アクアリウム ~水族館で恋と事件と友情と~

第2羽:イルカが見た嘘のサイン



前日の騒動が嘘のように、静けさを取り戻した翌朝の「清流清澄アクアリウム」。
館内そうじを担当する古町瑠莉奈は、モップを片手に大きなバンドウイルカのプールエリアへとやってきていた。
「ふう、今日も広いわね……っと」
手際よく床を磨きながら、瑠莉奈はふと巨大なガラス張りのイルカプールに視線をやった。
普段なら、人が近づくだけですぐに水面から顔を出したり、クルクルと華麗に泳ぎ回ったりして愛想を振りまくはずのバンドウイルカの「アクア」が、なぜか今日の様子はおかしかった。
水槽の底の方にピタリと張り付いたまま、一歩も動かない。
呼吸のために水面へ上がってくる気配すらないのだ。
「……あれ? どうしたの?」
瑠莉奈は掃除の手を止め、心配そうに水槽に近づいた。
だが、アクアは目を閉じたまま、まるで石のように微動だにしない。
体調不良なのだろうか……。
心細くなった瑠莉奈は、思わず周囲を見回した。
「こういう時、どうすればいいの……? あ! そうだ!」
瑠莉奈は駆け足でバックヤードへ戻ると、自分の作業の手を止めて静かに本を読んでいた一人の少女の腕を引っ張った。
「ねえ、華怜! ちょっと来て! イルカの様子がおかしいの。華怜の『観察力』で、何があったのか見てくれない……?」
瑠莉奈に手を引かれ、おとなしい華怜は「え……?」と戸惑いながらも、その足取りに従ってイルカプールへと向かうのだった。



瑠莉奈に手を引かれ、イルカプールへと急ぐ華怜。
その背中を追うように、バックヤードから一条冴子と、自分の担当エリアであるはずのイルカプールへと走ってきた大内将太郎も合流した。
プールの前に到着するやいなや、冴子は眉をひそめて水面を覗き込む。
「おかしい……。やっぱり体調不良なのかな? いや、それとも……何かあるの?」
ベテランの獣医師である冴子ですら、急な異変の理由が分からず腕を組んで唸った。
しかし、ガラスの前に立った華怜は、一点をじっと見つめたまま小さく首を横に振る。
「ううん……違う。アクアは、ずっとあの壁にひっついている」
その言葉に、将太郎もハッとして水槽の底に目を凝らした。
「たしかに! いつもなら俺の顔を見るとすぐ近づいてくるのに、あそこの壁から全然離れないぞ……!」
仲間たちの戸惑いをよそに、華怜は透き通るような瞳を細め、静かに呟いた。
「もしかしてだけどさ……。アクアは体調不良なんかじゃなくて、あの特定の壁に向かって、何度も何度も超音波を打ち込んでいるのかも。向こう側に……なにか、異常な異変があるのかもしれない」
動物の行動の裏にある意味を見抜いたその一言。
それを聞いた冴子は、ハッと息を呑み、その場で立ち尽くした。
(この子、ただ者じゃない……。私はプロの獣医なのに、こんな些細な、だけど決定的な異変に気づくことができなかった……)
心の中で激しく驚愕しながら、冴子は一人のアルバイトである華怜の背中を、いま初めて本当の「実力者」を見るような目で捉えていたのだった。



すぐさまプールの壁の裏側や周辺の調査が命じられたが、職員たちがいくら調べても、目立った故障や不審な点は見つからなかった。
「何もないじゃないか」と周囲が首をかしげる中、華怜だけは納得がいかなかった。
「……絶対におかしい」
誰もが見放す中、華怜は何時間もずっとその場に立ち尽くし、アクアの動きを観察し続けた。
やがて日が暮れ、館内が完全に閉館時間を過ぎた夜の静けさに包まれても、アクアの奇妙なおかしな様子は続いていた。
その執念の観察が、ついに真実を捉える。
「……あっ」
水槽のガラスの反射に映り込んだのか、あるいは水面の向こう側の気配に気づいたのか。
閉館後の暗い観覧エリアで、アクアが特定の壁に向かって鋭い超音波を浴びせ続けたその理由が、華怜には分かった。
――このプールの壁の向こう側を、誰かが狙っている。
疑問に思った華怜は、足音を立てないようにそっと周囲を調べ始めた。
暗い通路を抜け、イルカプールの裏手にあるメンテナンス用の死角に近づいたその時だった。
そこにいたのは、全身を黒ずくめの衣服に包んだ一人の男性だった。
「……っ!」
華怜が息を呑んだ瞬間、物音に気づいたその男がサッと振り返った。
暗闇の中でも、華怜はその男の顔をはっきりと記憶に焼き付けた。
しかし、相手もすぐに華怜の存在に気づいた。
「チッ……!」
男は舌打ちをすると、音もなく闇の中へ走り去り、あっと言う間に逃げられてしまった。



