僕が君の名前を呼ばなかった一年間

第02話 二人だけが知っている約束

 放課後の教室に残っているのは、俺と白石だけだった。白石は鞄を机の横に置いたまま、窓の外を見ている。さっきからまったく動かない。でも、その口元は何かを言いたげに感じた。

「白石。昨日のこと、もう一度聞いていい?」

「……うん」

「どうして名前を呼ばれたくないの?」

「やっぱり気になるよね」

「気になるよ。俺たち、普通に話してるのに、そこだけ変だから」

「そうだよね」

 白石は窓から離れ、俺の向かいの席に座る。机の上に両手を置いて、指先をいじっていた。
その様子を見ていると、聞かないほうがいいんじゃないかという気もしてきた。
 俺が黙っていると白石も黙り込んでいる。そんな時間が過ぎ、白石がゆっくりと口を開いた。

「私ね、高校を卒業したら、この街を離れるんだぁー」

「……えっ?」

「お父さんの仕事の都合で、家族みんなで海外に行くことになってるの」

「海外って、旅行じゃなくて?」

「うん。引っ越すの」

 その一言を聞いた途端、俺は返事ができなくなった。

 窓の外には、いつもと変わらない校庭が見えている。さっきまで気にも留めなかった景色なのに、急に遠く感じてしまう。

「いつ決まったんだ?」

「去年の終わりくらい。お父さんの仕事が正式に決まって、それから家族で話し合ったの」

「じゃあ、卒業したら向こうの大学に行くの?」

「うん。そのつもり」

「日本には戻ってこないの?」

「戻ってくるかもしれない。でも、いつになるかは分からない」

「……そっか」

 それしか言えなかった。高校二年になったばかりなのに、卒業したあとの話なんて考えたこともなかった。俺の中では、卒業なんてまだずっと先の話だった。それなのに白石は、その先のことまで考えている。
 
「だから、桐生くん」

「何?」

「私たち、今のままがいいと思う」

 その言葉を聞いて、俺は少しだけ分かった気がした。

 名前を呼ばない理由。たぶん、白石はその先にある別れを考えているんだろう。だからといって、納得できたわけじゃない。むしろ、卒業したら離れると知った途端、今までより白石のそばにいたいと思った。昼休みに一緒に弁当を食べる時間も、放課後に図書室で話す時間も、いつかなくなる。 そう考えると、急に惜しくなっしまう。
 
「それなら、今のうちに付き合えばいいんじゃないか?」

「……え?」

「卒業までまだ時間はあるだろ」

「でも……」

「一年以上あるんだぞ。だったら、その間くらい一緒にいればいい」

 俺の言葉に白石は黙り込む。 白石はすぐには答えなかった。窓の外へ視線を向けると、夕暮れの空が少しずつ色を失っている。俺は自分でも驚くくらいに真面目に考えたことだった。

 離れる日がくる。それは分かる。でも、まだ来ていない。俺にはそれくらいのことしか考えられない。

「桐生くんは、そう思うんだね」

「うん。俺ならそうする」

「……私は、できない」

「どうして?」

「付き合ったら、離れるのがもっと辛くなるから」

「今だって十分辛いだろ」

「だから、これ以上は増やしたくないの」

 白石の声は聞き取れないくらいの小さな声。それでも聞き間違うことはなかった。
 白石は机の上に置いた自分の手を見つめている。その手が、ほんの少しだけ握られていた。

「じゃあ、どうするんだ?」

「一つだけ、約束してほしい」

「また約束?」

「うん。卒業式まで、お互いの名前を呼ばないの」

「名前を? 名前を呼ばなかったら、どうなるんだ?」

 思わず聞き返す。

「今の関係のままでいられる」

「それだけ?」

「それだけでいいの」

 そう言った白石の笑顔は、いつもの笑顔に見える。でも、無理をしている笑顔。
 
 名前を呼ばない。名前なんて、相手を呼ぶための記号だ。それを使わないだけで、本当に何かが変わるのだろうか。
 
「それで、本当に何も変わらないのか?」

「何もって?」

「今までみたいに、一緒に昼ご飯を食べたり、図書室へ行ったりしていいのか?」

「もちろんだよ」

「じゃあ、名前を呼ばないだけ?」

「うん。それだけ」

「ふーん。それなら、そんなに難しくないか」

 俺は少し考えてから、白石に問いかけることにした。
 
「白石は、俺のことをどう思ってる?」

「……どういう意味?」

「いや、名前を呼ばない理由を聞いてたら、何となく気になった」

「それ、答えなきゃ駄目?」

「嫌ならいいけど」

「ううん。答える」

 白石は一度目を伏せ、それからゆっくりと俺を見る。いつものように笑っているわけではない。何かを隠すような表情でもなく、ただ迷っているように見えた。俺は黙って返事を待つ。
 白石は小さく息を吐いてから、ようやく静かな声で話し始めた。

