僕が君の名前を呼ばなかった一年間

第01話 私の名前を呼ばないで

 高校二年生の始業式の日、俺は新しい教室の前で一度だけ足を止めた。二年三組。去年とは違う教室、違う担任、そして新しいクラスメイト。廊下には同じように新しい教室を探す生徒たちの声が響いている。
 
 俺は掲示された座席表を確認し、自分の席を見つける。窓側から二列目、前から三番目。そこへ向かうと、隣の席にすでに一人の女子が座っていた。俺が机の横に立つと、その女子は顔を上げ、少し驚いたように目を丸くしてから笑った。

「桐生くん?」

「そうだけど」

「やっぱりー。去年、二組だったよね?」

「そう。白石さんも二組だったよな」

「あれ? 覚えててくれたんだ」

「同じクラスだったんだから、それくらいは覚えてるよ」

「そっか。じゃあ、今日から隣だね」

「そうだな。よろしく」

「こちらこそ、よろしくね」

 白石美咲。名前だけなら知っていた。 クラスの真ん中で大声を出して騒ぐようなタイプではない。休み時間になると自然と人が集まっていて、誰かと話していることが多い。去年もそんな印象だった。

 いわゆる、クラスの人気者というやつだろう。

 俺が席に座ってしばらくすると、さっそく何人かが白石のところへやって来た。

「去年どこだった?」

「三組。そっちは?」

「俺、一組だった」

「担任、誰になるんだろうね」

 そんな話がしばらく続いた。

 俺は特に気にせず、机の中を確認していた。ところが、一通り話し終えたらしい白石が、またこっちを向いた。

「ねぇねぇ、桐生くんって、朝弱そうだね」

「いきなり何の話?」

「だって、さっきから眠そうだから」

「これは普通」

「本当に?」

「本当」

「じゃあ、明日から確認する」

「何を?」

「桐生くんが毎朝眠そうかどうか」

「そんなこと確認する必要はないだろ」

「クックックック」

 何がそんなに面白いのか分からない。そう思ったのに、白石が肩を揺らして笑っているのを見ているうちに、俺まで笑ってしまった。
 始業式の日なんて、誰だって多少は気を使う。新しいクラスならなおさらだ。それなのに、白石とは妙に話しやすかった。授業が始まれば黒板を見る。休み時間になれば、どうでもいい話をする。そんなことを何度か繰り返しているうちに、隣に白石がいることに慣れていった。

 昼休み、弁当を出して食べようとしていると、白石が弁当箱を持って俺の机まで来た。

「桐生くん、ここで食べてもいい?」

「俺と?」

「うん」

「なんで? 友達は?」

「あとで一緒に話すから大丈夫」

「そういうもの?」

「そういうものなのですぞ」

 白石は俺の前の席をくるりと反対向きにすると、そこに座った。

「桐生くんって数学得意?」

「普通」

「私は無理。昨日の宿題、半分くらい分からなかった」

「それはちょっとまずくない?」

「やっぱり?」

「やっぱり」

「じゃあ教えて」

「昼休みに?」

「駄目?」

「いいけど」

 そんな話をしていたら、いつの間にか予鈴が鳴り、昼休みが終わろうとしていた。

「もう終わりか」

「早かったね」

「白石と話してると、時間が早いな」

「……そう?」

「そうだと思う」

「じゃあ、明日も一緒に食べようかな」

「別にいいけど」

「やったね」

 何がそんなに嬉しいのかわからない。そう思いながらも、白石が笑っているのを見ると、俺まで悪くない気分になるのが不思議だった。
 
 午後の授業が始まってからも、俺の机には小さく折りたたまれた紙が一枚、何度か飛んでくる。開いてみると、白石の字で『次の体育、嫌だな』と書いてある。俺が『俺は全部の体育が嫌い』と書き返すと、すぐに『それは知ってる』と返ってきた。教師に見つからないように紙を交換しながら、俺は笑いを堪えるのに苦労した。

