【短編】隣にいるだけでは、もう足りない

隣にいるだけでは、もう足りない

「りっちゃん、きょうもおむかえ?」

保育園の門から飛び出してきた陽向が、俺の脚に抱きついた。

「今日も俺。残念だったな」

「ざんねんじゃないよ。やったーだよ」

三歳児にそこまで真っ直ぐ喜ばれると、悪い気はしない。

俺――榊原律は、陽向の小さなリュックを受け取った。保育士に挨拶をして、駅とは反対の道へ歩き出す。

向かうのは俺の家ではない。実家の隣にある、水瀬家だ。

そこには、十六年間好きな女が住んでいる。

水瀬結衣。二十九歳。俺と同い年の幼馴染で、陽向の母親。

そして、一年前に離婚した。

「ママ、おそい?」

「あと一時間くらいかな。腹減った?」

「へった。オムライスがいい」

「昨日も食べただろ」

「きょうのぼくは、きのうのぼくじゃないよ」

誰に教わったんだ、そんな言い訳。

仕方なくスーパーへ寄り、鶏肉と卵を買った。

水瀬家の鍵は預かっている。

結衣の父親は、俺たちが二十四歳のときに亡くなった。その翌年には母親の持病が悪化し、二年前に亡くなっている。今、この家で暮らしているのは結衣と陽向だけだ。

俺は五駅先の部屋で一人暮らしをしているが、週に何度もここへ来る。結衣の帰りが遅い日は陽向を迎えに行き、夕飯を作る。手の空いている休日には、庭の草むしりや重い物の買い出しも手伝った。

