君がいなくなる前に、十個だけ

第10話 十個目の願い

 卒業式が終わった午後、校門の前にはまだたくさんの生徒が残っていた。制服の胸元には卒業証書を入れた筒があり、友達同士で写真を撮ったり、先生に最後の挨拶をしたりする声があちこちから聞こえている。
 
 俺もさっきまで友達と話していたが、校門の脇で一人立っている彩乃を見つけると、そちらへ歩いていった。彩乃は俺に気づくと、いつものように笑おうとしたものの、今日はどこか無理をしているように見えた。鞄から取り出したノートを胸に抱えたまま、彩乃は俺の顔を見つめている。
 
 卒業式が終わったという実感は、俺の中にもまだ薄い。三年間通った校舎を出れば、明日からはもう高校生ではない。それだけなら新しい生活が始まるだけなのに、彩乃がここに立っていることが、その意味を大きく変えていた。

「陽介、行こ」

「どこへ?」

「新神戸」

「……もしかして、布引の滝か?」

「うん。十個目だから」

 彩乃はそう言って歩き出した。俺もその隣へ並びながら、昨日のことを思い出していた。
 昨日は卒業式前の最後の放課後だった。俺と彩乃は学校を出て、とりとめのない話をしながら歩き続けた。途中の公園でベンチに座り、特別な話をするわけでもなく、最近見たテレビの話や卒業した後のことを話して、日が暮れるまで一緒にいた。
 それが九つ目の願いだった。
 
 最初に彩乃から十個の願いを聞かされたとき、俺はもっと大げさなものを想像していた。ところが実際に叶えてきた願いは、長田の商店街を歩いたり、モトコーを覗いたり、新開地で飯を食ったり、須磨の海を見たりと、どれも俺たちにとっては特別すぎるものではなかった。だからこそ、昨日の放課後が九つ目だと知ったとき、彩乃が大切にしているものが少し分かった気がした。そして今日が最後の十個目になる。そう考えた途端、卒業できた嬉しさよりも、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚のほうが強くなった。

「なぁ、彩乃」

「なに?」

「転勤先って、離島なんやろ?」

「うん」

「国内やんな?」

「そうだよ」

「だったら、また会えるやん」

 俺は本当にそう思っていた。海外へ行くわけではない。電話もできるし、メッセージだって送れる。休みを合わせれば、神戸で会うことだってできるだろう。彩乃が神戸を離れることは寂しい。それでも、二度と会えなくなるわけではない。そう考えていたから、ここまで必死に十個もの願いを叶えようとする彩乃の気持ちが、まだ俺には分からなかった。

「そうだね。また会えるよ」

 彩乃はそう言って笑った。ただ、その笑顔はすぐに前へ向けられている。俺も何となく、それ以上は聞かなかった。
 新神戸駅から布引の滝へ続く道へ入ると、さっきまで聞こえていた車の音や人の話し声が少しずつ遠ざかっていく。布引の滝は、新神戸駅から山道を歩いて向かえる神戸の名所で、街のすぐ近くにありながら、木々に囲まれた自然の中で滝を眺めることができる。雄滝をはじめとするいくつかの滝からなり、岩肌を流れ落ちる水が山道の中に独特の景色を作っていた。

 俺にとっては中学生の頃、友達数人と一緒に来たことがある場所だった。誰かが「布引の滝へ行こう」と言い出し、勢いだけで山道を歩いた。途中で疲れて文句を言い合いながら、それでも最後まで歩いた記憶がある。そんな場所だったはずなのに、今日は足元の一歩一歩まで妙に意識してしまう。昨日までなら普通に歩いていた道が、今日は彩乃と過ごした三年間の終わりへ続いているように思えた。

「陽介、ここって前に来たことあるんだよね?」

「中学生のときにな。友達と何人かで来たわ」

「どんな感じだった?」

「正直、あんまり覚えとらん。しんどかった思い出だけや」

「そんなに?」

「滝見て、帰りに腹減ったって騒いでたくらいやからな」

 彩乃が声を上げて笑う。その笑い声を聞いて、俺も自然に笑っていた。こうしてくだらない話をしていると、昨日までと何も変わらない気がする。
 ところが少し歩くと、彩乃はまた足を緩めた。木々の間から見える景色を眺め、後ろを振り返り、今歩いてきた道まで目に焼きつけようとしているようだった。俺はそんな彩乃を見ながら、さっきから感じている違和感の正体を考えていた。国内なら会える。そう思っているのに、彩乃は今日という一日を少しでも長くしようとしている。その理由が知りたかった。

