僕が君の名前を呼ばなかった一年間

最終話 僕が君の名前を呼ばなかった一年間

 今、俺の隣には、四年ぶりに会った美咲がいる。高校を卒業してから一度も顔を合わせていなかったのに、こうして並んで歩いていると、離れていた時間が嘘だったように思えてくる。話し方も笑い方も昔と変わらない。俺の隣を歩く歩幅まで、あの頃と同じように感じられた。

 ただ、一つだけ大きく変わったことがある。もう俺たちの間には、名前を呼んではいけないという約束がない。高校時代には何度も胸の中で呼んだ名前を、今なら声にしていい。その事実が分かっているのに、いざ本人を隣にすると、俺はなかなか口に出せずにいた。

 ふと横を見ると、美咲もこちらを見ていた。

「どうしたの?」

「いや……なんでもない」

「さっきから何度も私のこと見てるよ」

 少しからかうような笑顔を向けられて、俺は誤魔化すように前を向く。
 
「四年ぶりだからな。ちゃんと本人なのか確認してるんだよ」

「なにそれ。私、偽物じゃないよぉ」

「分かってる」

 美咲は頬を膨らませたものの、すぐに昔と同じ笑い方をした。その表情を見た瞬間、俺の中で眠っていた記憶が一気に蘇ってくる。
 高校二年生の春、教室で初めて話した日のこと。授業中にこっそりメモを交換したこと。放課後の図書室で、勉強そっちのけでくだらない話をしたこと。そして、どれだけ近くにいても、お互いの名前だけは呼ばなかった一年間のこと。

 長かったはずの一年間が、今振り返ると驚くほど短く感じられる。あの頃は一日一日が長かったのに、四年という時間は気づけば過ぎていた。そんなことを考えていると、美咲が少しだけ視線を落とした。

「ねえ……呼んでみて」

「何を?」

「分かってるくせに」

 そこでようやく、美咲が何を求めているのか分かった。
 
「……名前?」

「うん」

 その言葉に心臓が大きく跳ねる。たった二文字なのに、どうしてこんなに緊張するのか、自分でもおかしくなる。卒業式の日、誰もいなくなった教室で口にした名前。それから四年間、心の中では何度も呼んだのに、本人へ向かって声にしたことは一度もなかった。

 美咲は急かさず、少し照れたように俺を見ている。俺はゆっくり息を吸い込み、四年前には言えなかった名前を、今度は逃げずに口にした。

「美咲」

「……うん」

 美咲の目が少し潤んだ。それでも、口元には笑みが浮かんでいる。その顔を見ているうちに、胸の奥に残っていた四年間の空白が、少しずつ埋まっていくような気がする。名前を呼んだだけなのに、こんなにも嬉しい。その理由は、考えなくても分かっていた。

「ねぇ。もう一回、呼んで」

 美咲が俺の裾を引っ張りながら、小さな声で頼んでくる。
 
「美咲」

「もう一回」

「美咲」

「……嬉しい」

「そんなに?」

 俺が尋ねると、美咲は少しだけ笑ってから、懐かしそうに目を細めた。

「うん。高校のとき、何度も呼んでほしいと思ってたから」

 その言葉を聞いたところで、俺は足を止めた。高校時代、名前を呼びたかったのは自分だけだと思っていた。約束を守ることに苦しんでいたのも、もっと近づきたいと思っていたのも、自分だけなのだと、いつの間にか決めつけていた。

 でも、違ったんだ。美咲も同じだったんだ。名前を呼びたくて、それでも呼べなくて、俺と同じようにあの一年間を過ごしていた。その事実が嬉しい一方で、あの頃の時間を思い出すと、胸の奥が少し痛む。もし二人とも、もう少しだけ素直になれていたら、何かが変わっていたのだろうか。

 そんな考えが浮かんだものの、隣にいる美咲の顔を見ると、不思議と後悔する気持ちは薄れていった。四年前には戻れない。でも、今はこうして隣にいる。それだけで十分なのだと思えた。

「私も呼んでいい?」

「もちろん」

「……直人」

「うん」

「直人」

「何?」

「呼んでみたかっただけ」

「俺も同じだよ。美咲って呼んでみたかった」

 美咲は嬉しそうに笑いながら、俺のほうへ少しだけ近づいてくる。肩が触れそうな距離になっても、もう以前のように互いを意識して離れる必要はない。そのことが妙に嬉しくて、俺は歩く速度を少し落とす。すると美咲も自然に歩幅を合わせてくる。

 駅前には人の声や車の音が溢れていた。それなのに、俺たちの周りだけ時間が少しゆっくり流れているように感じる。高校時代なら、こうして隣を歩けるだけで十分だった。それ以上を望めば、卒業の日に失うものまで大きくなってしまう気がしていたからだ。

