勢いを増していった。教室での視線が以前よりも冷たく感じられるようになる。教室に入るたびに、微かな沈黙が走る瞬間があった。誰も面と向かっては何も言わないが、視線の温度だけが確実に下がっていた。
その噂の出所を辿ると前生徒会長の西園寺透子に行き着くらしい、という話を美桜から聞いたのは数日後のことだった。
「透子先輩、直接的な嘘はついてないみたい。ただ、玲華と笹岡くんの身分差を、色んな人にそれとなく強調して回ってるって話。『笹岡くんが金目当てだ』と直接言ったわけじゃない。でも、『鷹司家の後継者が庶民の男子と親しくしていて大丈夫なのか』みたいな話を、何人にもしていたらしい」
「西園寺先輩が、なんで」
「あの人、玲華のお父さんが将来の協力者として評価してる人らしくて。玲華が庶民の男子と親しくするのを、後継者としての自覚が足りないって思ってるみたい」
美桜の話を聞きながら、俺は複雑な気持ちになった。悪意を持って攻撃されているというより、価値観の違いからじわじわと外堀を埋められているような感覚だった。露骨な悪口よりも、こういうやり方のほうがずっと厄介なのかもしれないと思った。
放課後、生徒会室で玲華と顔を合わせたとき、俺は思い切って噂の件を切り出した。窓の外は夕方の光に染まり始めていた。
「玲華、噂のこと知ってますか」
「……知っています」
「対処、しないんですか」
玲華は書類から視線を上げ、ゆっくりと首を振った。ペンを置く仕草にも、いつもの冷静さが滲んでいた。
「生徒会長としての権限を使えば、噂を抑え込むことは可能です。ですが、それをすれば……」
「それをすれば?」
「私が権力で黙らせたという事実が、かえって陽翔をより悪く見せることになります。『財閥の力で庶民を守っている』という構図は、噂をより強固にするだけです」
その判断には玲華らしい冷静さがあった。だが俺はどこかもどかしさを感じずにはいられなかった。頭では理解できても、感情の部分ではどうしても納得しきれない何かが残っていた。
「じゃあ、このまま放っておくんですか」
「放っておくわけではありません。ただ、力業では解決しないというだけです」
教室に戻ると俺の周りの空気は以前よりも明らかによそよそしくなっていた。話しかけてくる人数が減り噂話をしていたグループが俺が近づくと不自然に会話を止めることもあった。廊下を歩くだけで、周囲の視線がまとわりつくように感じられた。
それでも颯太だけは変わらず俺の隣にいた。
「笹岡は、玲華さんの金なんか興味ないって、俺が一番知ってる。おかしなこと言ってる奴がいたら、遠慮なく言い返してやるから」
その言葉に、俺はどれだけ救われたか分からない。誰もが遠巻きにする中で、変わらず隣にいてくれる存在の大きさを、このとき改めて実感した。
さらに以前、玲華に助けられたことのある生徒たちも少しずつ味方になってくれた。以前、生徒会の相談で玲華に助けられた下級生が噂を否定するように周囲に話してくれているという話も聞いた。廊下ですれ違うたびに小さく会釈をしてくれる後輩がいることに、俺は密かに励まされていた。
だがそれでも噂の勢いは簡単には収まらなかった。
「笹岡くんって、鷹司さんに取り入って、店に投資してもらうつもりなんだって」
そんな声が直接、俺の耳に入ってくることも増えていった。教室の隅で聞こえよがしに話される言葉に、拳を握りしめて堪えることもあった。
☆
ある日の放課後、俺は玲華にこれまでとは違う覚悟を伝えた。
「玲華、今回は俺も、逃げずに向き合いたいです」
「陽翔?」
「これまで、玲華にばっかり守られてきました。噂のことも、自分から動いて、はっきりさせたいです」
玲華はしばらく俺を見つめたあと小さく頷いた。その目には、これまでとは違う、対等な信頼のようなものが浮かんでいた。
「……分かりました。では、一緒に調べましょう」
その日から俺と玲華は噂がどう広まったのかその経緯を調べ始めることにした。放課後の生徒会室に、俺たちだけが残って資料を突き合わせる日々が続いた。
美桜の協力を得て噂を最初に口にした生徒を辿り、そこから話がどう伝わっていったのかを一つずつ確認していく。地道な作業だったが玲華の情報整理能力と颯太の顔の広さが思った以上に役に立った。玲華が整理したメモは驚くほど分かりやすく、誰がいつ何を話したのか、時系列で一目瞭然になっていた。
「この噂、最初に言い出したのは三年生の女子生徒みたい。でも、その子自身は西園寺先輩から聞いた話をそのまま広めただけって言ってる」
美桜がまとめてきた情報を前に、玲華は目を細めた。
「やはり、透子が関わっているようですね」
「玲華、西園寺先輩と直接話すつもりですか」
「はい。このまま噂だけが広がり続ける状況を、放置するわけにはいきません」
その声にはこれまでとは違う、迷いのない強さがあった。夕暮れの生徒会室に差し込む光の中、玲華の横顔には確かな覚悟が浮かんでいた。
玲華は自分の権力を使わず、事実を積み重ねて対峙する道を選ぼうとしている。財力や立場に頼れば、きっと一瞬で片がつくはずだ。それでも玲華は、決してその道を選ばなかった。
俺はその隣で、今度こそ彼女を一人で戦わせないと心に決めていた。