「彩乃、そんなにゆっくり歩いて大丈夫なん?」

「うん。今日は急ぎたくないの」

「なんで?」

「だって、十個目だから」

 それだけ言って、彩乃はまた歩き始めた。俺も隣へ並んだが、頭の中には別の疑問が残った。
 十個目だからという理由だけでは、あんなに何度も振り返ることの説明にはならない。俺たちは三年間、学校が終われば一緒に帰った。帰り道で店へ寄ることもあれば、目的もなく遠回りすることもあった。明日も会えると思っていたから、帰る時間を惜しいと思ったことはない。それが今日だけは違う。彩乃は一歩ごとに、この時間そのものを残そうとしている。俺には、その理由がまだ分からなかった。

「陽介」

「ん?」

「私ね、転校する前って、いつも友達と約束してたんだ」

「転校する前?」

「うん。『ずっと友達だよ』って」

 彩乃の声が少しだけ小さくなった。俺は横顔を見ながら、その先を待った。

「『手紙を書くね』とか、『電話するから』とか、『次に会ったらまた遊ぼうね』とか。毎回、ちゃんと約束するの」

「それで?」

「最初は、本当に連絡するんだよ」

 彩乃は前を向いたまま話し続けた。山道には春の光が落ち、木々の間から見える空は思ったより明るい。そんな穏やかな景色の中で聞く話なのに、彩乃の声だけが少し寂しく聞こえた。

「引っ越したばかりの頃は、手紙も来るし、電話もする。新しい学校の話をしたり、前の学校の友達の話をしたりして……ちゃんと続くの」

「じゃあ、ええやん」

「うん。最初はね」

 彩乃はそこで少し黙った。

「でも、だんだん減っていくの」

「連絡が?」

「そう。向こうにも新しい友達ができるし、私にも新しい友達ができる。毎週してた電話が月に一回になって、そのうち電話もしなくなって、手紙も届かなくなる」

 俺は黙って聞いていた。誰かと喧嘩したわけでも、嫌いになったわけでもない。ただ生活が変わって、毎日の中から少しずつ相手の存在が遠くなっていく。そういう別れがあることを、俺は今まで考えたこともなかった。

「誰も悪くないんだよ」

「……うん」

「みんな、最初は約束を守ろうとしてた。でも、新しい学校で友達ができて、毎日が変わっていって……気づいたら、もう何年も話してない」

 彩乃が足を止めた。俺も立ち止まり、隣に並ぶ。木々の向こうから聞こえる水の音が、さっきよりはっきりと耳へ届いていた。

「だから、私……今回もそうなるのが怖い」

「でも、俺とは違うやろ」

「どうして? どうして、そう言い切れるの?」

「三年間ずっと一緒におったんやから」

「だから怖いのっ」

 彩乃は俺を見た。目には涙こそ浮かんでいなかったが、今まで見たことのない不安がそこにあった。

「今までより大切だから、同じように離れていったら嫌なのっ!」

 俺は何も言えなかった。国内なら会える。連絡もできる。俺はさっきまで、それだけで十分だと思っていた。でも彩乃にとっては、そうではない。離れていても連絡できることと、その関係がずっと続くことは別なのだ。
 何度も引っ越しを経験してきた彩乃は、そのことを知っている。最初は「ずっと友達」と約束しても、生活が変われば少しずつ連絡が減り、いつの間にか思い出の中だけの相手になってしまう。だから彩乃は、今回だけは同じようにしたくなかった。

「だから、十個の願いを作ったん?」

「うん」

「忘れないため?」

「それもある。でも……それだけじゃない」

 彩乃は鞄からノートを取り出した。表紙には、何度も開いた跡が残っている。その中には長田で食べたものや、モトコーで見た景色、新開地で過ごした夜、須磨の海、湊川隧道、摩耶山、王子動物園、そして昨日の最後の放課後まで、俺と過ごした時間が一つずつ残されている。

「私ね、今までは引っ越しが決まったら、新しい場所のことを考えるようにしてたの」

「次の生活のために?」

「うん。前の街を振り返ってたら、寂しくなるから」

「……今回は?」

「今回は、振り返っていたいの」

 彩乃はノートを胸に抱えた。

「神戸で陽介と過ごした三年間を、ちゃんと覚えていたい。新しい場所へ行ったからって、全部を新しくしたくないの」

 その言葉を聞いて、俺はようやく十個の願いの意味が分かった気がした。彩乃が欲しかったのは、観光地を巡った記録ではない。離れたあと、時間が経っても自分の中に残る具体的な記憶だった。忘れたくないと思うだけでは、時間の流れには勝てない。だから一つずつ願いにして、俺と一緒に実際の時間を過ごした。その場所、その景色、その日の会話まで、自分の記憶として残そうとしていたのだ。

