僕が君の名前を呼ばなかった一年間
第06話 あの日、渡せなかった手紙
高校を卒業してから、四年が経った。大学の卒業式を終えた俺は、両親と駅で別れ、そのまま一人で母校へ向かっていた。
最初から学校へ行くつもりだったわけじゃない。卒業式を終えて家へ帰ろうとしていたのに、駅へ向かう途中で高校時代の通学路が目に入った。その瞬間、気づけば足がそちらへ向いていた。
見慣れていたはずの商店街も、通学途中に立ち寄ったコンビニも、記憶の中より少しだけ小さく見える。それなのに、校門だけは当時と変わらないように感じた。門の向こうでは、部活動へ向かう生徒たちが笑いながら歩いている。その姿を見ていると、数年前の春が突然近くなったきがした。
高校二年生になったばかりの俺は、隣の席になった少女と出会い、そして一年間、彼女の名前を一度も呼ばなかった。
「桐生? 桐生か?」
背後から聞き覚えのある声がして振り返ると、高校時代の担任が立っていた。先生は俺の顔を見るなり目を丸くし、それから懐かしそうに笑い近寄って来た。
「久しぶりだなぁ。どうしたんだ、こんなところで」
「先生こそ、お久しぶりです。今日、大学の卒業式だったので、その帰りに寄ってみようと思って」
「そうか。もう大学も卒業したんだな」
「はい。今日です」
「早いもんだな。高校を卒業してから、もう四年になるのか」
「そうですね。自分でも、四年も経った感じがしないです」
先生は俺の顔を眺めながら、少しだけ笑い、俺も笑い返したが、胸の奥には別の感情があった。
四年という時間は長い。大学では友達もできたし、新しい環境にも慣れた。勉強をして、将来のことを考えて、進みたい道も決めた。高校時代とは違う毎日を過ごしているうちに、白石のことを思い出さない日も増えていった。
それでも、春だけは駄目だった。
桜を見ると、どうしても思い出す。
教室で笑っていた白石。授業中にこっそり交換したメモ。放課後の図書室。文化祭の準備で遅くまで残った日。そして、最後まで呼べなかった名前。
忘れたわけじゃない。ただ、もう会うことはないのだと思って、心の奥へ仕舞いこんでいただけだった。
「高校生活のこと、たまには思い出すか?」
「……思い出しますよ」
「そうか。だったら、少し中を見ていくか? すでに卒業式も終わってるから、教室も空いてるぞ」
「いいんですか?」
「卒業生が母校を見に来るくらい、どうってことないさ」
先生に案内されて廊下を歩くと、懐かしい景色が次々と目に入る。壁には文化祭や体育祭の写真が飾られ、生徒たちの笑顔が並んでいる。
「懐かしいか?」
「はい」
「お前、昔からこの辺をよく歩いてたよな」
「そうでしたっけ?」
「白石と一緒にな」
その名前を聞いた瞬間、足が少しだけ止まりそうになった。
「あの頃は、ずいぶん仲のいい二人だったよな」
先生が何気なく言った瞬間、俺は少しだけ黙った。誰と誰のことを指しているのか、聞かなくても分かったからだ。
「……そうでしたね」
「卒業式の日も、最後まで教室に残っていただろ」
「覚えてるんですか?」
「担任だからな。卒業生が帰ったあと、教室を見回っていたら、お前たちだけ残っていたからな」
あの日の光景が蘇る。机も椅子も片付けられた教室。窓から差し込む春の光。涙をこらえながら笑う白石。最後まで名前を呼べなかった俺。そして、彼女が教室を出ていったあとに、誰もいない場所で初めて呼んだ名前。
「美咲……」
あの声を思い出すと、今でも胸が少し痛む。
「そうだ、桐生」
「はい?」
「お前に渡すものがあるんだった」
先生は持っていた鞄を開け、一通の封筒を取り出した。
「これ、持って帰れ」
差し出された封筒を見て、俺は動きを止めた。表には、俺の名前が書かれている。
しかも、その文字には見覚えがある。
授業中に交換したメモ。
図書室で貸してもらった参考書の付箋。
文化祭の準備中、黒板の端に書かれていた連絡事項。
その全部で見てきた癖のある文字。
「これ……」
「白石からだ」
その名前を聞いた瞬間、鼓動がうるさくなる。
「白石が?」
「ああ。卒業式の日に預かった」
「どうして、今まで……」
「四年経ったら渡してほしいって言われてたんだ」
「四年?」
「ああ。ただ、俺もお前に会う機会がなかったからな。今日、お前が来たから渡そうと思った」
俺は封筒を受け取るとき、指先が少し震えていることに気づき、慌てて力を抜く。卒業式の日に預けた手紙なら、四年間ずっとこの学校にあったことになる。白石は、俺がいつ受け取るのかも分からないまま、この手紙を残していったのだろう。
