アクアリウム ~水族館で恋と事件と友情と~

第1羽:ペンギンは誓いを忘れない



朝の澄んだ光を浴びて、巨大なガラス張りのドームが輝く。
その威容を誇る「清流清澄アクアリウム」の入り口の前に、櫻羽華怜はポツリと立っていた。
「今日からここが私の職場……」
胸の高鳴りを抑えるように小さく呟くと、華怜はまっすぐに背筋を伸ばし、これから始まる日々へ敬意を示すように一礼した。
その控えめで美しい一連の動作を、すぐそばで見つめていた影があった。
「礼儀正しいな。もしかして、君も今日からバイト?」
気さくな声をかけられて振り返ると、そこには明るい笑顔を浮かべた一人の青年が立っていた。
華怜は緊張からか、小さくこくりと頷く。
「よろしく! 俺、大内将太郎。君の名は? 何?」
「……華怜。櫻羽華怜」
「華怜……って言うんだ。華怜って呼んでいい? 俺は何でもいいよ! 呼び方! 全然気にしないからさ!」
「では、将くんと呼ばせていただきますね」
その言葉に、将太郎は少しだけ目を丸くし、それからパァッと嬉しそうな笑顔を咲かせた。ふたりは見つめ合い、自然と微笑みあう。
まだ始まったばかりの朝の空気に、ほんのりと甘い波紋が広がったその時――。
「――おっとっと! バイト初日から、イチャイチャしないでよ~!」
茶化すような甲高い声とともに、背後から突撃してきたのは安田璃々だった。
華怜がわずかに肩をビクッとさせる。
「璃々はそういうことにしか、興味がないの? 私、自称……というか……、見た目そのままだけど!!! サバサバ系女子だから興味ないわ~」
そう言ってフイと顔を背けたのは、サバサバとした雰囲気の古町瑠莉奈だ。
「え~、るーちゃん! そんなこといわないでよ~。真帆は興味あるよ! あ、でも、変かな? 興味あるって……。ストーカーみたい???」
おっとりとしたペースで慌てふためきながら手をブンブンと振るのは寺坂真帆だ。
個性豊かな同期たちの突然の乱入に、静まり返っていた空間が一気に賑やかな青春の色彩を帯びる。
「まあまあ、とりあえず、行こっか!」
瑠莉奈が呆れたように笑いながらも、テキパキと話をまとめる。
その言葉にうなずき、華怜はふたたび前を向いた。
将太郎が隣に並び、璃々、真帆、瑠莉奈が楽しげに笑い声を上げながら続く。
最強の同期となる5人は、それぞれの胸に小さな期待を抱きながら、青く輝く水族館の扉へと踏み出していった。



薄暗いバックヤードの冷んやりとした空気を切り裂くように、「失礼します」と5人の元気な声が次々に響いた。
そこに待っていたのは、白衣を纏ったクールな美女・一条冴子と、腕組みをして無愛想に立っていた飼育主任の宮本健だ。
「あ、君たちがバイトの5人かな? ごめんね。急に!」
冴子が少し申し訳なさそうな、しかしプロらしい引き締まった笑顔を向ける。
「これは、職員だけの話なんだけど……。実は、1ヶ月前にこの地域の殺人事件でここの職員が、命を落としたの。で、その犯人がこの水族館の来客者だったみたいなの」
宮本先輩が重々しい口調で続ける。
「それで『怖い怖い』『次は俺たちが……!』って言って、6人続けて辞めちゃってさ……。……だから、君たちをそのまま採用したいと思ってるんだ。君たちが良ければ。だから、その……」
言いづらそうに言葉を濁す健をフォローするように、冴子が明るく笑ってみせる。
「つまり! バイトということだけど、研修だと思ってくれればいいよ。あ、そっちのほうが荷が重いか!笑」
「何言ってるんだ、冴子ちゃん」
ボソッとツッコミを入れる健と、それをフッと軽くいなす冴子。
そんなふたりの絶妙なやり取りを、新米の5人はどこかほほえましく見つめていた。
その空気を読んでか読まずか、安田璃々がパッと目を輝かせて尋ねる。
「お二人は付き合ってるんですか?」
その瞬間、隣にいた真帆がぎょっとして、すぐに璃々の肩をバシッと叩いた。
「無神経なことを聞かないの!!! 本当に璃々ちゃんってば!」
慌てふためく真帆をよそに、健は「えっと……、」と珍しくしどろもどろになって口を開きかける。
だが、それを遮るように冴子が勢いよく手を振った。
「あ~、こいつとは腐れ縁?ってやつをもんだよ! 健先輩だけど、タメ口だし! 仲良しな友達! お・と・も・だ・ち! もう、そういうことを言うもんじゃないよ、璃々さん!」
真っ赤になりながらも早口でまくし立てる冴子に、璃々は「すみません~」と縮こまるしかなかった。
璃々は一歩踏み込み、宮本先輩の耳元へとすっと顔を寄せた。
「本当は、好きなんですよね?」
周囲の喧騒を断ち切るような、あまりにも真っ直ぐで不意打ちの囁き。
宮本先輩は肩をびくりと揺らし、心臓を鷲掴みにされたような顔で目を見開く。
動揺で言葉を失っている先輩の顔を捉えたまま、璃々は悪戯っぽく片目をウィンクさせ、力強く胸を張ってみせた。
――任せんさい!
その瞳だけで、すべてを託せと言わんばかりの絶対的な自信と無言の誓いを伝える。