「……俺は、忘れへんよ」

 俺がそう言うと、彩乃は少しだけ笑った。

「うん」

「離れても連絡するし、会いにも行く」

「うん」

「だから、そんなに心配せんでも」

「陽介」

「ん?」

「約束は、しなくていいよ」

 彩乃は柔らかく笑った。

「約束しても、何があるか分からないから。でも、今日のことは忘れないでほしい」

 俺は返事をする代わりに頷いた。簡単な約束で安心させることより、今この場所で彩乃と過ごす時間を大切にするほうが大事なのだと思った。

 やがて木々の向こうから滝の音が大きくなり、白い水が岩肌を流れ落ちる姿が見えてきた。彩乃は足を止め、しばらくその景色を眺めていた。俺も隣に立ち、同じ景色を見る。中学生の頃に友達と来たときには、腹が減ったと騒いでいた場所だった。今は同じ場所に彩乃がいる。そして今日が、俺たちにとって最後の願いの日だった。

「着いたね」

「うん」

 彩乃は鞄からノートを取り出した。九つ目まで埋まったページをゆっくりとめくり、最後のページを開く。そこには、まだ何も書かれていない白い紙が残っていた。

「陽介」

「なんや?」

「十個目、叶えてもいい?」

「そのために来たんやろ」

 彩乃は笑った。その目にはもう涙が浮かんでいる。

「うん。じゃあ……一緒に泣いてほしい」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが崩れた。

 彩乃が怖かったのは、離島へ行くことそのものではない。今まで当たり前だった毎日が、少しずつ遠ざかってしまうことだった。
 今日までなら学校へ行けば会えた。放課後になれば自然に隣を歩けた。何も予定を決めなくても、一緒に笑うことができた。それが明日からはなくなる。会おうと思えば会える。それでも、今日までのような時間が自然に続くわけではない。その現実を考えたら、俺も涙を止めることができなかった。

「……、そんなの」

「何が?」

「彩乃が泣いとるのに、俺だけ平気な顔なんてできへん」

 彩乃が涙をこぼしながら笑った。

「じゃあ、一緒だね」

「うん」

 俺たちは滝の前に並んで座った。水が岩へぶつかる音が絶え間なく聞こえている。俺は顔を伏せ、涙を拭ったが、次から次へと溢れてくる。彩乃も隣で泣いていた。三年間の思い出が、頭の中に次々と浮かんでくる。初めて話した日のこと、放課後に一緒に帰ったこと、くだらないことで笑ったこと、喧嘩したこと、十個の願いを一つずつ叶えてきたこと。その全部が、明日からは今までとは違う場所に置かれる。

「陽介」

「ん?」

「神戸に来てよかった」

「……俺も」

「陽介と会えてよかった」

「俺も、彩乃と会えてよかった」

 それ以上は言えなかった。二人とも泣きながら、それでも何度も笑った。離れることは変えられない。明日から彩乃は離島で暮らし、俺は神戸に残る。連絡を取ることも、会うこともできるだろう。それでも、今日までのように何も考えず隣にいる時間はなくなる。その寂しさから逃げることはできなかった。

 しばらくして、彩乃が涙を拭きながらノートを開いた。最後のページへ鉛筆を置き、ゆっくりと文字を書いていく。俺は何を書いているのか聞かなかった。十個目の願いは、もう俺たち二人が知っている。彩乃は書き終えると、ノートを閉じて胸に抱えた。

「これで、全部終わったね」

「……うん」

「寂しいね」

「めちゃくちゃ寂しいわ」

 彩乃が笑った。俺も笑った。泣き腫らした顔で笑っているのが少しおかしくて、また二人で笑った。

 帰り道、俺たちは来たときよりもゆっくり歩いた。途中で何度も振り返り、そのたびに彩乃が布引の滝を眺めていた。俺も一緒に振り返る。
 
 明日から彩乃は神戸にいない。
 
 それでも、今日まで一緒に歩いた道や、ここで流した涙までなくなるわけではない。俺はそのことだけを胸に残しながら、隣を歩く彩乃との最後の時間を、一歩ずつ大切に進んでいった。
< 10 / 11 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop