君がいなくなる前に、十個だけ
第01話 十個だけ、お願いしていい?
放課後の長田は、夕飯の買い物に向かう人や学校帰りの学生で、いつもより少しだけ騒がしい。俺は駅へ向かう商店街を、隣を歩く宮本彩乃と並んで歩いていた。高校三年生になってから、こうして二人で帰るのも珍しくなくなった。彩乃は店先に並んだ惣菜を覗き込んだり、古びた看板を眺めたりしながら、何度も足を止める。長田で生まれ育った俺には見慣れた景色なのに、彩乃にとっては、同じ景色でも毎日どこか違って見えるらしい。
「陽介、あれ何?」
「コロッケ。知らんの?」
「知ってるよ。それくらい」
「知ってるんやったら、何で聞いたんや」
「陽介が食べたそうな顔してたから」
「してへんわ」
「してた」
彩乃は笑いながら、店先から俺の顔へ視線を戻した。こういうくだらないやり取りも、気づけば三年近く続いている。長いような、短いような。自分でもよく分からない。
高校一年の春、東北から父親の転勤で神戸へ来た彩乃は、最初の頃こそ知らない街に戸惑っていた。俺が声をかけたのも、たまたま席が近かったからだった。
それが学校帰りに一緒に歩くようになり、気づけば長田の商店街を二人で歩くことが当たり前になっていた。俺にとってはただの帰り道でも、彩乃にとっては違うらしい。店の名前を覚えたり、気に入った場所を写真に残したりしている。
「なぁ、彩乃」
「ん?」
「そんなに長田が好きなんか?」
「うん」
返事が妙に早かった。
「神戸が好き」
「そうなんか」
「うん。大好き!」
彩乃はそう言って、商店街の先に見える空を眺めた。夕方の光が建物の間から差し込み、道路を歩く人たちの影を長く伸ばしている。俺には毎日見ている景色だった。それこそ、何千回見たか分からない。なのに、彩乃が「大好き」と言った途端、少しだけ違って見えてくる。
「そしたら、これからも神戸におればええやんか」
「……それができたらね」
「何や、それ」
「陽介、これ見て」
彩乃は鞄から一冊のノートを取り出した。表紙には何も書かれていない、ごく普通のノートである。どこにでも売っていそうな、ありふれたノートだった。
「何や、それ?」
「秘密」
「見せるために出したんとちゃうんか?」
「今から見せるの」
彩乃は笑いながらページを開いた。
「うわっ」
思わず声が出た。そこには、番号を振られた項目が並んでいた。
一、長田の商店街を歩く。
二、モトコーへ行く。
三、新開地でご飯を食べる。
その下にも、いくつかの願いが続いている。須磨へ行くことや、まだ俺も行ったことのない場所まで書かれていた。
「何や、これ」
「私が神戸でやりたいこと」
「全部?」
「全部」
「いつから書いてたんや?」
「一年くらい前かな」
彩乃はページをめくりながら答えた。書き込まれた文字は少しずつ違っていて、最初の頃に書いたものと最近書いたものでは、筆跡まで微妙に違っている。一年も前から、こんなものを作っていたらしい。俺は今まで全然知らなかった。
「こんなん、いつの間に」
「陽介と一緒に行けたらいいなって思った場所を、少しずつ書いてたの」
「俺と?」
「うん」
彩乃は当然のことのように答えた。
「それでね」
彩乃はノートを閉じると、俺のほうを向いた。
「十個だけ、お願いしていい?」
「十個?」
「うん」
「何を?」
「私の願いを叶えるのに、付き合ってほしいの」
商店街のざわめきが耳に入ってくる。自転車のベルが鳴り、店の奥から店員の呼び込みの声が聞こえる。その中で、俺は彩乃の顔を見た。急にそんなことを言われても、すぐには意味が分からなかった。
「別にええけど」
「本当?」
「俺でええんなら」
「陽介じゃなきゃ嫌」
「……そこまで言うか?」
「言うよ」
彩乃は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、決まりね」
「ちょっと待て。まだ十個全部見てへんぞ」
「大丈夫」
「何が?」
「陽介なら付き合ってくれると思ってたから」
