僕が君の名前を呼ばなかった一年間
最終話 その後の二人
出かけるとなると、どうしてもアレはどこだ? と慌ててしまうのは昔からの悪癖だ。性分と言ってもいいのかもしれない。
今日は晴美を連れて動物園へ行く予定なのだが、昨夜のうちに準備を済ませておこうと思っていたはずなのに、朝になった途端に財布はどこだ、鍵はどこだ、ベルトがないと家の中を歩き回っている。そんな俺を見て、美咲は呆れた顔をしながらも、いつものように必要なものを先回りして見つけてくれていた。
「おーい、美咲。俺のベルトはどこだぁー」
「もう、昨日から準備しておいてねって言ったじゃない。ほら、ソファのところに置いてあるわよ。直人が昨日、自分でそこに置いてたんでしょう?」
「おぉ、本当だ。サンキュー、美咲」
ベルトを手に取って腰へ巻きながら、俺は玄関脇の鏡を何気なく覗き込む。すると、美咲が俺の顔を見たまま、何か言いたそうに眉を寄せる。嫌な予感がして髪に手をやった瞬間、その予感は見事に当たった。寝癖が後頭部から盛大に跳ね上がっている。昨夜の俺は、明日の朝には自然に直っているだろうとでも思っていたらしい。結婚して三年が経っても、この辺りの自分の甘さだけはまったく成長していない。
「直人、寝癖ついてるわよ。しかも、かなりひどいわ。髪も直さずに出かけるつもりだったのね」
「全然気づかなかった。美咲、悪いんだけど、ちょっとなおしてくれないか?」
「はいはい、仕方ないわね。ほら、こっち向いて。私がやるから、直人は余計なことをしないで大人しくしてて」
美咲が俺の前に立ち、指先で髪を整え始める。昔なら、好きな女の子にこんな距離まで近づかれれば、まともに顔を見ることもできなかっただろう。今では妻なのだから慣れて当然なのだが、それでも美咲が俺の髪に触れるたび、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。その感覚が嫌ではないのだから、俺は結局、高校生の頃から何も変わっていないのかもしれない。
「ちかたないわねー。なおちょはぁー」
突然、足元から舌ったらずな声が聞こえてきた。見ると、二歳になったばかりの晴美が、俺たちのやり取りを真似しながら楽しそうに笑っている。どうやら最近は、俺と美咲の会話をよく聞いているらしい。特に美咲が俺を注意するときの口調がお気に入りのようで、本人は俺を叱っているつもりなのだろう。小さな指をこちらへ向けて得意そうにしている姿が可愛くて、俺は思わずしゃがみ込んだ。
「うふふ、晴美もパパのことを叱ってるわよ。直人、ちゃんと聞いてあげないと駄目なんじゃない? ほら、晴美はパパが寝癖をつけたまま出かけるのが嫌なんですって」
「おいおい、晴美まで俺の味方をしてくれないのか? パパはそんなに悪いことしてないぞ。ちょっと髪が跳ねてただけじゃないか」
俺が晴美の脇へ手を入れて抱き上げると、娘は嬉しそうに声を上げた。その笑い声につられて俺まで笑ってしまう。
高校生だった頃の俺は、十年後の自分がこんな朝を迎えているなんて考えもしなかった。美咲と結婚して、娘が生まれて、その娘を抱き上げながら出かける準備をしている。そんな未来が本当に自分の人生としてやってくるとは、あの頃の俺には想像することさえ難しかった。
「こらー、パパを怒るのは、どこの子だぁ? うーん、ここかぁー。ほら、コチョコチョコチョ!」
「キャー! あははは!」
「晴美、降参か? パパを怒った罰だぞ。ほら、もう一回いくぞー」
「直人、遊んでないで早くして。まだ晴美の荷物も確認してないんだから、そんなことをしてたら本当に出発する時間が遅くなるわよ。ほら、晴美もパパに捕まってないで、こっちにおいで」
美咲が笑いながら晴美を受け取ろうとした、そのときだった。俺が娘を抱えたまま動いたせいで、後頭部に軽い衝撃が走る。振り向くと、美咲が片手を上げたまま、少し困ったような顔をしていた。
「直人、ほらほら、ジッとして。寝癖がなおせないじゃないの。晴美と遊ぶのは準備が終わってからにして。今日は動物園に行くんでしょう? 晴美、昨日からずっと楽しみにしてたんだから、パパが原因で遅刻したら可哀想よ」