翌日。バックヤードの隅に、華怜、将太郎、璃々、真帆、瑠莉奈の同期5人と、宮本先輩、そして一条先生がこっそりと集まった。
「昨日、閉館後にプールの裏で不審な男を見たの。顔も……覚えている」
華怜の静かな、しかし確信に満ちた報告に、一同は息を呑んだ。
「マジかよ、華怜……! 一人でそんな危ないところを……って、無事でよかったけど!」と将太郎が青ざめながら声を荒げる。宮本先輩も険しい顔つきで腕を組んだ。
「相手が誰だか分かったなら、今夜は俺たちも協力する。あの男が一体何を企んでいて、なぜアクアがあんなに怯えていたのか……。全員で罠を張って、あの男を絶対に捕まえてやろう」
華怜が見つけた「顔」と、動物たちの異変。
謎の男の正体を暴くため、最強の同期たちによる反撃の作戦会議が、夜のバックヤードで静かに始まった。



静まり返った夜の「清流清澄アクアリウム」。
閉館後の闇に包まれた館内は、昼間の賑わいが嘘のように冷え切っていた。
イルカプールの観覧エリア。
「……なぁ、華怜。本当にあいつ、来るかな……」
将太郎は少し緊張した面持ちで周囲を見回しながら、ワザと大きめの声でそう呟いた。
その隣で、華怜は静かに水面を見つめながら小さくうなずく。
「うん。アクアの動きを見ると、間違いなくこの時間帯にあの壁の向こうへ意識を向けてる」
二人が囮としてプールの前に立ち、昨夜と同じシチュエーションをあえて作り出す。
その頃、プールの裏手に広がる複雑なバックヤードの通路では――。
「よし、配置につくぞ」
宮本先輩が低い声で呟き、その横でモップを杖のようについた古町瑠莉奈が不敵に笑う。
「任せてください、宮本先輩。この館内の裏道と死角は、私が一番よく知ってますから。あの男、一歩たりとも逃がしません!」
宮本先輩の屈強な体躯と、瑠莉奈の機動力が、裏側の逃走経路を完全に封鎖していた。
さらに、少し離れた中央監視室では、一条先生の指揮のもと、安田璃々と寺坂真帆がモニターを凝視していた。
「裏の通路の熱源センサー、反応あり……! 近づいてきてます!」
真帆が小声で叫び、璃々がキーボードを叩く。
「よし、完璧に捉えたわ……! ふたりとも、気をつけて……!」
いよいよ、全てのピースが揃った。
プールの前で芝居を続けていた将太郎の耳に、微かな足音が届く。
――カサッ。
昨夜と同じ、暗がりから忍び寄る黒ずくめの影。
男は昨日と同じように、イルカプールの特定の壁の裏側へと回り込もうと足を早めた。
「……今だ!」
将太郎の合図を待つまでもなく、華怜の鋭い視線が闇の中の男を捉えていた。
逃げ場のない罠へと誘い込まれたとも知らず、黒ずくめの男は壁の前に姿を現す――。