「勝手に決めんな」
文句を言いながらも、俺は笑っていた。彩乃とこうして過ごす時間が嫌いなわけじゃない。むしろ、学校帰りに一緒に歩いたり、くだらない話をしたりする時間は、俺にとっても好きなものだった。だから、断る理由なんて最初からなかった。
「それで、十個目は?」
ノートを指差すと、彩乃の表情が少しだけ変わった。
「……まだ決めてない」
「九個まであるのに?」
「うん」
彩乃はノートを開き、最後のページを俺に見せた。
そこだけ、何も書かれていない。
「忘れたんか?」
「違うよ」
「じゃあ、何で空白なんや?」
「まだ書けないから」
「どういう意味?」
「そのときになったら、書く」
彩乃は空白のページを指先でなぞった。
「卒業までに、間に合うかな」
「十個目がそんなに難しいんか?」
「難しいというより……」
そこで彩乃は言葉を止めた。
「何?」
「ううん。何でもない」
「何でもない顔やないけど」
「陽介って、こういうときだけ鋭いよね」
「どういうときやねん」
「秘密」
また秘密か、と言おうとして、やめた。彩乃が笑っているのに、目だけが、ほんの少し笑っていないように見えたからだ。
俺はノートを見ながら考える。長田も、モトコーも、新開地も、須磨も、全部神戸にある場所だ。俺ならいつでも行ける。卒業してからだって、休みの日に行けばいい。なのに彩乃は、卒業までという期限を決めている。そこだけが、どうしても引っかかる。
「なぁ」
「ん?」
「彩乃は、卒業したらどうするんや?」
「……陽介、それ聞く?」
「何で?」
「だって、分かってるでしょ」
彩乃は困ったように笑った。その瞬間、俺も何となく思い出した。
父親の転勤。
彩乃が高校一年生のときから、何度か聞いていた話だった。そういえば、そんな話をしていた。忘れていたわけじゃない。ただ、卒業が近づいた今まで、深く考えたことがなかった。
「……また引っ越すんか?」
「たぶんね」
「たぶん?」
「まだ正式には決まってないけど、お父さんの転勤があるから」
「そうか」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
俺にとって卒業は、学校が終わるだけのことだ。地元の会社に就職して、これからも長田で暮らしていく。友達とも会おうと思えば会えるし、この街を離れるつもりもない。
彩乃にとっては違う。卒業すれば、この街を離れるかもしれない。
そう考えた途端、さっきまで何とも思っていなかった空白のページが、妙に気になった。
「だから、十個?」
「うん」
「神戸でやりたいことを、十個?」
「そう」
「全部終わったら?」
彩乃はすぐには答えなかった。
商店街を抜け、駅へ向かう道に入る。夕方の風が少し冷たくなっていた。彩乃はノートを胸に抱えたまま、しばらく前を向いて歩いている。
「そのときに考える」
「またそれか」
「だって、本当に分からないんだもん」
「十個目も?」
「十個目も」
彩乃は少しだけ笑った。
「でもね、陽介」
「何?」
「九個までは、ちゃんと叶えたい」
「分かった」
「一緒に来てくれる?」
「最初からそのつもりや」
「よかった」
彩乃が笑う。その笑顔を見ながら、俺はノートの最後のページを思い出していた。
九つの願いと、一つの空白。
あの空白に何が書かれるのか、そのときの俺には分からなかった。ただ、彩乃が望むなら、十個全部に付き合えばいいと思っていた。理由は、それだけで十分だった。
「じゃあ、まず一個目は?」
「決めてるよ」
「どこ?」
「長田」
「……ここ?」
「そう。陽介の知ってる長田を、私に案内してほしい」
「俺が?」
「うん」
彩乃は嬉しそうに頷く。俺は商店街を振り返る。そこには、いつもと同じ看板、いつもと同じ店、いつもと同じ夕方の景色。何も変わっていない。なのに、その日だけは少し違って見えた。
「分かった。案内する」
「約束ね」
「約束」
彩乃は笑って、俺の隣に並ぶ。
卒業まで、あと少し。
そのときの俺は、これから始まる十個の願いが、俺自身の毎日まで変えてしまうなんて思ってもいなかった。
ただ、彩乃と並んで歩くこの帰り道が、ずっと続けばいいと思っていた。
「陽介、あれ何?」
「コロッケ。知らんの?」
「知ってるよ。それくらい」
「知ってるんやったら、何で聞いたんや」
「陽介が食べたそうな顔してたから」
「してへんわ」
「してた」
彩乃は笑いながら、店先から俺の顔へ視線を戻した。こういうくだらないやり取りも、気づけば三年近く続いている。長いような、短いような。自分でもよく分からない。
高校一年の春、東北から父親の転勤で神戸へ来た彩乃は、最初の頃こそ知らない街に戸惑っていた。俺が声をかけたのも、たまたま席が近かったからだった。
それが学校帰りに一緒に歩くようになり、気づけば長田の商店街を二人で歩くことが当たり前になっていた。俺にとってはただの帰り道でも、彩乃にとっては違うらしい。店の名前を覚えたり、気に入った場所を写真に残したりしている。
「なぁ、彩乃」
「ん?」
「そんなに長田が好きなんか?」
「うん」
返事が妙に早かった。
「神戸が好き」
「そうなんか」
「うん。大好き!」
彩乃はそう言って、商店街の先に見える空を眺めた。夕方の光が建物の間から差し込み、道路を歩く人たちの影を長く伸ばしている。俺には毎日見ている景色だった。それこそ、何千回見たか分からない。なのに、彩乃が「大好き」と言った途端、少しだけ違って見えてくる。
「そしたら、これからも神戸におればええやんか」
「……それができたらね」
「何や、それ」
「陽介、これ見て」
彩乃は鞄から一冊のノートを取り出した。表紙には何も書かれていない、ごく普通のノートである。どこにでも売っていそうな、ありふれたノートだった。
「何や、それ?」
「秘密」
「見せるために出したんとちゃうんか?」
「今から見せるの」
彩乃は笑いながらページを開いた。
「うわっ」
思わず声が出た。そこには、番号を振られた項目が並んでいた。
一、長田の商店街を歩く。
二、モトコーへ行く。
三、新開地でご飯を食べる。
その下にも、いくつかの願いが続いている。須磨へ行くことや、まだ俺も行ったことのない場所まで書かれていた。
「何や、これ」
「私が神戸でやりたいこと」
「全部?」
「全部」
「いつから書いてたんや?」
「一年くらい前かな」
彩乃はページをめくりながら答えた。書き込まれた文字は少しずつ違っていて、最初の頃に書いたものと最近書いたものでは、筆跡まで微妙に違っている。一年も前から、こんなものを作っていたらしい。俺は今まで全然知らなかった。
「こんなん、いつの間に」
「陽介と一緒に行けたらいいなって思った場所を、少しずつ書いてたの」
「俺と?」
「うん」
彩乃は当然のことのように答えた。
「それでね」
彩乃はノートを閉じると、俺のほうを向いた。
「十個だけ、お願いしていい?」
「十個?」
「うん」
「何を?」
「私の願いを叶えるのに、付き合ってほしいの」
商店街のざわめきが耳に入ってくる。自転車のベルが鳴り、店の奥から店員の呼び込みの声が聞こえる。その中で、俺は彩乃の顔を見た。急にそんなことを言われても、すぐには意味が分からなかった。
「別にええけど」
「本当?」
「俺でええんなら」
「陽介じゃなきゃ嫌」
「……そこまで言うか?」
「言うよ」
彩乃は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、決まりね」
「ちょっと待て。まだ十個全部見てへんぞ」
「大丈夫」
「何が?」
「陽介なら付き合ってくれると思ってたから」
「勝手に決めんな」
文句を言いながらも、俺は笑っていた。彩乃とこうして過ごす時間が嫌いなわけじゃない。むしろ、学校帰りに一緒に歩いたり、くだらない話をしたりする時間は、俺にとっても好きなものだった。だから、断る理由なんて最初からなかった。
「それで、十個目は?」