「桐生くんといるの、好きだよ」

「……友達として?」

「そう聞くと思った」

「違うのか?」

「うん」

 その一言だけで、胸の奥がドクンッと大きく鳴る。俺は何も言えず、白石の顔を見る。白石も俺から目を逸らさなかった。
 
 朝、教室へ行けば彼女がいることを期待し、昼休みになれば隣に来てくれることを待っている。誰かと楽しそうに話している姿を見ると、理由もなく落ち着かなくなる。それが何なのか、もう誤魔化せなかった。

「俺も、白石といるのが好きだよ」

「……うん」

「たぶん、俺も同じ」

「そう言ってくれると思ってなかった」

「どうして?」

「だって、桐生くんって、あんまりそういうこと言わないから」

「言う必要がなかっただけだよ」

「じゃあ、今は必要?」

「……必要なんじゃないかな」

 白石は少しだけ笑っているが、その目には薄く涙が浮かんでいる。俺はそれを見て、胸が締めつけられるような気持ちになってしまった。
 
 お互いに好きだと分かった。
 それなのに付き合わない。
 名前も呼ばない。

 それなのに、目の前の彼女は俺と付き合うことを望んでいない。理由は海外へ行くから。それなら、せめて残された時間を大切にすればいいと思う。恋人になったからといって、卒業の日まで一緒にいることができないわけではない。それでも白石は首を横に振る。

「付き合わないほうがいいよ」

「どうして?」

「卒業するとき、私たちは離れるから」

「それは分かってる」

「分かってないよ」

「分かってるって」

「ううん。私が言いたいのは、そういうことじゃないの」

 白石は窓の外へ視線を向けた。夕暮れの校庭には誰もいなくなり、校舎の窓だけが薄く光を返している。俺は何も言わず、彼女の言葉を待った。

「恋人になったら、毎日もっと一緒にいたくなるよね」

「そうだな」

「もっと会いたくなるし、もっと話したくなる」

「うん」

「卒業したら、それが全部できなくなる」

「……」

「今でも離れるのは辛いと思う。でも、恋人になったら、もっと辛くなる。今まで当たり前だったことが全部なくなるから」

 白石の言っていることは分かる。分かるからこそ、反論できない。
 俺だって、彼女と一緒にいる時間が増えるほど、離れたくないという気持ちが強くなるだろう。今でさえ、放課後に別れるときには少し寂しいと思っている。それが恋人になれば、それが恋人になったら、もっと大きくなる。

「だから、今のままでいたいって訳か?」

「うん」

「名前を呼ばないのも、そのため?」

「そう」

「名前を呼ばなかったら、恋人にならずに済む?」

「……たぶん」

「たぶん?」

「絶対じゃないから」

 白石は苦笑した。その表情を見て、俺も少し笑ってしまう。そんな曖昧な約束で、大丈夫なのだろうか。むしろ、すでに俺は彼女を好きになっている。それなのに名前を呼ばないだけで何も変わらないと思うほうが無理なのかもしれない。でも、白石がそれを望んでいるなら、俺は無理に変えたくなかった。

「分かった」

「……いいの?」

「うん」

「無理してない?」

「してない」

「本当に?」

「本当。卒業式まで、白石の名前は呼ばない」

「私も、桐生くんの名前を呼ばない」

「じゃあ、それでいい」

「うん」

 俺たちは向かい合ったまま、しばらく黙っていた。

 恋人にはならない。
 それでも好きだという気持ちは消えない。
 名前を呼ばない。
 それでも一緒にいる時間は大切にする。

 矛盾していると思ったが、その矛盾こそが俺たちには必要なのだろう。白石は鞄を持ち上げると、いつものような笑顔を見せた。

「じゃあ、帰ろうか」

「そうだな」

「桐生くん」

「何?」

「これからも、いっぱい話そうね」

「もちろん」

「昼休みも一緒に食べていい?」

「いいよ」

「放課後も図書室に行っていい?」

「好きにすればいいだろ」

「じゃあ、決まり」

 教室を出ると、廊下には俺たちの足音だけが響く。階段を下りながら、俺は隣を歩く白石を見た。
 
 好きなのに、付き合わない。
 名前を呼びたいのに、呼ばない。

 自分で言っていても、やっぱり変な話だった。正直、まだ納得しているわけではない。
 でも、白石が話してくれたことを聞いた以上、俺だけ勝手に約束を変えるわけにはいかなかった。

「じゃあ、また明日」

「うん。また明日、桐生くん」

「また明日、白石」

 駅前で別れたあと、俺は一人で家へ向かった。さっきまで隣にいた彼女の声が、まだ耳に残っていた。
 
 俺たちは恋人ではない。
 名前を呼ばない。

 それだけの約束だと思っていた。
 少なくとも、このときの俺はそう思っていた。
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