幼馴染だから。

そう言えば、何をしても不自然ではなかった。

「りっちゃん、おなべ、あわあわ」

「うわ。陽向、ちょっと離れてろ」

慌てて火を弱めると、陽向が得意そうに胸を張った。

「ぼくが見てたから、だいじょうぶだったね」

「はいはい。助かりました」

陽向を椅子に座らせ、出来上がったオムライスを食卓に並べる。陽向の皿には、ケチャップで不格好な笑顔を描いた。

ちょうど食べ始めたところで、玄関の扉が開いた。

「ただいま。ごめん、遅くなった」

「ママ、おかえり!」

結衣がリビングへ入ってくる。急いで帰ってきたのだろう。肩まである髪が少し乱れ、頬が赤くなっていた。

「律、今日もありがとう」

「別に。俺も食いたかったから作っただけ」

「オムライスを?」

「……陽向が食いたいって言うから」

「やっぱり陽向のためじゃない」

結衣が笑う。

たったそれだけで、今日ここへ来てよかったと思ってしまう。

十六年も片思いをしていると、笑顔一つで喜べるようになるらしい。我ながら安上がりだ。

結衣が高校一年で初めて彼氏を作ったときも、その翌年に別の男と付き合ったときも、俺は一番に報告を受けた。

大学二年で付き合い始めた男と結婚すると聞いたときには、「おめでとう」と笑った。

陽向が生まれたときには、病院まで祝いに行った。

一つ祝うたびに、胸の奥で何かが潰れた。それでも、結衣との関係がなくなるよりはよかった。

結婚した男は、夫になると変わった。家に帰らず、生活費も入れなくなった。結衣は一人で働きながら陽向を育て、母親のことまで支えようとした。

俺にできたのは、頼まれたときに手を貸すことだけだった。

夫婦の問題に踏み込みすぎないように、境界を越えないように。それでも結衣と陽向が困っているときだけは、すぐ隣にいられるように。

その結婚が終わって一年が経っても、俺はまだ同じ場所にいる。

「りっちゃん」

陽向の声で、意識を戻した。

「なんだ?」

「りっちゃんのおうち、ぼくのおうちのとなりでしょ?」

「それは俺が育った家。今は電車で五つ先に住んでる」

「となりにすまないの?」

「住もうかなって思ってる」

最近、本気で考えていることだった。

実家には母が一人で暮らしている。部屋は余っているし、職場までの時間も大して変わらない。戻ってくれば、今より結衣たちを支えやすくなる。

「ほんと?」

陽向の顔が明るくなる。

しかし、次に出てきたのは予想外の言葉だった。

「でも、となりじゃなくて、ぼくのおうちに住めばいいのに」

スプーンが皿に当たり、乾いた音がした。

結衣が固まっている。

俺も、たぶん同じ顔をしていた。

「だって、りっちゃんがいたら、ママわらうよ。ぼくもたのしいよ。さんにんでオムライス食べられるよ」

「陽向」

結衣が困ったように名前を呼ぶ。

「そういうことは、簡単に言うものじゃないの」

「なんで?」

「なんでって……律にも、律の生活があるから」

陽向は納得していない様子だったが、やがてオムライスに意識を戻した。

俺は戻せなかった。

三人で暮らす。

十六年間、考えないようにしてきた未来を、陽向はいとも簡単に言葉にした。

食事のあと、結衣が陽向を風呂に入れた。

パジャマ姿になった陽向は、眠そうに目をこすりながらも、俺のところへやってきた。

「りっちゃん、おやすみ」

「おやすみ。ちゃんと目を閉じて寝ろよ」

「め、あけたままねられないよ」

もっともなことを言い残し、陽向は結衣に手を引かれて寝室へ向かった。

俺はその間に食器を洗うことにした。

三人分の皿を洗い、子ども用の小さなコップを水切り籠へ伏せる。蛇口を止めると、急に家の中が静かになった。

少しして、結衣が一人で戻ってきた。

「寝た?」

「うん。今日は早かった」

結衣は俺の隣に立つと、洗い終えた皿を布巾で拭き始めた。

しばらく、食器の触れ合う小さな音だけがキッチンに響いた。

「律」

最後の皿を棚へ戻した結衣が、俺を見た。

「実家に戻るって、本気なの?」

「そのつもり。母さんも一人だし、ここにもすぐ来られる」

「私たちのため?」

答えに詰まった。

それだけで、結衣には伝わったらしい。

「駄目だよ」

「何が」

「私たちのために、律が自分の生活を変えるのは」

「別に大したことじゃない」

「律にとって大したことじゃなくても、私には大したことなの」

結衣は視線を落とした。

「これ以上、甘えられないよ」

「甘えればいいだろ」

「どうして?」

「どうしてって、幼馴染だから」

いつもの言葉を口にした瞬間、結衣の表情が曇った。

「また、それ?」

「またってなんだよ」

「律はいつもそう。幼馴染だから。隣の家だから。頼まれたから。私がどれだけ助けてもらっても、全部それで終わらせる」

「それの何が悪いんだ」

「悪くないよ。律は何も悪くない。だから困るの」

