君がいなくなる前に、十個だけ

第04話 新開地の夜

 放課後の電車を降り、彩乃と並んで歩いていると、少しずつ見慣れた新開地の街並みが近づいてきた。新開地は、昔から神戸の繁華街として栄えてきた街で、飲食店や映画館、昔ながらの商店などが集まり、今もどこか昭和の面影を残している。
 
 長田で育った俺にとっては、わざわざ説明するほど珍しい場所ではない。親に連れられて来たこともあれば、高校に入ってから友達と飯を食べに来たこともある。それでも、今日の俺はいつもと少し違う気分で通りを歩いていた。隣にいる彩乃が、通りの看板や店先を眺めながら、何度も楽しそうに足を緩めているからだ。観光地みたいな華やかさはない。そんな街の様子を、彩乃は珍しそうに眺めていた。

「ねぇ、陽介」

「ん?」

「新開地って、思ってたより賑やかだね」

「そうかぁ? 俺にはいつもの新開地やけどな」

「陽介は何でも知ってるね」

「地元やからな」

「じゃあ、今日は陽介に任せていい?」

「ええけど、何を?」

「新開地で一番おすすめのお店」

「急に難しいこと言うなあ」

 彩乃は俺の顔を見て、楽しそうに笑った。俺は通りを見渡しながら、どこへ連れていくか考える。高級な店なんて俺には縁がないし、彩乃もそんな場所を望んでいるわけではないだろう。これまでの願いを思い返してみても、長田の商店街やモトコーを選んだ理由は、神戸を代表する観光地だからではなかった。俺たちが普段過ごしている街を歩きたい。それが彩乃の願いなのだと思う。なら、今日も同じでいい。俺は通りの先に見えた、昔から知っている店を指差した。

「ここでええんちゃう?」

「ここ?」

「うん。昔からある店やし、気取らんで食べられる」

「じゃあ、ここにしよう」

「ほんまに?」

「うん。私はこういうところがいい」

「そうなんや」

「だって、神戸で暮らしてる人が普段行く店なんでしょ?」

「まぁ、そうやな」

「それなら、私も一緒に食べたい」

 引き戸を開けると、店の中から料理の匂いと人の話し声が流れてきた。店内には仕事帰りらしい客が何人か座っていて、店員と顔なじみらしく言葉を交わしている。俺たちは奥の席に座り、彩乃はメニューを手に取った。料理の名前を一つずつ確認しながら、どれにするか真剣に悩んでいる。その姿がおかしくて、俺は思わず笑ってしまった。

「何で笑うの?」

「いや、そんな真剣に悩まんでもええやろ」

「だって、せっかく来たんだから失敗したくないし」

「何を頼んでも、たぶん大丈夫やで」

「陽介のおすすめは?」

「これ」

「じゃあ、それにする」

「決めるの早っ!」

「陽介が選んでくれたから」

「俺のおすすめやからって、そんな簡単に信用してええん?」

「陽介が変なものをすすめるとは思ってないから」

 注文を終えると、彩乃は水を一口飲み、店内を見渡した。俺もつられて周囲を見る。隣の席では年配の男性が店員と昔の話をしていて、入口近くでは仕事帰りらしい客が今日の出来事を話している。外を歩く人の声も、扉が開くたびに店の中へ入り込んでくる。観光地のような華やかさはない。それでも、こういう何でもない時間が、この街の日常なんだろう。

 料理が運ばれてくると、彩乃は嬉しそうに箸を手に取った。俺はその様子を見ながら、今日の願いもきっとこういうものなのだろうと思った。彩乃が欲しいのは、神戸に来た証明になる写真だけではない。この街で暮らしたという実感と、俺と一緒に過ごした時間を、自分の中へ残したいのだ。

