君がいなくなる前に、十個だけ
最終話 十一個目の約束
五年後、俺は相変わらず長田区で暮らしている。高校を卒業してから地元の会社に就職し、仕事にも少しずつ慣れて、毎日を忙しく過ごしている。
彩乃が神戸を離れてからも、俺たちは手紙を送り合っていた。携帯電話がある時代なのだから、もっと気軽に連絡できると思っていたが、彩乃が暮らしていた沖縄の小さな島では電波が安定しない場所も多く、結局、手紙でのやり取りが中心になった。
最初の頃は毎月のように届いていた手紙も、仕事が忙しくなれば間が空くことがあった。それでも、完全に途切れることはなかった。俺が長田の商店街で見つけた新しい店の話を書けば、彩乃は島で見た海の色や、父親の仕事を手伝っているときの出来事を書いてくる。
そんなやり取りを続けていると、離れていても彩乃がどこかで元気に暮らしていることを感じられた。それだけで十分だと思っていた。あの日、布引の滝で「いつか、また神戸で会おう」と約束したことも、俺の中から消えたことはなかったが、五年も経てば、いつ実現するのかなんて考えなくなっていた。
そんなある日、仕事から帰った俺が郵便受けを開けると、彩乃からの手紙が届いていた。いつもの封筒を手に取っただけなのに、なぜか胸が少しだけ騒いだ。部屋へ戻って封を開けると、便箋には、沖縄の島で続けていた父親の仕事について書かれていた。
父親の仕事を手伝いながら暮らしてきた彩乃は、今度は父親と一緒に神戸へ行くことになったらしい。仕事の都合で、しばらく神戸に滞在する必要があるという。そこまでは俺も普通に読んでいたが、最後の数行を見たところで手が止まった。
『陽介、覚えてる?』
「何を?」
誰もいない部屋で、手紙に対して、俺は思わず声に出していた。
『いつか、また神戸で会おうって約束』
その文字を指でなぞると、高校三年生の卒業式の日が一気に蘇ってきた。布引の滝まで歩いた道、滝の前で泣いた彩乃、俺も泣きながら交わした約束。あの日から五年が経っている。それなのに、彩乃は覚えていた。
『私、神戸に行くことになったから、もし陽介がまだ覚えていてくれたら、会いたい』
その一文を読んだ俺は、便箋を持ったまま椅子へ座り込んだ。
”会いたい”
その言葉だけで、胸の奥に押し込んでいた感情が一気に動き出す。俺はすぐに返事を書く。どこで会うかなんて、そんなことを考える必要もなかった。
再会の日、俺は新神戸駅から布引の滝へ続く山道を歩いていた。五年前の卒業式の日と同じ道なのに、あのときとは何もかも違って見える。
木々の間から差し込む光も、足元の石も、耳へ届く水の音も変わっていない。それでも五年前は、一歩進むたびに別れが近づいているように感じていた。
今日は違う。彩乃がこの先で待っている。そう思うだけで、自然と足が速くなりそうになる。俺は途中で立ち止まり、深く息を吸う。
五年間、会っていない。手紙では何度も話してきたが、実際に顔を見るのは卒業の日以来だ。どんな顔をして会えばいいのか、何を最初に言えばいいのか、考え始めると妙に緊張してくる。それでも滝の音が近づいてくるにつれて、そんなことはどうでもよくなっていった。俺が覚えている彩乃と、今ここにいる彩乃が同じ人なら、それだけで十分だと思った。
「陽介!」
滝の手前から聞こえた声に、俺は足を止める。振り向くと、彩乃が立っていた。
「……彩乃」
「久しぶり」
「ほんまに久しぶりやな」
「五年ぶりだよ」
「分かっとるって」
彩乃は笑った。その笑顔を見た瞬間、俺の中で五年間という時間が妙に小さくなった。髪型も雰囲気も高校生の頃とは少し違っている。化粧もして、すっかり大人の女性だった。
それでも、笑うときに目を細める癖は変わっていない。俺は何か気の利いたことを言おうとして、結局何も思いつかなかった。
「あー、……元気そうやな」
「陽介もね」
「仕事、大変やで」
「手紙にいつも書いてたじゃん」
「そっちも、お父さんの仕事手伝ってるって書いとったやろ」