結衣は唇を結び、少し間を置いてから続けた。

「私はもう、律の優しさを、ただの幼馴染だからって受け取れない」

胸が大きく鳴った。

期待するな、と十六年間で身につけた癖が頭をもたげる。

「迷惑だったなら、減らす」

「そうじゃない」

「じゃあ、なんだよ」

「分からないの?」

分かるわけがない。

俺はずっと、分からないふりをしてきたのだから。

結衣を好きになったのは、中学一年の冬だった。

飼っていた犬が亡くなり、誰もいない家に入るのが嫌で、門の前に座り込んでいた。そこへ学校から帰ってきた結衣が現れた。

結衣は何も聞かず、俺の隣に座った。自分のマフラーを半分だけ俺の肩へかけて、「無理に元気にならなくていいんじゃない」と言った。

泣くのは格好悪いと言った俺に、結衣は前を向いたまま答えた。

『誰も見てないよ。私しかいないから』

『お前が見てるじゃん』

『じゃあ、見てないふりしてあげる』

あの日、結衣が立ち上がるまで、俺は一人ではなかった。

だから今度は、俺が隣にいるのだと思っていた。

けれど、それだけではなかった。

とっくに、それだけでは足りなくなっていた。

「結衣」

顔を上げた結衣を見る。

怖かった。

十六年前よりも、結衣の結婚を聞いた日よりも、ずっと怖い。

それでも、陽向に言われてしまった。

隣ではなく、同じ家に住めばいいと。

その未来を望んでいるくせに、幼馴染という安全な場所に隠れ続けるのは、もう無理だった。

「俺は、幼馴染だからお前を助けてるんじゃない」

結衣が息を止める。

「中学一年のときから、ずっと結衣が好きだ」

言ってしまった。

たった一言を口にするまでに、十六年かかった。

「結衣に彼氏ができるたび、嫌だった。結婚すると聞いたときも、陽向が生まれたときも、嬉しかったのに苦しかった。それでも、お前の隣からいなくなるほうが嫌だった」

結衣の目に涙が浮かぶ。

「離婚したからって、すぐに告白するつもりはなかった。弱ってるところにつけ込みたくなかったし、今だって返事を急かす気はない。ただ……俺が実家に戻りたいのは、結衣と陽向の近くにいたいからだ」

結衣は何も言わなかった。

やはり言うべきではなかったのかもしれない。

今までどおりではいられなくなる。

十六年間、それだけを恐れてきた。

「ごめん。今日は帰る」

テーブルの脇に置いた鞄へ手を伸ばすと、服の裾をつかまれた。

振り返る。

「帰らないで」

結衣はうつむいたまま、震える声で言った。

「私、律は私のことなんて、家族みたいにしか見てないと思ってた」

「そんなわけないだろ」

「分からないよ。彼氏ができたって言ったら笑ってくれたし、結婚するときも一番に祝ってくれた」

「泣いて止めればよかったのか?」

「少しくらい、寂しそうにしてくれたらよかったのに」

無茶を言う。

そんな顔を見せたら、すべて気づかれてしまうと思っていた。

「離婚してから、律が来てくれる日を待つようになった。陽向のお迎えをしてくれるからでも、ご飯を作ってくれるからでもなくて、律がここにいると安心した」

結衣が、ゆっくり顔を上げる。

「でも、つらいときに助けてくれたから、そう思い込んでいるだけかもしれないって怖かった。だから一年間、考えたの」

「……答えは出た?」

「今、出た」

結衣は泣きながら、少しだけ笑った。

十六年前、俺の隣に座ってくれたときと同じ顔だった。

「私も、律が好き」

廊下から、ぺたぺたと小さな足音がした。

「ママ……」

寝ぼけた陽向が、目をこすりながらリビングへ入ってくる。

「どうしたの?」

「おしっこ」

結衣は慌てて目元を拭うと、陽向をトイレへ連れていった。

戻ってきた陽向は、俺がまだいることを確かめるように見上げる。

「りっちゃん、まだいた」

「いるよ」

陽向は小さくあくびをしてから、夕食のときの話を思い出したように尋ねた。

「いっしょにすむの、きまった?」

「陽向、それはまだ早い」

俺が答えると、陽向は頬を膨らませた。

「じゃあ、いつ?」

結衣と顔を見合わせる。

今度は、どちらからともなく笑った。

「まずは、隣に戻ってくるところからかな」

結衣がそう言った。

「それから三人で、ゆっくり考えよう」

十六年前、結衣は泣いていた俺の隣に座り、見ていないふりをしてくれた。

それから俺は、自分の気持ちを見ていないふりをしたまま、結衣の隣に居続けた。

けれど、もうその必要はない。

来月、俺は五駅先の部屋を引き払い、実家へ戻る。

いつか本当に三人で暮らす日が来るのかは、まだ分からない。

それでも今度は、ただ隣にいるためではなく、結衣と陽向と同じ未来へ進むために戻るのだ。

十六年目の今夜、ずっと見ないふりをしてきた恋が、ようやく俺の前で笑っていた。
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