君がいなくなる前に、十個だけ

第03話 高架下の記憶

 放課後、俺たちは元町駅で電車を降りると、神戸駅方面へ向かって歩き始めた。駅前の人通りを抜け、高架下へ入った途端、頭上を走る電車の音が低く響き、さっきまでの明るい街並みとは違った空気に包まれる。
 
 通称、モトコー。元町高架通商店街。元町駅から神戸駅方面へ続くJRの高架下にある商店街で、古着や雑貨、昔ながらの店が並ぶ、神戸らしい独特の雰囲気を持った場所だ。
 俺も何度か来たことがある場所だが、改めて歩いてみると、古着や雑貨を並べた店が続く細い通路には独特の雰囲気がある。
 
 彩乃は入口で足を止めると、少し驚いたように高架の上を見上げ、それから通路の奥へ視線を向けた。俺が先に歩き出すと、彩乃もすぐ隣へ並んでくる。長田の商店街とは違う景色に興味を引かれたのか、店先に並んだ品物を眺めながら、さっきから何度もスマートフォンを取り出していた。

「ここ、面白いね」

「そうか?」

「うん。なんか、神戸って感じがする」

「モトコーが?」

「うん。普通の商店街とはちょっと違うでしょ」

「まあ、そう言われたらそうかもしれへんな」

 俺には見慣れない景色でもなかったから、彩乃がそこまで嬉しそうにしている理由が最初はよく分からなかった。それでも、古びた看板の前で足を止めたり、店先に置かれた古い雑貨を眺めたりする姿を見ていると、少しずつ俺のほうまで周囲が気になってくる。
 壁の傷や柱に残った文字、狭い通路を歩く人の声まで、普段なら気に留めないものばかりだ。彩乃は一つの店を覗き込んだあと、俺を振り返って笑う。その顔を見ていると、今日の願いは単にモトコーへ来ることではなく、ここで過ごす時間そのものを残しておきたいのだと感じた。ノートに書かれた二つ目の願いが、急に少しだけ重く見えた。

「陽介、これどう思う?」

「何が?」

「この帽子」

「俺に聞く?」

「だって陽介、一応男の子でしょ」

「一応って何やねん」

「似合うと思う?」

 彩乃が手に取った帽子を頭に乗せ、少し首を傾ける。俺はどう答えればいいのか迷ったが、変に気を遣っても仕方がないので、そのまま思ったことを口にした。

「似合ってるんちゃう?」

「本当に?」

「うん」

「じゃあ、買おうかな」

「そんな簡単に決めてええん?」

「陽介が似合うって言ったから」

「俺のせいなん?」

「そういうことにしておく」

 彩乃は楽しそうに笑い、帽子を持ったまま店の中へ戻っていった。俺は入口で待ちながら、こういう時間も悪くないなと思っていた。
 学校では毎日のように顔を合わせているのに、こうして二人で知らない場所を歩くと、普段とは違う彩乃の一面が見える。

 高校一年生の春、転校してきたばかりの頃は、教室の中でも周囲の様子を気にしていることが多かった。話しかければ笑ってくれるものの、自分から輪の中へ入っていくことは少なく、昼休みも一人で過ごしている姿を何度か見かけた。
 そんな彩乃に俺が声をかけたのが、今から考えれば三年前になる。俺にとっては何気ないことだったが、彩乃にとっては、神戸で初めて誰かと話したきっかけだったのかもしれない。

「陽介、待った?」

「別に」

「これ、どう?」

「まだ買ってへんの?」

「迷ってる」

「さっき買うって言うてたやん」

「陽介が待ってくれてるから、もう少し考えようかなって」

「俺は別に急いでへんで」

「じゃあ、もう少し見ていこうっと」

 彩乃は帽子を棚へ戻すと、今度は別の店へ向かう。俺もその後ろを歩きながら、ふと三年前の教室を思い出す。

 転校してきたばかりの彩乃は、自己紹介のときに少し緊張した顔で名前を言っていた。その日の放課後、たまたま廊下で見かけた彼女に俺が「神戸には慣れた?」と声をかけた。彩乃は少し驚いてから、「まだ全然」と笑った。それだけの会話だったのに、その翌日から少しずつ話すようになり、一緒に帰る日が増え、いつの間にか隣にいるのが当たり前になった。

 彩乃は父親の転勤で何度も引っ越してきたから、どの街にもいつか別れが来ると思っていたらしい。だから新しい場所に慣れることはできても、本気で好きになることは避けていたという。その話を初めて聞いたとき、俺にはその気持ちがよく分からなかった。

「ねぇ、陽介」

「ん?」

「私ね、モトコーって高校一年生のときから気になってたんだ」

「そうなん?」

「うん。でも、一人で来る勇気がなくて」

「何で俺に言わんかったん?」

「言ったら付き合ってくれた?」

「たぶん」

「じゃあ、もっと早く言えばよかった」

「今来られたんやから、ええやん」

「そうだね」

 彩乃はそう言って、高架の柱へ目を向ける。頭上では電車が通過し、床まで振動が伝わってくる。彩乃はその音に驚くでもなく、むしろ楽しそうに笑っていた。俺はそんな横顔を眺めながら、三年前には一人で来られなかった場所を、今は俺の隣で歩いているんだなと思った。

 転校してきたばかりの頃には知らなかった店も、学校帰りに通った道も、今では彩乃の中に神戸の記憶として残っていく。それを嬉しいと思う一方で、卒業が近づいている今になって、妙な寂しさが胸に残る。
 
 俺はこれからも神戸にいる。だけど、彩乃は違う。今は隣を歩いていても、この時間がずっと続くとは限らない。そんなことを考えると、妙に彩乃との距離が気になった。

「ここ、写真撮っていい?」

「また?」

「うん」

「さっきから何枚撮るん?」

「分からない」

「そんなに撮ったら、あとで見るの大変やで」

「それでもいいの」

「何で?」

「残しておきたいから」

 彩乃はそう答えると、スマートフォンを構えた。画面の中には、高架下の通路と古い看板、それから少し先を歩いている俺の背中まで映っている。俺は自分が写真に入っていることに気づいて、思わず振り返った。

「おい、今、俺も撮ったやろ」

「うん」

「勝手に撮るなや」

「嫌だった?」

「別に嫌とは言うてへんけど」

「じゃあ、いいよね」

「まあ、ええけど」

 彩乃は嬉しそうに画面を確認している。俺はその様子を見ながら、写真に残したいのはモトコーの景色だけではないのだろうと感じていた。
 古い店や高架下の風景を撮っているように見えて、その中には俺と一緒に過ごした時間まで含まれている。そう考えると、俺まで少しだけ緊張してしまう。彩乃が残そうとしているものが、単なる観光地の記録ではなく、この三年間そのものだとしたら、九つの願いが終わったあとには何が残るのだろう。俺はノートの最後にある空白を思い出した。十個目だけが、まだ何も書かれていない。

「なぁ、彩乃」

「何?」

「十個目って、まだ決めてへんの?」

「うん」

「何で?」

「まだ決めたくないから」

「九個目までは決まってるのに?」

「そう」

「変わってるな」

「そうかな」

「だって、一番最後だけ空白やろ」

「だから空白なの」

「意味分からへん」

 彩乃は少しだけ笑ったものの、その先は話そうとしなかった。俺も無理に聞くことはしなかった。今の彼女が話したくないことを、無理に聞き出す必要はないと思ったからだ。ただ、ノートの空白だけが頭の中に残った。
 モトコーを歩きながら、彩乃が写真を撮るたびに、俺はその空白が少しずつ近づいてくるような気がしていた。二人で過ごす時間は楽しい。それなのに、楽しいと思えば思うほど、卒業という言葉が現実味を持って迫ってくる。俺はその気持ちをごまかすように、目の前の店へ視線を向けた。

「陽介」

「ん?」

「私、神戸に来てよかったと思ってる」

「急やな」

「だって、今日ここを歩いてて思ったから」

「何を?」

「前の街だったら、こんなふうに思わなかった」

 彩乃はゆっくり歩きながら、頭上の高架を見上げる。電車が通り過ぎたあと、さっきまでの大きな音が遠ざかっていく。俺は何も言えず、ただ隣を歩いた。彩乃にとって、引っ越しは新しい生活の始まりであると同時に、いつか終わる時間でもあった。だから、好きになりすぎないようにしていたと言う。それなのに神戸では、離れたくないと思うようになった。その理由を考えれば、俺にも思い当たることがある。放課後に一緒に歩いた道、くだらない話をしながら笑った時間、何でもない日に交わした言葉。神戸という街だけじゃなく、俺と過ごした時間も含めて、彩乃はこの街を好きになったのかもしれない。

「陽介」

「何や?」

「これからも、付き合ってくれる?」

「十個全部?」

「うん」

「最初からそのつもりやで」

「よかった」

 彩乃は小さく笑った。その笑顔を見ながら、俺は空白の十個目についてもう一度考えてみた。まだ何も書かれていない最後のページには、きっと俺の知らない彩乃の気持ちが隠れているのだろう。今はそれを聞く勇気がなかったし、聞いてしまえば何かが変わってしまう気もした。だから俺は何も言わず、彩乃と並んで高架下を歩き続ける。
 モトコーを抜ける頃には夕方の光が少しずつ街を染め始めていて、俺は振り返って高架下を見た。古びた柱も、店の看板も、通路を歩く人の姿も、今日までなら何気ない景色だった。それが今は、彩乃と一緒に過ごした一日の記憶として残っている。俺はそのことを、少しだけ大切に思いながら、駅へ向かう彩乃の隣を歩いた。
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