「あっと、ゴメンな美咲。いや、晴美があまりにも楽しそうだったから、ついな。分かった、今度こそ大人しくしてるから、ちゃんと直してくれ」
「最初からそうしてくれればいいの。……はい、これで大丈夫。鏡を見てごらん」
美咲に促されて鏡を見ると、さっきまで好き勝手に跳ねていた髪は、きちんと元の位置に戻っていた。俺が頭を左右に動かして確認していると、隣から晴美が鏡を覗き込み、自分の髪を手で撫で始める。どうやら自分も身だしなみを整えているつもりらしい。その姿がおかしくて笑うと、美咲も俺の横で小さく笑った。
「ほら、晴美もパパの真似してるわよ。最近、本当に何でも真似するようになったわね。昨日なんて、私が洗濯物を畳んでいたら、隣でタオルを一枚だけ持ってきて、一生懸命たたもうとしてたんだから」
「それは見たかったな。俺が帰ったときには、もう寝てたからな」
「今度は直人も早く帰ってきて、一緒に見ればいいじゃない。晴美もパパが帰ってくると嬉しそうにするもの」
「そうか。じゃあ、今日はなるべく早く帰ってこようかな。……って、俺も一緒に動物園へ行くんだったな」
「そうよ。何を言ってるの?」
「いや、なんか今、仕事に行くみたいな流れだったから」
「もう、直人ったら」
美咲が笑いながら俺の腕を軽く叩く。その笑顔を見ていると、俺の胸の奥に昔の記憶が浮かんできた。高校二年生の春、俺たちは互いの名前を呼ばないという約束をした。美咲が卒業後に海外へ行くことを知り、離れてしまう未来を恐れて、恋人になることさえ選ばなかった。
好きだと分かっているのに、好きだと言い切れない。名前を呼びたいのに、呼ばない。それが俺たちにとって、離れ離れになる未来から互いを守るための方法だった。
卒業式の日、俺は最後まで彼女の名前を呼べなかった。教室に一人残ったあと、誰もいない場所で初めて口にした名前が「美咲」だった。それから四年後、俺たちは再会した。あの日、ようやく名前を呼び合い、今まで言えなかった気持ちを伝えた。そして恋人になり、やがて結婚した。今では俺の隣に美咲がいて、俺たちの間には娘がいる。あの頃の俺が知ったら、きっと信じられないと言うだろう。
「直人、また昔のこと考えてるでしょう?」
「分かるのか?」
「分かるわよ。高校の頃の話を思い出してるとき、直人は少しだけ遠くを見るもの。今日もそうだったから、すぐ分かった」
「そっか。いや、今こうして美咲と晴美と一緒にいるのが、ちょっと不思議だなと思ってさ。あの頃の俺は、卒業したら全部終わると思ってたから」
「私も、少し怖かったわ。直人と離れるのが嫌だったし、名前を呼べなくなることも寂しかった。でも、いつかまた会えるかもしれないって、ほんの少しだけ思ってたのよ」
「俺は、そんなこと考える余裕もなかったな。卒業した日に、美咲の名前を一人で呼んだときも、もう二度と呼べないかもしれないって思ってた」
「……私も、本当は何度も直人って呼びたかったのよ」
美咲がそう言って笑った。その笑顔には、今でも高校生の頃と同じ柔らかな雰囲気がある。ただ、あの頃とは違う。今の俺たちは、互いの名前を呼ぶことを恐れる必要がない。離れてしまう未来を想像して、今を諦める必要もない。
「美咲」
「なに?」
「好きだぞ」
「……急に何を言ってるのよ。朝から恥ずかしいじゃない」
「いや、言いたくなったから言っただけだ。高校の頃は言えなかったから、今のうちに言っておこうと思って」
「もう、そういうところは変わらないのね。私だって、直人のことが好きよ。何年一緒にいると思ってるの?」
「そうだな。十分長いな」
「でしょう? だから、今さら確認しなくても分かってるでしょうに」
「分かってる。でも、言葉にするのも大事だろ」
「……それなら、私も言っておく。直人、これからもずっと一緒にいようね」
「もちろんだ。俺もそのつもりだよ」
そのとき、俺たちの間にいた晴美が、俺と美咲の顔を交互に見上げた。
「パパ、ママ、なかよし?」
「そうだぞ。パパとママは仲良しだ」
「ずっと?」
「ずっとよ」
「はるみも?」
「もちろん晴美も一緒だ。三人でずっと仲良しだぞ」
「うん!」