「うん。島ではずっとそうしてた」
彩乃はそう言いながら、滝のほうへ目を向けた。白い水が岩肌を伝って落ち、その音が二人の会話を包んでいる。
五年前と同じ景色。俺たちは並んで滝を眺める。しばらくすると、彩乃が鞄の中から古いノートを取り出した。表紙には細かな傷があり、角も擦れている。それを見ただけで、高校時代の記憶が次々に蘇ってきた。
「まだ持ってたんか」
「もちろん」
「五年やで?」
「だから何?」
「いや、普通もっとボロボロになるやろ」
「十分ボロボロだよ」
彩乃が笑いながらノートを開く。そこには長田の商店街から始まった願いが、一つずつ残っていた。二人で食べたもの、歩いた場所、見た景色。その一つ一つを眺めていると、俺まで当時の空気を思い出してくる。最後のページには、卒業の日に書いた十個目の願いが残っていた。
「これ、覚えてる?」
「忘れるわけないやろ」
彩乃がページを指でなぞる。
「私、あの日、これを書いてよかったと思ってる」
「一緒に泣く、やろ?」
「うん」
「ほんまに泣いたよな、俺ら」
「陽介、すごかったよ」
「彩乃もや」
二人で笑った。五年前は涙で何も見えなかった場所で、今は笑っている。そのことが嬉しくて、俺は滝を見上げる。
あの日、ここで別れたあと、俺は彩乃がいない神戸を何度も歩いた。商店街へ行けば一緒に食べたものを思い出し、須磨へ行けば二人で見た海を思い出し、摩耶山へ行けば隣で景色を眺めていた彩乃の横顔を思い出した。
彩乃も同じだったのだろう。手紙には、ときどき神戸のことが書かれていた。長田の街は今どうなっているのか、あの店はまだあるのか、布引の滝は変わっていないか。俺たちは離れていた五年間にも、それぞれの場所から同じ街を思い出していた。
「陽介」
「ん?」
「私ね、お父さんと一緒に仕事をしてる間も、ずっと神戸のこと考えてた」
「手紙にもよく書いとったな」
「うん。でも、それだけじゃないの」
彩乃はノートを閉じた。
「お父さんとお母さんに、ずっと言われてたの」
「何を?」
「私が神戸の話ばかりするから、そんなに神戸が好きなら、戻れるときに戻ればいいって」
俺は黙って彩乃を見る。
「それに……私に大好きな人がいることも、たぶん分かってた」
「……大好きな人?」
「誰だと思う?」
「知らん」
「嘘つき」
彩乃が笑う。
「陽介に決まってるでしょ」
不意打ちだった。五年前なら、その一言だけで頭が真っ白になっていたと思う。五年経った今でも、胸の奥が熱くなるのだから、俺は何も変わっていないのかもしれない。
「それでね、今回、神戸へ行くことになったとき、お父さんとお母さんから言われたの」
「何を?」
「神戸で暮らしてみたらって」
彩乃は鞄から小さな封筒を取り出した。
「生活が落ち着くまで困らないようにって、お金も少し渡してくれた」
「そこまで?」
「うん。それだけじゃないよ」
彩乃は少し恥ずかしそうに笑いながら、さらに続けた。
「陽介には内緒で、ワンルームマンションまで契約してくれてた」
「……はぁ?」
「もう住める状態になってる」
「ちょっと待って。俺、何も知らんかったんやけど」
「驚かせたかったから」
「いや、驚くとかいう話ちゃうやろ」
彩乃は声を上げて笑った。俺も呆れながら笑ってしまう。だが、笑いながらも胸の奥では別の感情が膨らんでいた。彩乃は、今度は誰かに連れられて神戸を離れるのではない。自分の意思で、この街へ戻ってきたのだ。
「私ね、五年前は神戸に残りたかった。でも、お父さんについていくしかなかった」
「うん」
「だから、今度は自分で決めたの」
彩乃が俺を見る。
「私は神戸で暮らしたい! ううん、暮らすのっ!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。高校生だった俺たちは、離れることを自分たちでは止められなかった。だから最後にできたのは、また会おうと約束することだけだった。でも今は違う。彩乃は自分で神戸を選んだ。俺はその意味を考えながら、滝の水音を聞いていた。
「じゃあ、十一個目は決まってるんか?」
「うん」
彩乃はノートを開いた。十個目の次にある白いページへ鉛筆を置き、ゆっくりと文字を書いていく。俺は隣で黙って待った。やがて彩乃がノートを閉じ、俺へ差し出した。
「読んで」
そこには、こう書かれていた。
・十一個目。これからも陽介の隣にいる
俺はその文字を見つめたまま、しばらく声が出なかった。
「……これ、願いなん?」
「うん」
「もう叶っとるやん」
「まだだよ」
「今、俺の隣におるやろ」
「じゃあ、これからの分」
彩乃は少し照れながら笑った。
「これからも、陽介の隣にいたい」
俺はその言葉を聞いて、五年前の自分を思い出した。あの日、彩乃と離れたくないと思いながら、それをどうすることもできなかった自分。泣きながら「いつか、また神戸で会おう」と言った自分。そして今、その約束を守るために彩乃が目の前にいる。
「……分かった」
「何が?」
「十一個目」
俺は彩乃のノートを指差した。
「俺も、その願いに付き合うわ」
「ほんと?」
「当たり前やろ」
彩乃の目に涙が浮かんだが、今度は泣かなかった。俺も泣かなかった。布引の滝から流れ落ちる水は、五年前と同じように岩へぶつかり、その音を山の中へ響かせている。あの日、俺たちはこの場所で別れた。今日は同じ場所で、これからを始める。
「帰ろうか」
「うん」
「長田、行く?」
「行きたい」
「じゃあ、そばめし食べよか」
「五年ぶりの神戸で最初がそれ?」
「彩乃の願いやったやろ」
「そうだね。じゃあ、行こう」
俺たちは並んで山道を下り始めた。五年前には別れへ向かって歩いた道を、今度は神戸の街へ戻るために歩いていく。
十個の願いは、布引の滝で終わった。そう思っていた俺の隣で、彩乃は十一個目の願いを抱えている。今度は誰かに決められた別れではない。自分たちで選んだ時間が、この先に続いている。
滝の音が少しずつ遠ざかっていく。俺は隣を歩く彩乃を見て、五年前には想像もできなかった未来が、ようやく始まったのだと思った。
——完——
彩乃が神戸を離れてからも、俺たちは手紙を送り合っていた。携帯電話がある時代なのだから、もっと気軽に連絡できると思っていたが、彩乃が暮らしていた沖縄の小さな島では電波が安定しない場所も多く、結局、手紙でのやり取りが中心になった。
最初の頃は毎月のように届いていた手紙も、仕事が忙しくなれば間が空くことがあった。それでも、完全に途切れることはなかった。俺が長田の商店街で見つけた新しい店の話を書けば、彩乃は島で見た海の色や、父親の仕事を手伝っているときの出来事を書いてくる。
そんなやり取りを続けていると、離れていても彩乃がどこかで元気に暮らしていることを感じられた。それだけで十分だと思っていた。あの日、布引の滝で「いつか、また神戸で会おう」と約束したことも、俺の中から消えたことはなかったが、五年も経てば、いつ実現するのかなんて考えなくなっていた。
そんなある日、仕事から帰った俺が郵便受けを開けると、彩乃からの手紙が届いていた。いつもの封筒を手に取っただけなのに、なぜか胸が少しだけ騒いだ。部屋へ戻って封を開けると、便箋には、沖縄の島で続けていた父親の仕事について書かれていた。
父親の仕事を手伝いながら暮らしてきた彩乃は、今度は父親と一緒に神戸へ行くことになったらしい。仕事の都合で、しばらく神戸に滞在する必要があるという。そこまでは俺も普通に読んでいたが、最後の数行を見たところで手が止まった。
『陽介、覚えてる?』
「何を?」
誰もいない部屋で、手紙に対して、俺は思わず声に出していた。
『いつか、また神戸で会おうって約束』
その文字を指でなぞると、高校三年生の卒業式の日が一気に蘇ってきた。布引の滝まで歩いた道、滝の前で泣いた彩乃、俺も泣きながら交わした約束。あの日から五年が経っている。それなのに、彩乃は覚えていた。
『私、神戸に行くことになったから、もし陽介がまだ覚えていてくれたら、会いたい』