 今は違う。俺たちはそれぞれの場所で四年間を過ごし、別々の時間を歩いてきた。そのうえで、もう一度ここで出会っている。だから今度は、遠慮する理由なんてなかった。

「ねえ、直人」

「どうした?」

「手、つないでもいい?」

「……それ、俺から言おうと思ってた」

「じゃあ、先に言われちゃったね」

 美咲が右手を差し出す。俺は少しだけ笑って、その手を握る。指先が触れた瞬間、美咲の手がわずかに震えていたが、それは俺も同じだった。
 高校時代なら、こんなことをしたら、この先に待っている別れを考えてしまっただろう。今は違う。手を離さなければならない時間を数える必要もない。明日になれば会える。来週も会える。その先も、会おうと思えば会える。そんな当たり前の未来が、今の俺には何より大切に感じられた。

「温かいね」

「美咲の手も」

「高校のときも、こうすればよかったかな」

「無理だったと思う」

「どうして?」

「俺たち、名前を呼ぶだけでも怖かったんだから」

「そうだね」

 美咲は少し遠くを見るような目をして、それから俺の手を握り直した。
 名前を呼ばないという約束は、俺たちが恋を始めないために選んだ方法だった。好きだと認めれば、別れが怖くなる。だから名前を呼ばず、恋人にもならず、ただ今まで通り隣にいることを選んだ。

 それでも、気持ちは消えなかった。言えない言葉が増えるほど、相手の存在は自分の中で大きくなっていった。今になって考えれば、俺たちは恋を避けようとしていたのに、その一年間をかけて少しずつ恋を育てていたのかもしれない。

「直人」

「ん?」

「私、日本に帰ってきてよかったと思ってる」

「俺も、美咲に会えてよかった」

「本当に?」

「本当だよ」

「じゃあ、これからも会ってくれる?」

「毎日でもいい」

「毎日は多いんじゃない?」

「じゃあ、嫌なのか?」

「そうじゃないよ。むしろ……毎日会いたい」

 美咲は照れたように笑った。俺も笑った。高校時代には言えなかったことが、今はこんなにも自然に口から出てくる。好きな相手に好きだと言うことも、会いたい相手に会いたいと言うことも、手をつなぎたい相手の手を握ることも、難しいことではない。

「じゃあ、これからどうする?」

「どうするって?」

「私たち」

 美咲が少しだけ立ち止まり、俺を見る。その瞳には、以前のような迷いがなかった。それでも、俺には彼女が何を言いたいのか分かっていた。高校時代に避け続けた言葉を、今度こそ口にする時が来たのだ。

「俺は、美咲と一緒にいたい」

「私も」

「じゃあ……付き合おうか」

「うん」

 美咲は笑った。

「今度こそ、ちゃんと恋人になろう」

「今度こそって言うと、前にも付き合ってたみたいだな」

「そうだね。でも、あの一年間は私にとって、恋人と同じくらい大切だったよ」

「俺も」

 俺たちは再び歩き始める。つないだ手は、もう離さない。
 高校二年生の春、俺は隣の席になった少女の名前を呼ばなかった。名前を呼ばないことで、別れを少しでも遠ざけようとした。

 それでも時間は進み、卒業の日はやってきた。俺たちはそこで一度離れた。それから四年が過ぎ、別々の場所でそれぞれの人生を歩いた。その時間を経て、今、俺たちは自分たちの意思で同じ道を歩いている。

 もう、名前を呼ぶことを恐れる必要はない。俺は隣を歩く美咲を見ながら、今まで呼べなかった分まで、その名前を口にしたくなった。

「美咲」

「なに?」

「好きだよ」

「私も、直人が好き」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。高校時代には言えなかった二人の気持ちが、今は何の障害もなく行き交っている。美咲は笑いながら俺の腕にそっと寄り添い、俺もそのまま歩き続けた。これから先、進学も仕事も、きっと思い通りにならないことはあるだろう。それでも、もう一人で未来を考える必要はない。互いの人生を尊重しながら、それでも隣にいたいと思える相手がいる。そのことだけで、これから先の道が少し楽しみに思えた。

「ねぇ、直人」

「うん?」

「これから、いっぱい名前を呼ぼうね」

「そうだな」

「高校のとき呼べなかった分まで」

「じゃあ、覚悟しとけよ。俺、たぶんかなり呼ぶぞ」

「私も負けないから」

 美咲が笑い、俺も笑った。春の街を並んで歩きながら、俺はもう一度、彼女の名前を呼んだ。

「美咲」

「うん、直人」

 高校二年生の春から卒業式まで、俺たちは互いの名前を呼ばなかった。その一年間は、恋を始めないための約束だった。そう、あの一年間があったからこそ、俺たちは相手を失いたくないという気持ちを知った。しかし、四年後の今、俺たちはもう名前を呼ぶことをためらわない。これから何度、名前を呼んでもいい。明日も、その次の日も、その先の日々も、隣にいる相手へ声を届けられる。

「美咲」

「なに、直人?」

「これからもよろしく」

「うん。こちらこそ、よろしくね」

 俺たちは手をつないだまま、春の街を歩いていった。もう、別れの日を数える必要はない。今度は、この先に続いていく毎日を一緒に数えていけばいい。俺が君の名前を呼ばなかった一年間は、今日で終わる。そしてこれからは、君の名前を何度でも呼べる毎日が始まるんだから。

 ——完——
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