 放課後、鞄を肩に掛けて教室を出ようとしたところで、白石に呼び止められた。

「桐生くん、今日って急いで帰る?」

「いや、特に予定はないけど」

「じゃあ、図書室行かない?」

「図書室?」

「うん。新しい本、見たいんだ」

「白石って本読むんだな」

「読むよ。意外?」

「少し」

「もぅ! 失礼しちゃうな」

「悪かった」

「じゃあ、付き合って」

「へいへい」

 図書室は放課後になると人が少なく、窓から差し込む夕方の光が机の上に細長く伸びていた。白石は本棚の前を歩きながら、気になる本を見つけるたびに俺へ話しかけてきた。

「これ読んだことある?」

「ない」

「面白そうじゃない?」

「タイトルだけじゃ分からないだろ」

「じゃあ、桐生くんは何読むの?」

「適当」

「適当って何?」

「そのとき読みたいもの」

「ずるい答えだなぁ」

 そんなことを話しているうちに、俺は本を探すことより白石と話していることのほうが楽しくなっていた。

「桐生くんって、普段こういうところ来る?」
 
「たまに」

「一人で?」

「うん」

「寂しくない?」

「別に」

「じゃあ、これからは私も来ようかな」

「本を読むため?」

「それもあるけど」

「他には?」

「桐生くんと話すため」

 白石は何でもないことのように本棚へ視線を戻している。

「どうしたの?」

「いや、白石って、そういうこと普通に言うんだなと思って」

「何が?」

「何でもない」

「アハハ、変なのー」

 その日の帰り道、俺たちは駅まで一緒に歩く。駅が近づくにつれて、話すことも少なくなっていく。白石はいつもの明るい笑顔を浮かべていたが、ふと何かを思い出したように立ち止まった。

「桐生くん」

「ん?」

「明日も、隣の席だね」

「そうだな」

「……よかった」

「何が?」

「ううん。何でもない」

 白石は笑って、階段を上っていった。俺はその背中を少しだけ見送る。ただ、最後の「よかった」という言葉が、なぜか引っかかった。
 でも、そのときは深く考えなかった。明日も学校へ行けば、隣には白石がいる。

 それだけのことだった。

 
 翌日から、俺たちはさらに自然に一緒にいるようになった。朝、教室に入れば「おはよう」と声をかけ、授業中には小さなメモを交換し、昼休みには同じ机を囲んで話す。放課後には図書室へ向かう日も増えた。
 俺の中では、白石と一緒にいることが特別なことではなくなり始めていた。だからこそ、その日の放課後、教室に二人だけが残ったとき、白石が突然見せた真剣な表情に俺は戸惑った。窓の外は夕暮れに染まり、教室の中には俺たち以外の気配がない。白石は鞄の持ち手を両手で握ったまま、しばらく黙っていた。

「桐生くん。お願いがあるの」

「何?」

「……私のこと、名前で呼ばないで」

 俺は意味が分からず、思わず白石の顔を見た。今まで何度も話してきた彼女が、こんなに真剣な顔をするのは初めてだった。冗談なら笑って済ませられる。だが、白石は笑わない。俺もすぐには返事ができず、夕方の教室に時計の音だけが響いた。

「名前って? 白石って呼ぶなってこと?」

「違うよ。下の名前」
  
「どうして?」

「……理由は、今は言いたくない」

 その顔は、冗談を言っている顔ではない。
 
「俺、何かした?」

「違う。桐生くんが嫌だからじゃないよ」

「じゃあ、どうして名前を呼んじゃ駄目なんだ?」

「お願いだから」

 白石はそう言って、俺の目をまっすぐ見てきた。その瞳には、困っているような色が浮かんでいた。俺には理由が分からない。それでも、彼女が本気で頼んでいることだけは伝わってくる。俺は少し考えてから、ゆっくり息を吐いた。

「分かった」

「……本当に?」

「うん。白石が嫌なら、呼ばない」

「ありがとう」

「じゃあ、決まりだな」

「うん。二人だけの約束」

 その言葉を聞きながら、俺はまだ知らなかった。この日、何気なく交わした約束が、俺たちの高校生活を大きく変えていくことを。
 そして、目の前にいる白石がなぜ名前を呼ばれることを恐れているのか、その理由を俺が知るまでには、まだ少し時間が必要だった。
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