「――そこまでだ!」
低い、地の底から響くような声とともに、暗がりから宮本先輩が巨体を躍らせて飛び出した。
不意を突かれた黒ずくめの男は「っ……!」と息を呑み、慌てて引き返そうと身を翻す。
しかし、その背後にはすでにモップの柄を構えた瑠莉奈が仁王立ちしていた。
「逃がすわけないでしょ。ここは私たちの大切な職場なんだから!」
「なっ……!?」
前後を完全に塞がれ、男が焦りから周囲を見回した瞬間、観覧エリアのほうから将太郎と華怜がスッと歩み寄ってきた。
逃げ場は完全にゼロ。
八方に張り巡らされたチームの包囲網が、男を完全に捕らえていた。
「もう逃げられないよ。昨夜も、その前も、ずっとこのプールの裏で何をしてたの?」
将太郎が鋭い視線を投げつける。
観念したのか、男はゆっくりと頭を覆っていた黒いフードを乱暴に引っぺがした。
その顔を見た瞬間、華怜の目がかすかに見開かれる。
「……やっぱり。あなただったんだね」
男の正体は、水族館のバックヤードに出入りする外部の業者――水質管理システムのメンテナンスを担当している沢渡だった。
「ちっ……! クソっ、まさかこんなガキどもに嵌められるとはな……!」
沢渡が苦い顔で吐き捨てる。
中央監視室からモニターを見ながら駆けつけてきた一条先生が、冷ややかな視線を男に向けた。
「あなたのせいで、イルカのアクアは長期間ストレスを受け続け、超音波を浴びせられて異常行動を起こしていたわ。動物を苦しめて、一体何をしていたの?」
冴子の問い詰められ、男は観念したように不敵な笑みを浮かべた。
「……教えてやるよ。このプールの壁の裏側には、水族館全体の古いメイン配線が通ってるんだ。俺はな、そのシステムをハッキングして、この水族館のデータを丸ごと別の企業に売り飛ばすバイトをしてたのさ。あのイルカは、俺が裏の壁から流す特殊な電子音をめちゃくちゃ嫌がって暴れてやがった。まぁ、お前らみたいなガキに邪魔される筋合いはなかったんだけどな!」
悪びれる様子もなく言い放つ男の言葉に、将太郎が怒りで拳をギュッと握りしめる。
「ふざけんな……! お金欲しさに、動物たちを道具にするなよ!」
宮本先輩が男の腕をガッチリと掴み、逃げる隙を一切与えない。
「言い訳は警察にたっぷり聞かせてあげてくださ~い。行くぞ!」
暴れる男を宮本先輩が力強く連行していく。
それを見送りながら、璃々と真帆は「やった……! 捕まえたね!」と胸をなでおろし、その場にパッと明るい笑顔が広がった。
こうして、水族館を揺るがした「イルカの異常行動と謎の黒ずくめ男」の事件は、華怜の圧倒的な観察力と、最強の同期たちの見事な連携によって鮮やかに解決されたのだった。



事件が完全に決着し、静けさが戻った夜のバックヤード。
他のメンバーが先に控室へ戻っていく中、イルカプールの前には、華怜と将太郎の二人が残されていた。
「ふう……終わったな! いやぁ、マジで華怜のおかげだわ。お前がいなかったら、俺たちじゃ絶対に気づけなかった」
将太郎はホッと息をつきながら、照れくさそうに頭を掻いた。
華怜はパチパチとまばたきをして、小さく首を振る。
「ううん。私一人じゃ何もできなかったよ。みんなが協力してくれたから……。将くんが、一緒に動いてくれたからだよ」
そのまっすぐな瞳で見つめられ、将太郎は不意を突かれたようにドキリと心臓を跳ねさせた。
「っ……な、なんだよ急に。そんな真面目な顔で見つめられたら、照れるだろ……」
耳まで真っ赤にして顔をそむける将太郎を見て、華怜はきょとんとした顔のあと、ふわりと柔らかく微笑んだ。
その、普段は見せない華怜の愛らしい笑顔に、将太郎はますます胸を高鳴らせるのだった。
少し離れた物陰から、その甘酸っぱいやり取りをこっそり覗き見していた璃々が「あーあ、またイチャイチャしちゃってさぁ!」とニヤニヤし、真帆が「もー、璃々ちゃん! 見ちゃダメだって!」と慌てて引っ張る。
瑠莉奈も呆れたように笑いながら、二人の背中を押して歩いていく。
最強の仲間たちを得て、華怜の新しい日々は、少しずつ、けれど確実に温かな色を帯び始めていた――。



その頃、静まり返った別の展示室で。
ふわりふわりと、水槽内で青い光をまとったクラゲが優雅に泳いでいるのを、一条冴子は一人、まじまじと見つめていたのだった。
――どこか意味深なその瞳の先で、ミズクラゲの群れは、まるで何かを告げるかのように奇妙な軌跡を描いて揺れていた。
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