君がいなくなる前に、十個だけ
第02話 長田の味
放課後、校門を出た俺たちは、いつもの道を歩いて長田の商店街へ向かう。商店街の入口が見えてくると、俺には聞き慣れた店員の声や自転車のベル、道路を走る車の音まで一気に近くなった。何年も同じ道を歩いてきた俺には、特別なものなんて何もない。
ところが、隣の彩乃は入口に立ったところで足を止め、少しだけ目を細めながら通りの奥を見ていた。俺が先へ進もうとすると、彩乃が慌てて追いついてくる。その手には、先日のノートとスマートフォンが握られていた。
「ここが陽介の言ってた商店街?」
「そうやで。何回も話したやろ」
「話には聞いてたけど、実際に来ると違うね」
「何が?」
「匂い。音。それに、歩いてる人も」
「そんなん、普通やろ」
「陽介にとってはね」
彩乃はそう言って笑うと、商店街の中へ入っていった。俺もその後ろを追いながら、いつもなら気にも留めない店先へ目を向ける。
八百屋には今日も山積みになった野菜が並び、総菜屋からは揚げ物の匂いが漂っていた。昔から変わらない看板もあれば、いつの間にか新しくなった店もある。
俺にとっては、それら全部が長田の日常だった。彩乃はそんな景色を一つずつ眺めながら、ときどき立ち止まってスマートフォンを向けている。その姿を見ていると、俺が当たり前だと思っていたものが、彩乃には一つ残らず記憶しておきたい景色なのだと少しずつ分かってきた。
その姿を見ているうちに、俺が当たり前だと思っていたものを、彩乃は一つずつ覚えておこうとしているのだと分かってきた。
「陽介、これ撮っていい?」
「ええけど、何でそんな古い看板撮るん?」
「古いから撮るの」
「理由になってへんやん」
「私にはなるの」
彩乃は看板を撮影すると、画面を確認してから満足そうに頷いた。俺はその横顔を見ながら、去年までなら絶対に気にしなかったことを考えていた。
彩乃は神戸へ来てから、ずっとこうして街を見てきたのだろう。俺にとっては学校と家を往復する途中の景色でも、彩乃にとっては知らない土地で初めて見つけたものだった。
しかも、卒業したあとには見られなくなるかもしれない。そう考えると、今までただ通り過ぎていた商店街の景色が、少しだけ惜しいものに思えてきた。そんな俺の気持ちなど知らない彩乃は、次の店を見つけるとまた楽しそうに歩き出した。
「次はどこ行くん?」
「決まってるよ」
「ノート見せてみ」
「駄目」
「何でやねん」
「今日は私が案内するって決めたから」
「ここ、俺の地元やぞ」
「だからこそ、私が案内してみたいの」
「変な話やな」
「いいから来て」
彩乃に連れていかれたのは、商店街の中にある小さなお好み焼き屋である。入口の引き戸を開けると、鉄板から立ち上る熱気とソースの香りが一気に押し寄せてくる。
店内を見回した俺は、親に連れてこられたことがある店だったか、それとも友達と似たような店へ入ったことがあるのか、はっきりとは思い出せない。
ただ、鉄板の上でソースが焼ける匂いを嗅いだ瞬間、小学生の頃に小遣いを握って商店街を歩いた日のことが浮かぶ。
学校帰りに友達と寄り道して、親に見つかったら怒られると笑いながら店の前を通ったこともある。どれも大きな出来事ではない。それでも、こうして思い出してみると、俺の中には長田で過ごした時間が思った以上に残っていた。
「陽介、そばめしって食べたことある?」
「あるに決まってるやん」
「そうだよね」
「何でそんなこと聞くん?」
「私、神戸に来るまで知らなかったから」
「そうなん?」
「うん。焼きそばとご飯を一緒に炒めるんだよね?」
「そうやで。長田では昔から普通に食べるもんや」
「やっぱり神戸らしいね」
「そんな珍しいもんちゃうけどな」
注文したそばめしが鉄板の上に運ばれてくる。細かく刻まれた麺とご飯がソースと一緒に炒められ、立ち上る香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