「いただきまーす」

「どうや?」

「美味しい」

「よかったな」

「うん。こういう味、好き」

「新開地やから?」

「それもあると思う」

 彩乃は料理を口に運びながら、ゆっくり周囲を見ていた。俺には昔から見慣れた店の壁も、少し傷のついたテーブルも、店員の声も、全部当たり前のものだ。それなのに、彩乃が大切そうに眺めているのを見ていると、俺まで初めて来た場所のような気分になる。
 俺は今まで、この街を好きかどうかなんて考えたことがなかった。長田で生まれ育ち、神戸の景色を毎日のように見てきた俺にとって、ここにあるものは生活そのものだからだ。彩乃のように、いつかこの場所を離れるかもしれないという視点で街を見たことは一度もない。そんな俺には、彩乃が何を見ているのか、少しだけ分かったような気がした。
 
「陽介ってさ」

「何や?」

「ずっと神戸にいるつもり?」

「たぶん、そうやと思う」

「就職も神戸?」

「うん。地元の会社に行く予定やから」

「そっか」

「何で?」

「ううん。陽介らしいなって思って」

「俺らしいって何やねん」

「だって、陽介はここが好きでしょ?」

「……好きなんかなぁ?」

「違うの?」

「考えたことないねん。ずっとここにあるから」

 彩乃は箸を止め、少しだけ考えるように俺を見る。俺は自分でも意外だった。長田で生まれ育ったことを誇りに思っているわけでもないし、神戸以外の場所を嫌っているわけでもない。ただ、ここにいることが自然だったから。
 それを好きと言うのなら、たぶん好きなんだろう。でも、俺にはそれをわざわざ言葉にする理由がなかった。

 彩乃はそんな俺とは違う。卒業すれば、この街を離れる可能性がある。だから、今いる場所を好きになることに慎重になっている。俺はその話を高校一年生の頃に聞いたことがある。転校してきたばかりの彩乃は、前の学校のことを話すときも、どこか遠くを見るような顔をしていた。仲良くなっても、いつか離れる。そう考えていたから、深く誰かと関わることを避けていたらしい。

「私ね、前は引っ越すたびに、その街を好きにならないようにしてたの」

「好きにならんようにするって、できるもんなん?」

「できるよ。どうせ離れるって思ってればいいから」

「それ、寂しくない?」

「寂しいよ。でも、そのほうが楽だった」

「……そっか」

「神戸に来たときも、最初は同じだった」

「最初は?」

「うん。最初はね」

 彩乃はそこで言葉を止めた。店の外を通る人の声が、閉められた扉越しにかすかに聞こえてくる。俺は続きを急かさなかった。彩乃が自分から話すまで待とうと思ったからだ。しばらくして、彩乃は小さく息を吐き、俺のほうへ視線を戻した。

「陽介と会ってから、少し変わった」

「俺と?」

「うん」

「何で?」

「学校が終わってから一緒に歩いたり、長田のお店を教えてもらったり、くだらない話をしたりしてるうちに、神戸のことをもっと知りたくなったの」

「それで、今こうして願いを叶えてるん?」

「そう」

「……なるほどなぁ~」

「だから、今日も来たかった」

 その言葉を聞いた俺は、胸の奥に妙な感覚が広がっていくのを感じてしまう。彩乃が神戸を好きになった理由の中に、俺と過ごした時間がある。その事実が嬉しくないはずはない。なのに、同時に不安も生まれていた。
 彩乃がこれほど神戸を大切に思っているなら、卒業してこの街を離れることは、それだけ辛いことになるのではないか。俺はこれからも神戸にいる。彩乃だけがいなくなる。その未来を想像すると、今まで考えないようにしていた何かが、少しずつ形を持ち始めていた。

 店を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。通りの明かりが足元を照らし、仕事帰りの人たちが駅へ向かって歩いている。俺たちも人の流れに混ざりながら歩いた。食事のあとだからか、彩乃の表情は満足そうだったが、しばらくすると少しだけ歩く速度を落とした。俺も合わせて歩きながら、隣にいる彩乃を見る。
 卒業までに十個の願いを叶える。その約束をしたときは、もっと簡単なものだと思っていた。ただ一緒に出かけて、写真を撮って、楽しい時間を過ごす。それだけだと思っていたのに、願いを重ねるほど、俺の中で意味が変わってきている。一つ終わるたびに、卒業が近づいてくる。そのことが、今は少し嫌だった。
 