「ここで読んでいくか?」
「……はい」
「教室、空いてるから使え」
「ありがとうございます」
先生と別れ、俺は教室へ向かう。扉を開けると、当然ながら俺たちが使っていた机はない。黒板も新しくなっている。窓際の席に座り、封筒を机の上へ置く。開けるだけなら簡単なはずなのに、どうしても指が動かない。
四年前の卒業式以来、俺は白石から何も聞いていない。海外へ行ったあと、どんな生活をしているのかも知らない。連絡先だって聞かなかった。聞こうと思えば、聞けたのかもしれない。探そうと思えば、探せたのかもしれない。
それでも、俺は何もしなかった。あの日の約束を守るためだったのかもしれないし、離れてしまった現実を受け入れるためだったのかもしれない。それでも、今この手紙を開けば、四年間知らなかった彼女の気持ちを知ることになる。
「……開けるか」
誰もいない教室でそう呟き、俺は封を切った。中には便箋が数枚入っていた。最初の文字を見ただけで、白石の声が頭の中に蘇る。
『桐生くんへ』
俺はゆっくりと読み始めた。そこには、卒業式の日に言えなかったことが書かれていた。隣の席になったことが嬉しかったこと。授業中にメモを交換する時間が好きだったこと。放課後に一緒に帰るのが楽しみだったこと。そして、名前を呼ばない約束をした本当の理由。
『私は、桐生くんのことが好きでした』
その一文を読んだ瞬間、俺は便箋を持ったまま動けなくなった。
窓の外から運動部の声が聞こえている。春の風が窓から入り、カーテンを揺らしている。それなのに、俺の意識は四年前へ戻っていた。俺はずっと、自分の気持ちだけが大きくなっていったと思っていた。白石も俺を特別に思っているのではないかと感じたことはあったが、それでも、最後まで確信できなかった。
だから名前を呼ばなかった。
好きだと伝えなかった。
卒業式の日も、彼女が言いかけた言葉を聞かなかった。
便箋には続きがあり、それは白石は卒業後に家族と海外へ移り、現地の大学へ進むことも決まっていた。だからこそ、俺と恋人になることが怖かったのだという。好きになればなるほど、別れが辛くなる。自分が遠くへ行くことで、俺まで苦しませることになる。それなら、恋人にならなければいい。名前を呼ばなければ、今の関係を守れる。そんな考えから、あの約束を提案したのだと書かれていた。
「……同じだったのか」
俺だけじゃなかった。白石も、同じ一年間を過ごしていたんだ。
名前を呼びたかった。
もっと近づきたかった。
それでも、自分から距離を縮めることが怖かった。
だから俺たちは、名前を呼ばないという小さな約束に逃げ込んだのだ。
最後のページをめくると、そこには、短い言葉が残されていた。
『私は、最後まであなたの名前を呼びたかった』
不意に視界が滲み、俺は慌てて目元を拭ったが、涙は止まらない。四年前の卒業式の日、俺も同じことを考えていた。彼女の名前を呼びたかった。最後くらい、約束を破ってもよかったのかもしれない。それでも、あのときの俺にはできなかった。
「……俺も、呼びたかったよ」
誰もいない教室で声が漏れた。
手紙の最後には、白石が海外で過ごした四年間についても書かれていた。家族と話し合いながら自分の進路を考え、今は日本へ戻ることを決めたこと。そして、最後に一つだけ、俺に伝えたいことがあると書かれていた。
『もし、まだ私の名前を呼びたいと思ってくれているなら、一度だけ会いたい』
俺はその文章を何度も読み返す。
会いたい。
四年間、一度も連絡を取らなかった相手だ。それなのに、その一言を見ただけで、胸の奥にしまっていた感情が一気に動き出す。俺は白石を忘れたわけではない。忘れられるはずがなかった。ただ、もう会えないと思っていたから、思い出の中にしまっていただけだったから。
便箋の最後には、再会するための場所と日時が書かれていた。
俺はスマートフォンを取り出し、予定を確認する。
「……行ける」
気づかないうちに思わず笑っていた。
四年前とは違う。俺たちはもう高校生ではない。誰かに決められた約束もない。離れる未来を恐れて、名前を呼ぶことを諦める必要もない。
俺は手紙を封筒へ戻し、立ち上がる。四年前、「さようなら」と言った白石の背中を、俺はただ見送った。
今度は違う。俺から会いに行くんだ。そして、もう一度だけ、彼女の名前を呼ぶ。
「美咲」
その名前が教室に響いた。