俺にとっては何度も食べてきた味なのに、彩乃は目の前の料理を珍しそうに眺めている。その顔を見ていると、俺が何気なく食べてきたものも、彩乃にとっては神戸で覚えておきたいものの一つなのかもしれないと思った。
「いただきまーす」
「どうや? 熱いから気をつけや」
「ハフッ、ハフッ、美味しい」
「ほんまに?」
「うん。思ってたより好きかも」
「思ってたよりって何やねん」
「だって、そばとご飯を一緒にするって聞いたときは、ちょっと不思議だったから」
「長田では普通や」
「陽介も昔から食べてた?」
「そら食べるで。小学生の頃とか、友達と食べに来たこともあるし」
「どんな子だったの?」
「俺?」
「うん」
「普通の子やったと思うけど」
「自分で言う?」
「ほんまに普通やったんやって」
「じゃあ、昔の陽介の話をもっと聞きたい」
彩乃はそばめしを食べながら、俺の子供時代について聞いてきた。俺は最初こそ何を話せばいいのか分からなかったが、商店街の角にある駄菓子屋や、学校帰りに友達と走った道のことを話しているうちに、次々と昔の記憶が出てきた。
あの店のおばちゃんに叱られたこと。
坂道を自転車で下って転んだこと。
祭りの日に友達と遅くまで遊んで親に怒られたこと。
話しているうちに、自分が思っていた以上に、この街には俺の時間が詰まっていることに気づく。彩乃はそんな話を楽しそうに聞きながら、ときどき質問を挟んでくる。自分の昔話なんて面白くないと思っていたのに、彩乃が聞いてくれるだけで、もう少し話していてもいいような気がした。
「陽介って、長田が好きなんだね」
「急に何やねん」
「だって、話してるとき楽しそうだから」
「そう見える?」
「見えるよ」
「……まあ、嫌いではないけど」
「好きなんじゃない?」
「どうやろなぁ」
俺は誤魔化すように水を飲む。長田が好きかと聞かれて、今まで考えたこともなかったからだ。
生まれたときからここにいて、学校へ行って、友達と遊んで、家に帰る。それだけだったからだ。好きか嫌いかを考えたこともなかった。
それが彩乃に聞かれて初めて、自分がこの街を離れる未来をほとんど考えたことがないのだと気づかされる。高校を卒業したら地元企業へ就職して、そのまま長田で暮らしていく。俺にとっては、それが当たり前の未来だった。彩乃はそんな俺とは違う。卒業すれば、この街を離れる可能性がある。だから、今見ている景色を一つずつ覚えようとしているのだ。
「彩乃は、何でそんなに写真撮るん?」
「忘れたくないから」
「写真に残しとけば忘れへんの?」
「全部は無理だと思う」
「じゃあ、何で?」
「忘れたくないって思ったことを、あとで思い出せるようにしたいから」
彩乃はそう言って、窓の外へ視線を向けた。店の前を買い物袋を持った女性が通り過ぎ、その向こうでは小学生くらいの男の子が友達と走っている。どこにでもある夕方の光景。
俺も毎日のように見てきた筈だ。なのに、彩乃がそれを眺める横顔には、何かを大事に抱えているような雰囲気があった。
俺はその理由を聞きたかったが、聞けば彩乃が困る気もした。父親の転勤で何度も引っ越してきたことを、彩乃は以前から話していた。だから、俺はそれ以上聞かず、残ったそばめしを食べた。熱い鉄板の音を聞きながら、この時間も彩乃にとっては、いつか思い出したい一日の一部になるのだろうと思った。
「ごちそうさまでした」
「満足した?」
「うん。大満足」
「それならよかったわ」
「陽介は?」
「俺も普通に美味かったで」
「普通なんだ」
「何やねん」
「もう少し嬉しそうに言ってよ」
「美味かったって言うたやろ」
「顔が普通」
「そんなん知らんがな」
店を出ると、外の空気が少し涼しく感じられた。さっきまで鉄板の熱気に包まれていたせいか、頬を撫でる風が気持ちいい。彩乃は店の前で振り返り、もう一度スマートフォンを取り出した。今度は店そのものではなく、入口の横に置かれた小さな看板を撮っている。俺はそんな彩乃を見ながら、何となく尋ねた。
「それも撮るん?」
「うん」
「何で?」
「今日ここで陽介とご飯を食べたって、分かるように」