「今日も楽しかったね」

「そうやな」

「陽介は楽しくなかった?」

「楽しかったで」

「なら、よかった」

「彩乃は、こういうところが好きなん?」

「うん」

「有名な場所じゃなくても?」

「うん。むしろ、こういう場所がいい」

「何で?」

「神戸で暮らしてる人の生活が見えるから」

「生活?」

「うん。ここでご飯を食べて、誰かと話して、家に帰る人がいるでしょ」

「まぁ、そうやなぁ」

「そういう時間を覚えておきたいの」

 俺は何も言えなかった。彩乃が欲しいものは、写真に写せる景色だけではない。店の中で聞いた笑い声や、料理の匂い、夜の街を一緒に歩いた時間まで、全部を記憶に残そうとしている。その理由を考えると、俺はまた十個目の空白を思い出す。九つの願いは、どれも神戸で過ごした時間を残すためのものである。それなら最後の一つには、もっと大きな意味があるのかもしれない。俺は聞いてみたい気持ちを抑えながら、彩乃の横顔を見つめた。

「なぁ、彩乃」

「何?」

「十個目、ほんまにまだ決めてへんの?」

「うん」

「卒業まで時間ないで」

「分かってる」

「じゃあ、早めに決めたほうがええんちゃう?」

「……そうだね」

「何か考えてることあるん?」

「あるよ」

「教えてくれへんの?」

「まだ秘密」

 彩乃は笑ったが、その笑顔はいつもより少しだけ寂しそうに見えた。俺はそれ以上聞けなかった。新開地の明かりが背後へ遠ざかり、駅へ向かう道に二人の影が長く伸びている。さっきまで歩いていた通りでは、今も店の明かりが灯り、人々がそれぞれの夜を過ごしている。俺にとっては昔から知っている神戸の一部でしかなかった場所が、今日からは彩乃と過ごした夜として記憶に残る。そう思うと少しだけ胸が温かくなるのだが、同時に、彩乃がいなくなったあとも同じ景色が残ることを考えると、胸の奥が締めつけられるように感じる。俺はその感情にまだ名前をつけられないまま、彩乃の隣へ戻った。

「陽介」

「ん?」

「私ね、神戸に来てよかったと思ってる」」

「……そうか」

「うん。ここに来なかったら、陽介にも会えなかったから」

 その言葉に、俺はすぐ返事ができなかった。夜の新開地を歩きながら、自分の気持ちを整理しようとする。彩乃が神戸を離れたくないと思う理由の中に、自分がいる。それが嬉しいと思う一方で、このまま隣にいてほしいと思ってしまう自分にも気づいてしまった。

 まだ三つ目の願いが終わっただけだ。それなのに、残りの願いを叶えていく時間が少し怖い。願いが一つずつ終わるたびに、卒業の日が近づいてしまうからだ。そんなことを考えていると、隣を歩く彩乃との距離が妙に気になった。俺は少しだけ歩幅を緩める。

「次も、一緒に行ってくれる?」

「当たり前やろ」

「約束だよ」

「分かってるって」

「じゃあ、次の願いもよろしくね」

「あぁ」

 彩乃は笑って、駅へ続く階段を上っていった。俺もその後を追いながら、一度だけ振り返る。さっきまで歩いていた新開地の通りには、今も人が行き交い、店の明かりが夜の街を照らしている。俺にとって何気ない街の景色が、彩乃にとっては残しておきたい大切な記憶になっている。それなら俺も、この夜のことくらいは覚えておきたい。

 十個の願いが全部終わったとき、彩乃のノートには何が残るのだろう。そして、その最後の一ページには何が書かれるのだろう。俺にはまだ分からない。ただ、その答えを知る日が来ることだけは、なぜか少し怖かった。
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