その一文を読んだ俺は、便箋を持ったまま椅子へ座り込んだ。
”会いたい”
その言葉だけで、胸の奥に押し込んでいた感情が一気に動き出す。俺はすぐに返事を書く。どこで会うかなんて、そんなことを考える必要もなかった。
再会の日、俺は新神戸駅から布引の滝へ続く山道を歩いていた。五年前の卒業式の日と同じ道なのに、あのときとは何もかも違って見える。
木々の間から差し込む光も、足元の石も、耳へ届く水の音も変わっていない。それでも五年前は、一歩進むたびに別れが近づいているように感じていた。
今日は違う。彩乃がこの先で待っている。そう思うだけで、自然と足が速くなりそうになる。俺は途中で立ち止まり、深く息を吸う。
五年間、会っていない。手紙では何度も話してきたが、実際に顔を見るのは卒業の日以来だ。どんな顔をして会えばいいのか、何を最初に言えばいいのか、考え始めると妙に緊張してくる。それでも滝の音が近づいてくるにつれて、そんなことはどうでもよくなっていった。俺が覚えている彩乃と、今ここにいる彩乃が同じ人なら、それだけで十分だと思った。
「陽介!」
滝の手前から聞こえた声に、俺は足を止める。振り向くと、彩乃が立っていた。
「……彩乃」
「久しぶり」
「ほんまに久しぶりやな」
「五年ぶりだよ」
「分かっとるって」
彩乃は笑った。その笑顔を見た瞬間、俺の中で五年間という時間が妙に小さくなった。髪型も雰囲気も高校生の頃とは少し違っている。化粧もして、すっかり大人の女性だった。
それでも、笑うときに目を細める癖は変わっていない。俺は何か気の利いたことを言おうとして、結局何も思いつかなかった。
「あー、……元気そうやな」
「陽介もね」
「仕事、大変やで」
「手紙にいつも書いてたじゃん」
「そっちも、お父さんの仕事手伝ってるって書いとったやろ」
「うん。島ではずっとそうしてた」
彩乃はそう言いながら、滝のほうへ目を向けた。白い水が岩肌を伝って落ち、その音が二人の会話を包んでいる。
五年前と同じ景色。俺たちは並んで滝を眺める。しばらくすると、彩乃が鞄の中から古いノートを取り出した。表紙には細かな傷があり、角も擦れている。それを見ただけで、高校時代の記憶が次々に蘇ってきた。
「まだ持ってたんか」
「もちろん」
「五年やで?」
「だから何?」
「いや、普通もっとボロボロになるやろ」
「十分ボロボロだよ」
彩乃が笑いながらノートを開く。そこには長田の商店街から始まった願いが、一つずつ残っていた。二人で食べたもの、歩いた場所、見た景色。その一つ一つを眺めていると、俺まで当時の空気を思い出してくる。最後のページには、卒業の日に書いた十個目の願いが残っていた。
「これ、覚えてる?」
「忘れるわけないやろ」
彩乃がページを指でなぞる。
「私、あの日、これを書いてよかったと思ってる」
「一緒に泣く、やろ?」
「うん」
「ほんまに泣いたよな、俺ら」
「陽介、すごかったよ」
「彩乃もや」
二人で笑った。五年前は涙で何も見えなかった場所で、今は笑っている。そのことが嬉しくて、俺は滝を見上げる。
あの日、ここで別れたあと、俺は彩乃がいない神戸を何度も歩いた。商店街へ行けば一緒に食べたものを思い出し、須磨へ行けば二人で見た海を思い出し、摩耶山へ行けば隣で景色を眺めていた彩乃の横顔を思い出した。
彩乃も同じだったのだろう。手紙には、ときどき神戸のことが書かれていた。長田の街は今どうなっているのか、あの店はまだあるのか、布引の滝は変わっていないか。俺たちは離れていた五年間にも、それぞれの場所から同じ街を思い出していた。
「陽介」
「ん?」
「私ね、お父さんと一緒に仕事をしてる間も、ずっと神戸のこと考えてた」
「手紙にもよく書いとったな」
「うん。でも、それだけじゃないの」
彩乃はノートを閉じた。
「お父さんとお母さんに、ずっと言われてたの」
「何を?」
「私が神戸の話ばかりするから、そんなに神戸が好きなら、戻れるときに戻ればいいって」