「写真見たら思い出せるやろ」
「そうだね」
彩乃は笑った。
その笑顔を見た瞬間、俺は少しだけ胸の奥が重くなる。さっきまでなら、何とも思わなかった言葉だった。
今日ここで食べたことを、彩乃はいつか写真を見返して思い出すつもりなのだろう。俺にとって今日という日は、学校が終わったあと彩乃とそばめしを食べただけの一日になる。それでも彩乃にとっては、神戸で過ごした時間の一つとして残っていく。そう考えると、俺もこの日のことを簡単に忘れたくないと思った。商店街を歩きながら、俺はさっきまで見過ごしていた店先へ自然と目を向けるようになっていた。
「陽介、どうしたの?」
「いや」
「何か見つけた?」
「何もないで」
「じゃあ、何で見てるの?」
「……今までちゃんと見たことなかったなと思って」
「何を?」
「この辺の景色」
彩乃が少し驚いた顔をした。
「陽介でも、そんなこと思うんだ」
「俺を何やと思ってんねん」
「ずっと長田にいる人」
「それは合ってる」
「だから、いつでも見られると思ってるのかなって」
「……そうかもしれへんな」
俺は商店街の先へ目を向けた。夕暮れの光を浴びた看板も、少し色の落ちた壁も、買い物帰りの人たちが歩く道も、全部いつもの景色だ。それなのに今日は、彩乃が残そうとしているものだと思うと、見え方が少し違っていた。俺はこれからもここにいる。彩乃は、もしかしたらいなくなる。その違いを意識した瞬間、胸の奥に小さな寂しさが生まれた。
「ねぇ、陽介」
「ん?」
「今日はありがとう」
「まだ一個目やで」
「うん。でも、嬉しかった」
「そっか」
「次も一緒に来てくれる?」
「当たり前やろ」
「約束ね」
「約束」
彩乃は満足そうに笑った。俺たちは並んで商店街を歩き、駅へ向かって進んでいく。俺は何度も振り返りそうになるのを我慢しながら、前を向く。
長田の商店街は、今日もいつもと変わらない。明日になれば、また同じように店が開き、人が歩き、俺もこの道を通るだろう。
それでも、今日の帰り道を境に、俺は少しだけこの街を見る目が変わっていた。彩乃が残したいと思う景色を、俺も覚えておきたい。そんな気持ちが、いつの間にか俺の中にも芽生えていた。
ところが、隣の彩乃は入口に立ったところで足を止め、少しだけ目を細めながら通りの奥を見ていた。俺が先へ進もうとすると、彩乃が慌てて追いついてくる。その手には、先日のノートとスマートフォンが握られていた。
「ここが陽介の言ってた商店街?」
「そうやで。何回も話したやろ」
「話には聞いてたけど、実際に来ると違うね」
「何が?」
「匂い。音。それに、歩いてる人も」
「そんなん、普通やろ」
「陽介にとってはね」
彩乃はそう言って笑うと、商店街の中へ入っていった。俺もその後ろを追いながら、いつもなら気にも留めない店先へ目を向ける。
八百屋には今日も山積みになった野菜が並び、総菜屋からは揚げ物の匂いが漂っていた。昔から変わらない看板もあれば、いつの間にか新しくなった店もある。
俺にとっては、それら全部が長田の日常だった。彩乃はそんな景色を一つずつ眺めながら、ときどき立ち止まってスマートフォンを向けている。その姿を見ていると、俺が当たり前だと思っていたものが、彩乃には一つ残らず記憶しておきたい景色なのだと少しずつ分かってきた。
その姿を見ているうちに、俺が当たり前だと思っていたものを、彩乃は一つずつ覚えておこうとしているのだと分かってきた。
「陽介、これ撮っていい?」
「ええけど、何でそんな古い看板撮るん?」
「古いから撮るの」
「理由になってへんやん」
「私にはなるの」
彩乃は看板を撮影すると、画面を確認してから満足そうに頷いた。俺はその横顔を見ながら、去年までなら絶対に気にしなかったことを考えていた。
彩乃は神戸へ来てから、ずっとこうして街を見てきたのだろう。俺にとっては学校と家を往復する途中の景色でも、彩乃にとっては知らない土地で初めて見つけたものだった。
しかも、卒業したあとには見られなくなるかもしれない。そう考えると、今までただ通り過ぎていた商店街の景色が、少しだけ惜しいものに思えてきた。そんな俺の気持ちなど知らない彩乃は、次の店を見つけるとまた楽しそうに歩き出した。
「次はどこ行くん?」
「決まってるよ」
「ノート見せてみ」
「駄目」
「何でやねん」
「今日は私が案内するって決めたから」
「ここ、俺の地元やぞ」
「だからこそ、私が案内してみたいの」
「変な話やな」
「いいから来て」
彩乃に連れていかれたのは、商店街の中にある小さなお好み焼き屋である。入口の引き戸を開けると、鉄板から立ち上る熱気とソースの香りが一気に押し寄せてくる。
店内を見回した俺は、親に連れてこられたことがある店だったか、それとも友達と似たような店へ入ったことがあるのか、はっきりとは思い出せない。
ただ、鉄板の上でソースが焼ける匂いを嗅いだ瞬間、小学生の頃に小遣いを握って商店街を歩いた日のことが浮かぶ。
学校帰りに友達と寄り道して、親に見つかったら怒られると笑いながら店の前を通ったこともある。どれも大きな出来事ではない。それでも、こうして思い出してみると、俺の中には長田で過ごした時間が思った以上に残っていた。
「陽介、そばめしって食べたことある?」
「あるに決まってるやん」
「そうだよね」
「何でそんなこと聞くん?」
「私、神戸に来るまで知らなかったから」
「そうなん?」
「うん。焼きそばとご飯を一緒に炒めるんだよね?」
「そうやで。長田では昔から普通に食べるもんや」
「やっぱり神戸らしいね」
「そんな珍しいもんちゃうけどな」
注文したそばめしが鉄板の上に運ばれてくる。細かく刻まれた麺とご飯がソースと一緒に炒められ、立ち上る香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
俺にとっては何度も食べてきた味なのに、彩乃は目の前の料理を珍しそうに眺めている。その顔を見ていると、俺が何気なく食べてきたものも、彩乃にとっては神戸で覚えておきたいものの一つなのかもしれないと思った。
「いただきまーす」
「どうや? 熱いから気をつけや」
「ハフッ、ハフッ、美味しい」
「ほんまに?」
「うん。思ってたより好きかも」
「思ってたよりって何やねん」
「だって、そばとご飯を一緒にするって聞いたときは、ちょっと不思議だったから」
「長田では普通や」
「陽介も昔から食べてた?」
「そら食べるで。小学生の頃とか、友達と食べに来たこともあるし」
「どんな子だったの?」
「俺?」
「うん」
「普通の子やったと思うけど」
「自分で言う?」
「ほんまに普通やったんやって」
「じゃあ、昔の陽介の話をもっと聞きたい」
彩乃はそばめしを食べながら、俺の子供時代について聞いてきた。俺は最初こそ何を話せばいいのか分からなかったが、商店街の角にある駄菓子屋や、学校帰りに友達と走った道のことを話しているうちに、次々と昔の記憶が出てきた。
あの店のおばちゃんに叱られたこと。
坂道を自転車で下って転んだこと。
祭りの日に友達と遅くまで遊んで親に怒られたこと。
話しているうちに、自分が思っていた以上に、この街には俺の時間が詰まっていることに気づく。彩乃はそんな話を楽しそうに聞きながら、ときどき質問を挟んでくる。自分の昔話なんて面白くないと思っていたのに、彩乃が聞いてくれるだけで、もう少し話していてもいいような気がした。
「陽介って、長田が好きなんだね」
「急に何やねん」
「だって、話してるとき楽しそうだから」
「そう見える?」
「見えるよ」
「……まあ、嫌いではないけど」
「好きなんじゃない?」
「どうやろなぁ」
俺は誤魔化すように水を飲む。長田が好きかと聞かれて、今まで考えたこともなかったからだ。
生まれたときからここにいて、学校へ行って、友達と遊んで、家に帰る。それだけだったからだ。好きか嫌いかを考えたこともなかった。
それが彩乃に聞かれて初めて、自分がこの街を離れる未来をほとんど考えたことがないのだと気づかされる。高校を卒業したら地元企業へ就職して、そのまま長田で暮らしていく。俺にとっては、それが当たり前の未来だった。彩乃はそんな俺とは違う。卒業すれば、この街を離れる可能性がある。だから、今見ている景色を一つずつ覚えようとしているのだ。