少しだけ温まった空気の中、冴子はパチンと手を叩いて仕切り直す。
「さぁ! 早速担当を発表したいと思います。基本みんなは雑用をお願いしたいです。ですが、人手があまりにも足りないので、今回だけ特別にということで! 担当を割り振りました」
冴子の隣で、健が手元の資料をスッと差し出す。
「華怜さんはペンギン。将太郎さんはイルカ。璃々さんは大水槽。真帆さんはえさやり。瑠莉奈さんは館内そうじ。では、よろしくお願いします。私と健くんは1週間だけあなたたちの指導係なので、分からないことがあればなんでも聞いてください」
冴子の言葉に、5人はそれぞれに緊張と期待を孕んだ表情で頷いた。
「では早速担当に分かれて仕事をはじめましょう!」
健の低い号令を合図に、それぞれの物語が動き出す。
一癖も二癖もある水族館の裏側で、最強の同期たちの初仕事が今、始まろうとしていた。



それぞれの担当エリアへと足を踏み入れた5人は、初日からいきなり水族館のリアルな現場の洗礼を受けることになった。
ペンギンプールの冷たい潮風が吹き抜ける中、華怜は先輩の宮本から教わった通り、一羽一羽のくちばしや羽毛の状態をじっと見つめてノートに記録していく。
その静かで細やかな手つきに、ペンギンたちもすぐに心を許したように、華怜の足元へとトコトコと寄り添ってきた。
一方、イルカプールの観覧エリアでは、将太郎が水面から飛び出すバンドウイルカのダイナミックなジャンプに圧倒されながらも、指導係の指示に従って懸命にハンドサインの練習に励んでいた。
「すげえ……、俺たちの息が合ってきたぞ!」と声を弾ませる将太郎の笑顔は、早くもムードメーカーとしての輝きを放っている。
大水槽のバックヤードに回った璃々は、目の前に広がる巨大な青の世界に圧倒されながらも、濾過フィルターの数値チェックや水温の管理に冷や汗を流していた。
先輩の冴子から「そこ、数字の単位を間違えないで」とクールに指摘され、「ひゃっ、すみません!」と慌ててペンを走らせる。
えさやり担当の真帆は、バケツ一杯の新鮮なオキアミや小魚を抱え、水槽の小窓から顔を出す小さな生き物たちに優しく声をかけながらテキパキとエサを配っていく。
「みんな、美味しい? たくさん食べてね」と話しかける真帆の周りには、いつの間にかたくさんの魚たちが群がっていた。
そして、館内のそうじを担当する瑠莉奈は、広いフロアやバックヤードの隅々までモップをかけながら、落ちているゴミや不自然な汚れを見逃さないように目を光らせていた。
「ふう、これだけ広いと掃除のしがいがあるわね」と汗を拭いながらも、サバサバとした足取りで次々と持ち場を綺麗にしていく。
それぞれの場所で悪戦苦闘しながらも、動物たちや現場の仕事と真摯に向き合う5人の姿は、これから待ち受ける数々の謎や事件を乗り越えていく「最強の同期」としての確かな一歩目を、静かに、そして力強く踏み出していた。