四年前には、別れを意味した名前だった。
今度は、もう一度会うための名前なのだ。
最初から学校へ行くつもりだったわけじゃない。卒業式を終えて家へ帰ろうとしていたのに、駅へ向かう途中で高校時代の通学路が目に入った。その瞬間、気づけば足がそちらへ向いていた。
見慣れていたはずの商店街も、通学途中に立ち寄ったコンビニも、記憶の中より少しだけ小さく見える。それなのに、校門だけは当時と変わらないように感じた。門の向こうでは、部活動へ向かう生徒たちが笑いながら歩いている。その姿を見ていると、数年前の春が突然近くなったきがした。
高校二年生になったばかりの俺は、隣の席になった少女と出会い、そして一年間、彼女の名前を一度も呼ばなかった。
「桐生? 桐生か?」
背後から聞き覚えのある声がして振り返ると、高校時代の担任が立っていた。先生は俺の顔を見るなり目を丸くし、それから懐かしそうに笑い近寄って来た。
「久しぶりだなぁ。どうしたんだ、こんなところで」
「先生こそ、お久しぶりです。今日、大学の卒業式だったので、その帰りに寄ってみようと思って」
「そうか。もう大学も卒業したんだな」
「はい。今日です」
「早いもんだな。高校を卒業してから、もう四年になるのか」
「そうですね。自分でも、四年も経った感じがしないです」
先生は俺の顔を眺めながら、少しだけ笑い、俺も笑い返したが、胸の奥には別の感情があった。
四年という時間は長い。大学では友達もできたし、新しい環境にも慣れた。勉強をして、将来のことを考えて、進みたい道も決めた。高校時代とは違う毎日を過ごしているうちに、白石のことを思い出さない日も増えていった。
それでも、春だけは駄目だった。
桜を見ると、どうしても思い出す。
教室で笑っていた白石。授業中にこっそり交換したメモ。放課後の図書室。文化祭の準備で遅くまで残った日。そして、最後まで呼べなかった名前。
忘れたわけじゃない。ただ、もう会うことはないのだと思って、心の奥へ仕舞いこんでいただけだった。
「高校生活のこと、たまには思い出すか?」
「……思い出しますよ」
「そうか。だったら、少し中を見ていくか? すでに卒業式も終わってるから、教室も空いてるぞ」
「いいんですか?」
「卒業生が母校を見に来るくらい、どうってことないさ」
先生に案内されて廊下を歩くと、懐かしい景色が次々と目に入る。壁には文化祭や体育祭の写真が飾られ、生徒たちの笑顔が並んでいる。
「懐かしいか?」
「はい」
「お前、昔からこの辺をよく歩いてたよな」
「そうでしたっけ?」
「白石と一緒にな」
その名前を聞いた瞬間、足が少しだけ止まりそうになった。
「あの頃は、ずいぶん仲のいい二人だったよな」
先生が何気なく言った瞬間、俺は少しだけ黙った。誰と誰のことを指しているのか、聞かなくても分かったからだ。
「……そうでしたね」
「卒業式の日も、最後まで教室に残っていただろ」
「覚えてるんですか?」
「担任だからな。卒業生が帰ったあと、教室を見回っていたら、お前たちだけ残っていたからな」
あの日の光景が蘇る。机も椅子も片付けられた教室。窓から差し込む春の光。涙をこらえながら笑う白石。最後まで名前を呼べなかった俺。そして、彼女が教室を出ていったあとに、誰もいない場所で初めて呼んだ名前。
「美咲……」
あの声を思い出すと、今でも胸が少し痛む。
「そうだ、桐生」
「はい?」
「お前に渡すものがあるんだった」
先生は持っていた鞄を開け、一通の封筒を取り出した。
「これ、持って帰れ」
差し出された封筒を見て、俺は動きを止めた。表には、俺の名前が書かれている。
しかも、その文字には見覚えがある。
授業中に交換したメモ。
図書室で貸してもらった参考書の付箋。
文化祭の準備中、黒板の端に書かれていた連絡事項。
その全部で見てきた癖のある文字。
「これ……」
「白石からだ」
その名前を聞いた瞬間、鼓動がうるさくなる。
「白石が?」
「ああ。卒業式の日に預かった」
「どうして、今まで……」
「四年経ったら渡してほしいって言われてたんだ」
「四年?」
「ああ。ただ、俺もお前に会う機会がなかったからな。今日、お前が来たから渡そうと思った」
俺は封筒を受け取るとき、指先が少し震えていることに気づき、慌てて力を抜く。卒業式の日に預けた手紙なら、四年間ずっとこの学校にあったことになる。白石は、俺がいつ受け取るのかも分からないまま、この手紙を残していったのだろう。