晴美が満足そうに笑い、俺と美咲の手をそれぞれ握った。右手に娘の小さな手、左手に美咲の温かな手。その二つの感触を感じながら、俺は玄関のドアを開ける。
「パパ、ぞうさん見る?」
「見るぞー。今日は晴美が見たいもの、全部見ような」
「きりんさんも!」
「もちろん」
「おさるさんも!」
「それも見るぞ。パパに任せろ」
「うふふっ、直人、そんなに張り切ったら帰る頃には直人のほうが疲れて寝ちゃうわよ」
「大丈夫だって。俺はまだ若いからな」
「その台詞、もうすぐ三十歳になる人が言うと少し面白いわね」
「美咲、今それ言う?」
「だって本当でしょう?」
「じゃあ、今日は最後まで元気に歩いてみせるよ。晴美にも父親として格好いいところを見せないとな」
「パパ、かっこいい!」
「ほーら、聞いたか?」
「はいはい。じゃあ、頑張ってね、直人」
ふと、美咲が俺の隣で顔を上げた。
「ねえ、直人。今日、帰りにケーキ買って帰らない? 晴美の誕生日じゃないけど、たまには三人で好きなものを買って帰るのもいいでしょう?」
「いいな。晴美は何がいい?」
「いちご!」
「やっぱりいちごか。じゃあ、いちごのケーキを買って帰ろう」
高校生の頃の俺たちは、名前を呼ばないことで、今の関係を守ろうとした。卒業すれば離れてしまうと知っていたから、好きという気持ちを抱えたまま、最後まで互いの名前を呼ばなかった。
でも、あの一年間は終わりではなかった。
四年後に再会して、俺は初めて美咲の名前を本人へ向かって呼んだ。それから何度も名前を呼び、好きだと伝え、隣にいたいと伝えた。その先に、結婚があり、晴美が生まれ、こうして三人で歩く毎日がある。
「美咲」
「なに?」
「呼んでみただけ」
「もう、何それ。でも、私も呼びたくなったわ」
「じゃあ、呼んでくれよ」
「直人」
「うん」
「大好きよ」
「……俺も」
今度は、名前を呼んでも誰もいなくならない。
好きだと言っても、別れの時間が近づくわけじゃない。
俺たちはこれからも同じ家へ帰り、同じ食卓を囲み、娘の成長を一緒に見守っていく。
だから俺は、これからも何度でも彼女の名前を呼ぶ。
美咲。
それはもう、別れを思い出すための名前ではない。
俺がこれからもずっと、大切にしていく人の名前なのだ。
今日は晴美を連れて動物園へ行く予定なのだが、昨夜のうちに準備を済ませておこうと思っていたはずなのに、朝になった途端に財布はどこだ、鍵はどこだ、ベルトがないと家の中を歩き回っている。そんな俺を見て、美咲は呆れた顔をしながらも、いつものように必要なものを先回りして見つけてくれていた。
「おーい、美咲。俺のベルトはどこだぁー」
「もう、昨日から準備しておいてねって言ったじゃない。ほら、ソファのところに置いてあるわよ。直人が昨日、自分でそこに置いてたんでしょう?」
「おぉ、本当だ。サンキュー、美咲」
ベルトを手に取って腰へ巻きながら、俺は玄関脇の鏡を何気なく覗き込む。すると、美咲が俺の顔を見たまま、何か言いたそうに眉を寄せる。嫌な予感がして髪に手をやった瞬間、その予感は見事に当たった。寝癖が後頭部から盛大に跳ね上がっている。昨夜の俺は、明日の朝には自然に直っているだろうとでも思っていたらしい。結婚して三年が経っても、この辺りの自分の甘さだけはまったく成長していない。
「直人、寝癖ついてるわよ。しかも、かなりひどいわ。髪も直さずに出かけるつもりだったのね」
「全然気づかなかった。美咲、悪いんだけど、ちょっとなおしてくれないか?」
「はいはい、仕方ないわね。ほら、こっち向いて。私がやるから、直人は余計なことをしないで大人しくしてて」
美咲が俺の前に立ち、指先で髪を整え始める。昔なら、好きな女の子にこんな距離まで近づかれれば、まともに顔を見ることもできなかっただろう。今では妻なのだから慣れて当然なのだが、それでも美咲が俺の髪に触れるたび、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。その感覚が嫌ではないのだから、俺は結局、高校生の頃から何も変わっていないのかもしれない。
「ちかたないわねー。なおちょはぁー」