「彩乃は、何でそんなに写真撮るん?」
「忘れたくないから」
「写真に残しとけば忘れへんの?」
「全部は無理だと思う」
「じゃあ、何で?」
「忘れたくないって思ったことを、あとで思い出せるようにしたいから」
彩乃はそう言って、窓の外へ視線を向けた。店の前を買い物袋を持った女性が通り過ぎ、その向こうでは小学生くらいの男の子が友達と走っている。どこにでもある夕方の光景。
俺も毎日のように見てきた筈だ。なのに、彩乃がそれを眺める横顔には、何かを大事に抱えているような雰囲気があった。
俺はその理由を聞きたかったが、聞けば彩乃が困る気もした。父親の転勤で何度も引っ越してきたことを、彩乃は以前から話していた。だから、俺はそれ以上聞かず、残ったそばめしを食べた。熱い鉄板の音を聞きながら、この時間も彩乃にとっては、いつか思い出したい一日の一部になるのだろうと思った。
「ごちそうさまでした」
「満足した?」
「うん。大満足」
「それならよかったわ」
「陽介は?」
「俺も普通に美味かったで」
「普通なんだ」
「何やねん」
「もう少し嬉しそうに言ってよ」
「美味かったって言うたやろ」
「顔が普通」
「そんなん知らんがな」
店を出ると、外の空気が少し涼しく感じられた。さっきまで鉄板の熱気に包まれていたせいか、頬を撫でる風が気持ちいい。彩乃は店の前で振り返り、もう一度スマートフォンを取り出した。今度は店そのものではなく、入口の横に置かれた小さな看板を撮っている。俺はそんな彩乃を見ながら、何となく尋ねた。
「それも撮るん?」
「うん」
「何で?」
「今日ここで陽介とご飯を食べたって、分かるように」
「写真見たら思い出せるやろ」
「そうだね」
彩乃は笑った。
その笑顔を見た瞬間、俺は少しだけ胸の奥が重くなる。さっきまでなら、何とも思わなかった言葉だった。
今日ここで食べたことを、彩乃はいつか写真を見返して思い出すつもりなのだろう。俺にとって今日という日は、学校が終わったあと彩乃とそばめしを食べただけの一日になる。それでも彩乃にとっては、神戸で過ごした時間の一つとして残っていく。そう考えると、俺もこの日のことを簡単に忘れたくないと思った。商店街を歩きながら、俺はさっきまで見過ごしていた店先へ自然と目を向けるようになっていた。
「陽介、どうしたの?」
「いや」
「何か見つけた?」
「何もないで」
「じゃあ、何で見てるの?」
「……今までちゃんと見たことなかったなと思って」
「何を?」
「この辺の景色」
彩乃が少し驚いた顔をした。
「陽介でも、そんなこと思うんだ」
「俺を何やと思ってんねん」
「ずっと長田にいる人」
「それは合ってる」
「だから、いつでも見られると思ってるのかなって」
「……そうかもしれへんな」
俺は商店街の先へ目を向けた。夕暮れの光を浴びた看板も、少し色の落ちた壁も、買い物帰りの人たちが歩く道も、全部いつもの景色だ。それなのに今日は、彩乃が残そうとしているものだと思うと、見え方が少し違っていた。俺はこれからもここにいる。彩乃は、もしかしたらいなくなる。その違いを意識した瞬間、胸の奥に小さな寂しさが生まれた。
「ねぇ、陽介」
「ん?」
「今日はありがとう」
「まだ一個目やで」
「うん。でも、嬉しかった」
「そっか」
「次も一緒に来てくれる?」
「当たり前やろ」
「約束ね」
「約束」
彩乃は満足そうに笑った。俺たちは並んで商店街を歩き、駅へ向かって進んでいく。俺は何度も振り返りそうになるのを我慢しながら、前を向く。
長田の商店街は、今日もいつもと変わらない。明日になれば、また同じように店が開き、人が歩き、俺もこの道を通るだろう。
それでも、今日の帰り道を境に、俺は少しだけこの街を見る目が変わっていた。彩乃が残したいと思う景色を、俺も覚えておきたい。そんな気持ちが、いつの間にか俺の中にも芽生えていた。