ノートを指差すと、彩乃の表情が少しだけ変わった。
「……まだ決めてない」
「九個まであるのに?」
「うん」
彩乃はノートを開き、最後のページを俺に見せた。
そこだけ、何も書かれていない。
「忘れたんか?」
「違うよ」
「じゃあ、何で空白なんや?」
「まだ書けないから」
「どういう意味?」
「そのときになったら、書く」
彩乃は空白のページを指先でなぞった。
「卒業までに、間に合うかな」
「十個目がそんなに難しいんか?」
「難しいというより……」
そこで彩乃は言葉を止めた。
「何?」
「ううん。何でもない」
「何でもない顔やないけど」
「陽介って、こういうときだけ鋭いよね」
「どういうときやねん」
「秘密」
また秘密か、と言おうとして、やめた。彩乃が笑っているのに、目だけが、ほんの少し笑っていないように見えたからだ。
俺はノートを見ながら考える。長田も、モトコーも、新開地も、須磨も、全部神戸にある場所だ。俺ならいつでも行ける。卒業してからだって、休みの日に行けばいい。なのに彩乃は、卒業までという期限を決めている。そこだけが、どうしても引っかかる。
「なぁ」
「ん?」
「彩乃は、卒業したらどうするんや?」
「……陽介、それ聞く?」
「何で?」
「だって、分かってるでしょ」
彩乃は困ったように笑った。その瞬間、俺も何となく思い出した。
父親の転勤。
彩乃が高校一年生のときから、何度か聞いていた話だった。そういえば、そんな話をしていた。忘れていたわけじゃない。ただ、卒業が近づいた今まで、深く考えたことがなかった。
「……また引っ越すんか?」
「たぶんね」
「たぶん?」
「まだ正式には決まってないけど、お父さんの転勤があるから」
「そうか」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
俺にとって卒業は、学校が終わるだけのことだ。地元の会社に就職して、これからも長田で暮らしていく。友達とも会おうと思えば会えるし、この街を離れるつもりもない。
彩乃にとっては違う。卒業すれば、この街を離れるかもしれない。
そう考えた途端、さっきまで何とも思っていなかった空白のページが、妙に気になった。
「だから、十個?」
「うん」
「神戸でやりたいことを、十個?」
「そう」
「全部終わったら?」
彩乃はすぐには答えなかった。
商店街を抜け、駅へ向かう道に入る。夕方の風が少し冷たくなっていた。彩乃はノートを胸に抱えたまま、しばらく前を向いて歩いている。
「そのときに考える」
「またそれか」
「だって、本当に分からないんだもん」
「十個目も?」
「十個目も」
彩乃は少しだけ笑った。
「でもね、陽介」
「何?」
「九個までは、ちゃんと叶えたい」
「分かった」
「一緒に来てくれる?」
「最初からそのつもりや」
「よかった」
彩乃が笑う。その笑顔を見ながら、俺はノートの最後のページを思い出していた。
九つの願いと、一つの空白。
あの空白に何が書かれるのか、そのときの俺には分からなかった。ただ、彩乃が望むなら、十個全部に付き合えばいいと思っていた。理由は、それだけで十分だった。
「じゃあ、まず一個目は?」
「決めてるよ」
「どこ?」
「長田」
「……ここ?」
「そう。陽介の知ってる長田を、私に案内してほしい」
「俺が?」
「うん」
彩乃は嬉しそうに頷く。俺は商店街を振り返る。そこには、いつもと同じ看板、いつもと同じ店、いつもと同じ夕方の景色。何も変わっていない。なのに、その日だけは少し違って見えた。
「分かった。案内する」
「約束ね」
「約束」
彩乃は笑って、俺の隣に並ぶ。
卒業まで、あと少し。
そのときの俺は、これから始まる十個の願いが、俺自身の毎日まで変えてしまうなんて思ってもいなかった。
ただ、彩乃と並んで歩くこの帰り道が、ずっと続けばいいと思っていた。
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