翌日の朝。薄暗いバックヤードに足を踏み入れた華怜たち5人は、ぴんと張り詰めた重苦しい空気を肌で感じて足を止めた。
部屋の中では、他の職員たちが顔を見合わせ、ヒソヒソと慌ただしく騒ぎ立てている。
「どうかしたんですか?」
いつもより少しだけ声を張り上げて、華怜が尋ねた。
その問いに答えたのは、白衣のポケットに両手をつっこんだ一条冴子だった。
彼女の顔には、珍しく深い険しさが浮かんでいる。
「館長の高級なダイヤの指輪が、昨夜の間に消えたの……」
その言葉に、華怜、将太郎、璃々、真帆、そして瑠莉奈の5人は大きく目を見開いた。
「えっ、指輪が……!?」
「それって、まずいことじゃ……?」
「やばいことじゃないですか!!!」
将太郎と瑠莉奈、そして璃々が声を揃えて青ざめる。
水族館のトップである館長の私物が盗まれたとなれば、ただの紛失では済まない大事件だ。
ざわめく一同のなか、一人の年配従業員が、冷ややかな視線をスッと一人の少女に向けた。 「……私、見たんです。昨夜、閉館間際にあのエリアの掃除を担当していた人がいました。それが、瑠莉奈さん。あなた……そんなこと、しない……よね?」
トゲのある問いかけを皮切りに、周囲の従業員たちが一斉に瑠莉奈へと視線を向け、非難の声を浴びせ始めた。
「おいおい、新人だからってまさか……」
「たしかに……。昨夜、あそこにいたのはお前だけだった!」
詰め寄る大人たちのプレッシャーに耐えかね、瑠莉奈は顔を真っ青にしながら半泣きで首を振った。
「やってない! 私、そんなもの盗んでない!」
「誰が盗んだんだ」
「防犯カメラを調べろよ」
「警察を呼ぶべきだ」――。
バックヤードは怒号とため息が入り混じり、最悪の空気に包まれていく。
そんなパニックの真ん中で、誰もが動揺するなか、華怜だけはいつものように一言もしゃべらなかった。
表情一つ変えず、淡々と、自分の担当であるペンギンプールの掃除用具を静かに準備し始めている。
みんなが自分を疑っている。
その恐怖と悔しさで、瑠莉奈は震える声で一人呟いた。
「……なんで、誰も信じてもらえないのよ……」



――やがて、ざわめきを背中に感じながら、華怜はペンギンプールへと向かった。
冷たい潮風が吹き抜けるバックヤード。
華怜はいつものように、ケープペンギンたちの健康チェックとエサやり、そして巣箱の点検を静かに始めていく。
今日もペンギンたちは元気だろうか。
そう思いながら、華怜は自分が担当している、いつも仲睦まじい「おしどり夫婦」のペンギンの巣箱にそっと手を伸ばした。
その隅っこだった。
いつもの、丸っこくて愛らしい小石たちに混じって、指先にコツンと当たる異物。
それはペンギンの巣には似つかわしくない、妙に硬く、冷たい感触の小さな塊だった。
華怜がそっと指先を差し入れ、慎重にそれを引き出す。
手のひらの上に転がり出たのは、冷たい光を放つ泥まみれの「ダイヤの指輪」だった。