突然、足元から舌ったらずな声が聞こえてきた。見ると、二歳になったばかりの晴美が、俺たちのやり取りを真似しながら楽しそうに笑っている。どうやら最近は、俺と美咲の会話をよく聞いているらしい。特に美咲が俺を注意するときの口調がお気に入りのようで、本人は俺を叱っているつもりなのだろう。小さな指をこちらへ向けて得意そうにしている姿が可愛くて、俺は思わずしゃがみ込んだ。
「うふふ、晴美もパパのことを叱ってるわよ。直人、ちゃんと聞いてあげないと駄目なんじゃない? ほら、晴美はパパが寝癖をつけたまま出かけるのが嫌なんですって」
「おいおい、晴美まで俺の味方をしてくれないのか? パパはそんなに悪いことしてないぞ。ちょっと髪が跳ねてただけじゃないか」
俺が晴美の脇へ手を入れて抱き上げると、娘は嬉しそうに声を上げた。その笑い声につられて俺まで笑ってしまう。
高校生だった頃の俺は、十年後の自分がこんな朝を迎えているなんて考えもしなかった。美咲と結婚して、娘が生まれて、その娘を抱き上げながら出かける準備をしている。そんな未来が本当に自分の人生としてやってくるとは、あの頃の俺には想像することさえ難しかった。
「こらー、パパを怒るのは、どこの子だぁ? うーん、ここかぁー。ほら、コチョコチョコチョ!」
「キャー! あははは!」
「晴美、降参か? パパを怒った罰だぞ。ほら、もう一回いくぞー」
「直人、遊んでないで早くして。まだ晴美の荷物も確認してないんだから、そんなことをしてたら本当に出発する時間が遅くなるわよ。ほら、晴美もパパに捕まってないで、こっちにおいで」
美咲が笑いながら晴美を受け取ろうとした、そのときだった。俺が娘を抱えたまま動いたせいで、後頭部に軽い衝撃が走る。振り向くと、美咲が片手を上げたまま、少し困ったような顔をしていた。
「直人、ほらほら、ジッとして。寝癖がなおせないじゃないの。晴美と遊ぶのは準備が終わってからにして。今日は動物園に行くんでしょう? 晴美、昨日からずっと楽しみにしてたんだから、パパが原因で遅刻したら可哀想よ」
「あっと、ゴメンな美咲。いや、晴美があまりにも楽しそうだったから、ついな。分かった、今度こそ大人しくしてるから、ちゃんと直してくれ」
「最初からそうしてくれればいいの。……はい、これで大丈夫。鏡を見てごらん」
美咲に促されて鏡を見ると、さっきまで好き勝手に跳ねていた髪は、きちんと元の位置に戻っていた。俺が頭を左右に動かして確認していると、隣から晴美が鏡を覗き込み、自分の髪を手で撫で始める。どうやら自分も身だしなみを整えているつもりらしい。その姿がおかしくて笑うと、美咲も俺の横で小さく笑った。
「ほら、晴美もパパの真似してるわよ。最近、本当に何でも真似するようになったわね。昨日なんて、私が洗濯物を畳んでいたら、隣でタオルを一枚だけ持ってきて、一生懸命たたもうとしてたんだから」
「それは見たかったな。俺が帰ったときには、もう寝てたからな」
「今度は直人も早く帰ってきて、一緒に見ればいいじゃない。晴美もパパが帰ってくると嬉しそうにするもの」
「そうか。じゃあ、今日はなるべく早く帰ってこようかな。……って、俺も一緒に動物園へ行くんだったな」
「そうよ。何を言ってるの?」
「いや、なんか今、仕事に行くみたいな流れだったから」
「もう、直人ったら」
美咲が笑いながら俺の腕を軽く叩く。その笑顔を見ていると、俺の胸の奥に昔の記憶が浮かんできた。高校二年生の春、俺たちは互いの名前を呼ばないという約束をした。美咲が卒業後に海外へ行くことを知り、離れてしまう未来を恐れて、恋人になることさえ選ばなかった。
好きだと分かっているのに、好きだと言い切れない。名前を呼びたいのに、呼ばない。それが俺たちにとって、離れ離れになる未来から互いを守るための方法だった。
卒業式の日、俺は最後まで彼女の名前を呼べなかった。教室に一人残ったあと、誰もいない場所で初めて口にした名前が「美咲」だった。それから四年後、俺たちは再会した。あの日、ようやく名前を呼び合い、今まで言えなかった気持ちを伝えた。そして恋人になり、やがて結婚した。今では俺の隣に美咲がいて、俺たちの間には娘がいる。あの頃の俺が知ったら、きっと信じられないと言うだろう。
「直人、また昔のこと考えてるでしょう?」