「ここで読んでいくか?」
「……はい」
「教室、空いてるから使え」
「ありがとうございます」
先生と別れ、俺は教室へ向かう。扉を開けると、当然ながら俺たちが使っていた机はない。黒板も新しくなっている。窓際の席に座り、封筒を机の上へ置く。開けるだけなら簡単なはずなのに、どうしても指が動かない。
四年前の卒業式以来、俺は白石から何も聞いていない。海外へ行ったあと、どんな生活をしているのかも知らない。連絡先だって聞かなかった。聞こうと思えば、聞けたのかもしれない。探そうと思えば、探せたのかもしれない。
それでも、俺は何もしなかった。あの日の約束を守るためだったのかもしれないし、離れてしまった現実を受け入れるためだったのかもしれない。それでも、今この手紙を開けば、四年間知らなかった彼女の気持ちを知ることになる。
「……開けるか」
誰もいない教室でそう呟き、俺は封を切った。中には便箋が数枚入っていた。最初の文字を見ただけで、白石の声が頭の中に蘇る。
『桐生くんへ』
俺はゆっくりと読み始めた。そこには、卒業式の日に言えなかったことが書かれていた。隣の席になったことが嬉しかったこと。授業中にメモを交換する時間が好きだったこと。放課後に一緒に帰るのが楽しみだったこと。そして、名前を呼ばない約束をした本当の理由。
『私は、桐生くんのことが好きでした』
その一文を読んだ瞬間、俺は便箋を持ったまま動けなくなった。
窓の外から運動部の声が聞こえている。春の風が窓から入り、カーテンを揺らしている。それなのに、俺の意識は四年前へ戻っていた。俺はずっと、自分の気持ちだけが大きくなっていったと思っていた。白石も俺を特別に思っているのではないかと感じたことはあったが、それでも、最後まで確信できなかった。
だから名前を呼ばなかった。
好きだと伝えなかった。
卒業式の日も、彼女が言いかけた言葉を聞かなかった。
便箋には続きがあり、それは白石は卒業後に家族と海外へ移り、現地の大学へ進むことも決まっていた。だからこそ、俺と恋人になることが怖かったのだという。好きになればなるほど、別れが辛くなる。自分が遠くへ行くことで、俺まで苦しませることになる。それなら、恋人にならなければいい。名前を呼ばなければ、今の関係を守れる。そんな考えから、あの約束を提案したのだと書かれていた。
「……同じだったのか」
俺だけじゃなかった。白石も、同じ一年間を過ごしていたんだ。
名前を呼びたかった。
もっと近づきたかった。
それでも、自分から距離を縮めることが怖かった。
だから俺たちは、名前を呼ばないという小さな約束に逃げ込んだのだ。
最後のページをめくると、そこには、短い言葉が残されていた。
『私は、最後まであなたの名前を呼びたかった』
不意に視界が滲み、俺は慌てて目元を拭ったが、涙は止まらない。四年前の卒業式の日、俺も同じことを考えていた。彼女の名前を呼びたかった。最後くらい、約束を破ってもよかったのかもしれない。それでも、あのときの俺にはできなかった。
「……俺も、呼びたかったよ」
誰もいない教室で声が漏れた。
手紙の最後には、白石が海外で過ごした四年間についても書かれていた。家族と話し合いながら自分の進路を考え、今は日本へ戻ることを決めたこと。そして、最後に一つだけ、俺に伝えたいことがあると書かれていた。
『もし、まだ私の名前を呼びたいと思ってくれているなら、一度だけ会いたい』
俺はその文章を何度も読み返す。
会いたい。
四年間、一度も連絡を取らなかった相手だ。それなのに、その一言を見ただけで、胸の奥にしまっていた感情が一気に動き出す。俺は白石を忘れたわけではない。忘れられるはずがなかった。ただ、もう会えないと思っていたから、思い出の中にしまっていただけだったから。
便箋の最後には、再会するための場所と日時が書かれていた。
俺はスマートフォンを取り出し、予定を確認する。
「……行ける」
気づかないうちに思わず笑っていた。
四年前とは違う。俺たちはもう高校生ではない。誰かに決められた約束もない。離れる未来を恐れて、名前を呼ぶことを諦める必要もない。
俺は手紙を封筒へ戻し、立ち上がる。四年前、「さようなら」と言った白石の背中を、俺はただ見送った。
今度は違う。俺から会いに行くんだ。そして、もう一度だけ、彼女の名前を呼ぶ。
「美咲」
その名前が教室に響いた。
四年前には、別れを意味した名前だった。
今度は、もう一度会うための名前なのだ。