その夜、バックヤードには再び緊張した空気が張り詰めていた。
周囲の従業員たちは、「やっぱりあのエリアにあったんだから、掃除の瑠莉奈が隠したんだ!」と、半ば決めつけるように声を荒げている。
絶望に染まった顔で立ち尽くす瑠莉奈。その時だった。
いつもはおとなしく、端っこでじっと息を潜めているはずの華怜が、ボソッと、しかしはっきりと呟いた。
「……違う。るりちゃん(瑠莉奈)じゃない」
周りが「え?」と驚いたように振り返る。
その視線を一身に集めながら、華怜は静かに、しかし淀みのない声で推理を語り始めた。
「このペンギンのレオは、ものすごく警戒心が強くて、自分の巣石以外のものを極端に嫌う。なのに、この指輪の周りだけ、念入りに自分の羽毛を敷いて、まるで『大切な宝物』みたいに守っていた。人間が泥棒の罪逃れのために慌てて隠したなら、こんな風にしていねいに、自分の巣の真ん中に飾り立てたりしない」
華怜のその言葉に、「じゃあ、一体誰がこの指輪をペンギンのエリアに落としたのか?」という本当の謎が職員たちの間に浮かび上がった。
明るくおちゃめな将太郎が、すかさず場を盛り上げるように口を開く。
「そっか! 犯人は別の場所にいた。そして、このペンギンの習性を知っていてわざと隠したのか! それじゃあ……」
だが、将太郎が推理を広げる必要はなかった。
華怜は静かに歩き出し、職員の群れの中にいた一人の男の前にスッと立った。
「あなたですよね?」
その場にいた全員が息を呑み、指名された飼育スタッフの高田も目を見開いて硬直した。 華怜は一切怯むことなく、淡々と告げる。
「防犯カメラを見させていただきました」
「なっ……! 何言ってるんだ、そんなの映ってないだろ! そもそも、夜中の犯人は真っ黒な服だったじゃないか!」
高田が焦りから思わず声を荒げた瞬間、華怜の瞳が鋭く光った。
「今、自分で言いましたね。『真っ黒な服だった』と。その通りでした。カメラに映っていた人物は真っ黒な服でした。自分で言っちゃいましたね。それに、あなたは1つ見落としていたんです。手のゴムです。あなたは、水族館の作業では使わない、独特なゴムをつけてらっしゃる。映っていた犯人の手首には、それがしっかり残っていた。取り忘れていましたよ?」
追い詰められた高田の顔からサーッと血の気が引いていく。
華怜はさらに追撃するように、静かな声で真実を突きつけた。
「仕事中は、指輪やネックレスなどを身につけてはいけないというルールを知っているあなたは昨日、館長のロッカーからその指輪を盗み、動物の習性を悪用して、館長を慕っているペンギンのレオの巣の中へやったんですよね?」
逃げ場を失った高田は、ガタガタと震えながらその場に崩れ落ちた。
「そうだよ……。僕がやった。だって、あいつは……あいつは、僕の妻との子を妊娠させたんだ……! 僕との子は妊娠しなかったのに!! それで……それで……許せなかったんだ……」
歪んだ嫉妬と憎悪の告白に、バックヤードが静まり返る。
高田はうなだれ、震える声で続けた。
「でも、どんな理由があっても、盗みをして罪のない人を犯人にしようとしたのは許されることじゃない。もう、僕はここに居られない。だから、退職願をもう出してある。今日でここを去るよ。今まで……ありがとう。そして、本当にごめんなさい」
絞り出すような謝罪を残し、高田はフラフラとした足取りで部屋を去っていった。
事件は、あまりにも苦い形で幕を閉じた。
静まり返った部屋の中で、華怜はゆっくりと振り返り、さきほどまで疑いの目を向けていた従業員たちを真っ直ぐに見据えた。
「あなたたちに言いたいことがあります。証拠もないのに、るりちゃんを犯人だと思い込んで決めつけようとしたことを謝ってください。彼女がどんなに……どんなにつらかったのか、あなた方は分かるのですか!」
華怜の静かな怒りと強い正義感に気圧され、周囲の職員たちは気まずそうに顔を背け、次々に頭を下げた。
「……本当に、すまなかった」
事件が解決すると、華怜はスッとその場から気配を消すように姿を消した。
向かった先は、ペンギンの水槽の前だった。
青く澄んだ水の中を、レオが優雅に泳いでいる。
「レオのおかげで、解決できたよ。ありがとね!」
そのガラスの前にぽつんと立っていると、背後から足音が近づいてきた。
「華怜、すっごかったな」
隣に並んだのは、照れくさそうな笑みを浮かべた将太郎だった。
華怜はちらりと彼を見上げて、小さく首を振る。
「ううん。私のおかげじゃなくて、観察力のおかげだよ」
「その観察力は、華怜のものだろ?」
「……あ、そっか!」
少し天然な華怜の返答に、将太郎は思わず吹き出して、愛おしそうな目を向ける。
そんなふたりの甘酸っぱいやり取りを、少し離れた場所から真帆、璃々、そして涙を拭った瑠莉奈の3人が、温かい笑顔で見守っていた。
「あの2人、やっぱりいい感じじゃない?」
「そう? 私には興味ない話だわ」
「そう言わないでよ、るーちゃん! 真帆は璃々ちゃんの言った通り、いい感じだと思ってるんだけどな~」



――だが、その平和な熱気が冷めやらぬ頃。
水族館の別の区画では、すでに閉館時間を過ぎているにもかかわらず、深い闇を湛えた大水槽の前で、一人の人影がじっとイルカの泳ぐ水面を見つめていた。
それは誰もいないはずの館内で、不気味にうごめく新たな影だった――。
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