「分かるのか?」
「分かるわよ。高校の頃の話を思い出してるとき、直人は少しだけ遠くを見るもの。今日もそうだったから、すぐ分かった」
「そっか。いや、今こうして美咲と晴美と一緒にいるのが、ちょっと不思議だなと思ってさ。あの頃の俺は、卒業したら全部終わると思ってたから」
「私も、少し怖かったわ。直人と離れるのが嫌だったし、名前を呼べなくなることも寂しかった。でも、いつかまた会えるかもしれないって、ほんの少しだけ思ってたのよ」
「俺は、そんなこと考える余裕もなかったな。卒業した日に、美咲の名前を一人で呼んだときも、もう二度と呼べないかもしれないって思ってた」
「……私も、本当は何度も直人って呼びたかったのよ」
美咲がそう言って笑った。その笑顔には、今でも高校生の頃と同じ柔らかな雰囲気がある。ただ、あの頃とは違う。今の俺たちは、互いの名前を呼ぶことを恐れる必要がない。離れてしまう未来を想像して、今を諦める必要もない。
「美咲」
「なに?」
「好きだぞ」
「……急に何を言ってるのよ。朝から恥ずかしいじゃない」
「いや、言いたくなったから言っただけだ。高校の頃は言えなかったから、今のうちに言っておこうと思って」
「もう、そういうところは変わらないのね。私だって、直人のことが好きよ。何年一緒にいると思ってるの?」
「そうだな。十分長いな」
「でしょう? だから、今さら確認しなくても分かってるでしょうに」
「分かってる。でも、言葉にするのも大事だろ」
「……それなら、私も言っておく。直人、これからもずっと一緒にいようね」
「もちろんだ。俺もそのつもりだよ」
そのとき、俺たちの間にいた晴美が、俺と美咲の顔を交互に見上げた。
「パパ、ママ、なかよし?」
「そうだぞ。パパとママは仲良しだ」
「ずっと?」
「ずっとよ」
「はるみも?」
「もちろん晴美も一緒だ。三人でずっと仲良しだぞ」
「うん!」
晴美が満足そうに笑い、俺と美咲の手をそれぞれ握った。右手に娘の小さな手、左手に美咲の温かな手。その二つの感触を感じながら、俺は玄関のドアを開ける。
「パパ、ぞうさん見る?」
「見るぞー。今日は晴美が見たいもの、全部見ような」
「きりんさんも!」
「もちろん」
「おさるさんも!」
「それも見るぞ。パパに任せろ」
「うふふっ、直人、そんなに張り切ったら帰る頃には直人のほうが疲れて寝ちゃうわよ」
「大丈夫だって。俺はまだ若いからな」
「その台詞、もうすぐ三十歳になる人が言うと少し面白いわね」
「美咲、今それ言う?」
「だって本当でしょう?」
「じゃあ、今日は最後まで元気に歩いてみせるよ。晴美にも父親として格好いいところを見せないとな」
「パパ、かっこいい!」
「ほーら、聞いたか?」
「はいはい。じゃあ、頑張ってね、直人」
ふと、美咲が俺の隣で顔を上げた。
「ねえ、直人。今日、帰りにケーキ買って帰らない? 晴美の誕生日じゃないけど、たまには三人で好きなものを買って帰るのもいいでしょう?」
「いいな。晴美は何がいい?」
「いちご!」
「やっぱりいちごか。じゃあ、いちごのケーキを買って帰ろう」
高校生の頃の俺たちは、名前を呼ばないことで、今の関係を守ろうとした。卒業すれば離れてしまうと知っていたから、好きという気持ちを抱えたまま、最後まで互いの名前を呼ばなかった。
でも、あの一年間は終わりではなかった。
四年後に再会して、俺は初めて美咲の名前を本人へ向かって呼んだ。それから何度も名前を呼び、好きだと伝え、隣にいたいと伝えた。その先に、結婚があり、晴美が生まれ、こうして三人で歩く毎日がある。
「美咲」
「なに?」
「呼んでみただけ」
「もう、何それ。でも、私も呼びたくなったわ」
「じゃあ、呼んでくれよ」
「直人」
「うん」
「大好きよ」
「……俺も」
今度は、名前を呼んでも誰もいなくならない。
好きだと言っても、別れの時間が近づくわけじゃない。
俺たちはこれからも同じ家へ帰り、同じ食卓を囲み、娘の成長を一緒に見守っていく。
だから俺は、これからも何度でも彼女の名前を呼ぶ。
美咲。
それはもう、別れを思い出すための名前ではない。
俺がこれからもずっと、大切にしていく人の名前なのだ。