俺は黙って彩乃を見る。
「それに……私に大好きな人がいることも、たぶん分かってた」
「……大好きな人?」
「誰だと思う?」
「知らん」
「嘘つき」
彩乃が笑う。
「陽介に決まってるでしょ」
不意打ちだった。五年前なら、その一言だけで頭が真っ白になっていたと思う。五年経った今でも、胸の奥が熱くなるのだから、俺は何も変わっていないのかもしれない。
「それでね、今回、神戸へ行くことになったとき、お父さんとお母さんから言われたの」
「何を?」
「神戸で暮らしてみたらって」
彩乃は鞄から小さな封筒を取り出した。
「生活が落ち着くまで困らないようにって、お金も少し渡してくれた」
「そこまで?」
「うん。それだけじゃないよ」
彩乃は少し恥ずかしそうに笑いながら、さらに続けた。
「陽介には内緒で、ワンルームマンションまで契約してくれてた」
「……はぁ?」
「もう住める状態になってる」
「ちょっと待って。俺、何も知らんかったんやけど」
「驚かせたかったから」
「いや、驚くとかいう話ちゃうやろ」
彩乃は声を上げて笑った。俺も呆れながら笑ってしまう。だが、笑いながらも胸の奥では別の感情が膨らんでいた。彩乃は、今度は誰かに連れられて神戸を離れるのではない。自分の意思で、この街へ戻ってきたのだ。
「私ね、五年前は神戸に残りたかった。でも、お父さんについていくしかなかった」
「うん」
「だから、今度は自分で決めたの」
彩乃が俺を見る。
「私は神戸で暮らしたい! ううん、暮らすのっ!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。高校生だった俺たちは、離れることを自分たちでは止められなかった。だから最後にできたのは、また会おうと約束することだけだった。でも今は違う。彩乃は自分で神戸を選んだ。俺はその意味を考えながら、滝の水音を聞いていた。
「じゃあ、十一個目は決まってるんか?」
「うん」
彩乃はノートを開いた。十個目の次にある白いページへ鉛筆を置き、ゆっくりと文字を書いていく。俺は隣で黙って待った。やがて彩乃がノートを閉じ、俺へ差し出した。
「読んで」
そこには、こう書かれていた。
・十一個目。これからも陽介の隣にいる
俺はその文字を見つめたまま、しばらく声が出なかった。
「……これ、願いなん?」
「うん」
「もう叶っとるやん」
「まだだよ」
「今、俺の隣におるやろ」
「じゃあ、これからの分」
彩乃は少し照れながら笑った。
「これからも、陽介の隣にいたい」
俺はその言葉を聞いて、五年前の自分を思い出した。あの日、彩乃と離れたくないと思いながら、それをどうすることもできなかった自分。泣きながら「いつか、また神戸で会おう」と言った自分。そして今、その約束を守るために彩乃が目の前にいる。
「……分かった」
「何が?」
「十一個目」
俺は彩乃のノートを指差した。
「俺も、その願いに付き合うわ」
「ほんと?」
「当たり前やろ」
彩乃の目に涙が浮かんだが、今度は泣かなかった。俺も泣かなかった。布引の滝から流れ落ちる水は、五年前と同じように岩へぶつかり、その音を山の中へ響かせている。あの日、俺たちはこの場所で別れた。今日は同じ場所で、これからを始める。
「帰ろうか」
「うん」
「長田、行く?」
「行きたい」
「じゃあ、そばめし食べよか」
「五年ぶりの神戸で最初がそれ?」
「彩乃の願いやったやろ」
「そうだね。じゃあ、行こう」
俺たちは並んで山道を下り始めた。五年前には別れへ向かって歩いた道を、今度は神戸の街へ戻るために歩いていく。
十個の願いは、布引の滝で終わった。そう思っていた俺の隣で、彩乃は十一個目の願いを抱えている。今度は誰かに決められた別れではない。自分たちで選んだ時間が、この先に続いている。
滝の音が少しずつ遠ざかっていく。俺は隣を歩く彩乃を見て、五年前には想像もできなかった未来が、ようやく始まったのだと思った。
——完——

